Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

◆とんちを利かせた一休の訓え 一休さんの奇行は仏教の伝統の為!?

2021-09-30 04:32:37 | Weblog

●仏教での禁止行為を繰り返し......
 一休さんの愛称で知られる臨済宗大徳寺派の禅僧・一休宗純。一休さんといえば、大きな目にクリクリ坊主、機転の利いた可愛い小僧が目に浮かぶが、実際には風変わりな格好を好み、奇言奇行を繰り返す、相当な変わり者だった。
一休は僧でありながら木刀を差して街を歩き回り、仏教で禁じられている飲酒や肉食、また女犯も平気で犯した。而も隠れてするのではなく、公然とである。だが、一休が敢えて衆人たちの目に触れるように破壊行為をしたのには、或る狙いがあった。一休がただの変人で終わらなかった理由があるのだ。
●変態行為が共感を呼ぶ!?
 当時、京都五山の禅僧たちは権力に阿り、五山文学などに現を抜かす風潮が蔓延。仏教の形骸化が懸念されていた。また、表面だけはイイ顔をして裏では堕落・退廃した生活を送る虚飾や偽善に満ちた禅僧が増え始めていたのである。こうした状況を目にした一休は、自身が乱れた行為を人目に曝すことで、堕落した禅僧たちを痛烈に批判したのである。そして、このままでは仏教が風化してしまうということを、身をもって僧たちに知らしめたのだ。
少し間違えば変人とも思われかねない行動を、仏教の伝統を守る為に堂々と行なった一休。この形式に囚われない人間性が民衆の共感を呼び、後にかの有名な「一休頓智話」を生み出したのである。
●一休最期の言葉 「死にとうない.....」
 1481年、一休は臨終の際にこのように言ったと伝えられている。生涯を全うした一休の気持ちがよく伝わる一言だ。


    
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◆自分の評判より国益を優先した才女 日野富子は本当に悪女だったのか!?

2021-09-26 03:56:07 | Weblog

●富子悪女説、その根拠とは......?
 歴史上の悪女といえば日野富子だろう。室町幕府8代将軍足利義政の正室だった彼女は、夫を蔑ろにして政治に口を挟み、金儲けに目が眩んだという。そんな「富子悪女説」の理由に挙げられるのが、先ず「大名への高利貸し」だろう。応仁の乱の最中だったというのに、彼女は敵方の大名にさえ平気で金を貸していたという。そして、もう一つの理由が「関所の設置」である。土御門内裏の修理を名目に京都の入り口7か所に関所を置き、民衆から徴収したのだ。彼女は何の為に金儲けに奔走したのだろう?通説では、彼女は儲けた金で贅沢三昧の生活を送ったと言われる。『大乗院寺社雑事記』でも「内裏の修理とは名ばかりで、富子は私腹を肥やすばかり。人民にとって迷惑この上なし」と厳しく批評。だが、これを記したのは富子の兄・勝光と対立関係にあった大乗院門跡・尋尊。決して公正な記録とは言えないだろう。
●将軍、義政は愚夫だった!?
 特筆すべきは夫・義政について。銀閣寺の創設者として知られる義政は大邸宅や庭作りに没頭し、政治に背を向け続けたという。その為、応仁の乱を終結させることも儘ならず、実行力のある富子が政治を取り仕切るしかなかった.....という説もある。政治運営には資金が必要。富子は国の為に金策に奔走せねばならなかったのだろう。悪人として批判されるべきは、実は彼女ではなく義政なのかも知れない。


   
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友禅菊(New York aster) Symphyotrichum novi-belgii 後知恵 老いても元気で

2021-09-25 04:12:01 | Weblog

 


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◆京都から始まり全国規模の大混乱に! 何故、応仁の乱は10年間も続いたのか?

2021-09-25 04:01:09 | Weblog

●停戦のチャンスは3度もあった!?
 応仁・文明の乱は将軍家の継嗣争いをはじめ、室町時代管領・細川勝元と山名宗全の対立や、守護大名家の継嗣争いが複雑絡み合って起こったもの。京都を中心とした戦闘は次第に全国へと拡大、戦いは延々と続き、終戦を迎えたのは10年も後のことだった。実は、10年の間には何度か停戦のチャンスがあった。開戦の後、次期将軍に義政の子・義尚の就任が決まり、戦乱が起きた理由の一つでもある「将軍の継嗣争い」に決着がついたのである。だが義政には政治力がなかった為、戦いはそのまま続行することに。
1472年、また停戦のチャンスがやって来た。山名宗全が和平提案を申し出たのだ。だが東軍の一人が猛反発。室町幕府はたった一人の抵抗さえも抑えることができず戦闘は続くこととなる。
最後のチャンスは1473年。細川勝元と山名宗全が死亡し、将軍も義尚に変わった。しかし、またも守護大名らの反発を受け、和平交渉は失敗に終わってしまったのである。
●目的を見失ったまま戦乱続行
 このように応仁・文明の乱は、途中から戦う目的も曖昧になったまま収拾がつかなくなり、11年間もズルズルと戦い続けることになったのである。この余波で京都の民家はほとんど焼け、貴重な文化財も失われてしまった。将軍の継嗣争いから始まったこの戦いの一番の犠牲者は、実は何も関係の無い京都の民衆たちなのかも知れない。


