半農・半Xの生活

思いついたことを思いついた時に綴ります。

もの忘れ

2012年09月14日 23時02分18秒 | 日記
このところ、物忘れが激しくて思い出せないことが多く
なり我ながら暗澹たる気持ちになることがある。

人間は、40,50歳代までは知的能力は向上する余地が
あるらしいが、ある時期を過ぎると新しいものを覚えよう
とする意欲も気力も萎えてしまい、その意欲の無さにさら
に自分の老化に気づき落ち込むのである。

とくに最近は、人の名前が出て来ない。芸能人の名前は
どうでもいいけれど、仕事関係だと余計に気がかりである。
また、会話でも「あれ」「これ」「それ」などと抽象的な
表現になり、会話が貧相なものになる。酷い時は、主語も
述語もなく、「あれ、それ、これ」だけですんでしまう
こともある。

言い間違えなども頻繁にあると老化の一端なのだろう。
全く違うことを思わず口をついてでることも希にある。

それに、40代までは、自分でイメージしていた行動が順
を追って欠落もなくできたのに今は、玄関先に用意しておい
たものを出掛けに気にすることもなく、見事に忘れてきて、
歯がゆい思いをすることもある。

母親が認知症で、自分もその血を引いているので、若年性
認知症ではないかと心配をしてみたりする。
認知症の場合は、新しいことから忘れるそうなので、その点
からすれば、まだ大丈夫だろうなどと自分を納得させたりし
ている。

福岡伸一氏著「動的平衡」によれば、人は年齢を重ねるごと
に時間経過の順に物事を記憶しているのではなく、実はおぼ
ろげながらにしか想起できないらしい。人間の記憶とは、脳
のどこかにビデオテープのように古い順に並んでいるのでは
なく、「想起」した瞬間に作り出されている何ものかなのだ
そうである。
 つまり、過去とは現在のことであり、懐かしいものがある
とすれば、それは過去が懐かしいのではなく、今、懐かしい
という状態にあるにすぎないということらしい。
 ビビットなものがあるとすれば、それは過去がビビットな
のではなく、たった今、ビビットな感覚の中にいるということ
である。

 小生は、記憶とは、脳の中に細かい引き出しが古い順に並ん
でいるものであって、引き出しの取っ手に相当する記憶のとっ
かかりが壊れた状態が、思い出せない現象だと思っていたが、
どうやらそうではないらしい。

何やら、だいぶ横道にそれたが、何れにしても、自分の記憶の
程度が以前より、クリアではなくなっていることは事実である
ので、曖昧な記憶で人様に迷惑を及ぼすようなことは避けなけ
ればと、つくづく思う今日このごろである。




あなたがいたからこそ

2012年09月08日 05時12分19秒 | 日記
義母の最期を看取った
強い惜別の思いと悲しみと共に逝く時の思いとは果たして
どういうものだろうかと義母の今の気持ちを思った。
義母の側から想像しててみた。
薄れゆく意識の中で息子夫婦がそして娘たち夫婦が覗いて
いた。
最期の最後まで親身になって自分を看てくれた子供たち
に見送られて逝く自分は幸せな人生だったと思えた。

ふと、かすかに動いた母の口元がありがとうと言った
ように思えた。

こちらこそ心からありがとうと言いたい。
あなたがいたからこそ、慎ましいけど、幸せな家庭を
家族を持つことができ、そして今があるのです。
あなたの命は孫、ひ孫達に確実に継がれました。
安らかにお眠り下さい。
本当にありがとうございました。


行く夏に誘われた哉母は逝き (栄)

『維新八策』の胡散臭さ

2012年09月04日 18時31分02秒 | 日記
橋下大阪市長が、まさに時の人となり、まるで今の日本の救世主
のごとき扱いである。

小生には、彼が赤い頭をして、チャラチャラとTVのバラエテイ
番組に出ている頃から好感を持てない芸人の一人であった。
と言うのも、他愛も無いことをまことしやかに巧みに言語を弄し、
誇らしげに話す姿に不快感を覚えたものである。
弁護士だから何を言っても許されるが如き振る舞いには嫌悪感を
覚えた。
なにせ、小生は祖父に『口の上手い奴には気をつけろ』と言われて
育った古い人間である。

その彼が、庶民の代弁者の如く、溜飲を下げるような物言いで、
多くの大阪人に期待され圧倒的な強さで知事になってしまった。
知事時代の実績については、話題性だけで、実績を上げ、庶民の
暮らしが改善されたとは聞いていない。反って弱者にしわ寄せが行き、
私立高校の生徒が授業料の補助の陳情にも取り付く島も無いほどの
態度だったように記憶している。
とにかく、彼の悪行?については挙げればきりがないので止める。

その『維新八策』であるが、読むほどに気持ちが奈落の底に引きずり
込まれそうな重い気持ちになってしまう。
市場原理による教育改革、弱い者虐めに繋がる社会保障改革、TPP
推進、混合診療解禁、まるで、あの忌まわしき小泉・竹中政治の再来
ではないか。

マスメデイアの言うには、橋下は飛ぶ鳥を落とす勢いの時代の寵児だ
そうで、国民の支持も熱いのだそうだ。

それが本当だとしたら、この国の国民は何故に自分の頭で本当は
どうなのかと考えないのだろうか。空気に流され、そして何回欺され
れば気づくのだろうか。
まさに、いつぞやの『B層』の復活と言ったところか。

またまた、今日も、愚痴を書いてしまった。・・・嗚呼


チリチリともリンリンとも鳴く秋の虫
                (栄)

自然エネルギーにはエネルギーが要る?

2012年09月03日 10時00分41秒 | 日記
この週末、小水力発電シンポジウムがあったので、参加した。
事例発表などの参加発表者は、主に東日本が中心で、北は富
良野、東は富山である。
参加者は約100名で、各自治体やNPOの事例発表がに行わ
れ、一般参加者は高齢者の姿も見られ、熱心にメモをとる姿
も見られ、現在、再注目されているエネルギーであると強く
感じた。

           
           シンポジウム風景
 
           
           事例発表風景

地形が急峻で水が豊富な日本では、明治以来水力発電が主力であ
った。昭和初期には、あの東電が長野県の大きな川である千曲川や
犀川などにダムを造り発電し首都圏に送り続けて来たが、核発電で
無駄な電気を作り過ぎたせいで、水力発電もほとんど稼働していな
い状況で、3.11後の事故を受けて最近、水力発電もフル稼働に
近い状況だと思われる。

電気の地産地消を考えたら、狭いエリヤで括って、そこで必要な電
気を起こすことが最も望ましい姿である。それも全て風力、太陽光、
バイオマスなどの小水力の自然エネルギーで賄えれば最高である。

しかし、自然エネルギーが叫ばれて久しいが遅々として進まない状況
でる。そこにはいろんな問題がある。規制が多すぎること、手続きが
煩雑であること。行政が真剣ではなく腰が重いこと。特に経産省など
は、原発利権を死守したいがために、自然エネルギーには、全くと言
って良いほど力を入れてこなかった。
環境省がおためごがしに、地球温暖化対策と称して、幾ばくかの補助
金を出す程度では無かったのか。

このシンポジウムに参加して、強く感じたのは、やはり、手続きなどの
簡素化などとともに資金も含めて行政の強力なバックアップが必要だと
思う。
そうでなければ、自然エネルギー計画も入り口の所で頓挫してしまう。