Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

◆肖像画のウソ ザビエル

2020-12-29 08:12:41 | Weblog

ザビエルといえば頭頂部が禿げた外国人宣教師、というイメージを誰もが抱いているのではないだろうか?「あの人は禿げていたわけではなくて、トンスラといって頭頂部を剃るキリスト教のヘアースタイルだったんだ」と詳しい人なら訂正するかも知れない。だが、そもそもザビエルの髪型はトンスラではなかった可能性があるのだ。この肖像画は、ザビエルの死後80年ほど経った1619年以降に日本人の手によって描かれたと考えられている。16世紀の日本には、宣教師によって建てられた教育機関があり、そこで簡易版ではあるが宗教画の制作方法も教えていた。学習の一環として西洋の宗教画をお手本にしてコピーを作らせていたわけだ。ザビエル像はこの学校に持ち込まれた銅版画を基に、絵の技法を学んだ日本人が描いたのではないか、と考えられている。お手本にしたと言われる銅版画では、確かに頭頂部が剃られておりトンスラの様に見える。だが、ザビエルが所属していたイエズス会ではトンスラの習慣はなかったことから、彼が髪を剃っていたとは考え難いのだ。そもそもトンスラは頭頂部のみでなく、襟足やもみあげなども剃って鉢巻状に髪を残す髪型だ。ならば考えられるのは、「髪は生えていた」か「トンスラではなく禿げていた」かのどちらかだが、西洋画のザビエルは頭頂部に髪がフサフサと生えている様に見える一方で、イエズス会の依頼を受けてルーベンスが作成した聖画では頭頂部に髪が描かれていない様に見える。残念ながら真相は謎に包まれたままなのだ。


お馴染みのザビエル像。
下部に崩し字が記されているのが分かる。(神戸市立博物館所蔵)


頭頂部に髪が生えているように見えるザビエル
   (フランシスコ・デ・ゴヤ 「フランシスコ・ザビエルの死」)


頭頂部に髪がないように見えるザビエル
(ルーベンス  「聖フランシスコ・ザビエルの奇跡」
                 ウィーン美術史美術館所蔵)




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                         歴史教科書のウソ







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◆世界四大文明が文明の起源というのはウソ

2020-12-28 11:24:05 | Weblog


エジプトにあるギザの三大ピラミッド。
紀元前2500年頃に建造されたと考えられている。

神への供物を運ぶ役割を持つチャクモール像。
マヤ文明のチチェン・イッツァ遺跡から発掘された。


長江文明の遺跡から発掘された青銅製の神の面。


アンデス文明から派生した最期の帝国インカのマチュ・ピチュ。
標高約2400㍍という高所にある。


世界の文明はエジプト、メソポタミア、インダス、黄河の4つの文明から始まったとする世界四大文明説。これらの文明には大規模な人口を養うことが出来る都市があり、金属器や文字など最先端の技術が用いられていた。大河川を利用する為に灌漑施設が造られ、安定した社会を築くことが出来た点も共通している。以前はこれらの文明から多くの国や文化が生まれたと教えられていた。だが、考古学の世界では何年も前から文明の起源が四大文明だとする説は否定されているのだ。
その根拠は考古学の調査研究によって裏打ちされている。科学調査の結果、同時期に複数の文明が世界各地に成立していたことが分かり、黄河文明に至ってはそれよりも古い文明が長江に成立していたことが明らかにされたのだ。更に、4つの文明の影響を受けずに誕生した文明があることも分かって来た。言われてみれば尤もで、アメリカ大陸のマヤ・アステカや南アメリカ大陸のアンデス文明など、高度な文明が他にもあったことはよく知られている。そもそも、歴史を経るにつれて文明の定義は変化・修正を繰り返しているから、「文明の起源は四大文明にある」と固定して考えるには無理がある。その為、教科書でも四大文明と記すケースは減少し、世界各地に成立した多様な文明のあり方を記載するようになっているのだ。




