Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

◆鍋島の化け猫騒動の基になった史実とは?

2017-09-30 13:00:58 | Weblog

江戸時代、大ヒットした芝居に、佐賀三十五万石の領主、鍋島家を舞台にした化け猫騒動の話がある。
そのあらすじは、鍋島の家臣、龍造寺又一郎が領主の鍋島丹後守光茂と碁を打った。
形成不利になった時、光茂は、又一郎が便所に立った隙に石を置き替えたが、そんなことに誤魔化される又一郎ではなかった。
言い争いになり、ムキになった光茂は、又一郎の首を刎ねてしまい、死体を井戸に隠した。
又一郎の母は、夜になっても帰って来ない息子を心配したが、何の手掛かりもない。
すると、又一郎が可愛がっていた猫が、又一郎の首をくわえて帰って来る。
すべての事情を察した母親は、その猫に鍋島家への無念の想いをぶつけた後、小刀で喉を突いて自害してしまう。
すると、猫は流れる血をなめているうちに、体が牛の様に大きくなり、又一郎の首をくわえたまま、姿を消したと謂う。

その直後から、光茂のもとでは、奇怪な出来事が相次いだ。光茂が夜桜見物を楽しんでいると、牛ほどもある猫の妖怪に襲われたり、側室のお豊が、池に飛び込んで魚を食べると云う奇行を繰り返す様になった。
やがて、お豊は化け猫の正体を現し、暴れ始める。
そこで、家臣の小森半左衛門が、決死の覚悟で立ち向かって仕とめると、光茂の病気は全快。
不気味な出来事もピタリと止んだと謂う。
それから、光茂は、又一郎の霊を慰め、龍造寺一家に対して目をかける様になったーーーと云うものである。

このストーリーには、基になった史実がある。
元々佐賀の領主だった龍造寺一族は、親戚の鍋島直茂に一旦実権を預け、龍造寺家の跡取り、高房が十五歳になれば、実権を返してもらう約束になっていた。ところが、高房が十五歳になっても政権は戻されない。このままでは実権は返って来ないと焦った高房が、江戸桜田の屋敷で鍋島直茂の子、勝茂に斬りかかったが、失敗。
割腹自殺をする。鍋島の化け猫騒動は、このお家騒動をベースに創作されたものである。

        

          




                                       呪い あなたの知らない不気味な世界
                                                     悪魔と心霊の大疑問③


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆小沢一郎を潰す団体だった? 『三宝会』

2017-09-30 07:06:59 | Weblog

*竹下登がつくった組織
 竹下登元首相は自民党の最大派閥「経世会」を率い、政界のドンとして君臨していた人物だが、
彼が長年警戒し続けていたのが同じ経世会出身の小沢一郎だ。
小沢は若い頃からメキメキと頭角を現し、47歳の若さで自民党幹事長となったが、その後竹下と対立し、経世会の分裂を機に自民党を離れている。その後、小沢はその政治手腕を活かし、野党をまとめて連立政権を樹立させるなど、自民党にとっては厄介な存在になって行った。
そこで1996年、竹下は大手メディアや大企業の幹部と結託し、自らが最高顧問となって「三宝会」と云う組織を設立したのだ。

*設立の理由は小沢を潰す為?
 長年、小沢と行動を共にして来た平野貞夫は、著書「わが友・小沢一郎」で三宝会の表向きの設立理由についてこう記している。「情報をいち早く正確にキャッチして、立場を異にする各分野の方々と円満な人間関係を築き上げて行く」だがこれは表向きの理由で、平野は、三宝会設立の真の狙いは自分たちの利権構造を壊そうとする者を排除することにあったとも主張している。政官財の利権構造にメスを入れようとしていた小沢は、彼らの標的となったというのである。

*大企業の社長やマスコミも参加する
 「永田町のフィクサー」と呼ばれた福本邦雄がまとめた三宝会の会員名簿には、大手電機メーカーの会長や、大手航空会社の社長、大手マスコミ幹部など、錚々たる面々が名を連ねている。
彼らが竹下を中心に、本気で小沢を叩き潰そうと画策したことを示す証拠は存在しない。もしかしたら本気に、ただ定期的に情報を交換をしていただけだったかも知れない。
しかし、三宝会の中心にいたのは、大の小沢嫌いだった政界のドン・竹下登である。情報交換をするうち、小沢の悪口で盛り上がることもあったはずだ。そしてそこから「剛腕」「強面」「壊し屋」「傲慢」「我がまま」「生意気」と云った、小沢のマイナスなイメージが創り上げられて行ったとしても何ら不思議ではない。事実、三宝会の世話人だった後藤謙次は、事あるごとに小沢のやり方を批判していた。尚、後藤は共同通信の編集委員だったが、後に「NEWS23」のメインキャスターとなり、現在は政治コラムニストとなっている。

*竹下の死と小沢の凋落
 小沢はその巧みな政治手腕を発揮し、1999年には再び自民党と手を組んで与党へ復帰する。その一方で、竹下は体調を崩し、2000年に他界した。
その後、小沢は民主党に入り、代表となり政権交代を目指した。
ところがその矢先、小沢の公設秘書が政治資金規正法違反で逮捕・起訴され、小沢は民主党代表の地位を辞した。
この時、マスコミは小沢が有罪であるかのように騒ぎ立てた。
だが、検察の資料には多くの捏造があったことが明らかになっている。
三宝会には小沢嫌いの大物が多数いたが、彼らが何らかの圧力をかけていた可能性もある。
民主党が政権交代を実現させると、小沢は党幹部に就任した。
この時期までは彼も「次の首相候補」として国民から支持されていたが、民主党政権への風当たりが強くなると、剛腕と称されていた小沢の政治手腕にも陰りが見え始める。そして2014年現在、小沢は生活の党の代表(2017年現在・自由党)となっている。
かつて自民党を政権から引き摺り降ろし、連立政権を打ち立てた時の再現を狙っていたようだが、2012年の衆院選で惨敗し、それも幻となってしまった。

