「ドイツ兵士の見たニッポン」の著者Hさんからの投稿です。
年末はなぜ「第九」なのか?
師走も半ばを過ぎ、巷(ちまた)にはまたベートーヴェンの「歓喜の歌」が流れるようになりました。習志野文化ホールでも、昨年はコロナで中止された第九演奏会が26日に行われます。
ところで、12月になるとなぜ、この曲が演奏されるのでしょうか。
「歓喜の歌」は革命の歌
「第九」。9曲あるベートーヴェンの交響曲の内、最後の一曲、交響曲第9番の通称です。演奏するのに全部で70分ほど要する大曲です。第一楽章から第三楽章までで45分ぐらい、そしてその後、第四楽章はオーケストラだけでなく4人の独唱者と大合唱団が登場します。そこで歌われるのが、シラーの作った「歓喜の歌(An die Freude)」という詩です。
シラーの原詩は1786年、フランス革命直前の王政批判、一般民衆の自由、平等、博愛を求める動きの高まりの中で書かれたものです。世界の民よ、兄弟たらん。抱き合え、幾百万の人々よ、と歌い上げるこの詩はフランス革命の導火線になったとも言われ、「歓喜Freude」とは「自由Freiheit」の言い換えだったとも言われます。いわゆる革命歌としてメロディーが付けられ、当時の若者に盛んに歌われていた中、ボン大学の聴講生だったベートーヴェンは「今に俺が、もっとすばらしいメロディーを付けてやる」と豪語したそうです。それが彼の苦闘の生涯の最後に結実したのが「第九」だったわけですね。
日本では、板東俘虜収容所で大正7年に演奏された
なお、日本に関わるエピソードとして、これが本邦初演されたのは、大正7(1918)年6月1日、徳島県鳴門市にあった板東俘虜収容所のドイツ捕虜オーケストラによってであったとされています。また、第四楽章だけであれば、これに先立つ大正5年8月20日、彼らがまだ徳島収容所(徳島県徳島市)にいたときに演奏されているようです。さらに、板東での初演から一ヶ月後には久留米収容所(福岡県)でも演奏されているのですが、習志野の捕虜オーケストラが演奏したかどうかはわかりません。
日本で年末に演奏されるようになったのは、ベートーヴェンの誕生日を祝って、とか、オーケストラ団員の越年資金稼ぎとか言われているが、実はよくわからない
その「第九」がなぜ、特に日本で年末になると演奏されるのか。ベートーヴェンの誕生日(12月16日とされる)を祝っているのだとか、「芝居で言えば忠臣蔵。必ず客が入るので、オーケストラ団員の餅(もち)代(越年資金)稼ぎに重宝されたのだ」といった説まであって、実はよくわからないのです。一年の最後を、ベートーヴェン最後の華やかな大曲で締めくくろうという心理から、客の入りがいいことは間違いないのでしょう。また、クリスマスにキリスト教系の学校では、ヘンデルの「メサイア」を演奏するところ、クリスチャンでない者にはどうも敬遠される。同じようにオーケストラと合唱による荘厳な曲で、しかも特定の宗教を感じさせないような曲はないかと探したところ、「第九」がぴったりだったのだとも言われます。「日本教徒」のクリスマスにふさわしかったのでしょうね。
学徒出陣のため12月に行った繰り上げ卒業式で「第九」を演奏し、終戦後の12月戦没学生のために再び演奏したのが年末の「第九」の起源、という説
また、こういう説もあります。
当ブログの今年10月21日の回
きょう10月21日は「学徒出陣壮行会」の日 - 住みたい習志野
では、太平洋戦争中、東京帝国大学で行われた出陣学徒壮行「第九」演奏会のことが紹介されていますが、東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)でも昭和18年12月、繰り上げ卒業式で「第九」の第四楽章を演奏したそうです。そして、終戦後の昭和22年(1947)12月30日、生きて帰れなかった者たちのために後輩らによって再び「第九」が演奏されたのが年末の「第九」の起源だ、というのです。
実は年末の「第九」は戦前からラジオで放送されていた
ともあれ、「第九」は年末に聞くもの、という慣習を根付かせてきたものが放送、特にNHKラジオであることは間違いないようです。そこでNHKの記録をたどってみると、年末の「第九」は第二次世界大戦後のものではなく、実は戦前から放送されていたことがわかるのです。
NHK交響楽団は当時、新交響楽団(昭和17年5月からは日本交響楽団)と呼ばれていました。その新響(日響)時代の演奏記録から年末に「第九」を演奏した事例を見てみると
昭和12年(1937)12月1日 日比谷公会堂 指揮・山田耕筰