   
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金木犀(Fragrant olive) Osmanthus fragrans var. aurantiacus 謙虚 気高い人

2021-09-24 14:24:00 | Weblog

 


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◆見果てぬ夢を追いかけて...... 将軍・足利義満の夢は足利王国建設だった!?

2021-09-24 04:17:15 | Weblog

●息子を使って将軍・天皇を独占
 室町時代の3代将軍・足利義満。強大な勢力を持った守護大名たちを弾圧して、室町幕府の基礎を固めた人物とし有名だが実は彼は将軍という器を遥かに超えた壮大な野望を持っていたという説がある。
それは将軍と天皇の二つの権限を併せ持つ、日本国王になることだった。予てから天皇の位に執着していた彼は、息子の義嗣を天皇にしようとしていた。義嗣の兄・義持に将軍職を継がせ、義嗣が天皇に即位すれば、将軍・天皇ともに足利家のものになるからだ。私的儀式を全て朝廷の儀式に準じて行ない、正室の日野康子を天皇の准母とした。これにより義満の子供は天皇の准兄弟となり、後は後小松天皇から義嗣に皇位を譲ってもらうのを待つのみ。根回しは完璧だった。
●明の皇帝からも認められていたが......
 更に義満の計画を裏付ける証拠として、1402年に明の建分帝から贈られた国書が挙げられる。そこで建文帝は義満のことを「日本国王源道義」と表記していたのだ。これは建文帝が義満を日本国王と認めていたということである。だが、義満は息子を天皇の猶子とした直後に急死してしまう。死後、義満の取った措置は子の義持によって改められ、義満への太上天皇贈位は辞退された。この死を義持陣営の暗殺と見る説もあるが、決定的な証拠はない。野望は寸でのところで水泡と化したのだ。
●知っておきたい用語集
 『准母』 天皇の生母でない女性が母に擬されること。また、母に擬された女性のことを指す。本来、皇室の中から選ばれるが、義満の正室・日野康子のケースのように例外もある。
 『猶子』 他人の子供を自分の子として親子関係を結ぶこと。養子とは違って契約関係によって成立している。また、子の姓は変わらず親子関係の結ぶ付きは弱い。


  
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撫子( Dianths) Dianthus superbus 無邪気 純愛

2021-09-23 15:43:50 | Weblog

 


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萩(Lespedeza) Lespedeza spp. 思案 内気 柔軟な精神

2021-09-18 10:25:58 | Weblog

 


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◆女好き天皇がハマった傾城傾国の美女 後醍醐天皇が愛した阿野廉子は魔性の女

2021-09-17 03:52:12 | Weblog

●妻の侍女に惚れて......
 建武の新政を行なったことで有名な後醍醐天皇は、無類の女好きだったようだ。記録に残っているだけでも妻は18人、産ませた子供は30人以上と言われている。そんな後醍醐天皇に最も愛され、一時は彼の寵愛を独り占めしていたのが阿野廉子(あの れんし)である。
廉子は1319年、礼成門院という女性が後醍醐天皇の中宮として入宮した際に、侍女として同行した。その時、廉子は19歳と当時にしては若くはなかったが、直ぐに礼成門院を差し置いて後醍醐天皇の寵愛を受けるようになる。醍醐天皇は廉子にゾッコンで、いつも廉子を傍らに置いた。そして次第に政務を怠るようにすらなったと言う。
●無理矢理にでも我が子を世継ぎに......
 後醍醐天皇は廉子に「三位局」という位まで与えて重用した。廉子は後醍醐天皇との間に恒良親王・成良親王・義良親王と3人の皇子を産む。廉子が長男の恒良親王を産むまでに、後醍醐天皇には4人の皇子が先に産まれていた。しかし廉子は自らの子供をどうしても世継ぎにしようと、巧みに立ち回ったようだ。皇太子の最有力候補だったのは、元弘の変など後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕運動で活躍した腹違いの兄・護良親王だった。ところが実際に皇太子に任命されたのは廉子の長子である恒良親王。これを発端に始まった護良親王と廉子の政権抗争は、後醍醐天皇の建武の新政が挫折した原因の一つと言われる。
●知っておきたい用語 「建武の新政」
 後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ばした後の1333年、「天皇自ら政治を行なう」として開始した政治体制。武士層の不満を買ったことなどから足利尊氏が謀反し、1336年には政権が崩壊した。


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◆禁断の恋と激しい嫉妬は昼ドラ顔負け 北条政子は嫉妬により夫の愛人宅を襲撃!?

