森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

日記:引き受けることと,切迫感

2011年08月15日 21時10分02秒 | 日記
高知で宮本先生らと研究の打ち合わせに関する仕事を終え,
様々な問題はあれど,その船に乗っている以上は,
ある意味無責任な行動に出ることはせず,
「動かざること山の如し」の場合もあると思いました.
園田先生がイタリアより一時帰国しており,
先日,私がローマに行っていたにもかかわらず.
彼に連絡せずだったので,
「どうして連絡くれなかったのですか?」と
教え子から言われました.
彼の卒論を担当しましたが,
何も言わずに,時間をかけず,そつなくほぼパーフェクトのこなした記憶があります.
学会でも能力を存分にいかし,
1いえば10行動してくれる,本当に頼もしい男です.
風貌はホスト系ですが・・・

彼には来たるべき,別の仕事以外の活動にも参画してもらいたいと思っています.

そのまま高知に残り,
よさこいのメンバーと今年度のよさこいについて語り,
今後の人生をどう生きるかについて,ビジョンを想像しました.
今年度のよさこいは前夜祭のグランプリが「ほにや」でした.
80年代日本のミュージック的フレーズが耳に残る名曲でした.
ドラムセットを地方車の上に積むという離れ業に感服するとともに,
PAの素晴らしさに脱帽しました.
本祭のよさこい大賞には,長年大賞をとれなかったが,
祭りらしさを追求してきた,とらっく(高知県トラック協会)がとりました.
震災後の今年度にふさわしい祭りとしてのパフォーマンスでした.
地方車の上の衆,周りを固める男衆の俳優なみの演技に脱帽です.
演じるということは,それを引き受けるということ,
人生にとって,他人や社会に対して,利益以外で「引き受ける」ということの意味を考えてしましました.
マズロウの欲求では自己実現まででしたが,
まさに引き受けるということはコミュニティ発展の欲求です.

自分や自分の仕事を犠牲にしてまで,
高知の発展,祭りの維持・発展を考える「コミュニティ発展」の欲求は,
古くから人間に伝わってきた「祈り」の精神に通じるものがあります.
自分を犠牲にしても,
五穀豊穣,家内安全を祈り続ける「神人(かみんちゅ)」に通じます.
祭りの本来の姿は,引き受けること,そして,それを演じることであり,
仕事以外にそうしたことをし続けるということは,
実はコミュニティ発展に寄与していることであり,
それはまさに人間の欲求の最高次なもので,
他者を思う気持ちなしには出現しないものです.
わが故郷の坂本龍馬は強くそれを思ったのでしょう.

私が講演を引き受けるということは,
今の大学の仕事以外のことであり,
別に引き受けなくても十分に足りています.
しかしながら,これだけ体を壊すことがわかっても
それを引き受ける理由は,
まさに,コミュニティ発展なのかもしれません.
それは患者さんのためとか,研究のためという小さいものではなく,
社会全体の発展を意識したものであるから,
継続できるのかもしれません.

一方で,引き受けると反面,
引き受けなかったらよかったと思うこともしばしばあります.
執筆もその一つです.
自分がやりたいことは他にあるのに,
しぶしぶ引き受けることもあります.
どちらかといえば,そっちの方が多いのかもしれません.
けれども,そういったものを引き受けることで,
常に時間との戦いが起こり「切迫感」がわきます.
この切迫感こそが,人間の脳を発展させる条件なのです.
切迫感による息切れや,
無行動になってしまえば,
それはそれで抑うつ状態になりますが,
むしろ,その抑圧一歩手前の切迫感をエネルギーに変え,
新たな自分の行動力へと発展し,
その行動を起こすことで,新たな自分に出会えたり,
新たな他者に出会えたり,
新たな自己と他者との関係性に出会えたりすることで,
新しい動機づけとなるのです.
こう考えれば,ある意味,とてつもない仕事を引き受けることが,
自らの人生にとって,とても重要であると認識できます.

おそらく,昔のルネサンスの芸術家は,
教皇からとてつもない大仕事を依頼され,
葛藤した末,それを引き受け,
大仕事をなしとげたのでしょう.
これは現代の漫画家や作曲家などにも通じるものがあります.

切迫感をもって引き受けること,
そして,それを苦しみながら進めていくエネルギーこそが,
人間がたくましく,つよく生きていくための条件なのかもしれません.

まだまだ私もその切迫感を信頼のおける友人とともに楽しんでやろうと思っています.


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