Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

◆百姓一揆は「打倒領主」を目的としていたというのはウソ

2020-10-30 07:22:27 | Weblog
庶民たちが権力者に対する抵抗手段として中世から行われていた「一揆」。英訳するとriot(「暴動、反乱」の意)などになる為、誤解されるが、一揆とはあくまで「一致団結し徒党を組むこと」という意味である。そしてその目的も「悪徳領主を打ち倒すこと」に限られると思われがちだが、近年、実はそうではないことが分かって来た。
百姓一揆の目的は領主を倒すことではなく、あくまで「よりよい政治を行ってもらう」ことにある。百姓にとって領主は災害や飢饉などの危機から領民を守るべき存在であり、いなくてはならない存在なのだ。領主は年貢を納めてもらい、百姓は生活を保障してもらう持ちつ持たれつの関係だったと考えられている。領主がその責を全うしていないと思われた時、百姓は行動を起こすのだ。島原の乱などは目的を「打倒領主」とする一揆であったが、こういった一揆はどちらかというと珍しい、激しい部類の一揆である。一揆では「無関係の家屋などを壊してはいけない」「盗みをはたらいてはいけない」など、やっていい事と悪い事をその一揆に参加する集団の中で事前にある程度取り決めて統率をとっていたのだ。ちなみに百姓が一揆の際に手にした鍬や鋤は武器として用いただけでなく、自分たちが百姓であるというシンボルとしての意味も持っていた。一揆と似たもので「打ちこわし」というのがあるが、これは不正をはたらいた者の家屋などの破壊を目的として行う運動である。よって必ずしも「一揆=打ちこわし」とはならないのだ。


幕末に起こった「ええじゃないか」騒動の様子。
世直し一揆の一環と考えられることが多いが、真相は不明。


「三重県下頌民暴動之事件」(一部) 月岡芳年・画
明治初期の租税改正反対一揆(伊勢暴動)を描いたもの。
竹槍で壁を破壊している。


              
              教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
                         戦乱と歴史のウソ



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菜根譚 後集88項

2020-10-29 07:49:12 | Weblog

纏脱只在自心。心了、則屠肆糟廛、居然浄土。
不然、縦一琴一鶴、一花一卉、嗜好雖清、魔障終在。
語云、能休、塵境為真境、未了、僧家是俗家。信夫。

纏脱は只自心に在るのみ。心了ぜば、則ち屠肆糟廛も、居然として浄土なり。
然らずば、縦い一琴一鶴、一花一卉の、嗜好清しと雖も、魔障は終に在り。
語に云う、「能く休さば塵境も真境と為り、未だ了ぜずば、
僧家も是れ俗家なり」と。信なるかな。
 
「束縛も解脱も自心による」
外物に束縛されることも、そこから解放されることも、
ただ自分の心のあり方一つにかかっている。
この自分の心のあり方を悟ることができたならば、例え肉屋や酒屋のような不浄と思われるような所に居ても、そのままに汚れのない所である。
そうでなかったらば、例え琴を持し鶴を飼って隠者の生活を送り、花や草を植えて暮らすような高士の生活をして、その趣味は如何に清らかであったとしても、悟りの障害となる悪魔は終生自分自身の心の中に飼っていることになる。
宋儒の語にも「よく悟り切れば、俗世界に居てもそこがそのまま真実の世界となるが、まだ悟っていなければ、形は出家でも在家と同じである」と言っている。
本当にその通りである。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆毛利家「三矢の訓」は3本ではなかった!?

2020-10-29 07:41:08 | Weblog

 

●元就が後世に残した教訓状
 毛利元就が臨終間際に残した「三矢の訓(さんしのおしえ)」。これは元就が3人の息子の絆を3本の矢に見立てたもので、今も有名な逸話として語り継がれている。だが、実はこの話には大きな矛盾が存在し、元就が亡くなった1571年、長男・隆元は既に死亡していたのだ。元就は59歳の時に教訓状を与えたことがあり、その中に「3人の仲が悪くなれば毛利家は滅亡する」という文章が書かれており、その教訓状が後年に脚色され「三矢の訓」になったといわれている。

