なんか、すっかり週間ブログになりつつある。
ブログはかつおといっしょで旬に限るが、
どうもそれも「億劫」になりつつある。
言語化することは思考トレーニングなのだが、
ブログは必ずしもそうでなく。
再認、再生するだけになると、
それはつまらなくなる。
脳内での言語がそのつどインタラクションし、
新たな文脈を創造する。
そうすると、それはそれは面白く、
芸術のようにいろんな色になる。
音もそうだ。
音色というように。
さてさて、昨日は13時から、20時まで会議だった。
何をそんなにと思うが、
学科会議、教授会、大学院委員会、
そして博士課程プロジェクト委員会と、はしご状態。
まさに、午前様の5件はしご状態のような感じか・・・
土佐人は昼の2時ぐらいからのみ、
夜中の3時、4時まで飲む場合がある。
大学院委員会では我が院生達の研究進捗の遅れが目立った。
研究とは何か?
授業を受けても、生まれない。
自立した研究活動をおくる。
それが学部でなく大学院なのである。
そんなことをこのブログで書くのもつらい。
今日は岡山での年内最後の講義。
久しぶりに力を入れて話をする。
おもちゃの意味について語った。
ゼロでもよくない、与えすぎでもよくない。
その意味は、比喩表現、そして創造性だ。
比喩することが創造を生み出す。
道具を与える、しかし与えすぎてはならない。
ひとつ、二つで創造をつくる。
積み木ひとつあれば、何かに見立てる。
その能力が、人にはある。
積み木を車に変えることができる。
それが知能である。
リアルなおもちゃになった現在、その比喩が乏しいし、
物質が豊かになればなるほど、
創造性を失い、使い捨てる。
しかし、道具がなければ創造・言語も生まれない。
論理トレーニングだ。
ツールとは知能を補完するものでなければならない。
臨床実習教育とは何か、それにもつながる。
さてさて、歌姫の最終回。
予測通りの展開だったが、
松中、ジェームス太郎、芥川、さくら、歌姫、そんなキーワードで、
最終的には孫で、結ばれる。
と予測していたが、ひとつだけはずれた。
それは記憶を両方持ちえて、
高知の出来事をすべて忘れたように振る舞い、東京に帰るシナリオ。
記憶がよみがえり、東京に帰るとは思っていたが、
自分の娘のために生きることを選択し、
自らの思い出、恋、を封印する。
まさに、「いごっそう」のかがみやね。
自分のこころを殺してでも人のために生きる。
その気骨精神が土佐のいごっそうちや。
いごっそうというと、飲みまくり、けんかっぱやいのイメージが強いが、
気骨精神、それが、土佐のいごっそう。
感動したちや。
これは現代社会への警告を発したんだと思う。
自分の子どもを餓死させても男を選ぶ母親などなど。
扁桃体があるのかと疑うが、麻薬にかかるのだろう。
道徳を失うといった。
誰かのために生きる。
自分のためにしか生きていない(生きていけない)。
この不安だらけの世の中。
それを昭和の世界が、警告してくれた。
年末には土佐に帰る。