(「平和憲法を学ぶ輩」さんの投稿です)
24日プラッツ習志野で行われた講演
習志野収容所、騎兵連隊、朝鮮人ー100年前に何があったのか
実行委員会の活動と船橋・習志野の虐殺事件、そして慰霊碑のお話
を聞いてきました。
私にとって知ることが大事だった
関東大震災から100年
「 福田村事件」を映画で観て、まだその残像が焼き付いているなかで今度は習志野市にも目を向けたいとおもっていた矢先、こんな講座が開かれました。
24日プラッツ習志野の研修室へ。
丁度市民ホールでは歌ウマ大会予選の真っ最中。階段を降りて講演会場に入ると既に椅子席はいっぱい。立ち見する人も溢れ熱気ムンムン。80名以上もいたでしょうか、 関心の高さを表していました。
冒頭主催者挨拶の前に少し長めの被害者に対しての黙祷。
「まさに皆さんがいるこの講演会場が殺戮の現場です。ここで兵隊が朝鮮人の首をはねて殺したところです。」 と説明があり、身が引き締まりました。
「関東大震災」での犠牲者は約10万5千人
これは広島の原爆に次ぐ被害者数。
自然災害としては未曾有の大惨事。
それに続いた人為災害があったことを見逃してはならない。
東京府約7万人
神奈川県約3万3千人
火災による焼死がほとんど。
千葉県約1.300人(1%)
安房が多い。家屋倒壊による圧死。
こぼれる記憶とは?
安房の被害が多かったのと比べると、下総地域は地震の影響は少ない。
むしろ問題は、罹災者が避難し、救援された地域で起きた虐殺。
朝鮮人虐殺
北総鉄道(東武野田線)の飯場に朝鮮人労働者が多数働いていた。
9月3日沿線の海軍無線電信所船橋送信所から震災による朝鮮人暴動に関するデマ(朝鮮人が暴動を起こしたり、井戸に毒を入れてる)を全国に拡散。
9月4日船橋自警団による朝鮮人虐殺は千葉県で最も多い38人。天沼付近
船橋警察署巡査部長の証言
「調べてみると女3人を含め53人が殺され山のようになっていた。」
9月6日、9日に関東戒厳司令部より船橋にはビラによる注意喚起。「鮮人の処遇誤るなかれ」(注:デマにまどわされて朝鮮人に危害を加えてはならない)という通知を出して、ようやく朝鮮人虐殺は沈静化。
朝鮮人を習志野収容所に保護収容。(下図の➂)
ところが、一日に二人か三人収容者数が減る。傷の多いのとか厄介な奴、人に逆らって喧嘩ふっかけるような奴はいない方がいいと自警団に「払い下げ」て処分させる。
8日、9日で6人の犠牲者
収容所周辺の虐殺は震災の混乱の最中に起こったことでなく、暴動に対する正当防衛でもなく、軍隊は周辺の集落に朝鮮人を渡して殺させたのでありその責任は重い。これは裁判もされていない。
コロコロ変わって来た右翼・保守団体の主張
1990年代に「虐殺はあったが、良い日本人もいた」⇒2000年代には「虐殺はなかった、正当防衛だった」⇒2010年代には公的な場所から虐殺を削除し、ついに小池都知事が慰霊祭への追悼文送付をやめる事態に。(石原都知事でさえ追悼文を送っていたのに…)
虐殺の事実を
千葉県実行委員会が明らかに。
1998年に遺骨発掘し、
1999年に慰霊碑建立。
一方、これらの動きとは逆に
1990年代には「虐殺はあったが、良い日本人もいた」という主張
2000年代には「虐殺はなかった、正当防衛だった」という荒唐無稽な主張をする、工藤美代子・加藤康男夫妻の「トンデモ本」が登場
2010年代には公的な場所から虐殺を削除し、小池都知事の追悼文取りやめ、など歴史の事実を否定する動きが強まる。
慰霊祭の意義
過去から目をそらし、過去を消す動きに抗(あらが)うために、慰霊祭は起こった出来事を想起する記憶の場であり、漫然と手をあわせるのでなく、どのような時代背景で習志野市でも多くの尊い朝鮮人の命が失われたかを考える場、死者を想像する場である。
<八千代市にある慰霊碑 >
萱田下「至心供養塔」
萱田上「無縁供養塔」
大和田新田「無縁仏之墓」
高津「普化鐘楼」
高津「関東大震災韓国人犠牲者慰霊詩塔」
高津「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」
朝鮮人を殺せば褒美をもらえる、など異常な「群集心理」が自警団を支配していた
軍隊の言うことをきき、朝鮮人を殺せば褒美をもらえる位に考えていた自警団員もいたようだ。異常な興奮につつまれた群集心理がここでも働いたのだろう。
韓国併合後、独立運動を抑え込むため、占領地韓国内で現地人を教会に閉じ込めてそのまま火をつけて教会ごと燃やしてしまった話もある。
こうした、自分たちがしてきたことのしっぺ返しを極端に恐れた妄想が心に怪物をすまわせたと思う。
日本軍の異常な行動は例えばフィリピンでも聞く、全く同じような事例を経験者から聞いた。教会に閉じ込めて火をつけて燃やす。
私たちは常に被害者と加害者の立場を想像し、いずれにもなりえることを肝に銘じよう。人間は過去から学べるが、過去と同じ失敗を繰り返す。
知ることが第一、
そして何を思い、何をなしていくか?!