●秀吉を救った4本目の矢
 そんな元就は男女12人ずつの子をもうけており、そのうちの4男・元清の子である秀元は「毛利4本目の矢」と言えるほどの功績を残している。実は秀元は豊臣秀吉の命を救ったことがあるのだ。文禄の役で名護屋に出陣していた秀吉が京都に戻る途中、船が衝突事故を起こす。秀吉は海に投げ出されるが、それを助けたのが秀元だった。その頃、秀吉は本能寺の変で和平を結んだままの毛利氏をいつか攻め落とそうと考えていたが、その一族に命を救われ、考えを改めるようになった。もし、この一連の出来事がなければ、秀吉が死んでいたか、毛利家は豊臣家に潰されていたことだろう。
毛利家に伝わる「三矢の訓」。まるで毛利家を支えたのは3人の息子と思われがちだが、孫である秀元の活躍があったことを忘れてはならない。


           
                 学校で習った歴史はウソだらけ!?
                       日本史 大ウソ事典 「戦国」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菜根譚 後集87項

2020-10-28 07:23:35 | Weblog



神酣、布被窩中、得天地冲和之気。味足、藜羹飯後、識人生澹泊之真。
神、酣ならば、布被の窩中にも、天地の冲和の気を得。
味、足らば、藜羹の飯後にも、人生の澹泊の真を識る。

「精神が充実していれば」
もし精神が充実していたならば、
たとえ布で作った粗末な夜具に寝るような貧乏な暮らしの中でも、
天地の調和した元気を得ることができる。
また、味覚に満足していれば、
藜(あかざ)の羹(あつもの)を吸うような粗末な食事をしながらでも、
人生のあっさりとした真実を味わうことができる。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆後北条5代を見続けた唯一の人物 97歳の最長寿武将 多趣味・多才な幻庵

2020-10-28 07:13:23 | Weblog



●長生きのカギは「生涯学習」
 北条早雲の三男として生まれた幻庵は、最も長生きした戦国武将として知られている。享年は何と97。信長が「人生50年」と謡い、数々の名将が合戦で夢破れて行った戦国時代に於いては、まさに驚くべき長命であると言わざるを得ない。
その長寿の秘訣はどこにあったのだろうか。肉体的に健康であったことはもちろんだろうが、彼が日頃から多くの教養を身に付けていたことを指摘する声もある。幻庵は戦国武将としての武術だけでなく、多彩な学問、和歌や茶道、鞍作りや造園などにも通じた文化人だった。この様に積極的に物事を学ぶ姿勢が晩年になってからの精神面を支え、ボケ防止ひいては長寿につながったのではないか、というわけだ。
●父の教えで文化人になる
 幻庵が文化的な武将になったのには、父・早雲の教えによるところが大きく、常日頃から「これからの時代、武家は学問が大事だ」と説いていたという。この時、早雲は60歳を過ぎており、武家社会の何たるかを彼なりに悟っていた時期だろう。幻庵はそんな父の教えをしっかりと受け継いだのだ。また、幼少期には箱根や京都で僧としての修行も積んでいることから、規則正しい生活習慣も身に付けていたと思われる。現在、神奈川県箱根町の箱根湯本駅近くに、幻庵が造園を手がけた早雲寺が残されている。訪れれば、彼の長寿と教養にあやかれるかも知れない。
        

                学校で習った歴史はウソだらけ!?
                      日本史 大ウソ事典 「戦国」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆レンブラントの「夜警」が夜の風景を描いたものというのはウソ

2020-10-26 07:14:10 | Weblog


「夜警」という名で親しまれたレンブラントの絵。
本当は左上から光が差し込む昼の風景である。

有名な西洋絵画の一つ、レンブラントの「夜警」。
美術の教科書などでほとんどの人が目にしているはずだ。あの作品、「夜警」というタイトルや絵の雰囲気から夜の風景だと思ってはいないだろうか?
実はあの絵は、昼の風景を描いたものなのだ。
絵の表面に塗られたニスが経年劣化の為に黒ずんでしまい、暗い色調になってしまっていただけである。第二次世界大戦後、絵の修復作業を行う際にニスを除去したところ、明るい昼間の情景が浮かび上がった。よく絵を見ると、夜だというのにロウソクなどの灯りがないことが分かる。
元々「夜警」というタイトルも、絵の雰囲気を見た後世の人々が名付けたもので、正式名は「バニシング・コック隊長の率いる市民の自警団」という。レンブラントもまさか自分の描いた絵のタイトルが勝手に変えられているとは思ってもいなかったことだろう。


         

               教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
                          行事・慣習のウソ

