★「漱石」の由来は中国の故事だった
「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「こゝろ」など後世まで讃えられる数多くの作品残し、
明治・大正期を代表する文豪として知られる夏目漱石。本名は夏目金之助で、
「漱石」という名は正岡子規から譲り受けたペンネームだったことはご存知だろうか?
「漱石」は唐代の『晋書』の故事「漱石沈流(石に漱ぎ流れに枕す」から取ったものである。
子規はペンネームの一つからこれを譲ったのだが、その意味は、負け惜しみが強く頑固なこと。
何故、漱石はこのペンネームを使い始めたのか?
それは漱石自身が類を見ないほどの負けず嫌いだったからである。
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★教員時代に残した負け惜しみ伝説
漱石は教員を務めていた頃、その負けず嫌いな性格を窺わせる逸話を幾つも残している。
たとえば中学校で英語を教えていた時のこと。
生徒が「今の先生の訳語は辞書に載っていません」と指摘すると、
漱石はたじろぎもせず「辞書が間違っているのだ。辞書を直しなさい」と居直ったという。
また、東大で教鞭を取っていた時、ポケットに手を入れている学生を叱りつけると、
その学生は片腕が無かった。さすがの漱石も申し訳なかったと謝ったが、
その後に「私も無い知恵を出して講義をしているのだから、君も無い腕を出したらどうかね」と
余計な一言を付け加えてしまった。
いくら負け惜しみが強いといっても、ものには限度というものがある。
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★後年の鬱病の元になったとも.....
そんな漱石の負け惜しみ発言だが、思わぬ悲劇を呼んでしまったこともある。
東大の講義にて、ある学生に英文を訳させたところ「予習していません」というので
「次は予習しておくように」と指示した。だが、次の講義でもその学生は予習をして来なかった。
怒った漱石は「勉強する気がないなら、教室に来なくていい!」と言い放った。
その学生は程なくして、華厳の滝に身を投げて命を絶っている。
学生の名は藤村操。高名な東洋史学者の甥であり、この自殺は社会に大きな影響を与えた。
遺書を見る限りでは件の授業が原因だとは限らないのだが、
藤村の死を知った漱石は酷く狼狽し、神経衰弱を起こしてしまった。
もとより神経質なところがあった漱石にとって、教員という職業は向いていなかったのかも知れない.....。
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★その後の漱石の活躍ぶり
そんな悲痛な経験をした漱石だが、その後の彼の作家としての業績には目覚ましいものがある。
1904年の暮れから処女作「吾輩は猫である」を執筆。
これが「ホトトギス」で初めは読み切りとして掲載されると好評を博し、
漱石は作家として生きることを決意する。
その後も「坊ちゃん」などで人気作家となると、一切の教職を辞して東京朝日新聞社に入社。
本格的に職業作家としての道を歩むことになる。
その後も「三四郎」「それから」などの作品を意欲的に発表するが、
胃潰瘍が原因で生死の間を彷徨う危篤状態に。
何とか持ち直すものの以降も何度か胃潰瘍で倒れ、1916年に49歳でこの世を去った。
こうしてその生涯を振り返ると、漱石にとって藤村操の死が一つの転機点になっていることがよく分かる。
彼の死は決して無駄ではなかったのだ。
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