(編集部より)
これらの事件について、以下のような資料があります。
➀『日本オーラル ・ヒ ス トリー研究』に載った、小薗崇明さんの論文
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjoha/10/0/10_KJ00010034086/_pdf
千葉県では9 月3日、4日に軍隊・自警団の虐殺がおこなわれており、なかでも 9 月4 日の船橋(現在の天沼公園付近)での自警団による虐殺はすさまじく、司法省調査によれば犠牲者の数は38 名、船橋警察署巡査部長であった人の回想によれば 53 名だった。この船橋の虐殺は当時の新聞でも多く取り上げられているが 、実行委員会が 明らかにした重要な点はこの後におこった虐殺についてである。
治安当局は 、朝鮮人の暴動は虚報であることに気づき、さらに暴徒化する自警団を鎮静化させるために事態の収拾をはかろうとした 。 船橋では 9 月 6 日と9 日の2 度にわたり、関東戒厳司令部が 「総テノ鮮人ガ悪イ企テヲシテ居ル様二思 フノハ 大マチガヒデアル此ンナ噂ニアヤマラレテ之二暴行ヲ加ヘタリシテ自ラ罪人」にならないようにという「注意」ビラ をまいている。
それ以降船橋では虐殺はおこなわれていない。各警察署や軍隊に「保護」された朝鮮人の多くは習志野収容所に収容され、公には虐殺はおさまったかにみえた。 しかし、収容された朝鮮人が 9月 7 日以降に周辺村落の村民に渡されて虐殺される。 実行委員会が明らかにした、高津 、大和田新田、 萱田上、 萱田下 (いずれも現・千葉県八千代市)の虐殺で あ る。 以下、「高津の住人の日記 」を一部引用する。
七日 (中略)皆労れて居るので一寝入りずつやる。午后四時頃 、バラック(習志野収容所のこと)から鮮人を呉れるから取りに来いと知らせ が有ったとて急 に集合 させ 、主望者 に受取りに行って貰ふ事にした。 (中略)
夜中に鮮人一五人貰ひ各区に配当し (中略) と共同して三人引受、お寺の庭に置き番をして居 る 。
八日 (中略 )又鮮人を貰ひに行く九時頃に至り二人貰って来 る。 都合五入 (中略)へ 穴を掘り座せて首を切る事に決定。(中略 )穴の中に入れて埋 め (て ) 仕舞ふ 。皆労れたらしく皆其処此処に寝て居る。 夜になると又各持場の警戒線に付く。
九日 今日から日中は 、 一八人で警戒 し、夜は全部出動する事になる 。 皆非常に労れて何処でもゴロゴロ寝て居る。 (中略)夜又全部出動一二時過ぎ又鮮人一人貰 って来 たと知らせ有る。
之れは直に前の側に穴を掘って有ので連れて行って提灯の明りで 、切る。 (以 下略)
引用した日記には虐殺の部分しかあげていないが、住人の日記を読むと高津では震災の被害がない 。 その後、9 月 3 日に朝鮮人暴動の流言が伝わり、4 日に自警団が形成され村中を警戒 した 。
引用した日記にあるとおり、7日に陸軍の習志野収容所から朝鮮人を取りにいくと知らせが来て 、高津では 3 人連れて来る 。 8 日にさらに 2人連れて来て 、計 5人を殺害。 9 日に は 1人連れて来て 、 同じ場所で殺した。 この地域では6人の朝鮮人がなぎの原とよば れる共有地にて虐殺された。 前述のとおり、 4つの地域で同様の虐殺がおきたことがわかっているが、他の地域 に関しは聞き取り調査によって明らかにされた
➁「軍隊日記(野戦重砲連隊一等兵久保野茂次さん)」より
九月三日 軍隊が到着するや在郷軍人等非情なものだ。鮮人と見るや物も云わず大道であろうが何処であろうが斬殺してしまうた。そしては川に投げこみてしまうて、余等見たの許(ばか)りで二十人一かたまり四人、八人皆地方人にに斬殺されてしまうてた。余等は初めは身の毛もよだつ許りだが段々なれて死体も見つても今では何も思わなくなった。
