壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

蛙飛び込む水の音

2009年06月11日 23時09分59秒 | Weblog
 芭蕉が、江戸深川の庵にいた頃のことである。
 ある日のこと、芭蕉、参禅の師である仏頂和尚が、弟子の六祖五兵衛をつれて庵を訪ねた。
 五兵衛は芭蕉に、「寂びたよいお庭だが、この閑かな庭や草木の仏法は、いかがなものであるか」と問うた。
 芭蕉は瞬時に、「今の時点をふまえて、いま、あなたの人生の風光はどのようなものか」というように解した。
 そうして、たんたんとして、「葉々(ようよう)、大底(だいてい)は大、小底は小」と答えた。つまり、「閑かな庭や草木」を受け、草木の葉の大小それぞれが、それなりに生き生きしているとおり、いずれにも仏法が宿っている、ということだろう。

 すると、「今日のこと、いかに」と仏頂和尚。
 五兵衛と芭蕉の問答が、《閑庭草木》中心の遊びや観念に流れるのを抑えての発言であろう。
 芭蕉は心得て、「雨過ぎて青苔湿(うるお)う」と転じた。ちょうど雨が上がって庭の苔も、しっとりと露を含んで青々としている、と目前の実景で、我が“胸中の山水”を語ったのだ。
 西国観音霊場の第七番、岡寺のご詠歌にも、
        けさみれば つゆおかでらの 庭のこけ
          さながらるりの 光なりけり
 とある。
 庭の苔は、「世間虚仮(せけんこけ)」に通じる。この世においては、すべてが移り変わっていく虚(むな)しさばかりで、真実なるものはない。雨は降るが、必ず止むときがある。無常(情)の雨に打たれ、雨に湿って苔は瑠璃(るり)の光を放つではないか。聖徳太子のいわれる「世間虚仮 唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」そのままの景観だ。
 芭蕉は、「苔(虚仮)」の虚無性を克服して、充実した「青苔湿う」の心を伝えたのである。

 しかし、仏頂和尚はまだ許さない。
 「青苔いまだ生ぜず、春雨いまだ到らざるときいかに」と、苔や雨の相対観念に分かれる前の、絶対の“いのち”を求める。
 芭蕉は、自分の絶対境を、やはり目前の景観で答える。
 「蛙飛び込む水の音」と……。


      また空を見あぐる能登の金魚売     季 己