痛みの学術集会では、
柿木先生から触覚伝導路と痛覚伝導路の到達時間の違いが脊髄へ、だけでなく、
その後の大脳皮質へも異なることが示され、
それにより、痛みのgatingは脊髄で起こらず、
大脳皮質で起こることのエビデンスを示された。
その他、大脳皮質のS1に行くlateralの伝達速度よりも、
Medialである前帯状回や島に行く速度が速いことのエビデンスを示され、
痛みの諸問題がなぜ起こるかの仮説がわいてきた。
情動的側面をもう少し重要視するセラピーが必要だし、
慢性痛では認知的側面を重要視するセラピーが必要だと意見交換した。
いずれにしても、科学は進歩している。
それを誰かが臨床に応用し、
その効果のエビデンスを待っていたのでは遅い。
自らの脳で思考し、
現在進行形で治療することが臨床家には求められるであろう。
一方、教育研究者は、その事実を受け止め、
教育、特に教科書を変えないといけない。
とにかく、勉強不足だし、
スピードが遅いと感じる。
学会演題が1500以上にもなっているのに、
なんら進歩がないのは、
大きな問題だと思う。
学会発表は論文のようには歴史として残らない。
歴史として語られ、それを批判的吟味されることが進歩である。
その後、会長、司会者らと懇親し、
業界のことを切に考えた。
翌日(昨日)、奈良に帰り着き、
そのまま教育学部の授業へ。
第3回目の「コミュニケーション心理学」
表情から喜びや不安を垣間見ることができる。
「創造性」とか「個性」とか言っている教育業界のなかで、
大学生自体がそれを求められると困惑してしまうのであれば、
つまり、受身的授業を要求するのであれば、
そのようなものは、今日の教育世界において教員として生き抜いていくことはできないと思う。
自らの精神に自由度を持ってもらいたい。
これは私への自省でもある。
教育とは難しい、ましてや感情というものにどのように向き合うか、
これこそ、一番難しい問題である。
授業を終え、3年生のゼミへ。
この自由度、創造性はここでも感じたが、
1か月進行し、成長を垣間見ることができた。
統制しながら、創造する。
一見矛盾したこのプロセスが、
自らの思考を鍛える。
ホモサピエンスとは「考えるヒト」
考えなければ、それは人間でない。
「これでよいのか」と常に思う。
そして、「これでよいのだ」と時に思う。
このバランスが生きていく上で大切だ。
3年生の授業を終え、
大学院生の中間発表会へ。
前回発表できなかった2名の進捗状況を聴く。
大学院教授・准教授の方々も結構集まっていただいた。
うれしい。
反面、「結構」という面に、いろんな思いが錯綜する。
院生と話し、学部生の研究を確認し、
しばらくぶりの家にたどりつく。
最近、老いを感じることがしばしばある。
これは現在の激務からか、それとも、肉体的なものなのか、
その真相は自己とは何かの問題にぶちあたり、わからない。
それでも元気だと思う。
自分は結構にタフ・ガイだ。
日々の思考および出張でトレーニングされ、
「イキチ」があがっている。
意識とは実に奥深い。
痛みやかゆみの意識も実に奥深い。
柿木先生から触覚伝導路と痛覚伝導路の到達時間の違いが脊髄へ、だけでなく、
その後の大脳皮質へも異なることが示され、
それにより、痛みのgatingは脊髄で起こらず、
大脳皮質で起こることのエビデンスを示された。
その他、大脳皮質のS1に行くlateralの伝達速度よりも、
Medialである前帯状回や島に行く速度が速いことのエビデンスを示され、
痛みの諸問題がなぜ起こるかの仮説がわいてきた。
情動的側面をもう少し重要視するセラピーが必要だし、
慢性痛では認知的側面を重要視するセラピーが必要だと意見交換した。
いずれにしても、科学は進歩している。
それを誰かが臨床に応用し、
その効果のエビデンスを待っていたのでは遅い。
自らの脳で思考し、
現在進行形で治療することが臨床家には求められるであろう。
一方、教育研究者は、その事実を受け止め、
教育、特に教科書を変えないといけない。
とにかく、勉強不足だし、
スピードが遅いと感じる。
学会演題が1500以上にもなっているのに、
なんら進歩がないのは、
大きな問題だと思う。
学会発表は論文のようには歴史として残らない。
歴史として語られ、それを批判的吟味されることが進歩である。
その後、会長、司会者らと懇親し、
業界のことを切に考えた。
翌日(昨日)、奈良に帰り着き、
そのまま教育学部の授業へ。
第3回目の「コミュニケーション心理学」
表情から喜びや不安を垣間見ることができる。
「創造性」とか「個性」とか言っている教育業界のなかで、
大学生自体がそれを求められると困惑してしまうのであれば、
つまり、受身的授業を要求するのであれば、
そのようなものは、今日の教育世界において教員として生き抜いていくことはできないと思う。
自らの精神に自由度を持ってもらいたい。
これは私への自省でもある。
教育とは難しい、ましてや感情というものにどのように向き合うか、
これこそ、一番難しい問題である。
授業を終え、3年生のゼミへ。
この自由度、創造性はここでも感じたが、
1か月進行し、成長を垣間見ることができた。
統制しながら、創造する。
一見矛盾したこのプロセスが、
自らの思考を鍛える。
ホモサピエンスとは「考えるヒト」
考えなければ、それは人間でない。
「これでよいのか」と常に思う。
そして、「これでよいのだ」と時に思う。
このバランスが生きていく上で大切だ。
3年生の授業を終え、
大学院生の中間発表会へ。
前回発表できなかった2名の進捗状況を聴く。
大学院教授・准教授の方々も結構集まっていただいた。
うれしい。
反面、「結構」という面に、いろんな思いが錯綜する。
院生と話し、学部生の研究を確認し、
しばらくぶりの家にたどりつく。
最近、老いを感じることがしばしばある。
これは現在の激務からか、それとも、肉体的なものなのか、
その真相は自己とは何かの問題にぶちあたり、わからない。
それでも元気だと思う。
自分は結構にタフ・ガイだ。
日々の思考および出張でトレーニングされ、
「イキチ」があがっている。
意識とは実に奥深い。
痛みやかゆみの意識も実に奥深い。