森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

文化を超えて

2009年07月17日 23時59分56秒 | 過去ログ
今日は午前中に来週の講義資料を完成させ
10時よりゼミを行った。
3年生のゼミがスタートする。
今日はリーダー決めや
みんなの興味をうかがう。
キーワードが飛び交うがその次は関係性を考える。
思考は関係性から生まれる。
システムとはそういうことだ。
要素だけでは思考は生まれない。
細胞一つでは何の意味もない。
軸索と樹状突起が結合する関係性から
脳は発達するように。
もちろん身体もシステムであるから
膝だけでは何も行為は生まれない。
その関係性を理解するということは
研究だけでなく臨床の視野を拡げる意味でも大切である。
どうしても要素に向かられるし、
今度は関係性を通り越して、行為全体に飛躍してしまう
動作分析が飛躍するのも研究の考察が飛躍するのも
実は視点は同じなのかもしれない。
この意味を理解できれば、
人間を科学する第一歩になるかもしれない。
研究者とは絶えず思考を鍛える必要がある。
紋切型・ステレオタイプとならずに、
自らの思考をdeepにする。
今の理学療法に関係する研究者を眺めても
データをとってから考察する(思考する)ものが多い。
思考とは自らの脳のなかで企てるものでもある。
もちろん真理をつかもうとするためにデータをとるが
出たデータを幾通りも料理でき、
さらに仮説(想像)をふくらますという思考の循環を続けられる者は果してどのくらのPT、OT教員がいるのだろうか。
応用ばかりに走ってもその思考は鍛えられない。
応用をやるのなら、臨床という現場がいちばん適している。
大学という場は、知を創造し生産していく場である。
その混同が続けば、臨床はカオスから抜け出せれない。

11時半に大学を出て、
一路、大阪女子短大へ。
今日は育児と脳についての授業である。
あと1回でここの講義も終わる。
新鮮さもかけ始め、彼女たちの注意の持続も減退し始めてきた。
人間とは先入観(自らの経験の呪縛)から抜け出せれない動物である。
デジタル脳になればなるほどその傾向が強い。
自らが信じている世界でしか生きられないのか。
その呪縛から解き放たれるためには、相当の強い経験が必要である。

僕にとってはそれは12年前の留学だったのかもしれない。
イギリス、フランス、アイスランド、ノルウェー、スウェーデン、イタリア、
そのすべてでセラピストがADL練習・訓練(歩行訓練)や狭義のROM訓練をしているのはなかった。
僕は今の急性期・回復期・維持期システムを作った近森リハの出身。
病棟配置や病棟訓練のさきがけを作ったメンバーの一人であり、
毎日のように見学客を迎え、
厚生省のモデル病院として、PTをしていた。
ADLというのは自らのリハビリテーションの根幹であった。
それが、上の国のあわせると30以上の病院を観察し、
横断的にもそして長くいた病院を含めると縦断的にも
見た(経験した)うちにはない。

この経験がまさしく回復とは何なのか?
人間の行為とは何なのかを、を考えるきっかけとなった。

それ以来、行為障害からの回復は紋切り型ではないと思っている。
行為のとらえ方をもっと多様にみなければらないとも思っている。
どのようなかたちであっても回復する人は回復するし、
そうでない人はそうでないのであれば、
その共通項を探ることが患者の行為を改善させていくための方法でないかと
研究しているのである。

大学に在籍しているPT、OTはその知識・知恵を磨かないといけない。
それにはデカルトのように思考を巡らせることが必要だと思う。
研究データは情報の一つにすぎない。
僕もそうだが、まだまだ未熟な者が多い。
教育とは未来に向かわないといけない。
現実がまったくなければ地に足がつかないが、
地に足をつければ、前に歩きださないといけない。
いろんなデータが脳イメージング研究から出ているが、
最近の研究、特にリハから出ているのは全く驚かない。
これは停滞期の様相が見えてきた。
機械が発達しても思考が変わらなければ、
なんも変わらない。
ただ、データをとって焼き直ししているのにすぎないように思える。

そう嘆いてもはじまらないので、
ブレークスルーも期待したいものだ。


大阪女子より畿央に17時に帰り、
看護学科の学生の質問を受ける。
痛みを有する事例に対するケアをどう考えるかというテーマで彼女たちはレポートを書いている。


その後、理学療法学科の学生たちが質問に来る。
21時前までagnosia、apraxia、ataxiaの内容を議論する。
脳は実に不思議だ。

不思議かつ魅惑なる脳の世界を知ろうとする脳はとても頼もしい。
脳を知るための脳。
それは人間を知るための人間である。
人間科学こそがリハビリテーション科学でもある。
人間復権という尊厳は人間を知ろうとしないことには、
その意味を見いだせないかもしれない。

理学療法という言葉の知名度は低い(理学療法士になって18年、いつまでたっても低い)がリハビリという言葉は誰もが知っている。
その理由が少しながら僕は最近わかりはじめてきた。


霊長類としての人間

2009年07月17日 08時04分29秒 | 過去ログ
一昨日は看護学科の講義の大詰め。
脳卒中、自閉症、骨折、認知症の事例の感情の変化を
脳科学からとらえ、そしてどのようにケアを提案するかについて議論した。
そのうち、1事例を選んで、課題レポートを提出してもらう。
脳を知ることで、対象者のこころを知ろうとする。
科学的な対応をナースが持つことで、
人間性をさらにUPしてもらいたい。

午後は来週に出向く文部科学省の履行調査について確認会議が行われる。

会議とはアナログであるが、
人の表情が見れるこのアナログ的関係性はいつまでも残すことが大切であるかもしれない。
ただ、デジタル的会議であるなら、メールでよい。

新型プリウスが売れているようだが、
その背景にある機械産業は電器産業にとってかわられているだろう。
時代の流れは速いし、その流れについていくだけで必至な感じがある。
ふと、パソコンのとなりには私の4代目ベースがあるが、
彼とは20年の付き合いになるが、
少々、故障気味だが、このような楽器は30年たっても変わらないであろう。
文化とは変わらないものだ。
絵筆が変わらないように。

脳はデジタルに向かっているが、身体は文化と同じでアナログのまま。
現代人がかかえているストレス社会はこの解離現象なのかもしれない。

昨日は、つくだクリニックの井口さんと自閉症の子どものケース会議を行う。
2週間に1度であるが、7月頭が忙しかったので1か月ぶりである。
面白い現象に考察を加える。

スーパーやコンビニで何でもモノがそろう時代。
人の顔を見なくても生きていける現代。
以前の八百屋や、魚屋であれば、
自然と非言語的コミュニケーションや言語コミュニケーションが生まれたが、
今は必要ない。
その時代の若者がいきなりコミュニケーションをとれ!といわれても、
図式化されていないからフリーズを起こしてしまうのかもしれない。
ヨーロッパには朝市がいまだに立つ。
そこでは人の顔を見るという
生物的な現象が続いている。
アナログ脳の再興が教育でも求められるのかもしれない。

午後は学科会議、教授会、大学院研究科委員会、リサーチカンファレンスと続いた。
学科会議では実習のこと
教授会では後期授業体制のこと
研究科委員会では博士論文の審査体制のこと
リサーチカンファではfNIRSの解析のこと
などを話あった。

その後、博士課程の信迫君と修士課程の清水君と研究の打ち合わせをした。


顔を見るという霊長類固有のコミュニケーションはこれからも伝承していかなければならない。