Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

徳川家定の妻・篤姫は肝っ玉母さんとして徳川家を守り抜いた

2017-09-23 05:17:31 | Weblog

*政治的使命を帯びて嫁ぐが 夫と養父が相次いで死亡

大河ドラマでは天下や民のことを広く考えた女性として描かれた篤姫(1836~1883)だが、
実際は天下と云うよりも家のことを考える、肝っ玉母さんとも言うべき人物だった様だ。

1836年に薩摩藩の島津家の分家に生まれる。
父の島津忠剛は少年時代を江戸の高輪下屋敷で過ごしており、
この父に育てられた篤姫もまた、単なる田舎娘ではなく、凜とした空気を纏った武家の姫君として成長して行く。
島津本家の養女となり(この時江戸の藩邸に入る)。更には1856年に公家の頂点に立つ五摂家のうちの一つの近衛家の養女となっている。篤姫が第十三代将軍・徳川家定の正室となったのは、この1856年のことである。
縁組みを推し進めたのは、篤姫の養父であった薩摩藩主・島津斉彬と筆頭老中・阿部正弘だった。
病弱だった家定の跡継ぎとして一橋慶喜を考えていた斉彬らにとって、慶喜の将軍就任を大奥から後押しして貰いたいと云う期待もあった。篤姫はそうした政治的な使命もあって江戸へと嫁入りしたのだ。
ちなみに、ドラマでは船で向かう描写がされるが、実際は陸上移動による長旅だった。
だが、井伊直弼が大老になると、家定の跡を継ぐ十四代将軍は徳川慶福(後の徳川家茂)に決まり、而も、その直後に家定が病死。同月二十四日には斉彬までもが急死してしまう。家定の正室である篤姫は出家し、天璋院と名乗る様になる。
**************************************************************************
*江戸開城亜後も東京に残り 徳川家の人間として生きる

篤姫の結婚生活は僅か一年九ヶ月で終わるが、彼女はそれからもあくまで徳川の人間として生き、故郷・鹿児島に帰ることはなかった。十四代将軍の家茂が皇女・和宮を娶った際には、篤姫を島津に戻そうかと云う話も出たが、絶対に受け入れず、和宮に対しては、「皇女だからと云って思い上がるな」と徳川家の者としての立ち振る舞いを悟し続けた。
薩摩の西郷隆盛らが江戸へ攻めて来た時も、篤姫は江戸城に留まり続けたが、勝海舟に半ば騙された様な形で、
ようやく大奥を明け渡したのだった。
江戸城開城後も、篤姫は徳川家の女主人としての態度を貫いた。
生活費も島津からは受け取らず、東京の千駄ヶ谷にあった徳川宗家邸で暮らしたのだ。
この時期、勝海舟が徳川家の世話を焼いており、篤姫も勝と親しかった様で、二人は恋仲だったのではないかと云う説もある。
その根拠として1872年頃に篤姫が勝に送った手紙に「早く東京に来てほしい」と書いてあり、それがまるで恋人に宛てた手紙の様だと云うことで、恋人説が語られる様になった。
**************************************************************************
*風俗の変化を受け入れつつ 新しい時代を楽しんでいた

徳川家の人間として生きた篤姫は、徳川宗家十六代の徳川家達を堅実に育て上げる。
勝の手助けで、家達をイギリス留学させ、自分が養女になっていた近衛家の娘・泰子を家達の妻とし、
跡継ぎが生まれたら嫁は島津家から迎えると云う路線まで作ったのだった。
新時代に於ける徳川家の安泰を考え、自分の立場も強化する、強かな手腕だった。
明治になってからの篤姫は、不仲だったとも言われる和宮とも度々会い、勝と市中見物をするなど、気持ちに変化が見られる。
勝に連れられて、料亭や舟遊び、果ては遊郭にまで行き、市井の人々の生活を目の当たりにしたと謂う。
シャツを着たり、コウモリ傘を使ったりする新しい風俗も柔軟に受け入れながら、新時代を楽しんでいた様だ。

1883年11月13日に、篤姫は徳川宗家邸で病に倒れる。
脳溢血だった。意識は回復せず、11月20日に死去。
葬儀の際は沿道に1万人もの人々が集まったそうで、その様子は「天璋院葬送之図」と云う絵画にも描かれている。

(画像・天璋院篤姫、天璋院葬送之図)

*まとめ
 徳川家を安泰なものにする路線を敷いてこの世を去る

      

      




                                               「その後」の日本史
                                                     歴史に名を残した偉人たちの「その後」






コルチカム Colchicum autumnale My best days are past(私の最良の日々は過ぎ去った)




今日限り 松山千春
https://www.youtube.com/watch?v=8ipEBpWbz_E


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シモネッタ・ヴェスプッチ 名画『ヴィーナスの誕生』のモデルとなった絶世の美女 (1453~1476)

2017-09-22 16:26:23 | Weblog

15世紀のイタリア・フィレンツェに「麗しのシモネッタ」と詠われた絶世の美女がいた。
彼女は商人マルコ・ヴェスプッチの夫人であり、メディチ家の貴公子ジュリアーノの「永遠の恋人とも呼ばれた女性である。
彼女の死に際しては市民が挙って涙したと云われ、彼女がモデルだと云う有名な絵画もある程だ。