画像 1999年、談笑する竹下元首相と小沢一郎

   2009年、会見の為に会議室に入る小沢
   この時には党代表辞任を否定したが、最後には辞任することになった

             




                                              本当に恐ろしい地下組織
                                                  日本国内にも存在していた組織


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アメリア・イアハート 女性初の大西洋単独横断飛行に成功した美しき飛行士 1897~1937)

2017-09-29 12:48:35 | Weblog

「高まる名声の中で」
アメリア・イアハートは、母親から自家用機を買ってもらって操縦を習ったという。
第一次世界大戦直後の女性にしてはかなり恵まれた経験をしていた。
また、医療関係の仕事に従事すると云う自立した生活も、新時代を生きる女性を象徴するものだった。
こんな経験が、彼女の大西洋横断無着陸飛行と云う快挙に結びつく。
1928年の飛行と同じコースを単独で飛んで成功する。
もちろん、それは女性初のことであり、これが彼女に多くの勲章と名誉をもたらした。
リンドバーグの手記を出版し、アメリアの記録達成に寄与したジョージ・パットナムとの結婚も、この飛行がきっかけだった。
以後、彼の後ろ盾で、彼女は数々の記録を作り出す。
その総仕上げが、アメリア四十一歳にしての世界一周飛行だった。
彼女は、1937年5月27日、最新鋭機ロッキード・エレクトラでオークランドを離陸し、6月1日のマイアミでの最終点検を経て東周りにコースをとった。操縦桿を握るのは彼女だが、ナビゲーターの男性も同乗した。
アフリカ、インド、オーストラリアと順調に飛行は続いたが、7月1日、ニューギニアのラエを飛び立ったアメリアの機は、目的地のハウランド島に到着せず、消息を絶つ。断続的な雨の中、通信機のトラブルも発生していて、12時30分の連絡が最後になってしまった。

その直後には、アメリカ政府に寄って400万ドルをかけた捜索が行われるも見つからず、
しなやかな体型をしたその美人飛行士は、今も尚、行方不明のままとなっている。

            

                                                  世界の「美女と悪女」がよくわかる本


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フリーダ・カーロ 苦悩と情熱を描いたメキシコ民族主義の象徴 (1907~1954)

2017-09-29 12:43:01 | Weblog

メキシコ民族主義の象徴とも云うべき女性画家フリーダ・カーロは、その強烈な個性と魂で、20世紀前半の激動のメキシコを逞しく生き抜いた女性だった。彼女は個性的なシュールレアリスムの作品を残しているが、それらはまるで、自分自身の現実を映し出したものでもあった。彼女の作品には、苦悩や絶望、そして、生きる事への情熱が込められていたのである。

 「幼くして背負ったハンディキャップ」
フリーダ・カーロの父は、ルーマニア出身のドイツ系ユダヤ人の著名な写真家ギジェロモ・カーロで、母は現地の女性だった。
フリーダは、そんな二人の間に生まれた三番目の娘だった。
明るく活発なフリーダを最初の不幸が襲ったのは六歳の時で、彼女は小児麻痺にかかり、片足を引きずる様になった。
そして、このコンプレックスは、彼女の人格形成にも大きな影響を与えてしまう。
父はそんな彼女に、メキシコの文化や教養を教え、十五歳になった時には、当時女性に門戸を開いたばかりの、メキシコ最高峰の高等学校へ入学させた。フリーダはそこで、次代を担う若者たちと活発に議論する、勝気で反逆精神の強い才媛に成長して行く。
また、学生仲間のアレハンドロには情熱的な恋心を注ぎ、更に壁画を描きに来ていた著名な画家ディエゴ・リベラにも魅せられて行った。だが、1925年、再び悲劇が起こる。
アレハンドロと一緒に乗っていたバスが事故に合い、彼女は骨盤が砕けると云う重傷を負ったのだ。
傷ついた体、苦痛、そして離れて行く恋人...。彼女は自画像を描き、それをアレハンドロに贈った。
絶望の中で、彼女はまるで魂の叫びを描くかの様に夢中になって絵を描いたのである。

「画家ディエゴ・リベラとの結婚」
やがて、知人の家でリベラと再会したフリーダは自分の作品を抱え、彼の門を叩いた。「私の絵の本当の批評を教えて下さい」。
そう率直に言う小柄なフリーダは、キリリとした濃い眉を持つ、およそ女性のたおやかさとはかけ離れた様な女性に成長していた。
だが、その知性と強い意志が漲(みなぎ)った直向(ひたむ)きな表情は、周囲に強烈な印象を残す個性的な美しさを持っていた。
リベラは彼女のオリジナリティ溢れる作品に感嘆し、しばしば絵を見に彼女の家を訪れる様になる。
そして1929年、四十二歳のリベラと二十二歳のフリーダは結婚した。
大物共産主義者としても知られる、腹の出た中年男の三度目の結婚と小柄な美女との組み合わせは、世間でも話題に上った。
彼女は結婚後、メキシコの民族衣装を身に纏う様になり、それが彼女の美しさをいっそう際立たせた。
ただ、お互いに愛していながらも、結婚生活は順風とは云えなかった。
流産、体の苦痛、アルコール中毒、夫の浮気、夫と自分の妹との関係、イサム・ノグチやトロッキーとの恋愛...。
特に、夫婦で政治的にも支援していたトロッキーの暗殺は彼女に打撃を与えた。
だが、彼女は絵筆を手放すことはなかった。まるで、壊れる心と体の思いをすべてぶつけるかの様に夢中で絵を描いた。
その後、彼女の絵の評判は次第に高まり、1938年には詩人アンドレ・ブルトンに認められてアメリカで個展を開いた。
高い評価を得た彼女は自信を得て、更に精力的に絵に取り組む様になる。
他方、彼女はやはりリベラを愛し続けていた。 彼とは一度離婚するものの、再婚。
たとえ彼が浮気癖のあるだらしない男であっても、才能豊かで、彼女のすべてを愛してくれる最愛の人だったのだ。
やがて、彼女は病に伏すことが多くなり、寝たままの状態で絵を描く様になった。
そして、リベラに結婚二十五周年を記念する指輪を渡した一ヵ月後に、静かに息をひきとった。

             

                                                     世界の「美女と悪女」がよくわかる本


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆怪談「皿屋敷」はどのようにして生まれた?

