お久しぶりです、八丈島です
前回の続きからということになりますがちょっと関心を持ってしまった言語論についてまた綴りたいと思います
前回の最後に言葉よりもモノと言いました。そりゃモノが先にあって、後付でそれを指し示す言葉がつけられているのは見ればわかります。そういうことではなく、そもそも我々は言葉という記号を媒介にしてその言葉が指し示すモノを認識できないのではないかということです。例えばネコというものは知っているがネコは見たことがない人がいたとします。
そしてその人がうっかり森の中でネコにあってしまいました。
そしたらその人は、噛んでくるかもしれない、毒を持ってるかもしれないと、何らかの形で警戒をするでしょう。
そこで警戒してる人に向かってまた別の人がそいつはネコだというと、警戒してた人はすっかりこれがネコかかわいいなあと、なります。
つまりネコという言葉はかわいい、つぶらな瞳がキュンとくる、などネコそのものの性質を定義することができるのです。これは興味深いものでかわいい名前を持ったものはそのもの自体もかわいい、おしゃれなものを持っているのではないかと、印象をもたれたり、逆に変な名前だとそのもの自体が変なものに見られるという弊害があったりします。
要はこの言葉というものはモノとはまた別個の独立したものであり、言葉と、ものをつなぐ定義は言葉そのものによって印象を変化させることができるのです。
上手く使えたら便利なもののような気がするのでこれを応用してみてはいかがでしょうか
前回の続きからということになりますがちょっと関心を持ってしまった言語論についてまた綴りたいと思います
前回の最後に言葉よりもモノと言いました。そりゃモノが先にあって、後付でそれを指し示す言葉がつけられているのは見ればわかります。そういうことではなく、そもそも我々は言葉という記号を媒介にしてその言葉が指し示すモノを認識できないのではないかということです。例えばネコというものは知っているがネコは見たことがない人がいたとします。
そしてその人がうっかり森の中でネコにあってしまいました。
そしたらその人は、噛んでくるかもしれない、毒を持ってるかもしれないと、何らかの形で警戒をするでしょう。
そこで警戒してる人に向かってまた別の人がそいつはネコだというと、警戒してた人はすっかりこれがネコかかわいいなあと、なります。
つまりネコという言葉はかわいい、つぶらな瞳がキュンとくる、などネコそのものの性質を定義することができるのです。これは興味深いものでかわいい名前を持ったものはそのもの自体もかわいい、おしゃれなものを持っているのではないかと、印象をもたれたり、逆に変な名前だとそのもの自体が変なものに見られるという弊害があったりします。
要はこの言葉というものはモノとはまた別個の独立したものであり、言葉と、ものをつなぐ定義は言葉そのものによって印象を変化させることができるのです。
上手く使えたら便利なもののような気がするのでこれを応用してみてはいかがでしょうか