Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

◆天候を操る水の神獣 ミズチのホラヌケ

2023-06-29 12:15:50 | Weblog


『前賢故実 県守』
岡山県高梁川のミズチを多治比懸守(県守)が退治したと伝わる。(国立国会図書館蔵)


みずち(蛟・虬・虯・螭)古くはミツチと清い音。
ミは水、ツは助詞、チは霊で、水の霊の意。想像上の動物。
蛇に似て、四脚を持ち、毒気を吐いて人を害するという。虬龍(きょうりょう)。
                    
                           『広辞苑』
   

   ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼


予(松浦静山)の家来某の話であるが、ある夜、小舟に乗って海上で釣りをしていたところ、
月があり風も涼やかであったが、白岳(長崎県対馬市、518㍍)方面を遠望していると、
山頂から白雲が生じ流れ出て、やがて真上に到り、茶碗状にかたまった。
その側にまた白雲が生じたかと見る間に、黒い雲が湧き出て、次第に東北に伸びて行ったが、
忽ち篠突くような雨が降り出し、海面も荒波となった。

予が考えるところ、これこそミズチのせいである。
ミズチは世に言うところの雨龍で、山腹の土の中に住む。
また、世間で宝螺(ほら)ぬけといって、あちこちの山腹が急激に震動して、
雷雨のうちに何物かが飛び出すことがある。これを土中のほら貝がでるのだというが、
誰もそれを目撃した者はない。それはミズチが地中から出るのだともいわれている。

淇園先生(柳沢里恭・さとたか、1704~1758)の話によると、
ある武士が友人宅に泊って、庭を見ていたところ、竹垣の脇から白い煙状のものが生まれ、
見る間に一丈(3㍍余)の高さに立ち昇って、遂に一団となったという。
また飛び石の上が三、四尺(1㍍ほど)濡れて雨が降ったかのように見える。
その人は不思議に思って、眼を凝らし竹垣の脇を見詰めていると、
藪の中にトカゲがいる。このトカゲは大きく、四つ足で、ミズチの一種であって、
つまりこの種属は雨を起こすものである、との説であった。
                

                       『甲子夜話』 巻二十六
   

   ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼


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◆いつの世もスキャンダルが世を賑わす かわらけお伝をめぐる五十人(?)の男

2023-06-28 13:02:09 | Weblog


『浮世柄比翼稲妻』 「おでん 瀬川菊之丞」 (早稲田大学演劇博物館所蔵)


『音菊高麗恋』 「大経師娘おたま 瀬川菊之丞」 (早稲田大学演劇博物館所蔵)


お伝は文化・文政(1804~1830)の頃、江戸に艶名をはせた女豪。
本名はむらといい、汐留(東京都港区)の船宿の娘として生まれた。
当時盛んだった女義太夫を習い、二代目竹本小伝と称した。

誰が言い出したのか、その仇名を「かわらけお伝」または「塩梅よしのお伝」と呼ばれた。
「かわらけ」とは無毛症のことで、お伝は大切なところに毛がない、と噂された。
また「塩梅よし」とは、屋台で行商するおでん屋が、
呼び声で「おでんやおでん、塩梅よしのおでん」と触れ歩いていたことにより、
やはり大切なところの塩梅が絶妙である、という裏の意味が隠されている。
現代ならば人権侵害で訴訟沙汰になりかねない仇名であった。

何故、お伝女史が、かくも有名になったかというと、
彼女が淫弄(いんぽん)女だというゴシップが急速に拡がった為であった。
そもそも十七歳くらいの年で、三代目尾上菊五郎(1784~1849)の栄三郎時代に、
色恋沙汰が噂され、早くも淫婦として頭角をあらわした。
その後、三代目坂東三津五郎(1775~1831)と結ばれ、
先妻を追い出し、その後妻となっていたが、文政六年(1823)頃から、
女形の五代目瀬川菊之丞(1802~1832)と密通するようになった。

三津五郎も菊之丞も江戸劇界のスーパースター。
三津五郎は少し苦み走った粋な風采の名優であったし、
菊之丞は眼は三白眼ながら色気のある女形で、足が大きく十三文、
往来で人と出会っても不愛想な男だったが、舞台では愛嬌も色気もある女形、美女(?)であった。
しかも三津五郎と菊之丞とは男色関係だったから、事態は複雑を極めていた。

菊之丞との関係はすぐさま劇場関係者に知られたらしく、
文政六年三月、市村座での菊之丞は「花川戸土物師人形おでん」という役名を与えられている。
花川戸土物師とは今戸焼きで知られる素焼きの陶器を焼く職人をいい、土器(かわらけ)を暗示し、
人形の語で美女を、更に実名の「おでん」まで出して、あてこすっている。
菊之丞は素知らぬ顔でその役を演じたのであった。