2017-09-29 06:08:43 | Weblog

お岩と並んで有名な幽霊と云えば、お菊である。
彼女が登場するのが、『皿屋敷』の物語である。
武家屋敷に仕えていたお菊は、ある日、主人の大事な皿を割ってしまう。
主人に激しく叱責されたお菊は、井戸に身を投げ、その後、屋敷にお菊の亡霊が出る様になる。
悲しげに「一枚、二枚、三枚.....」と皿を数え、九枚目まで来ると、「一つ足らぬ」と、泣き始める.....。

この怪談が映画化ドラマ化される時は、岡本綺堂が書いた『番町皿屋敷』がベースになっている。
そこから、皿屋敷事件の舞台は、東京・千代田区の番町だと思っている人が多い。
だが、これと全く同じ話が、『播州皿屋敷』『雲州皿屋敷』などと云う題名で、日本各地で語り継がれているのだ。
そして、それぞれの土地に、お菊が身を投げたとされる「お菊の井戸」が残されている。
日本各地に皿屋敷伝説があるのは、次の様な理由からだと謂われる。
皿屋敷事件が起きたとされる江戸の承応年間(1652~1655年)は、旗本の侍が下女に横暴な振る舞いをしたり、
虐待することが多かった。お菊の様に主人を怒らせて自殺したり、成敗された下女の数が少なくなかったのだ。
つまり、同じ時期に、似た様な悲劇が全国で起きていたと云うわけだ。

        

                                         呪い あなたの知らない不気味な世界
                                                        悪魔と心霊の大疑問③


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クレオパトラ 美貌を武器に国を守ろうとした古代エジプトの美女 (前69~前30)

2017-09-28 05:32:51 | Weblog

古代エジプトのプトレマイオス朝で最後の女王となったクレオパトラは、ローマの侵略から国を守る為にその美貌を武器にした。
最終的にはローマに屈するものの、ローマ軍を率いたカエサルとアントニウスと云う二人の将軍を虜にし、
王朝に最後の輝きをもたらしたその美しさは、世界中に広く知られた伝説となっている。

「カエサルとの劇的な出会い」
三頭政治の行われていた共和制ローマで、紀元前1世紀の半ば、
執政官のトップの座に就いたのがカエサルだった。
彼は、自分が追い落としたポンペイウスがエジプトに庇護を求めたのに乗じて、エジプトの征服を試みる。
その頃のエジプトは、幼いプトレマイオス13世の統治下。
父プトレマイオス12世の遺言では、姉クレオパトラと共同統治するはずだったが、彼女の為政者としての才や野望を恐れた高官たちは、彼女を廃位してシリアへ追放していた。
カエサルは、そんな内紛を口実にエジプトへ遠征したのである。
そしてクレオパトラは、カエサルがアレクサンドリアに滞在していることを知ると、彼を自分の味方につけてエジプト女王へ復帰しようと、彼のいる宮殿へ忍び込む画策をする。
クレオパトラとカエサルが手を結ぶことを、高官たちは何よりも恐れていたから、宮殿の警護は当然固い。
そこで彼女は一計を案じる。
クルクルと巻いた絨毯の中に潜み、その絨毯をカエサルへの贈り物として、彼の居間へ届けさせたのである。
絨毯を広げた中から、うら若き美女が現れた時のカエサルの驚きは容易に想像できる。しかも、それが「エジプト女王クレオパトラ」と名乗ったのだから、美貌に重ねた機知に彼が一目惚れしたとしても当然だろう。
ただ、彼女の家系はギリシア人の血を引いており、当時のローマ人の基準からすれば鼻が高過ぎる。また、肌の色も浅黒く、美女ではなかったのではないかとも謂われている。
しかし、それでもカエサルの心を惹くことが出来たのは、宮殿に侵入したアイデアに見られる様な、強い意志や知性の輝きと云った、内面から滲み出る様な美しさがあったからだ。
数カ国語を操り、科学や物理、音楽などにも通じ、巧みな話術で社交性を発揮した彼女に、ローマ女性には無い魅力を感じたのだろう。
その後、カエサルの助けで王座に返り咲いたクレオパトラは、彼との間に男児を儲ける。そして、ローマへ戻って独裁執政官となった彼に呼び寄せられ、エジプト女王でありながら、まるでローマ皇帝の妻の様に扱われる絶頂期を迎えた。


「アントニウスも骨抜きにする」
あまりの独裁ぶりに、遂にカエサルが暗殺されると、彼の後継者となったのがアントニウスだった。オリエントの支配権を手にした彼は、カエサルの死でエジプトへ逃げ帰っていたクレオパトラに出頭を命じる。
二十八歳になっていたクレオパトラは、この時にも、アントニウスの待つキュドノス川下流の町に、豪華な装飾を施した船団を組んで着飾って現われると云う、意表をついた訪問をしている。
元々彼女の虜になっていたアントニウスは簡単に籠絡され、アレクサンドリアまで彼女を追うと、ローマに妻がいながらもクレオパトラと結婚をする。更に、ローマの将軍として出征しながら占領地シリアやキプロス島などを彼女に贈るなど、まるでエジプト王でもあるかの様に振舞った。これをローマ側が快く思うはずがない。
アントニウスを三頭政治から外し、エジプトには宣戦布告を出した。
この戦いで、彼はエジプト軍を率いて出陣するが敗れ、自ら命を絶った。
そして、ローマ軍はクレオパトラを捕虜として連行し、祖国の偉大な二人の将軍を弄(もてあそ)んだことに対する罪を問おうとした。
その矢先、それを察した彼女は三十九歳と云う生涯を自ら絶ち、プトレマイオス朝は終焉を迎えた。

ローマ史上では、美しき悪女の様に謂われることも多いクレオパトラだが、国を守る為に、天賦の美貌や才知を十分に発揮した女性だったと云えよう。

             

                                                   世界の「美女と悪女」がよくわかる本


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆四谷怪談はどのあたりまでが実話?

