●無責任な父親・頼房
テレビドラマ『水戸黄門』で知られる歴史的有名人物・徳川光圀。彼は1628年6月10日水戸城下の三木之次の屋敷に生まれた。生みの母は水戸家の祖である頼房の側室・久子。だが、久子が光圀を身籠った時、実は父親である頼房は全く祝福しなかったという。祝福しないどころか、頼房は父親の立場でありながら「直ぐに水子に致せ」と久子に堕胎を命じたとか。とんだろくでなしだ。
テレビドラマ『水戸黄門』で知られる歴史的有名人物・徳川光圀。彼は1628年6月10日水戸城下の三木之次の屋敷に生まれた。生みの母は水戸家の祖である頼房の側室・久子。だが、久子が光圀を身籠った時、実は父親である頼房は全く祝福しなかったという。祝福しないどころか、頼房は父親の立場でありながら「直ぐに水子に致せ」と久子に堕胎を命じたとか。とんだろくでなしだ。
●改易の嵐が吹き荒れる厳しい時代
頼房が久子の懐妊を喜ばなかったのには。水戸家の立場が深く関係している。当時、世間では譜代も外様も関係なしに改易が相次いでいた。そんな中、御三家の中でも一番末に位置していた水戸家が兄たちより先に子供を授かることは許されることではなかった。ところが、頼房の一番恐れていた事態、つまり兄たちよりも先に、更には将軍・家光よりも先に子供を儲けてしまったのである。頼房に見放された久子は、主命に背いて密かに出産。その後、兄らが子供を儲けたことで堂々と子を持つことができるようになった頼房。いざ、自分の子供の数を確認してみると、何と頼房には七人の息子がいることが発覚したとか。だが、男児が一人もいない兄たちを気遣い、頼房は長男・頼重を庶長子とし、光圀を長子として登録、水戸藩は必然的に光圀が受け継ぐことになったという。
頼房が久子の懐妊を喜ばなかったのには。水戸家の立場が深く関係している。当時、世間では譜代も外様も関係なしに改易が相次いでいた。そんな中、御三家の中でも一番末に位置していた水戸家が兄たちより先に子供を授かることは許されることではなかった。ところが、頼房の一番恐れていた事態、つまり兄たちよりも先に、更には将軍・家光よりも先に子供を儲けてしまったのである。頼房に見放された久子は、主命に背いて密かに出産。その後、兄らが子供を儲けたことで堂々と子を持つことができるようになった頼房。いざ、自分の子供の数を確認してみると、何と頼房には七人の息子がいることが発覚したとか。だが、男児が一人もいない兄たちを気遣い、頼房は長男・頼重を庶長子とし、光圀を長子として登録、水戸藩は必然的に光圀が受け継ぐことになったという。
学校で習った歴史はウソだらけ!?
日本史 大ウソ事典 「江戸」
日本史 大ウソ事典 「江戸」
●佐々木小次郎は架空の人物?
1612年4月13日、山口県・巌流島で宮本武蔵と佐々木小次郎が対峙した。だが、この決闘は存在自体が疑問視されており、小次郎の素姓も定かではない。
1612年4月13日、山口県・巌流島で宮本武蔵と佐々木小次郎が対峙した。だが、この決闘は存在自体が疑問視されており、小次郎の素姓も定かではない。
伝記『二天記』によると、小次郎は中条流の使い手・富田勢源の弟子だったという。当時、多くの兵法家は「扱い易い」という理由で二尺三寸ほどの刀を使ったのだが、小次郎は一般的な刀より長い三尺ほどの大太刀を用いた。「物干竿」だ。かの有名な巌流島での決闘についてだが、実際問題として信用できる史料からその有無を確認することはできない。而も、その経緯については諸説ある。
●「巌流島の決闘」の別伝とは.....