「フィレンツェでの結婚」
美の女神と云う言葉が相応しいシモネッタは、輝く金髪と情熱的な瞳、スラリとしてたおやかな肢体が例え様もない程美しく、男女関係なく、出会った人を皆甘美な気持ちにさせる女性だった。画家ボッティチェリもその魅力に夢中になった一人で、名画『ヴィーナスの誕生』や『春』は、生前の彼女を思い浮かべながら描いたのではないかとも言われている。フィレンツェの人々を惹き付けて止まなかったシモネッタは、北イタリアのジェノバ共和国の出身で、父は貿易商人ガスパル・カッタネオ、母のヴィオランテはジェノバ一の美人と言われていた。船も幾つか持ち、手広く商売をしていたカッタネオ家だったが、シモネッタが六歳の時に父が権力闘争に敗れ、一家はジェノバ南部のピオンビーノ領に移住している。ここを支配するアッピアーニ家の妻は、ヴィオランテと前夫の娘だったと云う関係から身を寄せたのだろう。そこで育ったシモネッタは、十年後、結婚することになった。
相手はフィレンツェの裕福な商人マルコ・ヴェスプッチである。
彼はどこと言って取り得のない上に、虚栄心だけが強い凡庸な男だったが、家同士の政略結婚に彼女が異を唱えられるはずもなかった。そして、彼女はフィレンツェへと向かうが、そこで出会ったのが貴公子・ジュリアーノ・デ・メディチだった。

「二十三歳の若さで散る・・・・・」
シモネッタの恋人と噂されたジュリアーノは、フィレンツェを支配するメディチ家の出で、兄にロレンツォ豪華王がいる。
ジュリアーノは母譲りの優美さと凛々しさを備えた美丈夫で、シモネッタと同じ年の、人気の貴公子だった。ロレンツォとジュリアーノの兄弟はフィレンツェに来たシモネッタに恋をするが、中でもジュリアーノは熱烈に彼女に惹かれていた。
実際にシモネッタが彼の恋人だったかどうかは定かではないが、少なくともフィレンツェの市民の間では二人は噂の恋人であり、詩人ポリツィアーノも二人の愛を綴った詩を残している。
そんな二人の愛が頂点を極めたのは、1475年のジョスタだった。ジョスタとは、馬に乗り、槍で相手を突き落とすと云うゲームで、最初から勝敗が決まっている一種の祝典行事である。この時は、ジュリアーノに花を持たせることになっており、勝利した彼に優勝の兜を渡す「戦いの女神」に指名されたのが、シモネッタだった。
宝石を散りばめた豪華絢爛な衣装を纏ったジュリアーノが、馬に乗って現われる。そして、女神と云う言葉が相応しいシモネッタ。二人の輝くばかりの美しさに群集も大いに沸き、酔い痴れたという。ところが、寒波で体を壊したシモネッタは翌日から寝込んでしまい、翌年、結核の為に二十三歳の若さでその生涯を終えた。
その葬儀にはフィレンツェ市民も参列し、嘆き悲しんだが、彼女は死してもその美しさを称えられた。ジュリアーノの兄ロレンツォが彼女を評し、「生前これ以上ないと思われた美しさが、更にそれを超えた」と書き残して哀悼した。
死の翌日、シモネッタはヴェスプッチ家の霊廟オンニッサンティ教会に葬られ、安らかな眠りに就いたが、彼女のあとを追うかの様に、恋人ジュリアーノはその僅か二年後に暗殺され、非業の死を遂げてしまうのだった。

             

                                                      世界の「美女と悪女」がよくわかる本

画像 ボッティチェリ作「シモネッタ・ヴェスプッチ」


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆ナチスの母体となった 『トゥ-レ協会』

2017-09-21 18:19:36 | Weblog


*アーリア人を至上と考える人々
 第二次世界大戦は世界中に様々な不幸を生み出したが、中でも世界中を震撼させたのがナチスによるユダヤ人の大虐殺である。
ナチスはユダヤ人であると云う理由だけで、ユダヤ系市民を強制収容所に送り込み、ガス室で大量殺人を行った。その犠牲者の数は600万人とも言われている。
そのナチスの母体となった組織こそ、トゥーレ協会なのである。
トゥーレ協会の誕生について遡ると、19世紀末のオーストリアに辿り着く。19世紀末から20世紀初頭にかけて、ウィーンではアーリア人種(ゲルマン民族)を讃える民族運動が盛んに行われていた。「優秀なアーリア人類こそが世界を支配するに相応しい」とする思想が蔓延していたのである。それは裏を返せば、アーリア人種以外は劣悪な人種で、生きるに値しないと云う考え方でもあった。
そして、その過激な思想の矛先を真っ先に向けられたのがユダヤ人だった。

*小さな組織をまとめる同盟の誕生
 当時のウィーンには、強烈な反ユダヤ思想を持つ二つの有名な組織があった。
一つは元修道士のアドルフ・ヨーゼフ・ランツが創設した新テンプル騎士団だ。
ランツは金髪碧眼のアーリア人こそ「神人」で、そのほかの人種は「獣人」とする「神聖動物学」を広めようとしていた。
そしてもう一つが、グイド・フォン・リスト率いるアルマネン秘法伝授団である。
リストもまた、オカルティズムに取り憑かれたアーリア人至上主義者で、やがて訪れる終末戦争の後にゲルマン民族の楽園が訪れると信じていたという。
こうした組織の活動によって反ユダヤ思想が日に日に高まる中、1902年に隣国ドイツで反ユダヤ主義を掲げた『ハンマー』が創刊される。これに刺激された読者によってドイツも各地にハンマー会なるものが誕生し、それを統一する帝国ハンマー同盟が結成される。そして、ウィーンを源流とする二つの流れは、1912年に帝国ハンマー同盟の地下組織ゲルマン騎士団として、一つになったのだ。

*ヒトラーの登場で強力になる
 やがて第一次世界大戦が勃発すると、ゲルマン騎士団の活動は停滞する。
多くの団員が戦場に送られ、活動資金にもこと欠くようになり、1918年に遂に内部分裂が起こったのである。
この時に、ゲルマン騎士団から分裂してバイエルンに非公式の支部ができた。それこそがトゥーレ協会だったのだ。
トゥーレ協会は、表向きこそゲルマン古代の研究を目的としていたが、有色人種やユダヤ人を排除し、世界支配を目論むオカルト的な国粋主義集団だった。ナチスが使用していた鉤十字(ハーケンクロイツ)も、元々はトゥーレ協会のシンボルマークだった。

