壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

三十三間堂

2009年01月18日 22時44分30秒 | Weblog
 京都東山の三十三間堂で18日、伝統の通し矢にちなむ新春恒例の「大的(おおまと)全国大会」が開かれ、二千人近い振袖に袴姿の新成人が集い、弓引き初めがあった。直径1メートルの大的を、60メートル先から何本の矢を通せるか競いあった。

 ――鴨川の東、今熊野の山々を背景とする三十三間堂のあたりは、また景勝の地として、平安時代の中頃に法住寺が建てられたが、その跡に、後白河上皇は法住寺御所を営んで住まわれ、その御所の域内に蓮華王院という寺を、長寛二年(1164)に建てられた。この蓮華王院の本堂が三十三間堂である。
 しかし、創建の三十三間堂は、建長元年(1249)、市中の大火が鴨川を越えて飛び火し、惜しくも焼失してしまった。
 直ちに再建にとりかかり、十七年後の文永三年(1266)に落慶供養が行なわれた。これが今の三十三間堂である。鎌倉時代の再建ではあるが、建物も仏像も元の通りに復興したので、今もわれわれは、創建当時と同じ姿を見ることができるのである。

 実に長いお堂だ。背面の西側で見通すと、その長いことがよくわかる。背面では扉が少ないのでいささか重苦しいが、正面はすべて扉が開かれるので、明快でのびのびした王朝時代の雰囲気がある。
 三十三間堂の名は、内陣正面の柱間(はしらま)の数が三十三あるのでいうが、外観は両脇の外陣(げじん)各一間が加わって三十五の柱間となる。実際の大きさは、南北118.2メートル、東西16.4メートル。

 内部に入ると、中央内陣を広くとって、大きい丈六の千手観音坐像を本尊として祀り、左右の内陣には、それぞれ十段の階段に五十体ずつの千手観音立像、合わせて一千体が並ぶ。
 一隅に立って見渡すのが好きだ。金色のほのかに輝くこの大群像は、寂として静かな中にも、重なり合って波の寄せるように、人を圧倒する量的な力を秘めている。一千体の中には、建長の火災を免れた像も百以上あるが、大部分は当時の仏師を総動員して新しく造ったものという。

 このような大規模な千体堂の建立(こんりゅう)は、誰にでも出来るものではないが、千体の仏像を祀ることは、熱烈な信仰を数量で実現しようとするものであった。それが、藤原時代末期の人々の信仰であり、三十三間堂はそれを代表する豪華な信仰遺物である。
 世に、「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」というのは、観音は三十三に化身するとされるから、本尊と脇仏の一千一体をこの数に計算したもので、ここにも数量的信仰の思想がうかがわれる。

 背面の縁側は、三十五間見通しになっているが、この場所を利用して、江戸時代に諸国武士の大矢数(通し矢)が競われた。
 北端に的を置いて、南端から射通し、一昼夜をかけて的中した矢の数を競うもので、貞享三年(1686)の紀州藩士、和佐大八郎の総矢13053本、通し矢8133本が最高記録になっている。


      寒桜あたりありあり淡きかな     季 己