➂「習志野市史」などに書かれた朝鮮人虐殺の記述
習志野市での朝鮮人虐殺については、「習志野市史」などにこう書かれています。
(「習志野市史」第1巻より)
朝鮮人・中国人が大震災でパニックに陥った民間人からなる自警団や、警察・軍隊による残虐な行為の犠牲者になったのである。
警察や軍隊は虐殺を行う一方で、無差別的な襲撃から朝鮮人・中国人を守るために保護し、4000人近くを習志野の捕虜収容所に送り込んだ。しかし、習志野も安全を保障するところではなかった。収容所のなかでは憲兵が彼らの言動や思想を調査し、不審な者は営倉に入れられ、300人ほどが行方不明になったといわれる。習志野に収容された人々のなかで虐殺の様子が分かっているのは次の二つの例である。一つは前述の会沢の証言(注)である。
(注)「いわれなく殺された人々」という本の中の会沢泰さん(当時、騎兵第十四連隊本部書記)の証言
「おかしいようなのは、みんな連隊にひっぱり出してきては、調査したんです。…切っちゃったんです」。第十四連隊が「処刑」した場所は、現在の大久保公民館の裏手(注:現在は「プラッツ習志野」の敷地)といわれている。実際に手を下したのは兵士ではなく、大久保などに住んでいた元兵士だったという。他の一つは大和田・萱田などの周辺村落に、朝鮮人が各三人前後、軍隊から「払い下げ」られ、村の「有志」の手によって殺害されたといわれている。
(「うつりかわる鷺沼」より)
「朝鮮人が爆弾を落として東京を火事にし、今、船でこっちへ渡ってくるから用心するように。この鷺沼に上陸するらしい」という知らせがあった。
そこで、船を持っている人は見張りをし、消防団の人はトビを持って警戒した。習志野騎兵連隊と鉄道連隊の兵隊が、鉄砲を持って道路を警備してた。
ちょっと見て朝鮮人みたいなおかしなかっこうをしている人をつかまえた。朝鮮人はみんな、連隊まで連れて行くことになっていたが、兵隊はみんな気が張っていたので、連れて行く途中で5,6人殺してしまった。今の新津田沼駅のあたりは原っぱだったが、そこでトビでぶんなぐったりけったりした」
最近のニュース
映画「福田村事件」が評判になっています。
福田村事件から100年 柏市長「史実として後世に遺すことが市の責務」
NHK朝ドラでも関東大震災の時の状況が描かれました(朝鮮人虐殺には触れていませんが…)
(追記)
当日の模様について参加者の方からレポートを送って頂きました。有難うございます。
(編集部注:簡潔に講演内容をまとめておられますが、「(ドイツ)捕虜帰国から「陸軍習志野市支那人・朝鮮人収容所」と改名、という所について、間違いではないか、というご指摘をブログ読者から頂きました。正確には「ドイツ人俘虜収容所だったところが、関東大震災の時、朝鮮人・中国人の収容所に使われた」ということで、講師もそうおっしゃっていたと思います。)
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結局、習志野市内で殺された人は何人?
①「関東大震災」(姜徳相著)には「収容者と釈放累計の間に約300人のずれがあるという。収容前の負傷によって死亡した人も多いと見られるが、この幅のなかに、恐らくはこうして殺害された人々がいる」という記述(その中に会沢証言の「大久保公民館の裏手で元兵士が切っちゃった」朝鮮人も含まれる)
②「うつりかわる鷺沼」の「今の新津田沼駅のあたりで兵隊が5、6人殺してしまった」という証言
などがあります。
公式記録に残されていない地域の言い伝えもいろいろありますが、全体像の把握は困難なようです。
ドイツの、ナチス犯罪犠牲者のためのいろいろな慰霊碑。負の歴史に正面から向き合おうと、市民たちが声を上げて築かれたという。
ブラッツ習志野にもこういうものが要るのでは?