富山きのこクラブ

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きのこ部会講演会

2008年05月11日 | きのこ

池田先生の講演記録のメモ
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●花の色「アントシアニン」仮説を立てたものの実証するすべが無かった。
●昭和42年から教員。アメリカ軍の占領下で理科の教育が思うように行かず、人体の説明や紙飛行機を飛ばすことさえも許可されなかった。外をぶらぶらと野外観察する中で、子供たちが採取してくるきのこの説明ができなく、勉強を始めたのがきっかけ。
●金沢大学に相談に行っても「きのこのような下等植物は扱わない」と門前払いを食らわされた。
●一番最初に川村清一のカラー図入り図鑑を見て、彩色きのこ画を記録として残すようになった。当時はまともな絵筆も紙も無く、また、実践例も無く画材店に相談しながら試行錯誤を繰り返した由。
●当初、「きのこ」が指導要録に無かったので勤務時間外の作業であった。指導要録に載ってから、きのこの研究ができるようになった。標本の作製に関しても、きのこをそのまま貼り付けたり、ホルマリン漬けにしたり…いろいろ試したが、現在の乾燥標本にたどり着くまでに5年間掛かった。
●子供たちにきのこの培養をやらせた…子供の頃、マツタケを植えて栽培しようとして…父親にはばかにされ、母親にはもったいなことをしてとしかられた…胞子に色が付いていることや生育が早いことを条件にヒトヨタケを選び、ダンボールを培地に使ったらうまくいった。子供たちは喜んで家に持って帰ったが何に使ったやら。小学校の顕微鏡(300倍)で見える大きさの胞子のきのこ。

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●石川県は県外研修を認めておらず、1年に1回だけ先生に教えを乞いに伺った。今関先生の教え 最初の図鑑を見て、「君はこの絵をどのくらい時間をかけて描いているか?」と聞かれ「本郷は小さなきのこでも2時間、大きなものは1日かけて絵を描いている。」…と、当時1眼レフカメラで写そうと考えたが、「写真で記録する時に、本当にきのこを見た時間はいくらか?」
●教育とは⇒学習の仕方を教えるものだ。ドリルはやらない。練習問題を2題だけやらせ、早く正解した生徒に採点をやらせた。時間の余った生徒は他の問題をやって良いかと聞く⇒やりたければやれと答える。また、生徒に問題を作らせる。
●本郷先生の指導法「雛が卵の中から殻をつつき始めたら、親鳥は外からつついて助ける。」先生は、質問しない限り答えを返さない。
●石川のきのこ図鑑出版するまでに5年掛かった。石川で初めての横書きの原稿で、ラテン語の学名などもめちゃくちゃの配置となった。また、絵の原稿を印刷したことも無かったので、この図鑑は石川の印刷技術の向上に少なからず貢献したものと思われる。

「池田先生を囲んで」
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●最初にきのこの絵を書いたのは⇒キサケツバタケ
●白山の調査⇒家族総出で
●スッポンヤドリタケ⇒観察の帰り際に発見。最初は地面から突き出した指のように見え、気が動転してしまった。平静に戻らないまま写真を撮影したり、採取したりしたものだから何をしていたのやら、バスの時間にやっと間に合ったと思ったら…仮称が正式和名になっている。これは子嚢胞子が16個、キヌガサヤドリタケは8個…確認して貰いたい。
●好きなきのこ料理は⇒きのこは好んで食べない。きのこの研究を始めたのは子供たちとの約束であって、きのこが特別好きだからという訳ではない。好きなのは草花の栽培で、はやくきのことおさらばしてこちらをやりたい。
●現在、池田標本は全1885種の内、1400種が科学博物館へ移されることとなっているが、石川にはその標本番号の対比表は残そうと考えている。残りの485種をどうしようかと考えている。絵の残っていないものもあるし…