やがて、第一次世界大戦の終結翌年の1919年、トゥーレ協会の会員がドイツ労働者党と云う右翼政党を結成した。
その集会をスパイするよう軍に任命されて送り込まれたのが、ドイツ軍で諜報活動の任務に就いていたヒトラーだった。
ヒトラーは集会で演説する党員に対して苛烈で理路整然とした反論をぶつけた。その姿が党の有力者の眼に止まり、ドイツ労働者党に入党するよう勧められるのである。こうして政治の舞台に足を踏み入れたヒトラーは見る見るうちに頭角を現し、その過激な演説で国内外の政治団体に知られるところとなった。
そうして彼は組織の実権を握り、ナチスの党首へと駆け上がって行くことになる。
そしてヒトラーを見い出したトゥーレ協会は、当のヒトラーによって解散を命じられ、行き場を失ったメンバーはナチスの党員として史上最悪の行為に手を染めて行くのである。

*画像
 トゥーレ協会の会員が創ったドイツ労働者党のメンバー。前から3列目の中央やや左にヒトラーの姿もある。

 左・協会のエンブレム。既に鉤十字が使われている
 右・ヒトラーが収監された際に代理を務めたアルフレート・ローゼンベルク。彼もトゥーレ協会の一員だった。

          





                                                   本当に恐ろしい地下組織
                                                            歴史を変えた地下組織

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菜根譚 前集143項

2017-09-21 13:37:12 | Weblog

士君子貧、不能済物者。
遇人癡迷処、出一言提醒之、遇人急難処、出一言解救之。
亦是無量功徳。

士君子は貧なれば、物を済うこと能わざる者なり。
人の癡迷の処に遇わば、一言を出して之を提醒し、
人の急難の処に遇わば、一言を出して之を解救す。
亦是れ無量の功徳なり。

****************************************

「君子の徳性」

立派な人というものは、とかく貧乏であるから、人を物質的な面で救うことはできない。
しかし、愚かで迷っている人に会うと、言葉をかけてその迷いから呼び覚ましてやり、
また危難に苦しんでいる人に会うと、ちょっと言葉をかけてその苦しみから救ってやる。
またこれも、立派な人が持っている計り知れないほど優れた徳性である。


このところ、変わりやすいお天気続きでしたが、ようやく日差しが戻って来ましたね。
それだけで嬉しい気分になりました。**(y゚∀´゚+)**


残春 さだまさし
https://www.youtube.com/watch?v=AUmwGhTSeoY


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆人の気を読む「望気術」とは

2017-09-20 05:45:12 | Weblog

『史記』項羽本紀の一説に次の様な話がある。
鴻門の会.の会の直前、沛公(劉邦)は快進撃を続け、秦の都咸陽を破り関中に入って王を捕らえようと云うところまで来た。
それを知った項羽は怒り、沛公を攻撃しようとする。
沛公の兵10万に対し、項羽方は40万。
しかし、老将軍范増は項羽に言う。「故郷の山東にいた時の沛公は、財貨を貪り美姫を好んでいた。だが、関中に入ってからは財物にも婦女にも手をつけていない。これはその志が小さくないと云うことだ。私がある人に沛公の気を望見してもらうと、それは五采を成す竜虎の形をしていると謂う。これは天子の気だ。急に攻撃して気を失っては為りません」

古代中国では、空の雲の形、目に見えない空中の気、太陽や月の周りの嵩(かさ)、虹などで戦争の勝敗や、人事、農作物の出来などを占っていた。これは、祥瑞思想の一つ、体が発する気を見てとる「望気」と云う術で、天子になる者には先立って天帝が予見してその気象を表わすと謂う。

易に「雲は竜に従い、風は虎に従う」とある様に竜虎は英雄を示し、特に竜は天子の象徴で祥瑞(吉兆)を示す霊獣である。
青、黄、赤、白、黒が交わった美しい模様である五采も、やはり古代の神秘思想と結びついて天子の祥瑞と考えられた。
つまり、沛公は、将来、天子になるはずだと予見されたのである。
この様な体から外部に発散される気を、現代の気功科学では「外気」と呼び、外気を異常に発出する能力を持つ者を「特異功能者」と言う。外気についてはまだ研究中の段階だが、電磁波だとする説が有力となっている。また、生命体の表面からコロナ放電が行なわれていることも、平面電極と高電圧低電流を用いて写したキルリアン写真によって確認されている。

    

     


                                           呪い あなたの知らない不気味な世界
                                                   -不吉な未来を見通す神秘ー
                                                           占星術の恐るべき支配力


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イサベル1世 スペインを統一し大航海時代をもたらした女王(1451~1504)

2017-09-20 05:40:08 | Weblog

15世紀半ばのイベリア半島にあった、カスティーリャの国王の娘として生まれ、兄に次いで国王になったのがイサベル1世である。
隣国アラゴンのフェルナンド2世と結婚後、アラゴンとカスティーリャの連合を成し遂げ、
これがやがて、スペイン王国へと発展して行く。また、コロンブスをバルセロナに迎え入れ、新大陸発見に寄与したことでも歴史に名を残している。

「不遇だった少女時代」
カスティーリャ王国の長女に生まれたとは云え、イサベルにはすでに二十六歳も年の離れた腹違いの兄が居て、後には実母が弟を産んでいる。彼女が生まれた時点では、後に彼女が国王となり、強大なスペイン王国の基礎を築くなどとは誰も予想だにしていなかった。その上、イサベルは王女とは云え、不遇な少女時代を強いられている。
彼女が三歳、弟が八か月の幼児の時に父王が急死するが、これは、母が不仲だった宰相を死に追いやったことに、ショックを受けてのことだった。母は父の跡を継いだ兄王エンリケ4世とも不仲だったから、イサベルたち母子三人は田舎の城に追いやられ、そこでは農民と大差のない暮らしが待ち受けていた。
王妃時代の生活とあまりの落差から、発狂してしまった母を抱え、幼い弟の面倒を見なければならなかったイサベルを支えたのは、最早カトリック信仰だけだった。
アラゴンの皇太子フェルナンド2世との結婚は十八歳の時だったが、これは兄王の反対を押し切ってのもので、信仰心を支えに自分の信じる道を進もうとする強さを持った女性ならではの決意だった。
その強さは、後にイサベルが王位に就いてからも発揮される。
彼女の即位で、自分たちの権益にのみ拘る貴族たちは、女性ならば与しやすいだろうと考えていたが、これが読み違いとなった。
イサベルは貴族たちの思惑に反し、優柔不断な父や兄の統治下で崩れかけていた王権の確立を試みた。対立する勢力を利用しながら権力を王に集中させる一方で、国中を周って国民生活の改善と向上に努めた。彼女の五人の子の出生地が、国のあちらこちらに散っていることを見ても、如何に頻繁に巡行していたかが分る。
こうして、ヨーロッパの外れにある小国は、三流国からの脱却を目指して行ったが、その根底には、少女時代からイサベルを支えて来たカトリック信仰に根ざした、強固な国づくりがあったことも忘れてはならない。

「コロンブスの新大陸発見に貢献」
イサベルが即位してから十年が過ぎた頃に出会ったのが、コロンブスだった。彼は「地球は丸い」と云う説を信じ、当時は東航路・アフリカ経由で行くのが当然だった東南アジアや中国、日本へは西へ航海して行けばもっと早く着けるはずと考えていた。
実はその時も、西航路を航海する為のスポンサーを探してポルトガルを訪れ、断られたばかりだった。だが、イサベルはこの話に興味を抱く。この頃のカスティーリャは、イベリア半島に唯一残るイスラム国グラナダ攻略の戦費が嵩んでいた。それ故、国の重臣たちはコロンブスへの投資に反対したが、イサベルは敢然と決断する。
航海で見つかった島や土地をスペイン領にすると、コロンブスが提案したからだ。
彼が望んだ成功報酬は、新発見の土地の総督になると云う事と、その土地との貿易に寄る利益の1割をいただくと云うもので、もし実現すればカスティーリャの国庫は潤い、一流国の仲間入りができる。イサベルはそれに賭けたのである。
その結果は、歴史が証明しているが、イサベルが基礎を築いたスペイン王国は、ヨーロッパの各王室と婚姻関係を結び、コロンブスのもたらした富はスペインの強大化に大いに寄与したのだった。

             

                                                       世界の「美女と悪女」がよくわかる本


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「東海道一の親分」清水次郎長は裏社会から足を洗った後、貿易港開発に奔走した

2017-09-19 10:01:20 | Weblog

*向かうところ敵なし 清水一家誕生!

任侠ものの映画や浪曲などで大人気の清水次郎長(1820~1893年)。彼の本名は山本長五郎と言う。
養子として山本家の嫡男として迎えられた長五郎は、周囲から次郎八の家の長五郎を略して次郎長と呼ばれる様になり、
長く愛称として馴染みある名前となった。
養父の死後、家業を継いで妻も娶った次郎長だが、この頃より博徒と喧嘩に明け暮れる日々を送る。
二十三歳の頃、とうとう次郎長は人を斬ってしまい、妻とは離縁。次郎長は弟分の江尻大熊らを引き連れて、
生まれ育った清水から出奔する。
諸国を巡り、すっかりヤクザの風格が出来上がった次郎長は、再び清水に舞い戻り、
清水一家を結成、「清水の次郎長」の誕生である。
黒駒勝蔵との敵対など、次郎長の半生は、縄張り争いや仇討ちの為の人斬りの連続だった。
しかし、幕末の世が明治として大きく転換すると、次郎長も、裏社会から足を洗って新しい人生を歩む様になる。
**************************************************************************
*明治と共に 次郎長親分、カタギになる

明治元年、1868年。家康公の隠居地だった駿府では、不穏な空気が漂っていた。
明治政府から駿府町差配役に任ぜられた浜松藩家老の伏谷如水は、一計を案じ、清水次郎長を沿道警護役に任命する。
江戸時代、駿府の様な幕府領では領地が入り組み、警察機能が手薄になってしまい、ヤクザに頼る傾向にあった。
この時次郎長は五十の坂に差し掛かろうと云う時期。次郎長は固辞したものの、折衝の末に、正式に登用となった。
次郎長の積年の罪は不問となり、帯刀も許された。役人の追っ手から逃れ日陰の道を歩いて来た次郎長が、
大手を振って表を歩ける様になったのだ。
以降、如水と次郎長は親交を深め、年も二つしか違わない二人は、大変に仲が良かったと謂う。
その年の九月、次郎長の縄張りである清水湊に、大破した一隻の軍艦が入港した。
それは旧幕府の咸臨丸。
直ぐに官軍が駆けつけ、残っていた船員をみな殺しにし、遺体はそのまま船内に放置された。
官軍から逆賊の仲間とあらぬ疑いをかけられるのを恐れてか、誰も知らない振りをしていた。
が、そんな状況下で、この痛ましい死者を手厚く葬ったのが次郎長だった。
次郎長は、咸臨丸の船員たちを憐れみ、遺体を集めて向島の砂浜に埋葬する。
これに感銘を受けたのが、後に明治天皇の側近となる山岡鉄舟。
鉄舟は次郎長の義侠に感激し、死者の為に「壮士墓」を贈ったのだった。
**************************************************************************
*ヤクザ時代に培ったスキルを総動員して慈善活動