翌年、菊之丞との密会を、三津五郎の弟子の三津右衛門にかぎつけられ、
遂に菊之丞は妻を離縁したが、密会は続行。
この辺りから、お伝の多情は拍車がかかり、噂に尾ひれが付いて拡散して行った。

文政九年(1826)、お伝、四十一歳。

三月の市村座で『鏡山』が上演される。三津五郎は女の敵役の岩藤というお局で、
劇中で菊之丞扮する尾上というお局を草履で打擲(ちょうちゃく)する場面がある。
ここで事件が発生した。
この草履打のシーンで観客がどよめき、「打て、打て!」「間男をぶち殺せ!」と立ち騒いだ。
すでに菊之丞の密通は江戸市民に知れ渡っていたのである。
三津五郎はこうした世間の噂に耐えていたが、遂にお伝を離縁し、もとの女房を呼び戻した。
世間は面白がって、お伝がらみの艶本を出版するやら、
偽名ではあるが、直ぐにそれと解る間男の名前を列挙して番付に仕立て、刊行した。

このイエロー・ジャーナリズムが鎮火したのは、お伝の死の年、文政十一年頃であった。

噂の餌食となった人々を挙げると、三枡源之助・清元斎兵衛(三味線弾き)・土生玄碩(眼科医)・
坂東三津右衛門・吾妻藤蔵・七代目市川団十郎・中山亀三郎(女形)・三代目小佐川常世(女形)・
清元延寿太夫・清元栄寿太夫(清元の太夫で父子)・三代目中村歌右衛門・市川鰕十郎・中村十蔵・
大久保今助(金主)・九代目森田勘弥・五代目中村伝九郎。五代目松本幸四郎・
二代目桜田治助(作者)等々、枚挙に暇がない。

真偽はともかくとして、人の口に戸はたてられず、菊之丞は文政九年の九月頃、江戸を出奔、
東北地方の巡業に出たが、お伝も同行した。
お伝の死は文政十一年(1826)、四十三歳であったという。
気の毒な一生であった。
                  

                                『多話戯草』ほか


『俳優舞台扇』 二代目関三十郎の福屋佐七。
三十郎はおでんの間男のひとりと目された。
 

二代目粂三郎は子役時代に容疑あり。
『東海道四谷怪談』 「お岩妹お袖 岩井粂三郎」


五代目伝九郎もおでんの間男のひとりと目された。
『南爾寄来妙法経』 「かなてこ伴七 中村伝九郎」


おでんの間男のひとり 「舎人桜丸 三枡源之助」


七代目団十郎も間男の容疑者。
『俳優舞台扇』 「立場の太平次 市川団十郎」


おでんの本夫、三津五郎
「大当狂言ノ内 梶原源太 三代目坂東三津五郎」


坂東三津右衛門の赤岩牙次郎。
三津五郎の弟子で、間男のひとりに数えられたが、
実は菊之丞とおでんの仲を三津五郎に密告したのが三津右衛門。
 

七代目団十郎の赤岩一角。
七代目もおでんの間男に数えられているが眉唾のよう。
 

五代目瀬川菊之丞の毒婦船虫美貌の女形だが、バイセクシュアルだったのか、
お伝の本間夫(ほんまぶ)として浮名をはせた。


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菜根譚 前集188項

2023-06-28 11:45:02 | Weblog


Princesse de Monaco


縦欲之病可医。而執理之病難医。
事物之障可除。而義理之障難除。

縦欲の病いは医(いや)すべし。
而れども執理の病は医し難し。
事物の障りは除くべし。
而れども義理の障は除き難し。


「理に堕する弊害」
欲望を欲しいままにする人間の癖は直すことができる。
しかし、理窟に拘る人間の癖は直し難いものである。
また、物資的な障害は取り除くことができる。
しかし、道理の上での障害は取り除き難いものである。


        ☻̥̥̥̥ღღ☻̥̥̥̥ღღ☻̥̥̥̥ღღ☻̥̥̥̥ღღ☻̥̥̥̥ღღ☻̥̥̥̥ღღ☻̥̥̥̥ღღ☻̥̥̥̥ღღ


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◆事実か妄想か 飯盛女郎、実は姫君?