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菜根譚 後集77項

2020-10-25 15:06:46 | Weblog


七竈(Japanese rowan) Sorbus commixta
               慎重 賢明 私はあなたを見守る

樹木至帰根、而後知華萼枝葉之徒栄。人事至蓋棺、而後知子女玉帛之無益。
樹木は、根に帰するに至りて、而る後に華萼枝葉の徒らに栄えしを知る。
人事は、棺を蓋うに至りて、而る後に子女玉帛の無益なきを知る。


「妻子珍宝も身を助けず」
樹木は、秋になって落葉してしまって、そうした後に今までの花や、枝や葉などがいたずらに栄えていたことが分る。
これと同様に、人間も、死んで棺の蓋をする時になって、そうした後に子供や財産もその人にとって何の役にも立たないものであることが分る。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆ミイラがエジプト語で「乾燥遺体」を意味するというのはウソ

2020-10-24 07:10:16 | Weblog


アルゼンチンのユーヤイヤコ火山山頂で発見されたインカ帝国時代の少女のミイラ。人身御供が目的とされる。


スペイン領カナリア諸島で発見されたグアンチェ族のミイラ。
死体の保存が目的とされる。

ピラミッドの奥に眠るミイラ。腐敗せず乾燥した遺体のことを指すことから、ミイラとはエジプト語でそういう遺体のことを意味する言葉なのだと思う人もいるかも知れない。ところが、ミイラのことを「ミイラ」と呼ぶのは日本だけなのだ。
アメリカではミイラを「マミー」、フランスでは「モミィ」と呼ぶ。これはアラビア語で黒いアスファルトを意味する「ムンミヤ」が語源とされる。中世ヨーロッパに於いて、ムンミヤは万病に効く薬とされた。同じ頃、乾燥遺体がエジプトで発見され、その希少性から万能薬であると誤解されるようになった。アスファルトと乾燥遺体は同じ効能を持つことになり、乾燥遺体がムンミヤから「モミィ」と呼ばれるようになったのだ。
では日本にそれがどう伝わったかというと、江戸時代の初めに「西洋には万病に効く薬があるらしい」という話と、それが「ミルラ」という名前らしいという情報が入って来た。ミルラというのはポルトガル語で樹脂や香料の元になる植物のことだ。もちろん万能薬の効果などない。噂で伝わった「西洋の万能薬」は「乾燥遺体」のことであり、日本にも初期は「モミィ」と伝えられていたはずなのだが、何故かそこで「モミィ」と「ミルラ」が混同してしまった。結局「ミルラ」の方が広まり、より発音しやすい「ミイラ」になったのである。
何故ミイラを漢字で「木乃伊」と書くのかといえば、西洋で「乾燥遺体」を意味する「モミィ」が先ず中国に入り、「木乃伊」という漢字を当てられたからである。こういう経緯があり、日本では乾燥遺体を指して「ミイラ」と呼ぶのだが、他の国では全く通じないので知っておくとよいだろう。


         
               教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
                          行事・慣習のウソ

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆最古の人類がアウストラロピテクスだというのはウソ

2020-10-22 08:50:03 | Weblog



世界最古の人類は何かと聞かれれば、多くの人がアウストラロピテクスと答えるのではないだろうか。今から凡そ500万年前にアフリカ東部に誕生した猿人として知られ、教科書にもその名が載せられている。だが、実は近年の発掘調査の結果、アウストラロピテクスは最古の人類ではないことが分かったのだ。2000年、アフリカ中央部で発見された化石を調べると、アウストラロピテクスよりも古い700万から600万年前に生息した猿人だったことが判明した。その名を「サへラントロプス・チャデンシス」といい、脳の大きさはチンパンジーとほぼ同じ360~370ccだった。この発見によって、人類の起源が遡っただけでなく、人類発祥の地がアフリカ東部の草原地帯ではなく中央部の森林地帯だった可能性が高まり、定説が完全に覆されることになったのである。

         

              教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
                         伝統と起源のウソ

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆江戸時代に「士農工商」という身分制度があったというのはウソ

2020-10-21 10:24:11 | Weblog


農民の中には米以外の商品作物を作って江戸で売り、利益をあげる者もいた
                  (「江戸名所図会」 国会図書館所蔵)


江戸時代の武士や庶民たち
         (山東京伝「日本風俗図絵 第11輯」 国会図書館蔵)