すっかり駿府の顔となった次郎長は、1874年、当時重要な交易品となっていた茶の栽培をする為、
富士山麓の開墾事業を開始する。しかしこれは、ただの開墾作業ではなく、囚人を労働者とした社会事業であった。
荒っぽい男達を束ねて来た次郎長の手腕は、一般社会でも発揮されて行く。
特に、先見性には目を見張るものがあり、次郎長は新時代に於いて蒸気船が運搬の主流になるであろうことに逸早く気づいた。
人々を説得して回り、波止場や船着き場を構築。清水港を貿易港と呼べる立派な港に変貌させた。
また横浜で、後に「横浜の父」と謂われる高島嘉右衛門が英語塾を開いたと聞くと、自身がオーナーとなっていた船宿「末広亭」の一部を改築して、自分もまた英語塾を作ってしまう。
この様に精力的に活動していた次郎長は、家では縁側に座り子ども達の相撲を眺めることが楽しみの一つだったと謂う。

1893年、風邪をこじらせて死去。
葬儀の参列者はゆうに三千人を超え、明治と云う大きな過渡期の駿府を支えた次郎長の死を偲んだと謂う。
次郎長は三人の妻や、かつての側近たちと共に、静岡市の梅蔭禅寺に目眠っている。
墓石に彫られた「侠客次郎長之墓」は、明治期に大臣を務めた榎本武揚の揮毫である。

(画像・清水次郎長一家、前列左から三番目が次郎長)

*まとめ
 晩年は任侠の顔はどこへやら、子どもの相撲を見守る好々爺に

      

                                            「その後」の日本史
                                                  歴史に名を残した偉人たちの「その後」


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★名僧祐天が 悪霊祓い師 になった理由

2017-09-18 08:14:49 | Weblog

五代将軍徳川綱吉と云えば、「生類憐みの令」でお馴染みだが、生母桂昌院に頭が上がらなかったことでも有名だった。
仏教を熱心に信仰する桂昌院の強い要請で、1681(延宝元)年には現在の東京都文京区に護国寺を建立したほどである。
そんな親子から生き仏として尊敬された僧がいる。
1711(正徳元)年に芝の増上寺三十六世住職に抜擢された祐天(1637~1718年)だ。
祐天は、増上寺の檀通のもとで修行し、その後、諸国を巡って仏教の布教に努めた。
1699(元禄十二)年に江戸伝通院の住持に就任した。
そして、綱吉親子のお声がかりで、浄土宗の最高機関増上寺の住職にまで昇りつめた。

この祐天は「江戸の悪霊祓い師」とも呼ばれている。何故なら、怪談の中で悪霊を祓う役を演じているからだ。
土佐浄瑠璃や歌舞伎でお馴染みの『怪談累(かさね)の原』は、殺された妻が少女の体を借りて現れると云う物語。
与右衛門と云う男の娘菊が、ある日突然、口から泡を吹いて倒れ、「我は菊にあらず。汝が妻の累なり」と与右衛門に向かって喚き立てた。聞けば、与右衛門は前妻累を殺して鬼怒川に投げ込み、素知らぬ顔をして後妻を貰ったと謂う。だが、後妻は累の怨念によって殺され、その後も与右衛門が後妻を迎える度に同じことが起きた。結局、6人の後妻が累の怨念に取り殺されたのだった。
菊に乗り移った前妻の怨念はどんな祈祷師がお祓いをしても出て行かない。
そこで当時、飯沼弘経寺にいた祐天が呼ばれ、悪霊に巧妙な誘導尋問を行なって除霊を成功させた。
このことから祐天は悪霊祓い師と呼ばれる様になったのである。

     

     




                                        呪い あなたの知らない不気味な世界
                                                -凶悪なる呪詛を封じ込めるー
                                                       悪霊祓いと魔除けの秘儀


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夜顔が3つ、花を着けていました。(๑•́ ₃ •̀๑)

2017-09-17 06:08:16 | Weblog

今日咲くか、明日咲くかと楽しみにしていました。
花が大きく、肉厚な感じがし、不思議な気分になります。

夜顔 Ipomoea alba 夜の思い出 夜 妖艶

英名・Moon flower

夜顔は、明治の初め頃に、観賞用の植物として日本に渡って来ました。
元々は多年草だそうですが、熱帯アメリカが原産で寒さに弱いことから、日本では一年草として扱われます。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★700年も続いた崇徳上皇の祟り

2017-09-16 06:10:00 | Weblog

1156(保元元)年に勃発した保元の乱は、平清盛が「鳥羽法皇・後白河天皇」対「崇徳上皇」の対立に乗じて、武家時代の切欠を作った事件と謂える。
同時に、呪術の歴史から見ると、この保元の乱は明治維新の頃まで信じられ続けた怨念を生み出した事件でもある。
約700年もの長い間、人々、特に天皇家や有力武士たちに禍をもたらすと恐れられた怨霊の主は、この戦いで讃岐(今の徳島県)に流された崇徳上皇(1119~1164年)だった。

崇徳上皇の一生は数奇な運命に弄ばれた。
出自からして、その後の人生の暗転を予感させた。
それは、この頃の天皇家の関係図を見てみるとよく分る。第71代の天皇である後三条天皇から続いていた系譜は、その息子の白河院(1053~1129年)、白河院の息子の堀川院(1079~1107年)、堀川院の息子の鳥羽院(1103~1156年)へと続いている。そして、鳥羽院の長男として崇徳上皇が75代目の天皇の跡を引き継ぎ、続いて三男の近衛院、四男の後白河院へと引き継がれている。
だが、崇徳上皇は鳥羽院の実子ではない。彼の祖父・白河院と、鳥羽院の嫁である待賢門院璋子(1101~1145年)との間にできた子供であった。鳥羽院はその事実を知っており、崇徳上皇を「叔父子」と呼んで憚らなかったと謂う。
幾ら世継ぎを多数確保することが命題とされた時代でも、鳥羽院が自分の妻と父の間に生まれた崇徳上皇より、自分の血を分けた子供を可愛く思うのは仕方のないことである。
やがて、長子である崇徳上皇を疎んじる様になり、それを敏感に察した崇徳上皇も父を憎むと云う対立関係の構図ができ上がって行った。