2017-09-28 05:27:56 | Weblog

最も有名な怪談と云えば、やはり『四谷怪談』だろう。
夏のエンターテインメントに欠かせない素材であり、これまで何十回となく、ドラマ化されて来た。
その場合、原作となるのは、1825(文政8)年に初演された歌舞伎狂言、四谷鶴屋南北の『東海道四谷怪談』だ。
夫に裏切られて殺されたお岩が、恨みを晴らす為に夜な夜な化けてでるーーー実はこのストーリーは、鶴屋南北が一から創作したものではない。実話をアレンジしたものだ。
南北が、『東海道四谷怪談』を発表する約100年前、1727(享保12)年に、『四谷雑談集』と云う本が出版されている。
この本は、貞享から元禄時代(1684~1703年)にかけて、四谷周辺で起きた恐ろしい話を集め、実話を基に小説仕立てにした本だ。この本に南北の四谷怪談ソックリの話が登場するのだ。

主人公の二人の名前、お岩と伊右衛門も同じ。
伊右衛門がお岩を裏切る過程も同じで、夜な夜な怨霊となって化けて出て、それに悩まされた伊右衛門が自害するのも同様である。
ただ、大きく違う点が二つある。一つは、南北作品に出て来るお岩は、元々は美人で性格も好かった。
一方、『四谷雑談集』で描かれるお岩は正反対で、21歳で疱瘡にかかった為、伊右衛門と結婚した時は、すでに髪が抜け落ち、顔の皮膚が引きつり、片方の目が瞑れていた。而も、直ぐヒステリーを起こす性格の悪い女で、伊右衛門が愛想をつかすのも無理ない、と云う雰囲気に描かれている。おそらく、こちらの方が実話に近いと謂える。

もう一つの違いは、南北の作品では、お岩は伊右衛門に斬られて死んでしまうが、オリジナルの『四谷雑談集』では、お岩は自分から家を飛び出して、行方知れずとなる。その後、伊右衛門のもとにお岩の亡霊が現れる様になってから、ある山伏がお岩の霊を降霊して、「そなたはまだ生きているのか、死んでいるのか?」と聞いた。
すると、お岩は「私はこの世にいるかも知れないし、いないかも知れない」と答えている。
つまり、お岩は伊右衛門に殺されたかどうかは分らないのだ。
いずれにせよ、四谷怪談が、ある程度実話を基にしていることは間違いない様だ。

          

          




                                       呪い あなたの知らない不気味な世界
                                                      悪魔と心霊の大疑問③


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆日本最大の怨霊、菅原道真が引き起こした惨事とは?

2017-09-27 04:35:13 | Weblog

菅原道真と云えば、学問の神様。だが、菅原道真は、怨念の凄まじさでは日本一と謂われる「怨霊神」でもある。
ご存知の様に、右大臣まで上り詰めた道真の晩年は不遇だった。

謀叛を計画していると云う濡れ衣を着せられ、大宰府に左遷された挙句、二年後に呆気なく死んでしまった。
その直後から、道真の怨霊の仕業と思われる怪事件、怪現象が頻発する。
先ず、京の都で異常気象が続く。五年間に渡って、頻繁に雷雨が降り、落雷による火車騒動が何度も起きた。
九〇七(延喜七)年には、「道真が謀叛の計画をしている」と嘘を流した反道真グループのリーダー藤原時平の妹が急死。
翌九〇八年には、道真の弟子だったのに反道真派に寝返った藤原菅根が疫病で死亡。
その半年後、藤原時平が病死する。
九一三(延喜十三)年には、道真の後任の右大臣で、やはり反道真グループだった源光が変死。
九二三年、道真の復讐の手は、遂に天皇家に延び、藤原時平の妹を母に持つ皇太子・保明親王が、まだ二十一歳の若さで急死した。
この間、京の都はパニック状態で、「道真の怨霊を鎮めねば」と、平安京内裏の建礼門の前で大々的にお祓いをし、道真を右大臣職に戻した上で、大宰府左遷の詔を破棄した。
更に、元号も延長と変えた。
しかし、道真の祟りは、まだ収まらなかった。
九三〇(延長八)年六月二十六日、遂に大惨事が起きる。
朝から晴天だったこの日の午後1時、突然、黒雲が立ち上ったかと思うと、政府の中枢・清涼殿に落雷したのだ。
中に居た大納言の藤原清貫は胸を打たれ、右中弁の平希世は、顔を打たれて即死した。
而も、惨事を目撃した醍醐天皇は、ショックのあまり体調を崩し、三か月後に亡くなってしまったのだ。
道真左遷の関係者は、これで全員死亡した。
その後、京の都は天候も穏やかになり、怪しいことも起こらなくなったと謂う。
約三十年間に渡った菅原道真の怨霊による復讐劇は、ようやく幕を閉じたのである。


(画像・菅原道真、道真左遷後の図、『月百姿』より『月輝如晴雪梅花似照星可憐金鏡転庭上玉房香』、雷神となった道真の図)

           

         


                                           呪い あなたの知らない不気味な世界
                                                       悪魔と心霊の大疑問④



 

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アナスタシア 今も生存説が絶えないロマノフ王朝最後の皇女 (1901~1918頃)

2017-09-27 04:29:49 | Weblog

ロシア・ロマノフ王朝ニコライ2世の皇女アナスタシアは、1917年のロシア革命の翌年、両親や兄弟と供に処刑されたと謂われている。だが、その一方では彼女の生存説も囁かれ、アナスタシアと名乗る人物も登場した。
彼女が語る数奇な運命は多くの人々の注目を浴びたが、今尚真相はベールに包まれたままだ。

 「ロシア・ロマノフ家の末娘」
アナスタシアは、ロシアのロマノフ王朝の皇帝ニコライ2世と、イギリスのヴィクトリア女王の血を引くアレクサンドラ皇后の四女として生まれた。彼女は小柄で愛くるしく、灰青色の瞳が美しい皇女だった。
ニコライは皇帝としては威厳に欠けていたが、良き父で、四人の娘と一人の皇太子に恵まれた一家は、皇太子が血友病であることを除けば幸福そのものだった。だが、20世紀のロシアは内政不安が噴出し、各地で暴動が勃発、ロマノフ一家の周辺にも不穏な足音が近づいていた。
やがてそれは革命に発展し、1917年3月にニコライは退位、ロマノフ王朝も崩壊する。アナスタシアの身上も激変した。
一家はエカチェリンブルクの館に軟禁され、彼女は自分の運命を知るすべもなく、姉たちと無邪気な毎日を送っていたが、翌年7月、一家は地下室に呼ばれ、革命軍に寄って全員銃殺となる。アナスタシアも、もちろんその中に含まれていた。
だがその直後から、一家の皇女たちの処遇を巡る奇妙な噂が囁かれることになる。何と、彼女らが生存していると云うのだ。
ソビエト政権がロマノフ家以外は他へ移したと発表したこと、或いは国内の混乱がそんな噂を作り出した様だが、悲劇の皇女の物語は、その後も多くの人々の興味をかき立てて行った。

「アナスタシアを名乗る女性の登場」
生存説が駆け巡る中、末娘のアナスタシアだと名乗り出る者が続出する。これは、後に幾つもの映画や小説になったが、
なかでも世間の話題をさらったのが、1920年にベルリンで自分はアナスタシアだと名乗った女性、アンナ・アンダーソンだった。
彼女は死ぬ間際まで自分はアナスタシアだと口にしていた。
話に寄ると、彼女は姉の陰になって死を免れた、そして、一兵士の助けで逃亡し、その兵士の子を産むが、やがて彼は死亡。
彼女は親戚のイレーネ王女に助けを求めて単身ベルリンに渡ったものの、絶望して橋から身を投げたと言うのだ。
彼女はやつれ果て、以前はふくよかだったその面影を見出すことはできなかったが、耳の形やホクロの位置など、身体的に酷似している点もあった。そして何より、アナスタシアでなければ知り得ない一家の記憶を話したことから、彼女こそがアナスタシア本人だと信じる者も現れた。
しかし、自称アナスタシアの存在とその数奇な運命は、ヨーロッパの王室も巻き込み、賛否両論が入り乱れた。
やがてアンダーソンは熱心な信奉者に支えられ、司法の場にこの決着を持ち込んだが、長い裁判でも白黒をはっきり着けられないまま終わりを告げた。
しかし、半世紀以上世間を賑わせたこの問題も、20世紀末になってようやく解決へ向けて新たな道を歩み始める。
1998年に、ロシア政府に寄って皇太子と第三皇女マリア以外の遺骸は確認できたと発表されたのだ。つまり、アナスタシアの遺骸もあったと云うことになる。しかも、すでに故人となったアンダーソンもDNA鑑定からポーランド系ドイツ人の女性だと判明し、アナスタシア本人ではなかったと云う判断が下されたのである。
こうして、アナスタシアはあの薄暗い地下室で両親と一緒に銃殺されたと結論付けられた。
だが、アナスタシアの生存説を信じる人々は、見つからない二体の遺骨のうち、一つはマリアではなく、アナスタシアではないかと唱えている。果たして、アナスタシアはいったい何処に行ったのだろうか。
もし、彼女が地下室で殺されずに、その後も生存していたとしても、もうすでに百歳を超えていることになるが...。

             

          
                                                       世界の「美女と悪女」がよくわかる本


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

征夷大将軍だった坂上田村麻呂は蝦夷討伐後に自宅を寄進 後に清水寺となる

2017-09-26 04:29:52 | Weblog



*征夷大将軍として蝦夷の征討を成し遂げる

桓武天皇の時代以降、朝廷は稲作に適した土地を有する東国へ、支配の手を伸ばし始めた。
これに抵抗したのが、縄文以来の狩猟生活を送る蝦夷である。
この蝦夷討伐に大きな功績を残したのが、坂上田村麻呂(758~811年)だった。
789年、紀古佐美(きのこさみ)の率いる征討軍が、阿弓流為(アテルイ)の率いる蝦夷軍に大敗を喫する。
すると朝廷は、791年に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を征東大使に任命し、出征。この時、征討副使の一人に選ばれたのが坂上田村麻呂だ。副官ながら中心的な活躍を果たしたと謂う。この活躍を見込まれ出世を続けた田村麻呂は、797年には征夷大将軍に任じられている。そして801年には阿弓流為を降伏させ、蝦夷討伐を完了させた。
**************************************************************************
*妻と共に仏法に帰依し 自邸を清水寺の本堂に

坂上氏は渡来系の一族で、その祖は後漢の霊帝であると謂う。
百済から日本に帰化した阿知使主(あちのおみ)より、日本有数の氏族としての家系が始まる。代々弓馬に優れていたが、
中でも出色の人物が田村麻呂であった。
身長五尺八寸(約171㌢)、胸の厚さ一尺二寸(約35㌢)、体重二〇一斤(約132㌔)と云うから、見た目もかなりの偉丈夫だ。
更には目は蒼鷹の如く、髭は金色だったと云う伝承も残っている。
こうした偉丈夫然とした容貌とは異なり、田村麻呂の戦略は、ただ力だけに頼ったものではなかった。武力を誇示する一方で、治安の回復と民心の安定に努め、帰順する者の生活を担保してやることで、朝廷の威光を示したのだ。
田村麻呂は無益な殺生を好まず、敵に対する礼も知っていたが、そこには仏法への帰依もあったと想像される。
例えば、次の様な逸話が残されている。
780年、田村麻呂は妻・高子の安産祈願の為、鹿の血を求めて音羽山に登ったことがあった。山中に一筋の美しい水の流れを見つけた田村麻呂は、水源を求めて歩くうちに、清水寺を開創した賢心(後の延鎮上人)の草庵に辿り着く。
この時賢心は、鹿狩りにやって来た田村麻呂に対し、殺生の罪を説き、観世音菩薩の教えを諭したと謂う。感銘を受けた田村麻呂は、帰宅後に賢心との一件を妻に話し、仏法に帰依した。
そして、自邸を本堂として寄進することを決め、十一面千手観世音菩薩を本尊として安置することが決められた。
これが清水寺創建に纏わる縁起である。
**************************************************************************
*死後も墓の下から朝敵に睨みを利かせる