支配階級の武士は年貢を納める農民を職人(工)や商人(商)より上の身分にして不満を抱かせないようにしたと以前は学校で教えられていた。いわゆる士農工商である。だが、近年ではそもそも士農工商という身分制度は存在していなかったと考えられていることをご存知だろうか。
「士農工商」は中国語に由来し、「民全体」を意味する。つまり、今でいうところの国民を指しているわけで、身分というより職分と言った方が意味としては正解だ。実際の身分制度は、武士の下に農民と町人が併存しているといういうものである。工商は区別されず町人と認識されていたし、農民が町人より偉かったわけでもなかった。また、農民と町人の上に立つ武士にしても、江戸時代後期には金でその身分が買えた為、厳密な身分制度があったとは言い難い。借金に困って商家の娘を貰い、返済を肩代わりしてもらう武士もいたし、藩政改革に抜擢されて農民から武士に取り立てられた者もいたぐらいだから、身分の壁は以前学校で教えられていたほど高くはなかったといえる。百姓や町人が大名になることはなかったが、一定の段階までなら身分が変わる可能性は十分あったことは間違いない。


           教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
                      歴史教科書のウソ



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆ネロ皇帝が暴君だったというのはウソ

2020-10-20 07:22:08 | Weblog


皇帝ネロの頭像


「ローマの火災」ユーべル・ロベール・画
               (アンドレ・マルロー美術館所蔵)

世界史の暴君と聞いて、誰を思い浮かべるだろうか。数多くの暴君の中でも一、ニを争うのがローマ皇帝ネロである。
ネロ皇帝の悪行といえば、母親殺しに始まりローマ大火災、キリスト教徒の迫害、芸術家気質による暴政など、どれか1つだけで十分だと言いたくなるようなレベルのものが挙げられる。
そんなイメージがスッカリ定着しているが、近年ネロは本当に暴君だったのかという議論が起こるようになった。というのも、ネロが暴君という扱いを受けるのは、キリスト教史観によるものだからだ。親殺し、子殺しなどは、キリスト教を公認したことで教会から聖人扱いを受けるコンスタンティヌス帝も行なっていたことで、確かに許される行為ではないのだがネロ特有の残虐行為かと言われるとそうではない。
また、ローマ大災の時、ネロは丘の上で街が焼けて行くのをヴァイオリンを弾きながら眺めたとも言い伝えられるが、ネロによる放火という確証はない。
ネロは焼失した街の復興に力を入れたが、皇帝の日頃の行いから市民の間で「皇帝が街に火を放った」という噂が流れるようになった。これに危機感を覚えたネロのとった行動が、「放火の犯人をキリスト教徒に仕立て上げる」というキリスト教徒の迫害だったのである。この一件が、ネロを暴君と言わしめたと言ってもいいかも知れない。
ネロ皇帝の初めの5年間は、何と「ローマ最良の時代」と呼ばれるほどに安定した政治を行っていたそうだ。ローマの安定を目指し、無理に領土を拡大しようとせず、ローマの様々な制度にも手を加え改良していた。一度付いた汚名は簡単に返上できるものではないが、こうしたプラスの面にもようやく光が当たり始めている。





              
              教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
                    人物にまつわるウソ 「世界編」

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菜根譚 後集72項

2020-10-19 07:57:55 | Weblog




権貴竜驤、英雄虎戦。
以冷眼視之、如蟻聚羶、如蠅競血。
是非蜂起、得矢蝟興。
以冷情当之、如冶化金、如湯消雪。
権貴は竜驤し、英雄は虎戦す。
冷眼を以て之れを視ば、蟻の羶に聚まるが如く、蠅の血に競うが如し。
是非は蜂起し、得矢は蝟興す。
冷情を以て之れに当らば、冶の金を化するが如く、湯の雪を消すが如し。

 

「冷静な眼、冷静な心」
勢力があり位が高い人々が互いに権勢を争い、英雄豪傑達が互いに龍虎の様に戦いをする。冷静な目でこれらを見たなら、それは蟻が生臭いものに群がり集まったり、蠅が生き物の血にたかったりする様なことと少しも変りがない。
また、良し悪しの議論が蜂の群れの様に群がり起こり、利害の打算がハリネズミの毛の様にいっせいに起こる。冷静な心でこれを直視したなら、それは鋳型が金属を溶かしたり、湯が雪を消す様なことと少しも変らない。それはいずれも大した問題ではない。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆栄西が生涯禅僧だったというのはウソ