実父である白河院の法皇時代は問題が深刻化することはなかったが、1129年、崇徳上皇が10歳の時白河院が死去すると、
鳥羽院と崇徳上皇の関係に変化の兆しが見える様になる。
この年、上皇となっていた鳥羽院は実質的な院政体制を強化して行く。この体制下では、鳥羽院にとって崇徳上皇は邪魔な存在である。崇徳上皇が22歳の1141年には、天皇の地位を美福門院との間の子、近衛天皇(1139~1155年)へと譲位させ、崇徳上皇を天皇の座から追い落としてしまった。而も、鳥羽院自らは院政の中心の座を譲ろうとはしなかった為、上皇となったとは云え、崇徳上皇には何の権限も与えられることはなかった。この頃から、崇徳上皇の怨みは鳥羽上皇室にだけでなく、天皇の座を継いだ幼い近衛天皇にも向けられていた様だ。呪術者を派遣して、愛宕山にある天狗の眼に釘を打ち付けて呪いがかかる様に祈願していたと云う逸話が残されている。而も、呪いが通じたかどうかは定かではないが、近衛天皇は眼病がもとで、僅か17歳でこの世を去る。

崇徳上皇は失権回復を願い、自分の子供である重仁親王を世継ぎにと画策したが、鳥羽院が天皇に指名したのは、四男である後白河院(1127~1192年)だった。ちなみに、母が違った近衛天皇とは異なり、後白河院の母は待賢門院璋子だから異父弟が天皇の座に就いたことになる。こうして、鳥羽、後白河と崇徳の対立の構図が明確になった。そして、その対立が頂点に達したのが、鳥羽上皇崩御から7日目に勃発した保元の乱だったのである。

戦いは後白河天皇派の圧倒的な勝利に終わる。崇徳上皇は謀反の罪に問われて、讃岐への流刑に処せられてしまい、その地で9年後の1164年に死を向かえている。
崇徳上皇は流刑の地で、ひたすら来世の為に写経をして、高野山に奉納して欲しいと願ったが受け入れてもらえず、憤怒のあまり、送り返されて来た写経に、舌先を食い切って流れ出た血で呪いの言葉を書きつけて海に沈めたと謂われている。
崇徳上皇の祟りが実しやかに語られる様になるには、彼の死から1か月も経たない頃だった。現代で言う怪奇現象が次々と起こる様になったのだ。

噂の発端は崇徳上皇の埋葬での事件にある。
死後20日以上経過した後に、崇徳上皇の遺体は棺に納められ、山上で荼毘にふされたのだが、遺体が納められた棺から、辺りを真っ赤に染めるほどの血が流れ出し、荼毘の煙が逆らって都へといつまでも流れて行ったと謂う。更に、死の翌年には後白河院の長子である二条上皇が急逝したのをはじめ、大火事や飢饉が都を襲う。崇徳上皇が没してから10数年を経た平清盛の死についてさえも、都の人々は崇徳上皇の怨霊が取り憑いた為だと噂し合う様になっていた。崇徳上皇の怨霊を誰もが疑わない様になっていたのである。そして、清盛の死より前のことだが、時の天皇であった高倉天皇は、保元の乱の跡地に、崇徳上皇を祭神とする粟田宮を建立し、讃岐院と呼ばれていた崇徳上皇に崇徳院の号を贈って怨霊を鎮め様としたのである。
しかし、その後も歴代の天皇や武将が不測の事故に巻き込まれたりすると、崇徳上皇の祟りと謂われて来た。その度に、時の為政者たちは、怨霊を鎮め様と様々な奉納を繰り返したが、愕くべきことに、その祟りに対する恐怖は明治維新の時代まで引き継がれて行った。

    

      




                                         呪い あなたの知らない不気味な世界
                                             -恨みの魔力に命を奪われた人々ー
                                                     呪いの惨劇はこうして起きた


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆政界スキャンダルになった黒ミサ <地獄の火クラブ>

2017-09-15 04:19:12 | Weblog

カトリックを冒瀆する呪術的な儀式の一つに黒ミサがある。
キリストを讃える儀式である一般的なミサに対し、故意に逆手を行く様な方法で悪魔に祈祷し、
キリストを愚弄する目的で行なわれるのが黒ミサである。
カトリックではパンとワインがキリストの血と肉を表わすものだが、黒ミサでは幼児の小便や血が悪魔への捧げ物として用いられる。悪魔の祭壇には、十字架が逆さまに打ち付けられ、殺人者の手を模した長く伸びた黒い爪を持つ手が「栄光の手」として飾られたり、蝋燭も黒いものが用いられる。時には悪魔への生け贄として、女性が貢がれることもあった。

黒ミサを開催する目的は大きく二つに分かれていたと謂われる。
一つは、規範の厳しいカトリック支配からの脱却を目的に、自由な政治経済活動や信仰生活を過ごすことを目指したグループである。政財界の大物もメンバーだと言われたヨーロッパの秘密結社フリーメーソンが、黒ミサを行なっていたと噂されたのも、メーソンの目的がまさにカトリック否定にあるからに他ならない。
そして、もう一つのグループが、黒ミサに伴うオカルトへの興味や、退廃的で危険な娯楽を楽しもうとするグループだ。
こうした黒ミサは、皮肉なことに、カトリックの総本山とも謂えるイタリアで18世紀に流行し、それがヨーロッパ各国に飛び火して、秘密裏に催される様になった。
当然、黒ミサはカトリック教国では容認できる儀式ではない為、参加メンバーは世間に漏れない様に秘密を誓い合い、極秘裏に会を催す必要があった。その為、黒ミサを行なうグループは秘密結社化して行く。