英雄的な活躍をした田村麻呂だけに、東北地方を中心的に、多くの伝説が残されている。寺社建立の縁起も各地にある。
ただし、そのほとんどは信憑性が薄いものだ。
信頼できる話として晩年には、当時十二歳であった孫の葛井(かさどい)親王が、嵯峨天皇の御前で弓を射る余興を行なったところ百発百中だった為、田村麻呂は喜びの余り親王を抱いて舞を踊ったと云う逸話が伝わっている。親バカならぬ、祖父バカな一面である。

さて、武人が活躍するのは外敵との戦いに限らない。
内戦にあっても、その武威を示す機会は巡って来る。810年、平城上皇と嵯峨天皇の対立が激化し、政変が起きる。薬子の変だ。
この時田村麻呂は嵯峨天皇側に立ち、乱鎮圧に功績を挙げた。
これにより正三位、大納言兼右近衛大将兵部卿の官職を与えられている。
依然、健勝なところを見せた田村麻呂だが、死は直ぐそこに迫っていた。
薬子の変の翌年となる811年5月23日、五十四歳で病死。死後、従二位を贈られた。

田村麻呂の死を惜しまれた坂上家は、墓地として三町の土地を賜っている。
墓所の確定はされていないが、京都の山科区にある西野山古墓ではないかと推定されており、また、同じく山科区の勧修小学校の北にも、田村麻呂の墓とする石碑が建っている。
遺言により、死後も平安京を守護する為、金の鎧に太刀を帯びた姿で、鬼門を向いて埋葬されたと伝えられる。



(画像・幕末の絵師・菊池容斎によって描かれた伝記集『前賢故実』の挿絵)



*まとめ
 平安時代を代表する英雄は、仏門の世界でも伝説を残す

      

      




                                          「その後」の日本史
                                                栄華を極めた天下人たちの「その後」


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おうの 高杉晋作を陰で支えつづけた貞女 (1843~1909)

2017-09-26 04:26:50 | Weblog

幕末の志士高杉晋作とおうのが出会ったのは、1863(文久3)年、晋作が奇兵隊を組織した年。
晋作二十五歳、下関の芸妓『此の糸』、即ちおうのは二十歳だったという。彼女は、大坂または萩の商家出身とされるが、
実家が没落した為遊女になったという。晋作は彼女を身請けし、下関の南部町に妾宅を構えた。

晋作は多忙で、突然出て行ったきり何カ月も帰って来ないこともあったが、
かと思えば四国に逃れる際に、おうのを同行したこともある。
一度は妻雅子が萩から乗り込んで来て、妻と妾の間で困り果てた晋作が長崎に逃げ出したと云うこともあった様だが、
どんな時も、おうのは晋作を慕い、一人で健気に留守を守った。
しかし、蜜月は長くは続かなかった。
晋作は持病の肺結核が悪化して寝込んでしまう。
おうのは彼を献身的に看病したが、妻雅子が息子を連れて駆けつけ、おうのは妾宅に戻る。
そして晋作は、1867(慶応3)年、維新を目前にして没した。

その後もおうのは浮名を流すこともなく、剃髪して梅処尼(ばいしょじ)となり、晋作の墓所東行庵で菩提を弔う余生を過ごした。
晋作が死して尚、彼に仕え続けたのである。

              

                                                世界の「美女と悪女」がよくわかる本


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴィクトリア女王 日の沈まぬ国を作り上げた大英帝国の女王 (1819~1901)

2017-09-25 05:04:40 | Weblog

「ヴィクトリア時代」「ヴィクトリア様式」など、彼女の名を冠したものが数多くあることからも分る様に、ヴィクトリア女王がイギリス王室に君臨していた頃は、それまでのイギリス史上でも最も輝きを放ち、かつ安定した時代だった。

 

「夫アルバートへのひたむきな愛」
ヴィクトリアは、ジョージ3世の四男ケント公エドワードと、ザクセンのコーブルク家から嫁いだ母との間に生まれた。
本来なら、王位継承には程遠い存在だったヴィクトリアだが、ジョージ3世の跡を継いだ二人の伯父、ジョージ4世、ウィリアム4世共に後継者がおらず、エドワードも彼女が幼児の時に亡くなっていた為に順番が回って来たのだ。ヴィクトリア、十八歳の時のことだ。
独身で即位した彼女は、二十一歳で結婚する。
相手は母の出身国であるザクセン=コーブルク家一族のアルバート公子で、ヴィクトリアとは同い年のいとこと云う関係に当たる。当時は、身分の低い者が女王に対して求婚することはできなかったので、プロポーズはヴィクトリアの方からしたことになっているが、実際には、ヴィクトリアの熱愛に寄って成立した結婚だったという。
即位当初、女王はウィリアム・ラム首相のい助言に寄って政治を行っていたが、アルバートと結婚してからは、夫がヴィクトリアの良き指導者となった。
ヴィクトリアの治世下が議会制民主主義のお手本の如く謂われるのは、夫アルバートが女王を教育したからだった。ともすると政治家の好き嫌いが激しかったり、外交政策で親ドイツの立場で干渉したりするヴィクトリアに、立憲君主制や二大政党制の本当の意味と意義を教え、諭したのである。

