メキシコ民族主義の象徴とも云うべき女性画家フリーダ・カーロは、その強烈な個性と魂で、20世紀前半の激動のメキシコを逞しく生き抜いた女性だった。彼女は個性的なシュールレアリスムの作品を残しているが、それらはまるで、自分自身の現実を映し出したものでもあった。彼女の作品には、苦悩や絶望、そして、生きる事への情熱が込められていたのである。
「幼くして背負ったハンディキャップ」
フリーダ・カーロの父は、ルーマニア出身のドイツ系ユダヤ人の著名な写真家ギジェロモ・カーロで、母は現地の女性だった。
フリーダは、そんな二人の間に生まれた三番目の娘だった。
明るく活発なフリーダを最初の不幸が襲ったのは六歳の時で、彼女は小児麻痺にかかり、片足を引きずる様になった。
そして、このコンプレックスは、彼女の人格形成にも大きな影響を与えてしまう。
父はそんな彼女に、メキシコの文化や教養を教え、十五歳になった時には、当時女性に門戸を開いたばかりの、メキシコ最高峰の高等学校へ入学させた。フリーダはそこで、次代を担う若者たちと活発に議論する、勝気で反逆精神の強い才媛に成長して行く。
また、学生仲間のアレハンドロには情熱的な恋心を注ぎ、更に壁画を描きに来ていた著名な画家ディエゴ・リベラにも魅せられて行った。だが、1925年、再び悲劇が起こる。
アレハンドロと一緒に乗っていたバスが事故に合い、彼女は骨盤が砕けると云う重傷を負ったのだ。
傷ついた体、苦痛、そして離れて行く恋人...。彼女は自画像を描き、それをアレハンドロに贈った。
絶望の中で、彼女はまるで魂の叫びを描くかの様に夢中になって絵を描いたのである。
「画家ディエゴ・リベラとの結婚」
やがて、知人の家でリベラと再会したフリーダは自分の作品を抱え、彼の門を叩いた。「私の絵の本当の批評を教えて下さい」。
そう率直に言う小柄なフリーダは、キリリとした濃い眉を持つ、およそ女性のたおやかさとはかけ離れた様な女性に成長していた。
だが、その知性と強い意志が漲(みなぎ)った直向(ひたむ)きな表情は、周囲に強烈な印象を残す個性的な美しさを持っていた。
リベラは彼女のオリジナリティ溢れる作品に感嘆し、しばしば絵を見に彼女の家を訪れる様になる。
そして1929年、四十二歳のリベラと二十二歳のフリーダは結婚した。
大物共産主義者としても知られる、腹の出た中年男の三度目の結婚と小柄な美女との組み合わせは、世間でも話題に上った。
彼女は結婚後、メキシコの民族衣装を身に纏う様になり、それが彼女の美しさをいっそう際立たせた。
ただ、お互いに愛していながらも、結婚生活は順風とは云えなかった。
流産、体の苦痛、アルコール中毒、夫の浮気、夫と自分の妹との関係、イサム・ノグチやトロッキーとの恋愛...。
特に、夫婦で政治的にも支援していたトロッキーの暗殺は彼女に打撃を与えた。
だが、彼女は絵筆を手放すことはなかった。まるで、壊れる心と体の思いをすべてぶつけるかの様に夢中で絵を描いた。
その後、彼女の絵の評判は次第に高まり、1938年には詩人アンドレ・ブルトンに認められてアメリカで個展を開いた。
高い評価を得た彼女は自信を得て、更に精力的に絵に取り組む様になる。
他方、彼女はやはりリベラを愛し続けていた。 彼とは一度離婚するものの、再婚。
たとえ彼が浮気癖のあるだらしない男であっても、才能豊かで、彼女のすべてを愛してくれる最愛の人だったのだ。
やがて、彼女は病に伏すことが多くなり、寝たままの状態で絵を描く様になった。
そして、リベラに結婚二十五周年を記念する指輪を渡した一ヵ月後に、静かに息をひきとった。
世界の「美女と悪女」がよくわかる本