一対一の真剣勝負で行われたというこの決闘だが、驚くなかれ、武蔵はその約束を破って弟子を数人連れて来たという説がある。決闘自体は一対一で行われ、小次郎が敗北。気絶した彼を、何と岩陰に潜んでいた武蔵の弟子たちが大勢で打ち殺したというのだ。また決闘時の小次郎の歳は『二天記』に十八だと記されているが、彼が生前の勢源と出会うには決闘時に最低でも五十歳以上、直弟子であれば更に上としか考えられない。一説には七十歳を超えていたとも.....。一対一の真剣勝負という条件を守った小次郎とそれを破った武蔵.....。それが事実ならば、当時の人々が小次郎に同情的だったというのも納得できる話である。
一対一の真剣勝負で行われたというこの決闘だが、驚くなかれ、武蔵はその約束を破って弟子を数人連れて来たという説がある。決闘自体は一対一で行われ、小次郎が敗北。気絶した彼を、何と岩陰に潜んでいた武蔵の弟子たちが大勢で打ち殺したというのだ。また決闘時の小次郎の歳は『二天記』に十八だと記されているが、彼が生前の勢源と出会うには決闘時に最低でも五十歳以上、直弟子であれば更に上としか考えられない。一説には七十歳を超えていたとも.....。一対一の真剣勝負という条件を守った小次郎とそれを破った武蔵.....。それが事実ならば、当時の人々が小次郎に同情的だったというのも納得できる話である。
学校で習った歴史はウソだらけ!?
日本史 大ウソ事典 「江戸」
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●法螺貝ではなく大ボラを吹いた山伏
江戸時代中期、天一坊事件と呼ばれる詐称事件が起きた。天一坊と名乗る男・山伏が「将軍吉宗の落胤である」と身分を詐称して町人から金品を巻き上げたのである。天一坊が言うには、母から「城に奉公に行った時に身籠った子供だ」「吉の字を大切にせよ」「お前の生まれは尊いものだ」などと言われながら育てられたという。自分を吉宗の落胤であるとスッカリ信じた天一坊は、父に会いに江戸に赴く。
江戸時代中期、天一坊事件と呼ばれる詐称事件が起きた。天一坊と名乗る男・山伏が「将軍吉宗の落胤である」と身分を詐称して町人から金品を巻き上げたのである。天一坊が言うには、母から「城に奉公に行った時に身籠った子供だ」「吉の字を大切にせよ」「お前の生まれは尊いものだ」などと言われながら育てられたという。自分を吉宗の落胤であるとスッカリ信じた天一坊は、父に会いに江戸に赴く。
一方、数々の火遊びをして来た八代将軍・徳川吉宗は隠し子の存在を否定できず、解決には時間を要した。しかし、立証する証拠が見つかることはなく、彼は世間を惑わせた詐欺師として処刑されたのである。
●後世まで語り継がれる名裁き?
この天一坊の嘘を見破ったのは、名奉行で有名な大岡越前守忠相とされている。この話は江戸後期の講談師によって広まり、大評判となった。後に大岡越前の名裁きとして歌舞伎や映画、小説の題材となり、様々に脚色を加えられて上演されている。フィクションとしての天一坊事件は、彼を身分詐称だけでなく、自分の嘘に信憑性を持たせる為に殺人まで犯した大悪人として描かれている。しかし、実際は大岡越前は関係しておらず、勘定奉行稲生下野守正武が裁きを行なったという説が有力となっている。
この天一坊の嘘を見破ったのは、名奉行で有名な大岡越前守忠相とされている。この話は江戸後期の講談師によって広まり、大評判となった。後に大岡越前の名裁きとして歌舞伎や映画、小説の題材となり、様々に脚色を加えられて上演されている。フィクションとしての天一坊事件は、彼を身分詐称だけでなく、自分の嘘に信憑性を持たせる為に殺人まで犯した大悪人として描かれている。しかし、実際は大岡越前は関係しておらず、勘定奉行稲生下野守正武が裁きを行なったという説が有力となっている。
学校で習った歴史はウソだらけ!?
日本史 大ウソ事典 「江戸」
日本史 大ウソ事典 「江戸」
好きな人への想いを込めたクロユリをその人の近くにそっと置いて、
相手がそのクロユリを手にすれば、いつの日か二人は結ばれるといいます。
花言葉の「恋」は、このお話に因みます。