2020-10-19 07:47:04 | Weblog


栄西の肖像や木像は頭部が角ばった形で表現されることが多い。

鎌倉時代から室町時代にかけて、新しく成立した仏教宗派の教えが、公家だけでなく武家や庶民にまで広がりを見せた。その一つが、栄西が中国から持ち込んだ臨済宗だ。臨済宗は坐禅によって自分自身を鍛えて悟りを目指す禅宗の一つで、そのストイックな姿勢が武士の支持を集めた。
その臨済宗の開祖と位置づけられている為、栄西は禅僧だったと思われがちだが、在世中は天台宗の密教僧として名高い人物だった。朝廷や幕府からは国家安寧や無病息災、雨降らしなどの祈祷の依頼が絶えない優秀な密教僧だったようで、栄西自身が興した流派も元は密教から派生していた。禅が宗派として組織化されたのは彼の弟子たちの時代になってからである。
栄西が禅宗を取り入れたのは、腐敗して政治の道具となった仏教界を立て直す為だった。彼の時代には既存の仏教団体の反対にあって大々的には布教できなかったが、鎌倉では禅による仏教再興を図りながら密教儀式を行っていたようだ。


              教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
                    人物にまつわるウソ 「日本編」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆女王・卑弥呼は実在したのか? 卑弥呼は人にあらず、役職名・称号だった!

2020-10-17 11:09:04 | Weblog



●卑弥呼は動乱を治めたカリスマか?
 30もの国々を束ね、倭国に君臨したという女王・卑弥呼。1000人もの女中を侍らせた、呪術を使った.....など数多くの伝説が残る。日本史を代表する人気キャラクターの一人である。
「魏志倭人伝」によれば、倭国は動乱期にあり、長らく戦が続いていた。やがて疲弊しきった国々は、和平を画策し始める。そこで国々の同意のもと、王として一人の女子が擁立された。これが「卑弥呼」である。
この話から窺える卑弥呼像は、まさしくカリスマ。だが、国内が内乱で疲弊する中でカリスマ的女性が登場し、30か国を統べる王となった.....とは、あまりにも出来過ぎた話ではないか。
●「卑弥呼」とは役職名だった!?
 そこで考えられるのが「卑弥呼とは役職名だった」という説である。平和を求めた国々は、その「象徴」として女性を王にすることにし、「卑弥呼」という役職を設け、代々女性が就くこととなったーーーつまり卑弥呼とは、国内が平和な状態にあることを示すシンボルだったのだ。「魏志倭人伝」の「卑弥呼が死ぬと男子の王が立てられた。邪馬台国の人々はこれに服さず、内乱状態になり千余人が死んだ」は、卑弥呼職を廃して男性の王を擁立したが、平和の象徴がいなくなったことで再び内乱が起きた.....と考えられる。倭国の平和は「卑弥呼」あってこそのものだったのだろう。
              学校で習った歴史はウソだらけ!?
                    日本史 大ウソ事典 「古代」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆正座が茶道における伝統的な姿勢というのはウソ

2020-10-16 08:12:00 | Weblog
日本の伝統的な所作と言える正座。現代日本では建物が西洋化している為、剣道や弓道、或いは茶道や華道でも習っていない限り、日頃から正座をする人は少ないかも知れない。その茶道だが、お茶の席で足でも崩そうなものなら行儀が悪いと叱られてしまうだろう。だが、元々は茶道に於いて正座をしなければならないという決まりはないのである。
茶道の開祖といえば千利休であり、利休の茶室は2畳ほどと大変狭いことで有名だ。そんな狭い空間だからこそ、スペースをとらない正座が推奨されたという説もあるが、利休の時代に正座という作法は存在しなかった。当時は身分によって正しい座り方というものがあり、胡坐をかいたり、片膝を立てたりと座り方は様々であった。
いつ頃から正座が正しい所作だと認識されるようになったかはハッキリしていないが、凡そ江戸時代の中期だと考えられる。明治期に入り、国民が教育を受けられる環境ができると、「体育」や「修身」の時間に規範的な姿勢として教えられるようになり、正座という所作が広く国民に浸透するようになった。当時の日本家屋が正座に適した造りになっていたことも広まった要因といえる。最近の日本人は正座もできないと嘆かれることもあるが、所作というのは時代によって変わるものだ。とはいえ、現代に於ける茶道の場で足を崩していいわけではないし、いざという時に足が痺れてひっくり返ってしまわないように正座にも慣れておくのが良いだろう。


千利休像 服で分かりづらいが。胡坐をかいている。


千利休のもう一つの特徴がこの狭い入り口、「にじり口」である。
写真は江戸時代の茶人松平不昧ゆかりの茶室・明々庵(島根県)。





                教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
                           伝統と起源のウソ

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする