徳川二代将軍と正室お江の方との間に生まれた千姫は、慶長8(1603)年、数え7歳の時に豊臣秀頼のもとへ嫁いだ。
戦国の世の倣い、政略結婚である。
秀頼と千姫の仲が円満だったかどうかは分からない。しかし、彼女が豊臣と徳川の間で運命を翻弄されたのは、紛れもない事実である。
輿入れ当時こそ良好な関係にあった両家であるが、次第にその関係は対立へと転じ、慶長19(1614)年の大坂の陣を迎える。翌年にかけての戦いで淀殿と秀頼が自決へと追い込まれる一方、千姫は落城寸前で救出された。
この千姫救出に際しては、徳川方に於いてひと騒動が伝えられている。大坂城で危険に晒される千姫を哀れに思った家康が「千姫を助けた者と結婚させる」と言ったところ、これを信じた坂崎出羽守が命がけで救出したと伝わるが。50歳を超えた坂崎出羽守との結婚を千姫は頑なに拒んだ。
結局、千姫は1歳年上で美男として名高い本多忠刻と再婚。
その後、約束を反故にされた坂崎出羽守が輿入れの行列を襲う計画を立てていることが発覚し、自害させられた。
晴れて忠刻という伴侶を得た千姫であったが、姫が34歳(一説には30歳)の時に、忠刻が亡くなってしまう。再び独り身となった千姫は出家して天樹院と称し、余生を送った。
*尼の身ながら、夜ごと男を屋敷に引き入れた.....
ところが、その後の千姫には、ある伝説が伝わっている。
それは、出家したものの、女盛りの千姫は一人寝に耐えられず、夜毎、屋敷(吉田御殿と伝わる)の前を通る男を手招きして中へ連れ込んだというもの。美男なら侍でも町人でも、所帯持ちでも良かった。気に入れば、屋敷の二階から呼び止め、その男と淫らな行為に耽った。気に入った男は家に帰さず、飽きるまで相手をさせた。もし男がコッソリ帰ろうとすれば命はない。或いは、その男に飽きたり、満足できなかったりした場合も、千姫は容赦なく殺したという。男たちは屋敷の中の古井戸に投げ込まれ、この世から消し去られたというから恐ろしい。
ところが、ある二人の男が命からがら屋敷から脱け出し、そのことを仲間に話した為に巷に噂が広まり、やがて若い男は千姫の屋敷の前を通っては行けないと言われるようになった。いつか流行り歌にもなり「吉田通れば二階から招く、而も鹿の子の振袖で」となったそうだ。
しかし実際の千姫は貞淑な女性であり、前夫・秀頼の遺児を引き取ったり、弟・家光の子を養育したりしており、吉田御殿の伝説は全くの作り話とする説が有力だ。流行り歌に関しても、これは現在の愛知県豊川市にあった吉田宿の遊女を歌ったものであり、そもそも千姫の屋敷は江戸の竹橋にあり吉田にはなかったともいう。深窓の姫君に纏わる醜聞。果たして嘘か誠か.....。伝説の舞台となった吉田御殿は、場所すらも伝わっていない。
日本史ミステリー 「もし、本当だったら.....!」
あの有名人物のその後の伝説