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◆秀吉が墨俣一夜城をつくったというのはウソ

2020-12-27 04:58:01 | Weblog
現在の岐阜県大垣市にある墨俣一夜城は、1566年、まだ木下藤吉郎だった頃の豊臣秀吉が信長の為に一夜でつくり上げ、それが出世の足掛かりとなったことで有名だ。もちろん一晩で城を作り上げるなどという芸当が出来るはずはないが、「秀吉が」つくったという部分も実はウソなのである。
では誰が墨俣城をつくったかというと、織田信長本人だ。だが、近年秀吉が墨俣城を建築したと裏付ける史料が見つかったではないかと言う人もいるだろう。その史料というのは「武功夜話」と一般に呼ばれるものだが、現代の創作説が出ており、史料として価値があるか疑わしいという意見が有力視されているのだ。明治末に渡辺世祐という学者が様々な史料を混同し、「1566年に秀吉が一夜で築いた」ことにしてしまったらしく、「武功夜話」はそれを元に書かれているのだという。実際、秀吉は城を守るだけの守将だっただけのようだ。


墨俣城


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◆長篠の戦いで織田軍が鉄砲の三段撃ちを行ったというのはウソ

2020-12-21 07:06:23 | Weblog


長篠合戦図屏風
左手に織田・徳川軍の鉄砲隊、右手に武田軍の騎馬隊が見られる。

日本史で最も有名な武将の1人、織田信長の戦術としてよく知られるのは、鉄砲の三段撃ちではないだろうか。1575年、長篠の戦いに於いて3000挺もの鉄砲を用いたといわれる戦術だ。しかし、近年ではこの鉄砲の三段撃ちはウソだったという説が定着しつつある。実際に織田軍が所持していたと考えられる鉄砲は1000挺ほどだったし、そもそも三段撃ちとは非常に効率の悪い戦法なのだ。一列目が終わったら最後尾に下がり火薬を詰め直し、二列目が前に出て撃ち終わったらまた最後尾に.....。このようなやり方をするならば、移動の為に横の間隔を相当取らなければならないが、織田軍が陣を敷いていた設楽原は山と川に挟まれており、あまり空間に余裕はなかった。それに、戦の最中にそのような複雑な動作をこなせる訓練された兵ばかりではない。つまり、現在に伝わる三段撃ちは、後世の創作だったのだ。また、火縄銃の欠点として連射が出来ないことと装塡に時間がかかることもよく挙げられるが、何十発、何百発の連射は出来ないにしても十数発程度なら可能であったし、装塡にかかる時間もせいぜい20~30秒程度だったという。更に鉄砲に関して言うと、当時の戦国大名たちはそれぞれ鉄砲を所持していた為、鉄砲を使った戦術が信長の専売特許だったというわけではない。実際に長篠の戦いに於いても、武田軍は鉄砲を使用していた。
長篠の戦いは、信長の鉄砲を用いた戦術ゆえの勝利ではなく、織田・徳川連合が堅い陣を構え、攻めて来た武田軍を圧倒的兵力の差で打ち負かしたという内容だったのである。


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◆ガリレオが「それでも地球は回っている」と言ったというのはウソ

2020-12-19 10:17:09 | Weblog


「ヴァチカンの宗教裁判所に引き出されたガリレオ」
                ジョゼフ=フルーリ・画 (1846年)
有罪判決を受け、地動説を捨てるという宣誓をさせられている。


16~17世紀イタリアの科学者ガリレオ・ガリレイは、コペルニクスの地動説(地球が太陽を周回するという説)を支持した。彼はローマ教会の異端審問にかけられながらも地動説を訴え続け、有罪の判決を下されても「それでも地球は回っている」と言い放ったという逸話がある。しかし、実際はそんなことを言う余裕はなかったとされ、あくまで伝説である。宗教の圧力にも屈することなく真実を追い求めた科学者を作り出すべく後世の人々によって付け加えられたものだと言ってよい。
ガリレオは教会に逆らっていたと捉えられがちだが、実は敬虔なキリスト教徒であった。カトリック教会もまた、ガリレオの支持する地動説は教義に反するとして支持しなかったが、ガリレオ個人の科学者としての功績は評価していたようである。ガリレオに対する異端審問は2回行われており、1回目は「今後コペルニクスの説を支持したり弁護してはならない」という判決で、ガリレオに対し罰を与えることはなかった。
「それでも地球は回っている」発言は、2回目の異端審問の際のものだ。第二次異端審問の8ヶ月前に出版された「天文対話」内の表現に当時のローマ教皇が不快感を示した為、ガリレオはローマの異端審問所への再出頭を余儀なくされた。
その時ガリレオは高齢になっており、身体は衰弱していた。
「ローマ行きはご容赦願いたい」という医師の診断書まで出されていたが聞き入れられず、自宅があるフィレンツェからローマに行くことになった。その様な状態のガリレオが渦中で周りを挑発することを言えるとも考え難い。
ガリレオはそのまま軟禁され死後も名誉が回復することはなかったが、20世紀の終わり頃、教皇ヨハネ・パウロ2世がガリレオ裁判の誤りをガリレオに謝罪し、2008年には教皇ベネディクト16世がガリレオの功績を讃え公式に地動説を認めた。約400年の時を経て、ガリレオはようやく教会に認めてもらえることになったのである。


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◆本能寺の変は女の呪いが発端だった!? 織田信長を裏切り呪い殺したおつやの方

2020-12-13 07:23:55 | Weblog



●城主を務めた信長の叔母
 1571年、美濃岩村城主であった遠山景任が、子供もないまま病死した為、織田信長の五男・坊丸を養嗣子にした景任の妻・おつやの方が城主となった。薙刀を率いた立花誾千代など女性でありながら城主を務めた例は他にもあるが、このおつやの方も例に漏れず、気丈でシッカリした性格だったという。その性格を表した強烈なエピソードがある。
おつやの方は信長の叔母に当たる為、景任の死で遠山氏の手を離れた岩村城を織田領の城として治めるようになる。
1572年、岩村城は武田家家臣・秋山信友に攻められるが、おつやの方は守りを固めてこれを死守。戦いは長期戦になるかと思われた矢先、信友は驚くべき方法で和議を申し出る。何と和議の条件におつやの方との婚姻を提示したのである。
●信長の死の原因になった!?
 おつやの方は申し出を受け、岩村城は武田家のものとなったが、これに激しい怒りを示したのが信長。領民を守る為とはいえ、敵方の男に体を許して負けを認めるとは何事かという具合である。
1575年、信長は岩村城を奪還。秋山信友以下の将を皆殺しにし、おつやの方も逆磔刑に処した。おつやのかたは「信長も必ず呆気ない死に方をさせてやる」と泣き果てたという。その7年後、信長は本能寺の変にて死亡。もしかすると、おつやの方の呪いが効いていたのかも知れない.....。


    
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◆戦国の大虐殺の裏事情 比叡山延暦寺は焼き討ちされていない?

2020-12-11 08:11:25 | Weblog

●攻め入った時にはもう廃れていた
 織田信長の残虐性を表す逸話の一つとして伝えられる比叡山焼き討ち。堂塔坊舎が燃やされ、3000人が虐殺されたといわれるが、現代になって「大規模な焼き討ちはなかった」という説が挙がっている。
1981年、滋賀県の教育委員会が行なった調査によると、大規模な火事があったにしては焦土の跡や人骨などが見つからず、物的証拠は見つからなかったと発表されている。
更に、焼き討ちされる前年に残された記録によれば、当時の僧侶たちは堕落しており、堂塔も坊舎も荒れ果てていたという。では、焼き討ちは本当にあったのか?神仏も恐れぬ信長という風評はどの様にして広まったのだろうか?

●麓に住む生臭坊主たちを焼き討ち!
 1571年、浅井・朝倉氏を匿っていた比叡山延暦寺に対し、業を煮やした信長は焼き討ちを開始する。
前述したように、その時の比叡山にはまともな僧侶がおらず、権威だけが残っていた。そんな有様を見た信長は、比叡山の麓にある坂本という町の襲撃を決断。坂本は比叡山を下りた僧侶たちが仏教を楯に住民たちを牛耳っており、信長はそんな僧侶たちを虐殺し、建物に火をつけたのだ。信長としては歯向かう者は許さないという意を示す、見せしめの行為だったようだが、話が広まるにつれ尾ひれが付いて行ったのである。つまり、焼き討ちはあったとしても定説より小規模なものだった。


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◆「コロンブスの卵」の話を発案したのがコロンブスだというのはウソ

2020-12-10 09:56:31 | Weblog
「コロンブスの卵」と呼ばれる逸話がある。彼の功績を妬んだ人々に「大西洋をただ西へ進めば大陸を発見することなど造作もない」と言われたコロンブスは卵を立ててみるよう彼らに言った。誰も立てられないのを見たコロンブスは卵の底を凹ませ、卵を立てた。「そんな簡単なこと誰でも出来る」と憤る人々に、「既に誰かがやったことなら口で言うのは簡単だ」と返したという内容だ。
今では「簡単に見えることでも、最初に行うのは難しく貴重だ」という意味を持つ諺のようになっているが、この話はそれ以前から似たような内容の故事が存在し、コロンブスが発案したわけではない。1400年代前半に、同じような方法(卵の底を潰して立てる)を用いて相手を説き伏せている。最初の発案者が誰か定かでないが、古くから語り継がれて来た逸話なのだろう。


クリストファー・コロンブス 出生については謎の多い人物である。


             
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◆マゼランが船で世界一周をしたというのはウソ

2020-12-06 07:47:35 | Weblog
大航海時代の有名人の1人、フェルディナンド・マゼラン。太平洋を経由して東南アジアに辿り着き、1522年に世界一周を果たしたポルトガルの冒険家だ。しかし、これもウソの話である。
実際に世界一周をしたのはマゼラン個人ではなく、マゼランの船団だ。長い旅の事故や病気で船員は次々に力尽きてしまう。実はマゼランもその中の1人で、世界一周の途中で息絶えてしまったのである。
マゼラン一行はスペインを出発して太平洋を横断し、フィリピンのセブ島に辿り着いた。初めは現地の人とも上手く交流し、セブ王とも親しくなったマゼランだが、そのうち彼らだけでなく周辺諸島の人々にもキリスト教への改宗を強引に迫るようになった。それに不満を抱いた現地の人々に殺されてしまったのである。
マゼランが世界一周をしたことになったのは、彼が若かりし頃、東回り航路でインドに何度か行っており、それを含めると世界を一周する航路を全て通ったことになる為だと考えられている。
 

「マゼランの死」。1860年頃に描かれたもの。


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◆四国遍路を始めたのは空海というのはウソ

2020-12-05 07:42:58 | Weblog


四国八十八か所霊場の全札所位置


弘法大師坐像 (六波羅密寺)


四国遍路の名で知られる、「四国八十八か所霊場巡り」。徳島を起点に、高知、愛媛、香川の四国4県1450kmを巡拝する旅で、古今東西の多くの人が訪れている。四国遍路といえば、弘法大師とも呼ばれる空海が元祖だろという認識を持っている人が多いだろう。ただ、厳密に言えばそうではないのだ。
約1200年前、空海が人々の苦しみを取り除く為に四国に88か所の霊場を開いた。四国は当時大変な辺境の地(辺地)であり、修験者にとって打って付けの修行の場だった。その88か所の霊場を、空海の弟子であった修行僧らが、空海の遍歴を辿ったことが四国遍路の始まりとされている。
四国遍路がここまで受け継がれて来たのは、四国が修験者の集う地だったことと、空海の生まれが讃岐(香川県)だったことが要因だと考えられている。それ以降、多くの修験者が空海の足跡を辿っていたが、江戸時代になると、伊勢参りをはじめとする巡礼が庶民の間で流行した。真言宗の僧侶が『四国遍路の道指南』というガイドブックを書いたほどである。近代にも四国遍路が行われたが、現代に比べると交通網も発達しておらず、やはり過酷な旅であったようだ。
今でも歩き遍路をする人がいるが、徒歩で全行程を回ると約40日かかるという。各旅行会社によるツアーも開催されており、それなら1週間から10日ほどで一度に全て回る「通し打ち」を達成できるそうだ。ちなみに88か所は一応1~88番までの番号があるが、順番に回らなければならない決まりも、1度に何か所回らなければ行けないという決まりもなく、好きに回って良い。順番通りに回る「順打ち」よりも逆に回る「逆打ち」の方が厳しい分、御利益が大きいという話もある。日程や体力に余裕があるならば、空海の歩いた道を同じように辿ってみてはいかがだろうか。


         
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◆クリスマス・イブの「イブ」が「前日」を意味するというのはウソ

2020-12-04 07:19:09 | Weblog
クリスマス・イブはいつかと聞かれて、これを答えられない人はいないだろう。クリスマスの前日、12月24日だ。近頃はその前日である12月23日のことを「クリスマス・イブイブ」とする表現もあるようだが、これは本来の言葉の使い方から大きくはずれている。そもそも、「イブ」は「前日」を意味する言葉ではないのだ。これは、キリスト教会の暦の考え方に由来する。
一般的な暦だと、午前0時に日付が変わり、12月24日の午後11時59分までは24日で、午前0時になると25日、つまりクリスマスの日になる。ところが教会暦では日没を境に日付が変わる為、クリスマスの日は、12月24日の日没から12月25日の日没までの間である。
「イブ」とはevening(夕方・晩)の略であり、24日の日没から日付が変わるまでの間を「クリスマス・イブ」と言うのだ。なので、24日の午前中や昼間に「今日はクリスマス・イブだね」というのは、厳密に言えば間違いなのである。ちなみに、クリスマスを祝う期間は国や教会(カトリックや正教会の違い)によって様々である。
日本ではクリスマスが終わって翌日の26日になると街は正月モードに一変するが、多くのキリスト教の国では1月6日か7日までクリスマスのお祝いをするのが慣習となっている(キリストの公現祭が1月6日にある為)。
いつもと違うクリスマスの雰囲気を味わいたいのなら、思い切ってクリスマスの時期に海外へ行ってみるのも良いだろう。ただし、キリスト教圏の多くの国ではクリスマスは祝日となっている為、夕方には店を閉めているところも多い。ショッピングやクリスマスディナーを楽しめると期待し過ぎない方が良さそうだ。
 

教会暦と一般の暦でのクリスマス
 

ニューヨークにある聖公会の聖堂でのイブ礼拝の様子


            
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◆イエス・キリストの誕生日が12月25日というのはウソ

2020-12-02 07:28:49 | Weblog


「羊飼いの礼拝」 へラルト・ファン・ホントホルス画

12月25日、クリスマス。この日は何の日かと聞かれたら「キリストの誕生日」と答える人がほとんどだろう。私たちはそう認識して毎年色々なイベントを行うが、それはウソである。12月25日はイエス・キリストの誕生日ではないのだ。
世界中で12月25日はキリストの生誕を祝うミサが開かれているではないかという反論もあるだろうが、キリスト教の聖典である「新約聖書」には、キリストの誕生日についての記述がない。羊が遊牧されているという記述から、9月頃ではないかという研究者もいるが、明らかにされていないのが実情だ。
そもそも、キリスト教に於いて重要な日はキリストの「生誕」日ではなく、キリストの「復活」日である。12月25日に祈りを捧げるのはキリストの生誕ではなく「降誕」を祝っての行為であり、教会での位置づけも「キリストの降誕を祝う日」となっているそうだ。何故、12月25日がキリストの誕生日になったかは諸説あるが、太陽の力がそこから増し始める冬至の日に合わせたという説が一般的だ。
他にも、ローマ帝国が紀元301年にキリスト教を国教とする前にローマで信仰されていた「ミトラ神」の誕生日に合わせたとか、その「ミトラ教」で行われた冬至の祭に由来するという説もある。


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