2023-06-25 15:39:01 | Weblog


『見立三十六歌仙之内・業平・清玄』 八代目市川団十郎の清玄の亡霊。
『桜姫文章章』は清玄桜姫物のバリアント(変型、変種)

 


五代目岩井半四郎の桜姫 『桜姫東文書』初演時の役者絵。

 

歌舞伎に「清玄桜姫」物という類型作品が何作かある。
かなり古い逸話がもとになっているらしく、
延宝(1673~1681)頃から盛んに音曲化・劇化されてきた。

物語の骨子は┈┈┈清水寺の清玄法師が桜姫という高貴な女性に迷って堕落し、
その怨念が亡霊となるという筋で、聖僧が恋慕のあまり病み衰え、
女性を掻き口説くところが見どころで、手を変え品を変えしてヴァリエーションを生んできた。

四代目鶴屋南北という作者は、かなり突飛なアイデアの持ち主で、
人を驚かすような舞台をこしらえた。
文化十四年(1817)三月、河原崎座で初演した『桜姫東文章』もその類いである。

吉田家の姫君桜姫が悪党の中間釣鐘権助にレイプされ、その挙句、千住の宿場女郎に売り飛ばされる。
桜姫は腕に権助の仇名に因んで釣鐘の入れ墨を彫っていたが、釣鐘の図が小さい為、
風鈴お姫と呼ばれて売れっ子になっている。

桜姫の枕元に夜な夜な惨殺された清玄の幽霊が出るので、このところ客がつかない。
桜姫は幽霊に向かってタンカを切る。
「そなたの死霊がつきまとうゆえ、馴染みの客まで遠くなるわな。
ええ、人の稼ぎの邪魔をするのか、妨ぐるのか。さ、消えなよ、消えなよ、夜が明けるよ。
世になき亡者の身をもって緩怠至極(かんたいしごく)、ええ、消えてしまいねえよ」

幕末ともなると、女性は強くなって、幽霊など怖がらなくなってしまった。
桜姫はお姫様ことばと、伝法肌の安女郎ことばをミックスして喋る。
演じたのは美貌の、眼千両と謂われた五代目岩井半四郎。
観客はその奇抜さに度肝をぬかれた。

この姫君=安女郎という芝居には、もとネタがあった。
実在していたのである。
文化三年(1806)、品川宿(東京都品川区)の飯盛女(宿場女郎)
琴、二十五歳が勘定奉行石川左近将監の役所から喚問を受けて出頭した。

琴は常日頃、自分は京都の生まれで、日野大納言補清卿の息女であると称し、
歌など書いた短冊を客にプレゼントしたりして、かなり評判となっていた為、
呼び出され、取調べを受け、そのまま入牢となったのである。

出頭した時のお琴さんのいでたちは、髪は下げ髪にし、紫縮緬の鉢巻、
繻子の裲襠(うちかけ)を着ていたという。

さっそく京都日野家へ問い合わせたところ、
「このほう息女にはこれなく候えども、女の身、不憫にも存じ候間、よろしくお取り計らうべく......」
という、微妙な返事がかえってきた。
さて、そこからが問題で、ただの飯盛女郎が、現実脱出の願望から、
自分が元は高貴の生まれであると夢見た、妄想から出たことなのか、
それとも何らかの事情で日野家を出奔して東下りをした姫君なのか。
南北は、本物のお姫様だったと信じ、
東からの手紙を意味する『...東文章』の外題で劇化したのであろう。

琴は江戸追放との判決が下ったが、その後の消息は不明である。

判決を下した石川左近将監は、「琴儀、入牢致させ候につき、不首尾にて、
御勘定奉行から御留守居へ御役替」となったという。
即ち、この件が原因で降格処分となったのである。
           
 
                           『街談文々集要』・『藤岡屋日記』
 
 
 
 
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菜根譚 前集185項

2023-06-25 15:27:33 | Weblog


姫女苑(annual fleabane) Erigeron annuus 素朴で清楚

 

処富貴之地、要知貧賤的痛癢、当少壮之時、須念衰老的辛酸。

 

富貴の地に処りては、貧賤の痛癢を知らんことを要し、
少壮の時に当りては、須らく衰老の辛酸を念うべし。
 
 
「絶頂の用心」
富貴の身分にある時は、貧賤の境遇にある人の苦痛を知ることが必要であるし、
若くて肉体的にも盛んな時には、年老いて衰えた人の辛さを忘れないようにすべきである。

       ✎______________
 
 
 

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◆芝居の演目として後世に伝わる大盗賊 白波五人男と日本左衛門

2023-06-25 07:01:54 | Weblog


『音菊高麗恋』 「日本駄右衛門 松本幸四郎」 早稲田大学演劇博物館所蔵

 


白波五人男の初演 『青砥稿花紅彩画』
初代河原崎権十郎の忠信利平(右上)、四代目中村芝翫の南郷力丸(右下)
三代目岩井粂三郎の赤星十三(上中)、三代目関三十郎の日本駄右衛門(左上)
十三代目市村羽左衛門の弁天小僧(左下)


世に名高い弁天小僧が活躍する歌舞伎「白波五人男」は、幕末の文久二年(1862)三月、
市村座で、本外題『青砥稿花紅彩画(あおとぞうし はなの にしきえ)』として初演された。

この芝居で、弁天小僧菊之助という泥棒は女装して呉服屋へ乗り込んでユスリをはたらく。
その時のタンカが、「知らざあ言って聞かせやしょう......」と七五調で述べる有名なツラネで、
義賊(正しい泥棒)である美少年の弁天小僧に、観客は手を叩いて喜ぶ。
その呉服屋(浜松屋)の場の次が稲瀬川の場で、泥棒(白波)仲間が五人、勢揃いをするわけだが、
その五人の名は、弁天小僧菊之助・日本駄右衛門、忠信利平・赤星十三郎・南郷力丸。
これらの名前のうち、実在の名前は日本左衛門(芝居では駄右衛門)と南湖(南郷)の力丸だけで、
あとの名前は、作者の河竹黙阿弥が画家の三代目歌川豊国と組んで、でっち上げたものらしい。

日本左衛門は延享四年(1747)に処刑された大盗賊団の頭目で、
東海道を股にかけて強盗を働いた兇賊。
生まれは尾州徳川家お抱えの「お七里」(大名専用の郵便係)の息子で、
幼名は友五郎といったが、後に改めて浜島庄兵衛と名乗った。

遠州(静岡県西部)の代官支配と旗本領との境界で無警察状態になった土地を根拠地として、
二十数名の手下を従えて、各地で強盗行為を繰り返したが、なかなか捕まらない。
強盗だから正々堂々たるもので、犯行現場には、二、三十張の高張提灯を掲げて明るくし、
庄兵衛は自ら手を下すことなく床几に腰かけ見届けている。
その時の身なりは、黒皮の兜頭巾に面頬を付け、黒羅紗に金筋の入った半纏に黒縮緬の小袖、
黒繻子の手脛当、銀作りの太刀を帯していたというから、
スターであることを意識していたようである。

やがて捕縛されたのは手下の十一人で、首領の庄兵衛は取り逃がした。
更に大捜索をして十三人を捕まえ、その一人の口から副首領格の中村左膳が捕らえられた。
左膳という男は京都の梶井宮家の家来で、宮家の警護の名の下に、盗品を御用品と称して、
輸送流通させる役目であった。

詮議が厳しくなった為、観念したのか、庄兵衛は京都町奉行所に自首して出、
遂に召捕られ、京都から江戸に送られた。
その後、町中引き廻しのうえ牢内で首を刎ねられ、
遠州見附(静岡県磐田市)で獄門(晒し首)になった。享年二十九歳。

当時の手配書によれば、色白く鼻筋とおり、面長で、
身長五尺八寸(1㍍78㌢)の美丈夫であったらしい。
  

                『甲子夜話』 巻四十二・八十九・『兎園小説余禄』etc.....




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菜根譚 前集184項

2023-06-24 09:52:11 | Weblog

 

居官有二語。曰、惟公則生明、惟廉則生威。
居家有二語。曰、惟恕則情平、惟倹則用足。
 
官に居るに二語あり。曰く、「惟公ならば、則ち明を生じ、惟廉ならば、則ち威を生ず」と。
家に居るに二語あり。曰く、「惟恕ならば、則ち情平らかに、惟倹ならば、則ち用る」と。
 
 
「公務と家庭の二つの戒め」
官職にある時の戒めとしてニ語ある。
それは「ただ公平無私でさえあれば、明朗な政治が行われ、
ただ清廉潔白でさえあれば、威厳のある態度が出て来る」というニ語である。
また、家庭にある時の戒めとしてニ語ある。
それは「ただ思いやりが深くさえあれば、家族の心は穏やかであり、
ただ倹約さえすれば費用は十分に足りる」というニ語である。
 

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◆芝居小屋の財政難に纏わる悲劇 三代目 市川団之助の自殺

2023-06-23 12:49:25 | Weblog


三代目市川団之助 『染繮竹春駒』「四季之所作の内」 (早稲田大学演劇博物館所蔵)

 

三代目市川団之助(1786~1817)は四代目市川団蔵の子で、
美貌とまでいえずども、細面で芸域も広く腕のある俳優。
文化三年(1806)、上方から江戸へ下って来て、江戸市村座の舞台で活躍した女形であった。
興行はいわゆる水もので、当たれば収益が大きいが、外れると途端に左前となる。
江戸には当時、官許の劇場が三つあって、中村座・市村座・森田座が櫓(興行権)を持っていて、
本櫓と称した。もしこの本櫓が経営不振に陥った場合は控櫓という制度があって、
中村座の代わりに都座、市村座には桐座が、森田座には河原崎座が、代理興行を打つことができた。

市村座は文化期(1804以降)に入ると不入・不当たりの興行が多く、
経営が困難となり興行権を手放すこととなる。
そこで団之助が金を出し、桐座として再出発。桐長桐という者が名義人になっているが、
実際の運営は団之助が行なった。
ところが、これまた不入り続きで借金だらけとなり、
そこへ文化十四年(1817)正月、火事で劇場が類焼、
ようやく三月に再建したものの、やはり経営難となり、十月には都座に転売となった。

責任を強く感じた団之助は思い詰め、遂に十一月二日(実は十月三十日ともいう)自刃して果てた。
書置は三通あり、一通は妻宛て、一通は母親宛て、もう一通は息子(後の四代目団之助)宛てで、
悲痛極まる心情が記されていた。三十二歳の若さであった。
 
一説には昨年、瘡毒(そうどく)という病気で鼻が落ち、発声がままならず、
それも死因の一つだったという。所作事を得意とし、
なるべく台詞を言わぬ役を選んだのもそのせいか。
 
死後の噂┈┈┈┈前年の五月三日、狂言不評判の為、芝居の開演前に繁昌の祈祷を行ない、
下谷善立寺の僧十人を呼んで経を読んでもらってる最中、舞台の梁がポッキリ折れて落下、
幸い怪我人はなかったものの大騒ぎとなった。
この松材は程ヶ谷の杉山大明神の松を伐り出して用いたもので、
神木の祟りかと恐れる向きもあり、怪事件として記録され、団之助自殺もこれに絡んで噂された。

喜多村信節(きたむらときのぶ)『聞のまにまに』という随筆の中で
「怪しい事件のように言うが、雨水が材木に廻って、少し腐った個処があった為だ」と記している。
     
 
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◆縛りつけられた人気役者の人生 謎の自殺、八代目団十郎

2023-06-22 14:13:06 | Weblog

『江戸名所図会・八・花川戸助六』 八代目市川団十郎
江戸期を代表する侠客助六を団十郎は代々演じてきた。
天下の二枚目スター、市川団十郎に最も相応しい役柄であった。
 
初代坂東しうかの揚巻、八代目市川団十郎の助六。
嘉永三年三月上演、八代目団十郎の二度目の助六役であった。
女房役のしうかも、後を追うかのように、翌安政二年三月に死去。
 
八代目市川団十郎の死絵。
水裃姿で三宝を後ろに廻し短刀を取る体。
四方に樒(しきみ)を立て、忠臣蔵の判官切腹の場に見立てる。
 
右図が八代目市川団十郎の死絵。『鞘当(さやあて)』の不破伴左衛門。
その台詞に「大門をくぐればたちまち極楽浄土」云々とあるので、
その役に見立てた死絵だが、実はこの死絵には元版があり、
左図『東海道五十三次見立 有松』の流用。版元の素早い対応と、その需要度の高さが解る。
 
 
 嘉永七年(1854)八月六日朝、大坂島之内御前町(大阪市中央区)の
旅館、植久に宿泊していた八代目市川団十郎が自殺体で発見された。
江戸のスーパースターであり、美男俳優、而も名門市川団十郎の名称を持つ、
言わば幕末期の歌舞伎界を担う最大の役者である。
死因は短刀による喉部の突傷、二ヶ所であった。行年三十二歳、
惜しんでも余りある死に、劇界はもちろん、江戸や諸国に激震が走った。
 
人気の絶頂期にあり、道頓堀に船乗込(船で劇場に到着する一種のセレモニー)した時も、
橋の上に数万の人々が出迎え、「待っていた、待っていた」と熱狂ぶりが凄まじく、
そのわずか数日後の出来事であった。
中の座(道頓堀の劇場)では初日が開くばかり、
父親の五代目市川海老蔵や弟の猿蔵も共演する予定であった。
この猿蔵は、兄団十郎の自害を知るや、髷を切ったという。
何故、髷を切ったのか。
江戸期の男子は髷を命の次ぐらいに大切にし、よほどの事情がない限り髷を切ることはしない。
そこには父海老蔵の複雑な家族関係が絡んでいるように思われる。

五代目海老蔵は、前名七代目団十郎であった。
彼には本妻すみがいるが、それ以前にこうという女があり、
更にその姉きぬと結ばれたが離縁している。
嘉永七年現在では本妻すみの他に、さと・ための二人の妾がいた。
海老蔵には合計七男五女の子どもがいて、自ら「子福者白猿」と号していた。
 
八代目団十郎は本妻すみの子で長男、猿蔵はための子で四男、つまり異腹の兄弟であった。
同じくための子の五男は河原崎座の座元に養子に出して、河原崎長十郎といい、
後に復縁して九代目団十郎という明治期を代表する名優となった。
 
五代目海老蔵は天保の改革で江戸十里四方追放の刑を処されたが、
その父の追放後、八代目団十郎は江戸劇界を守り、また身を慎んで生活したので、
弘化二年(1845)五月、町奉行所から親孝行によって表彰されている。
 
江戸時代の役者は年間契約である為、座元(興行主)はなかなか人気役者を手放したがらない。
金主(資本家)も役者に借金をさせて縛ろうとする。
奔放な父海老蔵と、義理固く神経質な八代目団十郎とは、性格の違いもあって、
江戸の金主への義理から旅興行を打ち切って江戸へ帰りたがる八代目と父の間で、
何か言い争いがあり、そのとき父親が怒って
「妾のさととお前とが密通しているのは解っていたが、これまで黙っていたのだ。
大坂出演を断るというなら、俺の方だって大坂の金主に済まねえ」と言い放ち、
それを八代目は、妾のため(猿蔵の母)が父に讒言したからだと思い、
いろいろ弁解したが聞き入れられず、やむなく大坂出演となった、という経緯があった。
猿蔵の髷切りは、この「さとと密通」発言に絡んでいるのかも知れない。
謎は謎を呼び、噂は噂を生んで、妾ためが悪者にされる状況にもなったが、真相は誰も知らない。
 
八代目の死を報ずる死絵(追善の為の役者絵)は三百余種も出板された。
急ぎの出板で、不破伴左衛門の元版と死絵の二枚のように元版を加工して
死絵に仕立てた物も少なくない。
熱狂的な女性ファンばかりでなく、芝居好きは争って買い求めたという。
     
 
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                             江戸時代 怪奇事件ファイル

 

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菜根譚 前集181項

2023-06-21 12:45:57 | Weblog

撫子 。.ꕤ‿‿‿‿‿‿‿‿‿‿‿‿‿‿‿‿‿‿ꕤ.。

 

誇逞功業、炫燿文章、皆是靠外物做人。
不知、心体螢然、本来不失、即無寸功隻字、
亦自有堂堂正正做人処。
 
功業を誇逞し、文章を炫燿するは、皆是れ外物に靠りて人と做るなり。
知らず、心体螢然として、本来失わずば、即ち寸功隻字無きも、
亦自から堂々正々として人と做るの処有るを。
 
 
「光輝く本来の心を失わず」
自分の功績を誇り、自分の学問を見せびらかすのは、
すべて自分以外のものに頼って生きている人に過ぎない。
このような人達は、人間と云うものが、その心の本体は玉のように輝いており、
その本来具えているものを失わなければ、喩えちょっとした功績や知識はなくても、
それでも尚自然と正々堂々として人間として生きて行くことができると云うことを知らない。
 

 

 


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菜根譚 前集180項

2023-06-20 14:29:13 | Weblog

美女(髭)撫子

 

語云、登山耐側路、踏雪耐危橋。
一耐字、極有意味。
如傾険之人情、坎坷之世道、若不得一耐字、撑持過去、
幾何不堕入榛莾坑塹哉。
 
語に云う、「山に登りては脇路に耐え、雪を踏んでは危橋にう」と。
一の耐の字、極めて意味有り。
傾険の人情、坎坷の世道の如きも、若し一の耐の字を得て、撑持し過ぎ去らずば、
幾何か榛莾坑塹に堕入せざらんや。
 
 
「耐の一字に励む」
古語に「山に登る時は、険しい傾斜路に耐えて行き、
積雪を踏んで行く時には、危険な橋に注意し耐えて歩きなさい」と言っている。
この「耐」と云う一字には、極めて深い意味がある。
険しくて危ない世間の人の心や、容易に進めない世の中の道のようなものは、
もし「耐」の一字を身につけて、それを大事な身の支えとして生きて行かないなら、
どれだけ多くの人が、藪や草むらや、穴や堀の中に陥らないで済むことがあろうか。
いやほとんどの人が陥ってしまうに違いない。
 
        ☪︎⋆˚。✩☪︎⋆˚。✩☪︎⋆˚。✩☪︎⋆˚。✩☪︎⋆˚。✩☪︎⋆˚。✩
 

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◆切腹だけが自殺ではない 鉄砲自殺

2023-06-20 14:15:30 | Weblog

イラストのようです

「善悪鬼人鏡 神力民五郎」 早稲田大学演劇博物館所蔵

 

テキストのポップアートのようです

「講談一席読切 勢力富五郎 中村芝翫」 国立国会図書館蔵

 

近年(文化年中か)のことだという。
秩父(埼玉県)のある農民が鉄砲で自分の胸を撃って死んだ。
その書置の文章は、「うき世にあき果て申し候」。
 
西行法師や鴨長明といえども、この一農夫の文章の前には恥じいるべきだろう。
                
 
                       (『一話一言』 巻四十五)
   
   ✄ - - - - - - - - - -✄ - - - - - - - - - -✄ - - - - - - - - - -
 
 
少し派手なのが、勢力(せいりき)富五郎の鉄砲腹。
この件は講談の『天保水滸伝』となり、河竹黙阿弥の手で歌舞伎化され、更に浪曲で著名となった。
下総(千葉県)の侠客勢力富五郎は笹川繁蔵の跡目を継ぎ、
飯岡助五郎との縄張り争いから、追い詰められて鉄砲で自害して果てる。
実在の事件では、勢力の本名は佐吉といい、元来は破門された相撲取りで、子分が七十人もいた人物。
「悪党には候えども、百姓農民にはいたわり候よし」(『藤岡屋日記』)とあり、
人気はあったらしい。
最期は鉄砲ではなく、切腹自殺だったらしいが、
万歳(まんざい)村(銚子市西方)で捕手を相手に応戦した時
「用意の鉄砲、つるべ打ちに」撃ったとも記録されている。
嘉永二年(1849)四月に一味の者が捕らえられた時、
所持品として「鉄砲十挺、槍二本、長刀二振、弓二張、脇差二十腰」等が押収されているから、
鉄砲による抵抗が、勢力鉄砲自殺の伝説を生んだのかも知れない。
 
 
 
 
                               江戸時代 怪奇事件ファイル
 

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未来は約束されるものではないんだろう (*゚‐゚)

2023-06-19 04:23:27 | Weblog

芍薬(Peony) Paeonia lactiflora はじらい 慎ましさ

 

「来年」や「将来」が、あらかじめ設定されていて、
ただそこに向かって駒を進めるように生きて行ければ、楽だろう。
でも違う。予想外のことが必ず起こる。
俺たちは多分目の前に現れるもの一つづ対処しながら、
一歩踏み出す方向を決めるしかないのだろう。
いちいち悩んだり、まごついたりしながら。
   
 
 
     - 寺地はるな 大人は泣かないと思っていた
               「君のために生まれてきたわけじゃない」 -
 
 

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菜根譚 前集179項

2023-06-19 04:14:19 | Weblog

ジギタリス(狐の手袋、Foxglove) Digitalis 不誠実 隠されぬ愛

 

陰謀怪習、異行奇能、倶是渉世的禍胎。
只一個庸徳庸行、便可以完混沌而召和平。
 
陰謀怪習、異行奇能は、倶に是れ世を渉るの禍胎なり。
只一個の庸徳庸行のみ、便ち以て混沌を完うして、和平を召くべし。
 
 
「権謀、奇異は災いの原因」
人を陥れるような謀や奇怪な慣習、一風変わった行動や珍しい能力などは、
いずれも世間を渡る上で生じて来る災いの原因である。
ただ一つの平凡な道徳や行いだけが、本来具わっている人間の生き方を完全にし、
平和な人生を招くことができる。
 
 
。.ꕤ‿‿‿‿‿‿‿‿‿‿‿‿‿‿‿‿‿‿ꕤ.。
 

 


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◆隣人の奇妙な行動も記録に残る 奇人変人列伝

2023-06-18 14:23:34 | Weblog
蛇喰の八兵衛
 常陸の国龍ヶ崎(現・茨城県龍ヶ崎市)、山田某という者の下僕に、
悪食を専らとする八兵衛という男がいた。
朝から晩までキセルをくわえてタバコを吸うので、藁にでも火が着いたら大変と、
主人が心配して、仕事中はタバコを吸うべからずと命じたところ、
「じゃあ火を使わなければよかんべ」と言って、タバコをムシャムシャ食べ、
その後、醤油を一升飲み干し、唐辛子を一斤(600㌘)と
ヒキガエルの丸焼きを食べたので、周囲の人は驚いた。

村の名主さんはこのことを聞いて、山田家の主人に、
「少しの間、八兵衛を貸してもらいたい。実は私の家の庭に、二つ頭の蛇が出て困っている。
両頭の蛇を見ると、見た人は必ず死ぬといって気味悪がるし、
蛇の執念は深いから、殺しても祟るともいう。
蛇を食べてしまえば形も残らず祟ることもあるまいと思うが、どうだろう。
喰ってくれたら二十両あげますが......」との申し出であった。
 