2021-09-16 04:09:20 | Weblog

●恋した男と婚礼の晩に駆け落ち!
 北条政子といえば源頼朝の妻であり、頼朝の死後は幕府の実権を握って「尼将軍」と呼ばれる程の権力を得た烈女である。彼女の人生も破天荒そのもの。頼朝との関係も禁断の恋を強引に成就させたものだった。1159年に起きた平治の乱で、平氏は敵対する源氏その他の勢力に圧勝した。政子の父である北条時政はこの時、平氏側についており、敗兵となった頼朝を領地に幽閉する。そこで頼朝と出会った政子は、何と頼朝の子を妊娠。いわば囚人とデキてしまったわけで、これは北条氏にとって最悪のスキャンダルである。父・時政は政子を他家に嫁がせ、この事態をなかったことにしようと目論むが、政子は婚礼の晩に逃亡。頼朝の元へと駆け込んだ。頼朝は政子を匿い、挙兵して平氏を倒し鎌倉幕府を開いたのだった。
●嫉妬ゆえに愛人宅を襲撃、大騒動に
 政略結婚が常識の時代に卓抜な行動力で恋人と結ばれた政子だが、頼朝の妻となった後もその情熱は衰えない。多くの側室を持ち、子を増やすこともこの時代の常識だが、政子は頼朝が他の女を寵愛する度に激しい嫉妬をあらわにした。その嫉妬心は凄まじく、武装兵に愛人の家を襲わせたこともあった程。これを知った頼朝は実行犯の牧宗親を厳しく罰するが、彼が時政の後妻の父だった為に今度は時政が激怒。源氏と北条氏の関係が悪化した。政子の嫉妬から起きた夫婦喧嘩が幕府を揺るがす騒動に発展したのである。


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花虎の尾( Virginia lion’s heart)  Physostegia virginiana 希望 望みの達成

2021-09-15 04:23:46 | Weblog

 


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◆京都だけでも500人以上! 「平家物語」の誕生で琵琶法師ブーム発生?

2021-09-15 04:09:41 | Weblog

●蝉丸から始まった琵琶法師の歴史
 鎌倉時代、琵琶法師ブームが巻き起こった。
その引き金になったのが、かの有名な『平家物語』である。琵琶の音に合わせて物語を吟じる琵琶法師が流行し、15世紀中頃には、京都の市内だけでも500人以上も存在していたというから驚きだ。そもそも、琵琶法師というものは宇多天皇の時、凡そ9世紀頃の蝉丸という人物から始まった。蝉丸は醍醐天皇の孫で克明親王の第1王子でもある源博雅という人物に、琵琶の秘曲である『流泉』と『啄木』を伝授したと伝えられている。平安時代に入ると、琵琶法師たちは中国伝来の秘曲を奏でたり、即興で曲を弾くようになった。貴族たちの詩歌の朗詠をする者もいたという。
●宮中からもお呼びがかかり......
 13世紀初頭に『平家物語』が成立すると、琵琶法師は物語を琵琶で奏でながら語る平家語りとして庶民から親しまれる存在となり、ネズミ色の衣服を着て市内を練り歩いたという。そんな頃、一人の琵琶法師がいつものように市内を巡っていると、彼の語る『平家物語』があまりに面白かったことから宮中に招かれ弾き語りをすることに。それ以来、琵琶法師は公家たちからも愛され、しばしば彼らに招かれるようになったという。このように琵琶法師は『平家物語』の誕生と共に多くの人々から愛されることで隆盛を極めて行き、全国に一大ブームを巻き起こしたのである。


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秋明菊(Japanese anemone) Anemone hupehensis 薄れゆく愛 忍耐

2021-09-14 07:00:58 | Weblog

 


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◆絶世の美女・常盤御前は妖女だった!? 清盛に取り入り平家を滅ぼした常磐御前

2021-09-14 04:19:41 | Weblog

●時代も平伏した、その女の魅力
 常磐御前は、源平時代に於いて、最もスキャンダラスでミステリアスな女性だ。彼女は元々は雑仕女という下級の女官あった。これは、美女1000人の中から100人を選び、100人の中から更に10人に絞り、10人の中でも、最も美に秀でている者を選出する形で決められたという。当時、常磐御前は僅か13歳。こんな逸話からも、常磐御前が人並み外れた美貌を持っていたことが窺い知れるだろう。
●平家滅亡のきっかけを作った!?
 1153年、源義朝の妻になった常磐御前は、今若、乙若、牛若の3人の子を儲けるが、子供たちが幼いうちに源義朝は平治の乱で殺されてしまう。当時は強い男が好かれた時代。常磐御前もまた、勝者である平清盛に惹かれていった。そして、清盛と男女の関係を結び、子供たちも助命された。
やがて、彼女は清盛の元で廊御方と呼ばれる清盛の娘を産む。廊御方は右大臣・藤原兼雅の妻となり、清盛の庇護を受けて幸福な人生を歩んで行った。後に清盛と別れた常磐御前は、中級貴族・一条長成の妻となり、そこでも何人かの子供を儲けた。その後も彼女は豪族の男と関係を結び歩き、次々と子供を授かっては生んで行った。何人もの男を手玉に取った常磐御前。彼女の色香に惑わされた平清盛が、彼女の子である源義経を助けたことで平氏が滅びたと指摘する学者も少なくはない。
●非業の死か穏やかな余生か......?
 常磐御前と義朝との間に生まれた3人の男児は、3男の牛若(源義経)のみならず、いずれも鎌倉幕府成立の過程で命を落とした。母である常磐御前もまた、現在の岐阜県関ケ原町にて命を落としたと伝えられており、かの地には彼女の墓がある。とはいえ、彼女の消息を示す文献は残されておらず、群馬県前橋市や鹿児島県鹿児島市、埼玉県飯能市にも常磐御前の墓とされるものがある。ちなみに、一条長成との間に儲けた嫡子・能成は、義経と行動を共にしていた為、頼朝によって政界を追われている。それでも義経の死から19年、頼朝が没して9年後の1208年12月、能成は政界に復帰。従三位まで出世し、75歳で天寿を全うした。一説には、この能成の元で、常磐御前は余生を静かに暮らしたともされる。


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◆実は出世を約束されたサラブレッド!? 平清盛の父親は白河法皇だった!?

2021-09-12 04:32:02 | Weblog

●成り上がりのイメージと出生の秘密
 平清盛といえば、武家の出身でありながら太政大臣の位にまで上り詰め、一族郎党悉くを官職に就け、「平家にあらずんば人あらず」と身内に言わしめた傑物である。頭角を現したのが保元の乱(清盛38歳)、平治の乱(同41歳)を制した中年期だったことから、一般的にルックスのイメージは完全におっさんのソレだろう。出家して剃髪した51歳以降の姿を思い浮かべることが多いかも知れない。エネルギッシュな風貌は「成り上がり」のイメージとどこかリンクする。だがしかし清盛には「やんごとなき貴人のご落胤」という噂が付きまとう。誰あろう「天下三不如意」で知られる白河法皇である。
●侵されざる白河法皇の権威
 「天下三不如意」とは、『平家物語』に登場する白河法皇の思い通りにならない3つのものーーー賀茂川の氾濫水、すごろくのサイ、山法師(比叡山延暦寺の僧兵)を指す。逆に言えば、この3つ以外のことであれば、全てが意のまま。当時、白河法皇の権力はそれほど絶対的であった。その絶対権力者と血が繋がっているとなれば、平治の乱以降の清盛の大躍進も合点がいく。『平家物語』によれば、母親の祇園女御は白河法皇の寵愛を受けた後、平忠盛との間に清盛を授かったとされている。祇園女御は氏素性も生没年も不詳だが、妹の子を猶子にしたとする説もある。その子供こそ、平清盛であるとも言われている。
●権力の頂点に立った親子の共通点
 いずれにせよ、清盛は祇園女御の後押しを得て、出世街道を駆け上がる。武家の出で太政大臣の地位にまで上り詰めるなど、異例中の異例である。後に天下を取った武家出身の源頼朝が、朝廷とは一線を画して鎌倉幕府を開いたのとは好対照である。清盛は、あくまでも既存の権力基盤に拘った。天皇の外戚となり、政をほしいままにすることに拘った。それはまるで、父親である嘗ての白河法皇のように。この親にして、この子あり。
「平家にあらずんば人にあらず」は、清盛が発した言葉ではない。けれども白河法皇の「天下三不如意」の意識は脈々と受け継がれていたのかも知れない。


    
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