森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

論理トレーニングとこころの洗浄

2007年12月21日 23時32分01秒 | 過去ログ

なんか、すっかり週間ブログになりつつある。
ブログはかつおといっしょで旬に限るが、
どうもそれも「億劫」になりつつある。

言語化することは思考トレーニングなのだが、
ブログは必ずしもそうでなく。
再認、再生するだけになると、
それはつまらなくなる。

脳内での言語がそのつどインタラクションし、
新たな文脈を創造する。
そうすると、それはそれは面白く、
芸術のようにいろんな色になる。
音もそうだ。
音色というように。

さてさて、昨日は13時から、20時まで会議だった。
何をそんなにと思うが、
学科会議、教授会、大学院委員会、
そして博士課程プロジェクト委員会と、はしご状態。
まさに、午前様の5件はしご状態のような感じか・・・
土佐人は昼の2時ぐらいからのみ、
夜中の3時、4時まで飲む場合がある。

大学院委員会では我が院生達の研究進捗の遅れが目立った。

研究とは何か?
授業を受けても、生まれない。

自立した研究活動をおくる。
それが学部でなく大学院なのである。

そんなことをこのブログで書くのもつらい。

今日は岡山での年内最後の講義。
久しぶりに力を入れて話をする。

おもちゃの意味について語った。
ゼロでもよくない、与えすぎでもよくない。
その意味は、比喩表現、そして創造性だ。

比喩することが創造を生み出す。
道具を与える、しかし与えすぎてはならない。
ひとつ、二つで創造をつくる。

積み木ひとつあれば、何かに見立てる。
その能力が、人にはある。
積み木を車に変えることができる。
それが知能である。

リアルなおもちゃになった現在、その比喩が乏しいし、
物質が豊かになればなるほど、
創造性を失い、使い捨てる。

しかし、道具がなければ創造・言語も生まれない。

論理トレーニングだ。


ツールとは知能を補完するものでなければならない。


臨床実習教育とは何か、それにもつながる。


さてさて、歌姫の最終回。

予測通りの展開だったが、

松中、ジェームス太郎、芥川、さくら、歌姫、そんなキーワードで、

最終的には孫で、結ばれる。

と予測していたが、ひとつだけはずれた。

それは記憶を両方持ちえて、

高知の出来事をすべて忘れたように振る舞い、東京に帰るシナリオ。

記憶がよみがえり、東京に帰るとは思っていたが、

自分の娘のために生きることを選択し、
自らの思い出、恋、を封印する。

まさに、「いごっそう」のかがみやね。

自分のこころを殺してでも人のために生きる。

その気骨精神が土佐のいごっそうちや。

いごっそうというと、飲みまくり、けんかっぱやいのイメージが強いが、

気骨精神、それが、土佐のいごっそう。

感動したちや。

これは現代社会への警告を発したんだと思う。

自分の子どもを餓死させても男を選ぶ母親などなど。

扁桃体があるのかと疑うが、麻薬にかかるのだろう。
道徳を失うといった。


誰かのために生きる。

自分のためにしか生きていない(生きていけない)。
この不安だらけの世の中。

それを昭和の世界が、警告してくれた。


年末には土佐に帰る。