中々表沙汰にならない黒ミサだったが、18世紀のイギリスで発覚したことがある。
それが「地獄の火クラブ」と云う秘密結社の黒ミサだった。
クラブの中心人物は、フランシス・ダッシュウッド卿(1708~1781年)。ロンドンから北西に50㌔ほど離れたバッキンガムシャー州にある名門の家の御曹司として生まれ、何不自由なく育ったお坊ちゃまであった。
若い時、ヨーロッパを旅行する途中で、イタリアで黒ミサに触れ、興味を覚えたダッシュウッド卿は、旅行中に親友となったサンドイッチの語源となったことでも知られるサンドウィッチ伯爵と、帰国後にクラブを結成する。やがて彼は、「地獄の火クラブ」の会員となったのである。

「地獄の火クラブ」が黒ミサを行なう秘密結社へと移行した時期などは、関係者が口を固く閉ざし続けた為に不明だが、ダッシュウッド卿が大蔵大臣に指名される1762年まで、10年以上は続いていたと謂われている。
「地獄の火クラブ」は、30~50名程度の会員規模だった様だが、中心メンバーはすべてダッシュウッド卿の親友で占められていた。貴族の御曹司なのだから、親友もイギリスの社会的地位を約束されたメンバーばかりである。
サンドウィッチ伯爵の他に、詩人のポール・ホワイトヘッド、財務長官トマス・ポッター。更に、特別な招待客の中に、後のジョージ3世となるウィリアム・フレデリックや、後の首相ビュート伯などの大物人物が名を連ねていた。
ダッシュウッド卿は、会員の為に豪華なクラブ専用の館を建設し、贅沢な調度品にポルノ絵画、そして、オカルト関係の書籍が集められ、友好の士を持て成した。会員は酒を飲めることを条件にした為、ワインやポートワインなどの年代物が豊富に倉庫に用意されたと謂う。

黒ミサではやがて女性も用意される様になる。ロンドン市内から高級娼婦を呼んで修道女の衣装を着せて自由気ままにあしらうなど、放蕩息子たちは財産と権力に任せて淫靡で神秘的な世界に熱中した。
一説によると、麻薬からSMプレー、降霊術、悪魔召喚など、規則も束縛もない背徳の世界が展開されていたと謂う。

(画像・地獄の火クラブメンバー、地獄の火クラブがあった館)

       

       




                                     呪い あなたの知らない不気味な世界
                                           -正視できない恐怖儀式の数々ー
                                                    死霊を呼ぶ不気味な集団


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菜根譚 前集142項

2017-09-14 06:16:46 | Weblog

当与人同過、不当与人同功。
同功則相忌。
可与人共患難、不可与人共安楽。
共安楽則相仇。

当に人と過を同じくすべく、当に人と功を同じくすべからず。
功を同じくせば、則ち相忌まん。
人と患難を共にすべく、人と安楽を共にすべからず。
安楽を共にせば、則ち相仇せん。

*****************************************

「共有できるものと、できないもの」

失敗した時には、その責任を他人と共にとることはできるが、成功した場合の功績は、他人と共にすることはできない。
功績を共にすると、互いに相手を遠ざける心が生ずるものである。
また、苦労は他人と共にすることはできるが、楽しいことは共にすることはできない。
楽しいことを共にすると、互いに憎しみ合う心が生ずるものである。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

☆流れ星を見て戦争を占った中国の仲達

2017-09-13 05:01:21 | Weblog

中国三国時代、蜀の劉備に仕えた丞相諸葛亮(孔明、181~234年)は、優れた戦略家として知られる。
孔明は234年8月、五丈原で魏の司馬懿(仲達、179~251年)と戦っているうちに病死したが、
その時、仲達は次の様な情景を見た。

赤い芒角(かど)のある星が、東北から西南へと流れ飛んで蜀の陣営に落ちて行く。
二回までは落ちてからも空中に戻ったが、三度目には遂に地に落ちた。
占星術では、流れ星が落ちるのは敗戦の兆候を表わす。
仲達はこれを孔明の敗戦の前兆と見て蜀軍の後方に奇襲をかけたが、この時はまだ孔明の死は伝えられていなかった。
陣営に火を着けて蜀軍が突然撤退を始めたので、付近の住民たちは何かが起こったことを魏軍に知らせに来る。
仲達は迫撃を開始したが、蜀軍一行の最後にいた楊儀が鼓を鳴らして防ぎ止め様としたので、「切羽詰った敵を追い詰めては却って危ない」と仲達は迫撃を一旦中止した。

数日後、孔明の陣営跡を見た仲達は、そこに軍事に関する機密書類や作戦書、軍糧などがそのままになっているのを見て初めて孔明の死を知り、「孔明は天下の奇才だ」と言ったと謂う。
まだ孔明が生きているのかも知れないと言う部下の辛毗に、「軍人が一番大切にするべき、謂わば内臓にあたるこれらの物を捨てて行くなんて、生きているとは考えられない」と言い放った。

これを見ていた住民が、仲達の弱腰な様子を目にして言った言葉が「死せる孔明、生ける仲達を走らす」である。
これは唐の太宗の648年に完成された晋王朝一代の歴史を扱う『晋書・宣帝紀』によるものだ。
また、孔明の遺体は遺言によって、218年から219年にかけて蜀の大将黄忠が魏の夏侯淵を破った定軍山に葬られた。
孔明が望んだのは、塚を築くこともない質素な埋葬だったと謂う。