私生活でも、一人娘として育てられたヴィクトリアの我がままが目立ち過ぎたり、他人を思いやることを忘れがちなのを、君主として恥ずかしくない女性に正し、決して驕らない、質素な生活に徹底させたのもアルバートだった。
二人が結婚して間もない頃のアルバートは、外国人で英語も苦手だったことから、社交が不得手であまり良い評判が得られなかった。それが、女王のパートナーとして、真面目で誠実な人柄が周囲に理解されるにつれて、徐々に評価を高めて行った。
ヴィクトリアもそれを十分に承知していて、四十二歳の若さで夫が亡くなった時には深く嘆き悲しみ、「私の人生は終わった」と言って宮殿に引きこもってしまい周囲を心配させたが、アルバートが教えた君主としての精神が、女王を蘇らせた。



「イギリス史上最長の在位」
アルバートは、亡くなる十年前に開かれた1851年の第一回万国博覧会を企画し、イギリスの国力を世界に示す、またとないチャンスを作っていた。そして強固な海軍を所有し、進んだ工業で生産力を高めながら、植民地を広げ、世界をリードするイギリスの姿を目の当たりにさせたのだった。
アルバートの死を乗り越えたヴィクトリアは、彼の生存中にも増して堅実に政治に取り組み、イギリス国内では普通教育法や労働組合法などの制定に漕ぎ着け、外交面でも自分が皇帝となってインド帝国を成立させている。この帝国主義政策は、後に抵抗運動や独立運動を生む火種となるものではあったが、この時代においては間違いなくイギリスの栄光の象徴だったと云える。
また、ヴィクトリアとアルバートの間には九人の子ども達が生まれているが、それぞれがヨーロッパ各国の王家と婚姻関係を結び、イギリス閨閥ともいえる家系が形づくられて行った。

1901年、八十一歳でヴィクトリアは没するが、十八歳で即位してからの六十四年に渡る治世はイギリス史上最長であり、日の沈まぬ国としての繁栄期だった。そして彼女は、後に起こる第一次世界大戦で彼女の子孫同士が対立する構図が生まれ、国の繁栄に影がさして行くのを知らぬまま、この世を去ったのだった。

             

            




                                                    世界の「美女と悪女」がよくわかる本



画像・ヴィクトリア女王と、夫のアルバート




秋明菊(Japanese anemone) Anemone hupehensis 薄れゆく愛 忍耐

今年は、この色の秋明菊しか持っていないけれど、よく咲いてくれています。
また、あっちこっちと増えてもいる。可愛いよね。(。◕ ∀ ◕。)


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キリストが日本に!? 青森県のイスキリス・クリスマスの墓

2017-09-24 07:26:17 | Weblog

イエス・キリストは、ゴルゴタの丘で磔刑にされて、生涯を終えた。
ところが、日本に、イエス・キリストのものと思われる墓があることをご存知だろうか。場所は青森県の新郷村。
人の背丈よりも大きな十字架が突き立てられた土饅頭があり、これがまさにイエス・キリストの墓だと言うのだ。
雄略天皇に仕えた平群真鳥(へぐりのまとり)の子孫とされる竹内家に伝わっている竹内文書に、そのすべてが書かれている。

竹内文書によれば、ゴルゴダの丘で処刑されたのは、キリストの弟であるイスキリ(弟の墓も青森県にある)。生き延びたキリストは、日本に渡って青森に辿り着き、そこを第二の人生の住まいとしたと謂うのだ。新郷村には、ユダヤのシンボルであるダビデの星を家紋とする一族がいたり、生まれた子どもが初めて家の外に出る時に、額に墨で十字の印を着ける風習があったりするなど、キリスト教との奇妙なリンクが見られる。
更に、新郷村の旧名は戸来村(へらいむら)。まさか、ヘブライが転じて戸来村に...?
しかし、この様な突飛な発想からも分る通り、竹内文書には正史とされる確証はどこにもない。
竹内文書を公開した竹内巨麿が、自身の新興宗教の為に捏造したと云うのが通説である。

この様に、散々な風評を受けているキリストの青森落ち延び説だが、現地にはキリスト祭りやピラミッド型の遺跡などがあり、中々の賑わいを見せている。観光目的で訪れるのも一興かも知れない。

  

                                    「その後」の日本史
                                          歴史に名を残した偉人たちの「その後」コラム①




ゼラニウムがいっぱい咲いている様は、幸せの象徴の様な気がするんですね。(*´∀`*)


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エリザベス1世 イングランドを大国にのし上げた奇跡の処女王 (1533~1603)

2017-09-24 07:21:28 | Weblog

イングランド・テューダー朝とアイルランドの女王。
四十年以上に渡ってイングランド女王として君臨したエリザベス1世は、国内の宗教問題や内政をよく治め、対外的にも諸外国と渡り合い、大英帝国の基礎を作り上げた。国民から「良き女王」と慕われ、また、生涯独身だったことから「処女王」とも呼ばれた。

「アン・ブーリンの子として生まれる」
エリザベスの父はヘンリー8世、母は第二王妃アン・ブーリンである。
だが、国王の娘として生まれながらも、彼女には出生時から波乱に満ちた境遇が待ち構えていた。
ヘンリー8世は、前王妃とローマ教会を脱退してまで離婚を強行し、アンと結婚したものの、エリザベスが二歳の時、アンに不倫の罪を着せて処刑してしまった。そして、エリザベスも異母姉メアリーと同じ様にプリンセスからレディーへ、つまり、庶子へと落されることになる。ただ一つの救いは、再興の教育を与えられたことだった。
彼女はメアリーと共に住んでいた様だが、自分の境遇に負けることなく、スペイン語、ギリシア語など数カ国語を習得して、教養を身につけることを怠らなかった。六歳の時には、父からの贈り物の使者に対し、すでに貴婦人の様な作法で対応したと褒めそやされた記録が残っている。
だが、彼女の過酷な運命はこれで終わらなかった。
父の死後は、エリザベスの弟、更にはメアリーが即位したが、エリザベスは何度か謀反に巻き込まれ、側近を失った。更には、彼女自身もロンドン塔に幽閉されると云う憂き目に合う。
まさに薄氷を踏む思いだったに違いないが、それが彼女に生きる術を身につけさせ、彼女もそれを学び取る聡明さを持ち合わせていた。こうして、エリザベスは忍耐強く思慮深い女性に成長して行った。

