Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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平氏一門を滅ぼした源義経は北海道に落ち延びて アイヌの英雄になった

2017-09-06 09:26:38 | Weblog

*源氏に勝利を授けた 日本史に輝く悲劇のヒーロー

大河ドラマに二度もなった源義経の人気の理由は多々考えられるが、
源平合戦を勝利に導いた伝説的な活躍と、生涯を彩る数々の逸話によるところが大きいだろう。
遮那王として過ごしていた鞍馬寺での修行の日々、兄・頼朝が平氏討伐に兵を挙げてからは、
一の谷の合戦、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで勝利を収め、平氏を壊滅に追い込んだ。
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*北海道に落ち延びて アイヌで神と讃えられた?

間違いなく、源氏による平氏討伐は義経の功績が大きい。
これで、頼朝と兄弟揃っての政権が打ち立てられれば、日本史上類を見ない美談として後世に語り継がれたかも知れない。
しかし、そんな絵本の物語の様に歴史は動かないものだ。
義経が頼朝の許可なく朝廷から「左衛門少将・検非違使」を兼任する「判官」の役職を賜ったことを切欠に、兄弟は対立。
この背景には、後白河法皇の怪しい動きが見られたと謂う。
後白河法皇は、嘗て平清盛にもそうした様に、義経の武功と求心力を利用して権力を再び確固たるものにしようとしたのだ。
これを容認できなかった頼朝は、義経追討に踏み切る。
義経は奥州の藤原氏を頼って平泉に下るが、藤原泰衝は義経を裏切った。
味方の兵が次々と討ち取られて行く中、義経は衣川館の持仏堂に籠り正妻の郷御前と幼い娘を殺害し、自害したと謂う。
東北の地で、波乱に満ちた人生を終えた義経。しかし義経の武勇伝は色褪せず語り継がれ、そればかりか悲劇のヒーローとして民衆の心を捉え、義経の人物像を贔屓して描こうとする「判官贔屓(ほうがんびいき)」と云う言葉まで生み出した。
ちなみに、実際の義経は小柄で出っ歯の醜男だったと云う記述もあるのだが、
特に美男子として伝わっているのは、この「判官贔屓」によるものだろう。

そしていつしか、衣川で命を絶つことはせず、更に北へと逃亡したと云う生存説まで発生した。
アイヌの伝承に、義経が津軽海峡を渡り蝦夷地(北海道)に上陸したと云う話が残っているのだ。
江戸時代に編纂された歴史書である『本朝通鑑』にもその記述がある。江戸後期の幕臣・近藤重蔵はアイヌの英雄オキクルミを義経に、オキクルミの従者サマイクルを弁慶に擬え、北海道沙流郡平取町に義経神社を創建した。

義経神社の伝承によれば、アイヌの集落に居を構えた義経らは、そこで現地の人々に農耕や機織りを教え、「ハンガンカムイ」または「ホンカンカムイ」と呼ばれて慕われていたと謂う。
ハンガンとは、義経の役職・判官に通じ「判官の神」と云う意味だと考えられる。
その一方で、義経はアイヌの人々に暴行と略奪を繰り返した悪人だと伝える話も残っており、必ずしもアイヌの間で英雄視されているとは言いがたい。善悪両面で逸話が伝わっていることが、却って信憑性を高めている気もするが、真偽の程は定かではない。
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*義経=チンギス・ハーン どこまで信頼できる?

とは云え、義経生存説で最も有名なのは、義経=チンギス・ハーン説だろう。
蝦夷に逃れた義経は、更に海を渡ってチンギス・ハーンとして大陸を制覇したと謂う。
この説が生まれたのは江戸時代で、最初に書物に表れるのが、オランダ商館医であったシーボルトが著した『日本』に於いてだった。彼は、モンゴルや中国にはなかった長弓をチンギス・ハーンが使用していたことなどを根拠に、この説を支持している。
以後、真面目に研究する人が後を絶たず、1924年に発行された小谷部全一郎の『成吉思汗ハ源義経也』が大ベストセラーになるなど、知らぬ人のいないほどの有名な説になった。
学界では否定された説だが、没後800年以上経っても荒唐無稽と言える説が大真面目に討論されることからも、義経の人気が窺える。




画像
義経の肖像画。戦国時代~江戸時代に描かれたとされている。 チンギス・ハーンの肖像画。並べてみれば似ていないこともない




*まとめ 
 生存説や美青年説など今も歴史ファンを魅了し続けている。

     

      


                                        「その後」の日本史
                                                                  歴史に名を残した偉人たちの「その後」




最近は、例えば朝の2時半頃に目が覚めれば、そのまんま起きるようにしています。
特に疲れることもないので、二度寝をしない方で、起きて、TVなどを視ています。
まだ薄暗いうち、新聞配達の人が来る前、秋とは云え、まだ暖かいうちなので、
庭に出て朝の涼やかな新鮮な空気を吸うのが楽しみ。


Libertango
https://www.youtube.com/watch?v=kdhTodxH7Gw


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◆旧日本軍のスパイ養成学校 陸軍中野学校

2017-09-06 05:06:25 | Weblog

*極秘の存在だった学校
 陸軍中野学校は1938(昭和13)年に創られた、日本で初めてのスパイ養成学校である。
だが、戦前、戦中は極秘の組織だった。
表門の看板には「陸軍省通信研究所」とだけ書かれていて、
すぐに隣にある陸軍憲兵学校の教官でさえそこで何が行われているか知らなかったという。
当時、ここで学んでいる生徒をスパイだと見抜ける者はいなかったし、軍人とさえ思わなかったに違いない。
彼らは普通の髪形をして背広を着ていたからである。
陸軍の一員ではあっても、あからさまに軍人だと分かる服装や素振りをしていてはスパイとして失格だ。
彼らには一般人に紛れても不自然ではない振る舞いが求められたのである。
そんな中野学校の内部では、生徒たちが情報収集の方法をはじめ、宣伝・秘密通信法・暗号解読・変装など、あらゆるスパイ技術を叩き込まれた。それと同時に、一般教養や専門知識にも力を入れていたのがこの学校の特徴だ。
単純な破壊から高度な政治工作まで、何でもこなせるスパイを目指した教育が秘密裏に行われていたのである。

*マッカーサー暗殺計画を立てる
 中野学校を卒業したスパイは、東南アジアでの秘密工作で大きな成果を上げている。
例えば、インドネシアでは放送と云う手段を用いた。
オランダ語とインドネシア語を使った放送でオランダ軍を心理的に揺さぶり、
インドネシア国民にはオランダに対する反抗心を芽生えさせたのだ。

或いは、ビルマ(ミャンマー)では、独立運動を背後から煽るプロパガンダを行っている。
そうして現地に混乱を引き起こし、日本軍の進軍を容易にしたのである。

更に、中野学校では捕虜になることは恥ではないと教えていた。
「捕虜になるくらいなら死を選べ」が常識だったこの時代としては驚くべき教えだが、
捕虜になったら偽の情報を流して敵を惑わせろと命じられていたのだ。

しかし、多くのスパイを輩出した中野学校も終戦と同時に閉校になった。
ただ、これはあくまでも表向きの歴史に過ぎない。
卒業生たちは身を潜め、もし占領軍が横暴な行いをすれば直ぐに実力行使に出ようと極秘に活動を続けていたのだ。
ほとんどの謀略は未遂に終わっているものの、その中には何とマッカーサー暗殺計画も含まれていた。
計画には少なくとも3つのグループが関わっていたとみられ、大量の武器を隠し持っていたグループもあったらしい。
また、卒業生の1人は身分を偽って、日本を占領していたGHQ(連合軍総司令部)内部に潜入していた。
後に本人は戦犯名簿を手に入れる為だったと言っているが、マッカーサーの動向を探っていた可能性も高いのである。

*今尚明かされない秘密
 今では中野学校の痕跡は何も残っておらず、僅かに東京警察病院に移転された「陸軍中野学校趾」の碑があるだけだ。
とは云え、自衛隊の情報組織が発足した当初から現在まで使われている『秘密戦概論』は、中野学校で使われていたテキストを元にしているという。もちろん時代に合わせた修正は施されているが、謀略の基本は受け継がれているのだ。

中野学校で学んだ学生は2131名で、このうち戦死者は289名、行方不明者は376名だ。
ただ、諜報活動を行う際は偽名や偽の戸籍を用いることが多く、そのまま別の人間として生きた者もいたのではないかと考えられている。中野学校のモットーは「黙して語らず」だ。戦後になっても卒業生の口は重く、なかなか真相は語れないのである。




画像・陸軍中野学校の教室の様子
   生徒は長髪を許されており、スーツ姿の者も多かった

        




                                               本当に恐ろしい地下組織
                                                       日本国内に存在していた組織


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