(画像・司馬懿仲達「歴史人 完全保存版 三国志の真実」より)

     

     

                                  呪い あなたの知らない不気味な世界
                                           -不吉な未来を見通す神秘ー
                                                   占星術の恐るべき支配力


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★占星術の予言書を読み違えて滅びた秦

2017-09-13 04:56:48 | Weblog

古代中国には、人間界のことは星の世界に反映し、
星の動きは人間界に起こる事件の予兆だとする「天人感応の説」と云う考え方がある。
これに因って占星術が起こった。

例えば、ほとんど動かない北極星を現世の皇帝に見立て、その光が弱くなると皇帝の身に何か異変があるとか、
木星が意外な方向に動いたりすると、その下の地域に兵乱が起こるなどと予言をする。
強大な権力を誇った秦の始皇帝が造った「万里の長城」にも、この占星術による予言書が関係していたと謂われている。

当時、秦の北方に匈奴と云う種族がいた。
匈奴はフィンランド人の祖先とも言われる乗馬と弓が得意の勇敢な騎馬民族で、各部族が統合されて大きな国家に成りつつあった。秦にとっては脅威である。
『史記』始皇本紀によると、燕の盧生と云う人物の『録図書』と呼ばれる予言書に「秦を亡す者は胡なり」とあるのを知った始皇帝が、紀元前215年、それまで進出が阻まれていた匈奴に将軍蒙恬率いる30万の大軍を送り、一気に滅ぼしてしまう。
胡とは匈奴を指す。
その上、始皇帝は再び匈奴が攻め入って来ない様に、万里の長城を建設させ備えたのだ。

結局、匈奴が秦を滅ぼすことはなかったが、長城築造の為に毎年数十万人が投入されたことが秦の国力を弱める結果となってしまった。そして、長城を築いた始皇帝は安心して死んだが、その跡を継いだ二世胡亥の時に滅亡する。

「秦を亡す者は胡なり」と云う予言の「胡」とは匈奴ではなく、実は胡亥のことだったのだ。

     

     



                                   呪い あなたの知らない不気味な世界
                                            -不吉な未来を見通す神秘ー
                                                    占星術の恐るべき支配力


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レカミエ夫人 フランス社交界すべての男を虜にした美しき天使(1777~1849)

2017-09-12 04:40:27 | Weblog

フランス、ナポレオンの第一執政時代、パリ社交界の華として一世を風靡したレカミエ夫人は、フランス美人の代表的存在としても知られている。彼女は人妻ながら、清楚にして慎ましやかな美しさを備え、多くの男たちを魅了した。皇帝ナポレオンもその一人だったと言われている。


「ナポレオンをも魅了した清楚なる美貌」
リヨンに住む公証人の娘ジュリエット・ベルナールが、四十二歳のパリの銀行家ジャック・レカミエと結婚した時、人々は大いに驚いた。何故なら、ジュリエットは外を歩くだけで人が集まる程の美貌を誇っていたものの、まだ十五歳の清楚な少女だったからである。
その為か、二人の結婚は様々な憶測を呼ぶこととなる。

巷間では、この結婚は「白い結婚」と評され、二人の仲はプラトニックなものと囁かれていた。
また、二人は実は親子であり、財産相続の為の結婚だと云う説も流された。
更に、或る医師がレカミエ氏の手紙を根拠に、結婚初夜に問題があった為に夫が肉体関係を諦めたと云う内容が記された本も出版された。
もちろん、これら諸説の実際のところは不明だが、これほどまでに二人の結婚が世間の耳目を集めたのは、ジュリエット、つまりレカミエ夫人がそれだけ美しかったからだった。
彼女のサロンには、とにかくたくさんの男たちが集まって来た。
彼女のサロンは、単なる社交場ではない、文化的意義を持った最後のサロンとも言われていたが、一流の文化人を始め、メッテルニッヒの様な当時の政府高官も集い、かのナポレオンも彼女に心惹かれていた一人だったと云う。

彼女は清楚な美貌と、優雅で淑やかな物腰、そして何よりも相手を夢見心地にさせる天使の様な微笑で男たちの心を掻き乱したが、それでいて、決して一線を越え様とはしなかった。
しかし、男たちは自分の情熱が受け入れられなくても、絶望の淵に落されることはなかった。
彼女に心を優しく癒された男たちは、やはり彼女を愛し続けて行くことになるのである。
何故、彼女はそれほどまでに男たちに愛されたのかは、晩年の恋人シャトーブリアンが後に評した「彼女には処女と愛人との奇妙な魅力が入り混じっている」と云う言葉こそ「言い得て妙」と言えるのかも知れない。
時は革命の嵐が吹き荒れる真っ只中。しかし、彼女のサロンだけはまるで別世界の様な時間が流れていた様だ。

「文豪シャトーブリアンとの恋」
そんなレカミエ夫人にも、ようやく本当の恋が訪れる。
相手は親友スタール夫人の家で出会った『アタラ』などのロマン主義文学を残していた五十歳の文豪シャトーブリアンだった。
貴族出身の彼は、若い頃には天才作家の名を欲しいままにし、一時は外務大臣にも就任したことがある貴公子だった。
1818年四十一歳にしてこの天才作家と恋に落ちたレカミエ夫人は初めて肉体的な一線を超え、女としての喜びを味わう。
それから三十年間、二人は結婚こそしなかったものの、シャトーブリアンはレカミエ夫人のサロンで作品を朗読し、晩年、全盲になった彼女と痛風に苦しむ彼は近くに住みながら、互いに労わり合って生活していた。
そして、彼が死ぬその時までずっと傍に寄り添い、愛を成就したと云う。

シャトーブリアンが死んだ翌年、レカミエ夫人もその後を追う様にして、静かにこの世を去っている。

             

                                                   世界の「美女と悪女」がよくわかる本


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする