ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

大人になるにつれ、かなしく(50)

2017-01-01 23:32:55 | Weblog
山野氏の内定という言葉に嘘はなかった。僕はこれまで向き合ってきた患者たちの顔を、思い浮かべながら書き続け、そして最後に「この本を読んだ事は決してゼロになることはありません」とカウンセリング最終日に患者へかける言葉で結んだ。

タイトルは「すぐに使える認知行動療法」という案外、シンプルなものに決まった。新書サイズで初版5000部、9月に発売された。僕は白川さんの喫茶店に山野氏と有紗を招待し、ささやかな出版パーティーを催した。亜衣も3歳と1歳の子供たちを連れて、参加した。

「誠君も作家か。偉くなったねえ」

白川さんがからかうように言う。

「そんな大げさなもんじゃないですよ。売れてから言ってください」

僕は意外と冷静だった。出版まではこぎつけたが、読んでもらえるかどうかが大事で、それが難しいと思っていた。しかし、山野氏は言った。

「まだ発売まもないんで、はっきりした事は言えないんですが、感触はいいですよ。ネットでもリアル書店でも」

「山野さんはそう言ってくれるんですけどね」

こうした間にも、亜衣はカウンターに座る僕らの前に、料理やドリンクを次々と運んでいる。僕は山野氏のリップサービスと決め込んでいた。もう随分、アルコールも入っている。彼は続ける。

「坂木さん、本当ですよ。何の根拠もなく、期待させていたら売れなかった時、ショックでしょう」

白川さんが時計を気にしている。

「有紗ちゃん、遅いなあ」

「この喫茶店の場所、忘れちゃったんじゃないですか?あと樹々っていう店名も忘れてると思いますよ」

今度は僕が少し、からかってやった。

「いや、そんなはずはない。彼女にとってもこの場所は、青春の1ページとして残っているはずだ」

白川さんは真顔である。すでに9時を大きく過ぎていた。

「有紗さんに連絡してみましょうか?」

山野氏がようやく呂律をまわして言った。その時だった。入り口が開いた音がした。

「有紗ちゃん」

白川さんが満面の笑みを浮かべた。

「こんばんは。遅くなっちゃって」

有紗はこの場所を忘れてはいなかった。

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