八兵衛は「二つ頭の蛇というのは毒蛇かも知れん。毒蛇を喰ったら死ぬかも知れねえ。
わしはもう年も六十に近いし、妻子もいないから命は惜しくない。
もし、わしが生き延びたら、お礼金なども要らねえだ。
死んだときは葬式料を持ってくんろ」との返事をし、
四、五日後、名主宅から迎えの者が来たので出かけて行き、
庭の松の木の下にトグロを巻いていた二つ頭の蛇を見るや、
鍬を降り下ろして一撃、二撃で打ち殺し、皮を剥いで身を切り裂き、
醤油をつけて残らず平らげ、二つの頭と皮・骨は火で焼いて、
これも食べ尽くしてしまった。
 
名主は喜んで二十両を与えようとしたが断って、そのまま山田家に帰って行った。
これを見聞きした人々はビックリ仰天、
「八兵衛は蛇の毒で遠からず死ぬだろう」と噂をしていたが、
八兵衛の体に変化はなく、それから二十数年、何の病気もせずに長生きして、
天明八年(1788)、八十余歳で死去。
葬式はたいそう立派に、両家が出してくれた。蛇の祟りは遂になかった。
                 
 
                       (『百家琦行伝』)
 
『百家琦行伝』 蛇喰の八兵衛
 
 
 
 
蛇隠居
 天明・寛政の頃(1780~1800)、江戸の青山に武士の隠居で、
武谷又三郎という人がいた。この人には、奇癖があって、常に虫を喰うことを好んだ。
毛虫・芋虫・ハサミムシ・蝶・蜥蜴・ヒキガエル、何でもOK。
小さな虫は羽とヒゲを抜き取ってそのまま食べる。
毛虫は毛を焼いて食べ、ヒキガエルは腸を捨て、皮を剥いで醤油をつけて焼いて食べる。
したがって、この人の家には虫がいない。蠅も飛ばない。
人々は冗談に「できることなら蚤や蚊もとってほしい」などと言っていた。
 
数ある虫の中で、一番好んで食べたのは蛇で(蛇も虫のうち)、
皮を剥ぎ骨を取り、竹串に刺して蒲焼にして食べた。
私(八島五岳)もこの老人から蛇の蒲焼を貰って食べたが、たいそう美味であった。
 
この武谷さん、筆を持つと御家流の立派な字を書いたが、
この奇癖がある為、弟子が付かなかった。
寛政の末年、六十余歳で死去、墓は青山の熊野横町の高徳寺にある。
                  
 
                        (『百家琦行伝』)
 
『百家琦行伝』 蛇隠居
 
 
辰巳屋の爺さん
 江戸小石川伝通院前に辰巳屋総兵衛という人がいた。
幼い頃に畳屋へ丁稚奉公に出されたが、生来、踊りが好きで、
真夜中に二階でしきりに足音がするので、主人が上がって行くと、
この丁稚が夢中になって踊っていたので、叱りつけ、ようやく踊りを止めさせた。
 
夏の日中、他の奉公人は昼寝をするのだが、
彼は庫の中や納屋の中で、ひたすら汗を流して踊りまわっていた。
 
そうこうしているうち、親が死んだ為我が家に帰ったが、その後もまた踊り続け、
大人になってからは舞の手も上手になり、あちこちの祭礼に頼まれて出演。
赤坂山王・神田明神はもちろん、赤坂明神・氷川神社・深川八幡宮・牛の御前、
何処であれ祭りとあれば行って踊らないことがない。
その踊る姿は、娘形のかつらを被り、黒木綿の振袖に裾模様を染めさせ、
小さな日傘を持ち、さつま芋などを食べながら踊る。
六十歳を過ぎても、やはり娘の扮装で、シワの顔に白粉を塗って踊るので、
人々は「ほら、あれが辰巳屋の爺さんだ」と面白がって人が集まる、
といった具合で、人気タレント並み。
 
ある年の神田祭では、辰巳屋の爺さんが花魁に扮し、
息子とその嫁を新造(しんぞ)姿にし、
孫二人を禿(かむろ)に仕立てて踊ったという(『藤岡屋日記』 文化十年)。
 
文政四年(1821)十月二十八日、八十九歳で死んだ。
このとき近所の若者が集まって葬式の轎(こし)を神輿のようにこしらえ、
唐人笛や太鼓を鳴らし、大勢で踊りながら練り踊り、
寺は近くの慈照院という寺だったが、わざと遠回りして送り込んだ。
 
今(天保六年)尚、慈照院の境内に、
八十余歳の老人が娘姿で黒い振袖を着て踊っている画を彫った墓石が残っているが、
おかしくもめでたい話である。
                  
 
                      (『百家琦行伝』)
 
『百家琦行伝』 辰巳屋の爺さん
 
 
 
 
                           江戸時代 怪奇事件ファイル
 

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