昭和13年(1938)12月26・27日(新響特別演奏会) 歌舞伎座 指揮・ローゼンシュトック
昭和15年(1940)12月31日(紀元2600年記念演奏会) 内幸町放送会館第3スタジオ 指揮・ローゼンシュトック
昭和17年(1942)1月3日 内幸町放送会館第3スタジオ 指揮・ローゼンシュトック
同年12月26・27日(日響特別演奏会)日比谷公会堂 指揮・山田一雄
といった例が見つかります。
ドイツのラジオではこの曲を大晦日の夜に演奏する、という指揮者ローゼンシュトックのアイデアに従い、昭和15(1940)年大晦日に「紀元2600年記念演奏会」として放送された
昭和13年の歌舞伎座での演奏は「南京陥落1周年祝賀」と銘打ったものだったといいます。この時の盛況に気をよくした指揮のヨーゼフ・ローゼンシュトック(ポーランドに生れウィーンに学んだユダヤ系音楽家。ナチに追われ昭和11年来日)が、一つのアイディアを出したようです。ドイツのラジオではこの曲を大晦日の夜に演奏し、零時に新年を迎えると同時に第四楽章が始まるようにするのだ、と。このアイディアが、2年後の大晦日に「紀元2600年記念演奏会」として実現します。実はこの年、東京オリンピックや万国博覧会が予定され、文化使節としてベルリン・フィルハーモニー(指揮ヴィルヘルム・フルトヴェングラー)の来日も予定されていたのですが、日華事変(日中戦争)の激化で中止になっていました。本来ならばそういう年の最後を飾る放送になるはずだったのでしょう。なお、当時のNHK職員の回想によれば、この放送は夜10時30分から始まり、零時になる前に終了した(三宅善三、雑誌「放送」1941年1月号)ようです。
翌昭和16(1941)年末にも予定していたが、12月8日真珠湾攻撃となって延期となり、年明けに放送された
放送は好評だったようで、翌昭和16年末にも再び予定されたようです。ところが12月8日に真珠湾攻撃となってしまい、年が明けた1月3日に放送されています。そして、この17年の年末には山田一雄指揮で再度演奏されています。学徒出陣を前にもう一度、あの「第九」が聴きたいと願った学生たちは、ラジオでこうした演奏を聴いた経験があったのでしょうね。
ヨーゼフ・ローゼンシュトック(1895~1985)
ドイツで大晦日に「第九」を放送したのはナチだった
ところで、ローゼンシュトックが語ったような習慣は、本当にドイツにあったのでしょうか。ヘルマン・グラーザー著「ヒトラーとナチス 第三帝国の思想と行動」には、宣伝大臣ゲッベルスが大晦日に「第九」を放送させたエピソードが紹介されています。皮肉なことにローゼンシュトックを追い出したナチの始めた放送だったのです。
こちらはその後、昭和17年(1942)4月のヒトラー誕生日前夜祭におけるベルリン・フィルハーモニーの「第九」。指揮しているのはベートーヴェン演奏に関して最大の巨匠と称されたヴィルヘルム・フルトヴェングラーです。
この演奏は短波で世界に送られ、満州でこれを受けたNHKが日本国内に放送しました。
フランス革命の精神を表した「第九」がナチの宣伝歌になってしまった
フルトヴェングラーの指揮は、演奏史に残るすばらしいものです。この映像は、ステージ下に駆け寄ったゲッベルスとフルトヴェングラーが握手する場面で終っているのですが、政治にうといフルトヴェングラーが「ナチの広告塔」として、ものの見事に利用されてしまっていることがわかります。フランス革命の精神はナチの宣伝歌になってしまいました。「文化に対する犯罪」というものがあるとしたら、こういうものを言うのでしょうね。
実は大晦日の放送を最初に考えたのは、第一次大戦の惨禍に胸を痛めた指揮者ニキシュ。ナチはそれを換骨奪胎
しかし、大晦日の放送を考えたのはゲッベルスが最初ではありませんでした。それより古く、ドイツ東部ライプツィッヒの名門オーケストラが大晦日に第九を演奏する習慣を持っていたのです。それは、第一次世界大戦に因むものでした。
その頃、アルトゥール・ニキシュという大指揮者がいました。ベルリン・フィルとライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者を兼ねて、その人気は絶大なものがありました。第一次世界大戦は大正7年(1918)秋、キール軍港の水兵が叛乱を起し、ドイツ皇帝が退位・亡命に追い込まれたことで終結します。このとき、叛乱を起した水兵や労働者のスローガンの一つは「俺たちにもニキシュを聴かせろ!」だったといいます。上流階級が独占するのではなく、労働者にも良質な芸術を与えろ、と叫んだのですね。
そのニキシュは、ヨーロッパに史上かつてない惨害を残して大戦が終結したことに心を痛め、毎年大晦日に「第九」を演奏することを思い立ちます。「世界の民よ、兄弟たらん。」「抱き合え、幾百万の人々よ」というメッセージが今こそ必要だと考えたのです。ゲッベルスは、その放送を換骨奪胎してみせただけだったのです。
なお、このゲヴァントハウス演奏会は、現在でも続いています。こちらは2016年大晦日の演奏です。
ベルリンの壁崩壊のきっかけになったライプツィッヒのデモと指揮者クルト・マズア
平成元年(1989)10月9日のこと、ライプツィッヒでは民主化を要求する7万人の市民がデモを始めました。東ドイツ秘密警察と軍隊の銃口がデモ参加者に向けられていました。この時、デモの先頭にいたゲヴァントハウス管弦楽団指揮者クルト・マズアは、4ヶ月前に起きた天安門事件の二の舞になることを避けなければならないと考えていました。勇敢にも進み出たマズアは東ドイツ当局に対し、市民への武力行使を避け、平和的解決を要望するメッセージを発表したのです。このデモが一つのきっかけとなり、翌月のベルリンの壁崩壊につながったことを思い出していただきましょう。
こちらはベルリンの壁崩壊を記念して行われた「第九」演奏会です。
レナード・バーンスタイン指揮、東・西両ドイツ、ソ連、英・米・仏の混成オーケストラと合唱団により文字どおり「喜びの翼の下、すべての人々は兄弟となる」と歌い上げられた瞬間でした。
独「ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団」と「習志野第九合唱団」平和願いメッセージ交換(2000年)
ところで、こちらの新聞記事を見ていただきましょう。平成12年(2000)12月29日の毎日新聞です。
独「ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団」と「習志野第九合唱団」
平和願いメッセージ交換
「すべての人々よ、兄弟とならん」――。ベートーベンの「第九」合唱の先駆けであるアマチュアの「習志野第九合唱団」と、第一次世界大戦が終わった1918年から同様の演奏会を開いているドイツの名門オーケストラ「ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団」がこのほど、20世紀最後の演奏会の成功と世界平和の願いを込めてメッセージを交換した。
きっかけは同市東習志野に第一次大戦中、ドイツ兵ら1000人を収容した捕虜収容所が設置されていたこと。同収容所は他と違い、捕虜たちが劇団やオーケストラを結成し地元の人らと交流していた。その際に演奏された第九が「日本初」という。この交流を知った同合唱団が、古くから第九を演奏している同管弦楽団にエールを送った。
同合唱団のメッセージは「同じ第一次大戦にゆかりを持つ町の第九演奏会として、ゲヴァントハウスの演奏会の成功を願う。21世紀こそベートーベンの理念を実現する時代となることを信じて第九を歌い続けます」という内容。これに対し21日、同管弦楽団から「世界中で第九が演奏される瞬間、世界が一つになる」という喜びの返事が送られてきた。
同合唱団は31日午後5時から、習志野文化ホールで「習志野第九演奏会」を開く。【坂本訓明】
残念ながらこの記事は、特に反響を呼ばないまま忘れられてしまいました。劇団やオーケストラがあったのは習志野だけとか、習志野のドイツ捕虜が「第九」を日本初演したかのように読めてしまう部分は、筆がすべったような気がしますが…。
今や「紀元2600年」もナチの宣伝放送も忘れられ、日本の年末に定着した「第九」
今や「紀元2600年」とかナチの宣伝放送といったことは忘れられ、その起源がわからないまま「第九」は日本の年末に定着した一つの文化になりました。今や、いかめしいコンサートホールを飛び出して、日常生活の中に溶け込んでいます。次の動画は、あるショッピングセンターの中の「第九」です(「歓喜の歌」は15‘29“あたりから)。
普段着の買い物客が足を止めて、聞き入っている姿に、全聾のベートーヴェンが生涯をかけて作ったこの曲が、日本に完全に根を下ろしたことが感じ取れるのではないでしょうか。
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憲法学者の宮沢俊義さんは、憲法第9条は「第九」に通じているのだという意味のことを書き残しています。Freude(喜び)はFriede(平和)にも通じているのです。