昭和のK-POPに関するこんな記事がありました。
BTSのルーツになった伝説のアイドルからポップス、演歌まで… 国交なき時代も日本と韓国を結んだ昭和のK-POP
戦後、日本と韓国に国交がなかった時代にも存在した“音楽の交流”。そこから、演歌、ポップスや、BTSのルーツになった伝説のアイドルまで、昭和の日本で流行した「コリアンポップス」、いわゆる「K-POP」の数々がありました。
黄色いシャツ
釜山港へ帰れ
発売中止になったフォーク・クルセダーズの「イムジン河」
そんな歌の中で1970年代に青春を過ごした年配の皆さんの印象に残る歌、「イムジン河」について、こんな記事があります。
発売中止になったフォークルの「イムジン河」は国境を越え、時間を超えて日本人の歌になった
イ・ランの『イムジン河』――ボーダーを、言葉を越えて、幾重にも折り重なった意味に思いを馳せる(韓東賢) - 個人 - Yahoo!ニュース
■故郷と平和を思う歌
もともとは、現在の韓国・京畿道出身で解放後は北朝鮮で活躍した詩人、朴世永が南の故郷を思ってつくった詩が1957年に歌として作曲されたもので、その多くが現在の韓国エリアにルーツを持つ朝鮮総連系を中心とした在日コリアンの間で今も広く歌われている。
松山猛の『少年Mのイムジン河』(2002年、木楽舎)によれば、京都の在日コリアンの多い地域で育った松山は、植民地支配の歴史や朝鮮戦争、身近で行われていた朝鮮人差別に胸を痛め、日米安保を憂慮し平和を願う多感な中学生だった。そのような思いから、いさかいが絶えない近隣の朝鮮学校と自らが通っていた中学校の間で、サッカーの交流試合を行おうと提案する。
その申し込みに訪れたときに、偶然耳にしたのがこの『イムジン河』だった。
松山は、アメリカ公民権運動を経たベトナム反戦のうねりのなかでフォークと出会う。さらに、ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーと知り合い、ポスターのデザインなどの裏方を務めるようになるうち、中学生の頃に心動かされた『イムジン河』をフォークルが歌ってくれないかと加藤和彦に相談する。加藤ほかメンバーは快諾し、手もとにあった朝鮮語の1番と日本語の1番だけでは足りなかったことから、松山が2番と3番の歌詞を書いた。
しかし発売前に突然、レコード会社が「政治的配慮」から発売中止を決定する。
これは、作詞作曲者不明の朝鮮民謡とされたことについて朝鮮総連が朝鮮民主主義人民共和国という国名と作詞作曲者名のクレジットを入れるよう抗議し、トラブルを恐れたレコード会社が一方的に発売中止を決めたもの。韓国側の圧力や親会社への配慮も存在したと言われている。
映画「パッチギ!」より
日本語の歌詞
イムジン河水清くとうとうと流る
水鳥自由にむらがり飛びかうよ
わが祖国南の地おもいははるか
イムジン河水清くとうとうと流る
北の大地から南の空へ
飛びゆく鳥よ自由の使者よ
だれが祖国を二つにわけてしまったの
誰が祖国をわけてしまったの
イムジン河空高く虹よかかっておくれ
河よおもいを伝えておくれ
ふるさとをいつまでも忘れはしない
イムジン河水清くとうとうと流る
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)で歌われている元の歌詞
「イムジン」は「リムジン」と発音されます。
(1)
臨津江(リムジンガン)の清き水は
流れ流れて下り
水鳥たちは自由に
行き来して飛び交うが
わが故郷は南の地
行きたくとも行けないので
臨津江の流れよ
恨みをのせて流れるか
(2)
川向こうの葦原では
オオヨシキリ《鳥の名》だけが悲しく鳴き
やせた原野では
草の根を掘っているが
共同農場の穂が
波の上に踊るので
臨津江の流れを
分けることはできまい
韓国で歌われている歌詞
軍政時代韓国でこの歌は禁じられていましたが、民主化された1987年以降韓国でも歌われるようになりました。
ただ、原歌詞の2番は上のように南の貧しさを歌うというイデオロギッシュな内容であるため、韓国では以下のように歌詞が変えられているようです。
(2)
臨津江(イムジンガン)の空高く
虹のかかる日
昔の友人が原野で
私の名前を呼ぶとき
私の心、故郷の姿が
思い出の中に消えても
臨津江の流れを
分けることはできまい
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