半農・半Xの生活

思いついたことを思いついた時に綴ります。

体罰問題で考えること

2013年01月15日 15時12分02秒 | 日記
大阪市の体罰問題が物議を醸しているらしい。
この問題の火に油を注ぐがごとく、関係者の問題を穿りだし記事や
話題にするマスメデイア達。まあ、見慣れたいつもの光景である。
3年前の今頃は、小沢一郎氏を標的にして、司法官僚、マスメデイア
達が人物破壊工作に余念がなかった。
そして昨年は、大津の苛め問題など。騒ぐだけ騒いで後は知った
ことはないというのが、彼らの常套手段ではある。

小生の中学生の頃は、体罰が当たり前だった時代で誰もそれがおかしいと
言う人間はいなかった。朝掃除に遅刻しただけで、直径20cm位の木の
蕪のようなもので、頭を小突く(目から火花が飛び散るほどに痛い)、
数学の授業で使う大きな木製の三角定規でカツン、連帯責任だと言って
クラス全員で雪の上を裸足でグランド十周、集団びんたなど、ざらであった。
これは今の世なら完全に犯罪だろうし親も黙ってはいないだろう。

今から考えると、何とも従順で子羊のような生徒達ではあった。当時は、
目上の人には逆らうようなことは一切無かったし、ましてや教師に対しては、
絶対服従というか盲従だった。親に話しても「お前が悪い」で終わってし
まっていた。それだけ教師が信頼されていたのだろうか。

今から教師の心理状態を推察してみると、本当に生徒のことを思ってやって
いたのか、甚だ疑問ではある。一部に愉しんでやっていたのではないかと思う。
子どもの心身にダメージを与えてまで、教えなければならない重要なことでは
無かった気がする。
見せしめ、校長や他の教師への熱血教師のアピール、自己満足などに起因した
ものではなかったか。

大阪市のことも、次に失敗すると恐い目や痛い目に遭うぞという言わば脅しの
ような教育や指導にはやはり賛成できない。それでは猿回しの猿や、サーカス
の象やライオンと変わりがないではないか。
常に鞭の痛みに怯えている生き方などは、もはや人間ではないだろう。
仮に問題の顧問の下で狡猾にやり過ごし、あるいは体罰に絶え抜いたとしても
後年彼が親になり或いは人を教育する立場になったとしてどうだろうか。
また恫喝によって歪んだ人間形成に励むのだろうか。あるいは反面教師として
心を育てることができる人になれるだろうか。

スポーツで大切なのは、勝つことの喜びもさることながら、仲間を思いやる心や
敗者に対する惻隠の情を育むことも大切ではないだろうか。
しかし、今の中・高校のハイレベルなスポーツは、進学や就職に繋がるため、
汲々としてアマチュアの中のプロ化(ノンプロ?)していて実力者の顧問が必要と
されているのだろうか。
いずれにしても、簡単に結論が出る話では無いが、指導者は、只のスポーツ馬鹿では
なく原発のこと憲法のこと政治のこと世界情勢のことなど少しは語れるような知見を
持ちバランス感覚が良い人がなったら面白い。



初雪が 昨夜の粗相 覆い消し(粗茶)