壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

田植歌

2009年06月22日 20時23分27秒 | Weblog
 すべてが神の思し召しによって定められると思いこんでいた昔には、田植えに当たり、出来秋の作不作を危ぶむ気持は、甚だしいものがあったであろう。
 水田に挿す早苗の一本一本に、祈りの心がこめられていたのである。“祈りの心”は、何をする場合にも大切であろう。“祈りの心”をこめて句を詠みたいし、“祈りの心”で描かれた絵は、観る者の心を幸せにしてくれる。

 祈りの心をこめて植え進む早乙女の傍らでは、田楽を舞い囃して、神の御心を和らげ、一年の実りを護って貰おうと、心を傾け、興を尽くしていたのである。
 田植歌や田植踊りなどの田楽は、水田に下り立って働く田子(たご)たちの気持を励まし、作業の能率を上げさせるためというよりも、むしろ、こうした祈りの気持が、強く働いていたものと思う。
 日本の演劇・舞踊・流行歌といった芸能の歴史に、このような田植えに付随した田楽という芸能が占めていた地位は、なかなか大きなものがあったようだ。
 ことに、平安朝の末には、この田植えに伴った田楽が、たいそう流行して、わざわざ内裏の中に水田を作って、公卿たちが田植えの作業をし、田楽法師を招いて、興を添えさせるといったことも、しばしば行なわれていた。
 いま、最も古典的な演劇として知られている能楽も、もとはといえば、この農作業に付随した田楽から独立して発展してきたものである。

        風流の初や奥の田植歌     芭 蕉

 「風流の初(はじめ)」は、「風流」をどう解するかで説がいろいろある。あくまで芭蕉の立場に立ち、発想の「場」を生かして解釈すべきと思う。
 この句は、独り詠じたものではなく、『おくの細道』に、
    「須賀川の駅に等キウといふものを訪ねて、四五日とどめらる。先づ、
     白河の関いかに越えつるやと問ふ。長途の苦しみ、身心疲れ、かつは
     風景に魂うばはれ、懐旧に腸(はらわた)を断ちて、はかばかしう思
     ひめぐらさず」
 として出ており、句のあとに、「無下に越えんもさすがにと語れば、脇・第三と続けて三巻(みまき)となしぬ」とある。
 つまり、「白河の関いかに越えつるや」との等キウの問いに対して、「はかばかしう思ひめぐらさず」、「無下に越えんもさすがに」と、挨拶としてこの句を示しているのである。
 また、曾良の『随行日記』によれば、当時、須賀川のあたりはあたかも田植時に当たっていた。主(等キウ)宅に身を寄せたくつろぎの心のままに、折からの田植歌をよみとって、「風流の初」として挨拶するのは、きわめて自然な発想といえよう。

    「白河の関を越えて、ここ須賀川に来てみると、折しも田植の盛りで、
     みちのくの田植歌が聞かれる。鄙びた中に懐かしさがこもっていて、
     これこそ奥州路に入って最初に味わい得た風流であると、しみじみ
     感じたことである」


      横顔を見せて空似の夏帽子     季 己