「姉メアリーの死に寄って即位」
エリザベスに転機が訪れたのは、1558年、姉のメアリーが病死したことからだった。彼女の死に寄り、遂に王位が回って来たのだ。赤茶色の髪に理知的な褐色の瞳を持った二十五歳の彼女は惚れ惚れする程気高く、国民はこぞって新女王の誕生を喜んだ。
だが、エリザベスの前途は多難だった。
国内は旧教と新教に分裂し、疲弊しきっていた。対外的にも、フランスやスペインに利用されていた弱小国イングランドの舵取りは容易ではなかった。しかし、自分を律することができ、現実的に対処する力量を持った彼女は、その辣腕ぶりを発揮してイングランドを大国へと導いて行く。
国内で懸案事項だった宗教問題では中立的な立場を貫き、国内の平和を取り戻した上、国内をまとめる求心力も抜群だった。
彼女が大衆の前に姿を見せ、親しく触れ合うと、彼女の美しさと優しさが大衆の心をたちどころにに捉え、国内はよくまとまった。
そんな女王の治世の中でも一番輝かしい功績は、宿敵スペインの無敵艦隊を打ち破ったことだろう。両国の関係が一触即発になっていた1588年、英仏海峡に姿を現した無敵艦隊を相手に、イングランドは勝利を治めたのである。危機を脱したイングランドは逆に制海権を掌中にし、遂に大国への道を切り開いたのだった。
エリザベスは生涯独身で「処女王」とも呼ばれたが、結婚を望んだ恋人がいなかったわけではなかった。しかし、彼女は恋に溺れることなく、常に女王として生きる道を選び、独身と云う立場を利用して諸外国からの求婚を逆手に取るなど、強かさも併せ持っていた。
最後まで女王であり続けたエリザベスは、その後、国民に愛されながら七十歳の生涯を全うしたのだった。

             

                                                    世界の「美女と悪女」がよくわかる本


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アン・ブーリン 無実の罪で断頭台に散った悲劇の王妃 (1507頃~1536)

2017-09-24 07:17:27 | Weblog




イングランド・テューダー朝ヘンリー8世の第二王妃アン・ブーリンは、自らの魅力で国王の心を捉え、前王妃を押し退けてその座に就く。だが皮肉なことに、その王妃の座が彼女に悲劇をもたらすことになる。
結婚僅か三年で彼女は夫から無実の罪を着せられ、処刑されてしまうのだ。いったいそこには何があったのだろうか。

「ヘンリー8世との結婚」
ロンドン生まれのアンが、三年間のフランス宮廷での生活を終えてイングランドに戻って来た時、見違える様に洗練された、艶やかな女性にへんぼうしていた。それが、人生の大きな転機となるとは、彼女自身も思わなかったに違いない。
アンはロンドン郊外ケント地方の城で、フランス大使も務めたトーマス・ブーリンの次女として生まれた。
幼少の頃から聡明の誉れ高く、楽器の演奏をよくし、外国語も学んでいたと云う。姉と共にフランスに渡り、フランス王妃に仕え、ヨーロッパ風のマナーやファッションセンスを身につけて帰国した時は十五歳だった。やがて、アンはイングランドのキャサリン王妃に仕えるが、彼女の艶やかな黒髪、魅力的な瞳、洗練された雰囲気に加え、男を虜にして止まない不思議な魅力がたちまちヘンリー8世の心を捉えた。
だが、アンは直ぐにヘンリー8世の求愛を受け入れなかった。
姉メアリーが彼の愛人になっていたと云う理由の他、愛人のままで終わるのが嫌だったからである。ただ、この焦らしが結果的にヘンリーの心に火を着ける。彼は、キャサリン王妃に代えてアンを王妃にすると約束し、二人は恋に落ちた。
しかし、キャサリンの親戚にもあたるローマ教皇は離婚に同意しなかった。そこで、ヘンリーはアンが妊娠したこともあり、彼女の子を庶子のままにするわけには行かないと、遂にローマ教会から離脱し、キャサリンとの離婚を強行する。
宗教改革を行ってまでアンを王妃に迎えたのである。
こうして、6年越しの愛を実らせたアンだったが、王妃の座は決して平穏なものではないことを、この時に知るよしもなかった。

「でっち上げられた不倫の果てに」
ヘンリー8世がアンを王妃に迎える為強硬手段に出たのは、もちろん彼女を愛していたからだが、男児が欲しかったと云う理由もあった。彼はキャサリンとの間にメアリー王女しか子を儲けておらず、自分の跡継ぎを熱望していたのだ。しかし、アンが産んだのは女児エリザベスだった。そして、落胆したヘンリーの心は次第に他の女性へと移って行く。
ただ、まだ若いアンには男児を産む道が残されていた。皇太子の母になれば王妃の座も安泰で、ヘンリーの心も戻って来るに違いないと彼女は望みをつなぐ。だが1536年、彼女はヘンリーの愛人問題が原因でヒステリーを起こし、せっかくの男児を流産してしまう。その時彼女の心を過ったのは前妃キャサリンの悲しい運命だったに違いない。しかし、現実はそれよりもっと残酷だった。
と云うのも、その年の五月、アンは姦通罪で逮捕されてしまったのだ。彼女は兄を含めた五人の男と密通し、国王の命を奪おうとしているとの根も葉もない罪状を突きつけられ唖然とする。この件は、離婚に懲りていた国王と側近たちがアンを厄介払いする為に仕組んだ陰謀なのは明らかだった。
裁判も形式だけのもので、彼女は兄たちが処刑された数日後、二十九歳と云う若さでロンドン塔の処刑台の露と消えた。
そして、最後に彼女に与えられたのは、国王を誑(たぶら)かした不埒(ふらち)な女と云うレッテルだけだった。
ヘンリー8世が愛人ジェーン・シーモアと結婚したのは、それから僅か十日後のことだったと云う。

             

                                               世界の「美女と悪女」がよくわかる本

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする