Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

菜根譚 前集192項

2018-03-31 04:54:42 | Weblog


カトレア シンコラーナ×カトレア ビューフォート

受人之恩、雖深不報、怨則浅亦報之。
聞人之悪、雖隠不疑、善則顕亦疑之。
此刻之極、薄之尤也、宜切戒之。

人の恩を受けては、深しと雖も報ぜず、怨みは則ち浅きも亦之を報ず。
人の悪を聞きては、隠ると雖も疑わず、善は則ち顕わるるも亦之を疑う。
此れ、刻の極、薄の尤なり、宜しく切に此れを戒むべし。


「冷酷で薄情な人」
人から恩恵を受けた時は、どんなに深くても報いようとしないのに、
恨みに対しては、どんなに浅くても必ず仕返しをする。
また、人の悪事を聞いた時は、それがハッキリしたことでなくても疑わないのに、
善い行いは、それがハッキリしているのに疑ってしんじようとしない。
このような遣り口は、人の心の冷刻さの極みであり、薄情の甚だしいものである。
だからよくよくそのことを戒めるようにしなさい。


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★映画やTVドラマに大人気! 新撰組その後

2018-03-31 04:09:08 | Weblog

局長近藤勇筆頭に、『誠』の羽織をなびかせ、幕末の京を闊歩した新撰組。暴力で成り上がった集団である新撰組は、当時京の住民に煙たがれていたが、現代ではゲームにアニメにドラマにと、様々なエンターテイメントに引っ張りだこの人気コンテンツとなっている。
そんな新撰組の隊士たちの最期を見てみよう。
先ずは、新撰組の主要メンバーから。
新撰組局長の近藤勇は、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍敗北した後も旧幕軍の一員として、抵抗し続ける。そして下総国でとうとう新政府軍に捕らえられてしまう。近藤を捕縛したのは、彦根藩。彦根藩は井伊直弼藩主が務めた藩で、14世紀の南北朝時代には、南朝方として挙兵した井伊氏の家系である。その為、官軍の先頭に立っていたのだ。近藤は1868年に東京・板橋の処刑場で斬首される。首はその後、京都の三条河原に曝されたと言う。

次に鬼の副長と恐れられた土方歳三。土方は近藤亡き後もその意思を受け継いだ。彼は榎本武揚らと箱館五稜郭に立てこもり、官軍への抵抗を試みる。しかし1869年、近代兵器を備えた官軍に一斉攻撃を仕掛けられ、馬上で指揮をとっていた土方は腹を撃たれて死亡した。指揮官を失った旧幕軍は総崩れとなり、新政府軍に白旗を揚げる。これにより一年に及んだ戊辰戦争は幕を閉じた。

そして天才剣士と謳われた、美貌の青年沖田総司。沖田は新撰組結成の翌年にあたる1864年の時点で、既に結核を患っていた。病状は悪化の一途を辿り、遂には寝た切りの状態になってしまう。当然沖田は、戊辰戦争の初戦である鳥羽・伏見の戦いにも参陣できず、江戸で療養することになる。彼は近藤勇の処刑からひと月後に病死するが、近藤の死は知らされていなかったと言う。この様に新撰組の主力隊士は、凄惨な最期を遂げている。
かと云って、全員が明治政府から処刑されたかと云うとそうではなく、無事生き延びて新時代に馴染んだ隊士たちもいる。その良い例が、永倉新八と斉藤一だろう。
永倉新八は松前藩を脱藩し、二番隊の組長まで務め上げた隊士だ。明治になると、永倉は松前藩に出戻り、そこで藩医の娘と結婚し、名前も杉村義衛と改名。しかし新撰組を忘れたわけでなく、『新撰組顚末記』と言云う新撰組の記録を残している。
一方斉藤一は、旧幕臣として会津藩士と共に最後まで戦い抜いた。使者伝いに松平容保に説得され、新政府軍に投降。明治維新の1874年に東京に移住し、「藤田五郎」と改名して警視庁所属の警官となる。1877年の西南戦争では西郷隆盛の軍と一戦交えている。退職後の晩年は東京高等師範学校附属東京教育博物館(現在の国立科学博物館)の看守を務め、穏やかな余生を過ごした。1915年胃潰瘍の為死去。永倉新八も同年に骨膜炎、敗血症により亡くなった。

では新撰組で一番長生きしたのは、どの人物なのか。それは、池田七三郎と云う平隊士。彼は上総国(現在の千葉県)の商人の子どもとして生まれ、武士に成りたいが為に剣技を磨き、新撰組に入隊した。戊辰戦争でも新撰組として戦い、会津に残った斉藤一と行動を共にしている。降伏後は、東京で謹慎を余儀なくされるが、1年で赦免された。時代は明治から大正、昭和へと劇的に変化して行ったが、池田七三郎は時流に呑み込まれることなく、そのまま存命。1929年には、小説家の子母澤寛が池田の取材を刊行し、回顧録『新撰組聞書』が出版された。
その約10年後の1938年、池田は最後の新撰組隊士として死去した。
「武士に成りたい」の一心で、僅か18歳で新撰組隊士となり、幕末から昭和の幕開けまで目にした池田は、現在港区の真浄寺で眠っている。

(画像・近藤勇の肖像写真)

                 
                            「その後」の日本史 コラム


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陳円円 (17世紀半ば頃) 明朝滅亡の遠因となった蘇州の歌姫

2018-03-30 03:52:29 | Weblog

蘇州生まれの美女、陳円円は、後宮で寵愛された女性でもなければ、高い位を授けられた妃でもない。
だが、彼女が一人の男に愛されたが為に明朝は滅亡する。...

彼女を愛したのは明の将軍呉三桂である。
彼は、明朝最後の皇帝崇禎帝の周皇后の父宅で開かれた宴席で彼女に一目惚れし、大金で彼女を譲ってもらった。
陳円円は、蘇州の芸妓だったと云う。
周皇后の父が、皇帝を慰める為に彼女を身請けして後宮に入れたものの、皇帝の寵愛を得られず、周宅に居たのである。
呉三桂は陳円円を残して戦いに出陣した。
だが、その間に李自成の反乱軍が北京を陥落して皇帝は自殺、彼女も李自成軍に捕らわれてしまう。
激怒した呉三桂は、進軍して来た清に降伏して兵を借り、李自成を討伐。無事、彼女を取り戻した。だが、そのお陰で北京に進んだ清は、その後数年で中国を統一した。
陳円円は、王に遇された呉三桂から正妃にと望まれるが彼女は断り、女道士となった。
尚、呉三桂は後に清に反乱を起こして敗死するが、それを知った彼女は池に入水したとの伝説もある。後にその池には蓮が生え、蓮花池と呼ばれたと云う。

              

             

                      世界の「美女と悪女」がよくわかる本


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夜毎現れては皿を数える少女 「お菊」

2018-03-30 03:48:50 | Weblog



武家社会に翻弄されて自害した少女の霊が悲しみのあまり皿を数える。
日本三大譚にも数えられる「番町皿屋敷」は、異伝が「播州皿屋敷」など全国に残る。
****************************************************************************...
◆家宝を割ったら殺される 武家社会の生んだ悲劇
 お岩と並んで有名な女性幽霊と云えば、『番町皿屋敷』のお菊だろう。江戸の番町(現在の千代田区)の旗本・青山家に奉公に上がったお菊と云う16歳の少女が、家宝の10枚組の皿のうち1枚を割ってしまう。怒った主人夫婦から折檻を受け、罰として指を1本切り落とされたお菊は、絶望のあまり屋敷の井戸に身を投げて命を落す。その後、毎夜井戸の中から「1枚、2枚........」と皿を数える声が聞こえ、青山家には子が生まれるも、指が1本なかった。使用人たちも次々とやめて行き没落して行った青山家は、遂に取り潰しとなる。
同様の話として、人形浄瑠璃の『播州皿屋敷』があり、こちらの方が、歴史が古い。ただ、元禄時代に書かれた『本朝故事因縁集』には雲州松江の実話として伝えられており、皿屋敷伝説は全国に残っている。武士の理不尽さから手討ちにされたのはお菊ばかりでない。そんな庶民の悲しみが生んだ物語とも謂える。

◆お菊 対 了誉上人 皿を数え、お菊を成仏させる
 青山家が取り潰しとなっても、屋敷の井戸にはお菊の霊が現れて毎晩皿を数えていたと言う。
そこで、了誉上人が屋敷を訪れた。待っていると、果たしてお菊の霊が現れて皿を数え始めた。
そこで上人は、お菊が「9枚」と言い終わると、直ぐに「10枚!」と続けた。するとお菊は「うれしや」と声を震わせ、以降お菊の霊は現れなくなったと言う。

画像 『新形三十六怪撰 皿やしきお菊の霊』

                  

                            江戸・東京 魔界地図帖

 


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菜根譚 前集191項

2018-03-29 04:39:43 | Weblog

好利者、逸出於道義之外、其害顕而浅。
好名者、竄入於道義之中、其害隠而深。

利を好む者は、道義の外に逸出すれば、其の害は顕わるるも浅し。
名を好む者は、道義の中に竄入すれば、其の害は隠るるも深し。


「名誉に執する弊害の深さ」
利益を好む人は、初めから道徳の外に走り出しているので、
その弊害は誰にも分るが、その根は浅い。
これに対し、名声を好む人は、初めから道徳の名の中に潜り込んで隠れているので、
その弊害は見えないようであるが、その根は深い。


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まぼろしのオスの三毛 「三毛猫の妖異」

2018-03-29 03:27:46 | Weblog

 紀州根来の西麓、坂本(和歌山県岩出市)の誠証寺の住持を、私の兄(日解)が勤めていた。
その為、私はおりふし兄を訪ね、二、三日逗留するのが常であった。
この寺は当時、鼠が多く出て、仏具や器物を齧る為、兄は困って私に相談し、鼠を殺すのは殺生の罪になるが、鼠を殺す為ではなく、猫を飼うことで鼠が荒らすのを防ぐ為だから、和歌山へ帰ったら牡猫を探して貰って来てほしい、との依頼があった。私の下僕が心がけて探し、美しい牡猫を求めて来たので、これを持って坂本に行った。住持は大喜びで、この牡猫を可愛がって飼うことにした。そのせいか鼠の害は自然と鎮まったと言う。
その後、私はまた坂本へ出かけ、二、三日逗留し、夜になって酒など飲んで、兄の住持と一緒の部屋で眠った。
すると夜中に住持がひどくうなされて呻き声を上げた。私は驚いて住持を呼び起こしたので、住持は夢から覚めて正気になった。
その時、あの猫が住持の上から飛び降りるのを見たのである。
私は、その猫が上に登った為、夢でうなされたのかと思い、そのまま眠ったのであったが、暁近く、今度は私がうなされ、叫び声を上げたらしく、住持に呼び起こされた。その時、私の胸の上から猫がまた飛び降りた。次の夜もまた二人ともうなされた為、翌々日の晩、二人で炉を囲んで酒を酌み交しながら、「この猫が胸に登った為、二人ともうなされたのだろう。夜、寝る前に別の部屋に紐でつないで、寝所に入らぬようにしましょう。世間ではよく三毛猫の牡は珍しいが、妖異をなすとか申します」と言うと、兄の住持も、「ふむ、なるほど。唐の書に金花猫と云う猫は妖をなす、とあるが、この猫もその類かも知れん。よし、今夜は次の間に繋いでいこう」と言った。
猫は炉端にうずくまり、ジッと聞いている風であったが、ふと立って走って出て行った。住持も私も、その辺に居るだろうと思っていたが、夜が更けても帰って来ない。住持をはじめ、小僧や寺男らが名前を呼んで尋ね歩いたが、何処へ行ったのか帰って来ることはなかった。その後遂に姿を見せなくなったと言う。やはり妖猫であるが為、人語を解し、繋がれる前に故郷へ帰ったものか。
奇妙なことであった。

(画像・『たとえ尽の内』、『其のまま地口 猫飼好五十三疋』、『そめいろづくし』)

                 

           

                            江戸時代 怪奇事件ファイル


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宋慶齢 (1893年~1981年) 革命家孫文を支えた宋三姉妹の次女

2018-03-28 03:39:52 | Weblog

宋慶齢は一八九三年、上海に生まれた。
姉に靄齢、妹に蒋介石夫人の美齢を持つ宋三姉妹の次女であり、中国革命の指導者孫文夫人である。父は当時、同じ広東省出身の孫文を支援する立場にいた。

慶齢は、孫文の英文秘書だった姉の結婚後、その仕事を引き継いだ。
当時、孫文は四十九歳で日本に亡命中。しかも妻子ある身だったが、二十二歳の慶齢は憧れに似た想いを寄せる様になり、一九一五年、孫文は妻と離婚、慶齢は反対する親を振り切って家を飛び出し、二人は日本で結婚した。

十年後、孫文が志半ばでこの世を去ると蒋介石がクーデターを起こし、国民党内の対立が激化。
慶齢は夫の遺志を汲み、党の分裂や内戦に反対しつつ、戦争へは介入しないとの立場をとった。
抗日戦が始まると、慶齢は保衛中国同盟を設立し、戦争孤児や負傷者の救済に尽力した。
中華人民共和国成立後は副主席に就任。
文化大革命では蒋介石の義姉であることから、「蒋匪」として批判を受けたが、終結後の一九八一年には共産党に入党し、同時に名誉国家主席の称号を得た。慶齢八十八歳、死去の数日前だった。

   


                 世界の「美女と悪女」がよくわかる本
                          現代を華麗に生きた女性たち


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戦国時代の日本で西欧諸国は何をした? スペイン・ポルトガル

2018-03-28 03:35:03 | Weblog

まだまだ倭寇の海賊活動が盛んだった15世紀末。日本は血で血を洗う戦国時代に突入していた。戦国時代の日本と深い関わりを持ったのが、スペインとポルトガルである。彼らは一般に、日本にキリスト教を広め、カステラや金平糖など西洋の文物をもたらしてくれた人たちだとイメージされている。ところが、両国が地球上を二分する危機的な侵略国だったと知る人はほとんどいない。実は彼らは、ローマ教皇庁から「到達したすべてを領土として良い」と許可されていたのだ。ここでは、彼らが世界で何をし、日本で何をしたかったのかを明らかにしたい。

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◆両国の侵略
 東南アジア原産の胡椒は肉の保存料として当時のヨーロッパでは必需品であった。しかし、8世紀以降、地中海はムスリムが支配していた。また、13世紀末にオスマン帝国が成立すると、バルカン半島が支配下に置かれ、ヨーロッパ諸国はこれらの地域を通過できずに、ムスリム商人を介して高価な香辛料(胡椒・シナモン・クローブ)を購入するしかなかった。「オスマン帝国の影響を避け、直接香辛料を手に入れられないだろうか」と考えたのがスペイン・ポルトガル両国である。先に動いたのはポルトガルだった。ヴェルデ岬、喜望峰(南アフリカ南端)を廻ってモザンビーク、モンバサを経由してインドのカリカットに至る「インド航路」を開拓したのだ。更に、インドの西岸のゴアを占領し総督府を置いた。そして1543年、遂に日本の種子島に到達したのである。ポルトガルに後れをとったスペインは大西洋を横断してアジアを目指し、ご存知の通りアメリカ大陸を発見することになる。
アステカ帝国やインカ帝国はすっかりスペインに征服され、未だにラテンアメリカの言語はスペイン語が主流である。スペインは更にフィリピンを占領しマニラ市を建設。念願のアジア進出を果たした。

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◆宣教師と戦国大名
 日本の地を踏んだキリスト教の宣教師たちは、戦国時代の縮図を的確に掴んで行く。そして、「土地を支配する領主をキリスト教徒にして、その領地ごとキリスト教団にしてしまう」のが手っ取り早いと考えるようになった。後に『日本史』を記すルイス・フロイスもそう考えた一人。当代最高の実力者・織田信長と1569(永禄12)年、京都の二条城で対面している。
信長自身は西洋の文物に関心を示したが、キリスト教徒になる気も、教えを学ぶ気もなかった。そのあたりは神も仏も信じない信長らしい。だが、キリスト教は保護し布教を許可した。
安土にセミナリヨ、京都に南蛮寺の建設を援助したのだ。この動きには裏があり、キリスト教を普及させることで、当時敵対していた宗教勢力の一向宗や、比叡山延暦寺の勢力を削ぐ狙いがあったと言われる。ポルトガルは、イエズス会の活動を援助する代わりに貿易の利益の一部を会に寄付することを定めていた。
つまり、貿易と布教をセットで売り込んだわけだ。布教を認めない大名の領内には南蛮船を寄航させなかった。海に面しており、尚且つ大名同士が激戦を繰り広げていた九州と畿内は、キリシタン大名を多く生んだ。

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◆カブラルによる宗教侵略
 とは云え、宣教師たちは日本を見下していたわけではなく、文明国として敬意を払っていた。フランシスコ・ザビエルは「日本は無知な後進国でないこと」「日本人が自国の文化に高い誇りを持っていたこと」を認識していた。
グネッキ・ソルディ・オルガンティノは「日本人は、全世界でも、とても賢明な国民に属しており、彼らは喜んで理性に従うので、我ら一同より遥かに優れている」、「私は、本当のところ、毎日、日本人から教えられることを白状する。私には全世界でこれほどの天賦の才能を持つ国民はないと思われる」と報告書に記している。
しかし、フランシスコ・カブラルだけは日本を見下し「日本人はアフリカの黒人と同等の劣った民族である」と主張した。
彼はキリシタン大名に「領民をキリスト教に改宗させ、神社・仏閣をすべて教会に建設せよ」と迫った。有馬晴信、大友宗麟、大村純忠ら九州の大名はポルトガルの後援を必要とする立場にあった為、これを実行に移してしまう。特に大村純忠は神社仏閣にとどまらず祖先の墓所の破壊も命じた為、一部の家臣が反発し反乱が起こったほどである。また、恐るべきことに純忠は、イエズス会に長崎を丸ごと寄付している。最早、日本を相手取った宗教侵略と表現しても過言ではない。こうしたカブラルのやり方は、非キリシタン大名だけでなく、日本国民からの強い反発を招き、宣教師やキリスト教に対する反感を強める結果になった。

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◆バテレン追放令
 「本能寺の変」で横死した信長の後を継いだ豊臣秀吉は、島津氏を征伐して九州を平定する。そこで、大村純忠が長崎をイエズス会に寄進したことや、神道・仏教に対する迫害、ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していたことなどが発覚。
秀吉は激怒し、イエズスの中心人物ガスパール・コエリョを呼び出すと徹底的に尋問し、博多で「バテレン追放令」を発布した。
コエリョ自身は親日家であったと言われ、前任のカブラルの悪事を責められ、居た堪れない気持ちだったことだろう。
また、配下の増田長盛などにスペインの思惑を調査させた結果、スペイン人から「スペインは、先ず多数の宣教師を送りキリシタンを増やす。そしてキリシタンに改宗した者と力を合わせて諸国の君主を倒して来たのだ」と云う証言が得られた。アジアの盟主となろうとしていた秀吉は、スペインが日本を植民地化しようとしていたことを知り、不信感を強くしたのであった。
尤も、ほとんどの宣教師は親日家で、また教会の側に病院を建設し、布教だけでなく医療行為を熱心に行っていた。日本は宣教師から多くを学んだことも忘れてはならない。

(画像 『南蛮屏風』、フランシスコ・ザビエル肖像)

         
                    教科書には載っていない 「「日本の戦争史」


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菜根譚 前集190項

2018-03-27 05:02:57 | Weblog


洋種 Tiny Star


寧為小人所忌毀、毋為小人所媚悦。
寧為君子所責修、毋為君子所包容。

寧ろ小人に忌毀せらるとも、小人に媚悦せらるること毋れ。
寧ろ君子に責修せらるとも、君子に包容せらるること毋れ。

「小人には嫌われ、君子には責められるがよい」
いっそツマラナイ人間に憎しみ誹られようとも、彼らに媚び諂わられることがあってはならない。
いっそ立派な人物に厳しく責められようとも、その人に安易に受け入れられるようなことがあってはならない。

 


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虞美人(前200年頃) 最強の武将・項羽が愛した伝説の美女

2018-03-27 04:08:22 | Weblog



虞美人は紀元前二〇〇年頃の秦末期に生き、項羽の愛人としても知られる美しい女性だが、生没年を含め、その生涯はハッキリと分っていない。
『史記』の「項羽本紀」や「漢書」に僅かに登場すると云う、まさに伝説の美女なのである。...

一説では、呉の名家出身の虞美人には、年頃になると多くの求婚者が現れたが、「千斤の鼎(金属製の器)を持ち上げた人に嫁ぐ」と云う条件を出した。その重さは約二五六㌔。
多くの男たちが二の足を踏む中、一八〇㌢もの立派な体躯をした項羽がそこに現れ、鼎を持ち上げたと云う。

そして、虞美人は項羽に嫁いだ。
武勇の項羽の下には多くの若者が集まり、項羽は美女と兵力の二つを手にして「一挙両得」と云う諺の由来ともなった。

やがて、項羽は叔父と一緒に秦打倒に立ち上がり、各地を転戦。
その傍らにはいつも虞美人がいた。だが、漢の劉邦の軍に囲まれた彼は「四面楚歌」となり、最期にその心を占めたのは彼女への想いだった。
この後、項羽は別れの宴で、「虞や虞や、若を奈何せん」と、
哀別の詩を唱和したと云う。

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垓下の歌

力拔山兮氣蓋世 時不利兮騅不逝 騅不逝兮可奈何 虞兮虞兮奈若何

力は山を抜き、気は世を覆う 時利あらずして騅逝かず
騅逝かざるを如何せん 虞や虞や汝を如何せん

 


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戦争で勝てない時はテロ! 始皇帝を襲った刺客の刃!

2018-03-27 04:01:03 | Weblog

◆克明に描かれる暗殺未遂事件
 趙が滅んだ翌年の紀元前年、天下に怖いものは何も無いと思われた始皇帝に最大の危機が迫った。
燕から秦へ荊軻と云う使者が訪れる。荊軻は首の入った桶と地図の入った箱を持っていた。首は元々秦の将軍で燕へと亡命した樊於期のもので、地図は燕の肥沃な土地、督亢を示したものだった。つまり、裏切り者の首と共に領土を差し出そうと言うのである。謁見した荊軻に、始皇帝は地図を見せるよう命じた。地図の巻物を開くと、そこから匕首が顔をのぞかせる。巻物の中に匕首が忍ばせてあったのだ。荊軻は匕首を手にすると、始皇帝の着物の袖を掴んで襲いかかる。匕首の刃には毒が仕込まれていて、傷を負えばただでは済まなかったのだが、袖が破れ荊軻の一撃は外れる。匕首を手に荊軻が追い、始皇帝は必死で逃げ惑う。法により宮殿では王以外の者が武器を持つことを許されていなかった為、家臣たちは素手で打ちかかろうとするもののたじろぐばかりで、侍医が薬入れを投げつけるぐらいしかできない。
始皇帝はどうにか腰の剣を抜こうとするが、剣が長い為なかなか抜けない。その時周りから「剣を背中に!」と云う声が飛び、始皇帝は剣を背にまわして、ようやく抜くことができた。荊軻は足を始皇帝に斬られ、倒れながら匕首を投げつけたが、それも柱に刺さるのみだった。怒り狂った始皇帝は荊軻を斬り殺し、絶命した荊軻の死体を何度も何度も斬り刻んだと言う。

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◆風蕭々として易水寒し。壮士ひとたび去って復た還らず
 (風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不復還) 秦の侵攻を止める最後の手段
 荊軻に暗殺を命じたのは、燕の太子である丹だった。丹は趙に人質として出されていた過去があり。その頃に趙で生まれ育った始皇帝と共に過ごしたこともあった。しかし、今度は秦に人質として赴いた丹に対して始皇帝は冷淡に接している。そうした恨みもあって、始皇帝の暗殺命令が下されたのだ。

始皇帝に献上された首の持ち主の樊於期だが、歴史家・楊寛の説だと、その正体は敗戦の処罰を恐れて秦から燕に亡命した桓齮だとも言われている。もし、それが事実であるとしたら、逃亡を怒った始皇帝から一族郎党を皆殺しにされた身である桓齮は、復讐を願って自分の首を喜んで荊軻に差し出したことだろう。

衛に生まれた荊軻は読書と剣と酒を好み、諸国を放浪して学んでいた。燕に入った荊軻はやがて、その地の実力者・田光と知り合う。そして始皇帝に刺客を送ることを考えていた太子丹から相談を受けた田光が荊軻を推挙したのである。秦に向かって出発する際、荊軻は喪服を着た人々に見送られた。死を覚悟しての旅立ちだったのだ。

荊軻は助手として秦舞陽と云う男を連れていた。13歳にして人を殺めた強者だと丹が推薦したのだが、荊軻は頼りにならない男と考えていた。実際、始皇帝の前に行った際に秦舞陽は青ざめて震え出してしまった。怪しまれるのを荊軻は「田舎者ゆえ、天子様への拝謁を畏れ慄いているので御座います」と誤魔化したと言う。

画像 秦王(左)に襲い掛かる荊軻(右)。
   画面中央上には秦舞陽、
   中央下には箱に入った樊於期の首が見える。

     

                   秦の始皇帝 最強研究
                        史上最も偉大で 最も嫌われた皇帝の真実

 

 

 

 

 

 

 


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大政奉還の功労者 山内容堂は中央政界から引退後 酒と女と詩に溺れた

2018-03-26 04:12:06 | Weblog

◆公武合体派の立場から幕府に大政奉還を建白
 山内容堂(1827~1872)は、本名を豊信(とよしげ)と言う。分家の出で、母は大工の娘であり藩主になるとは思っていなかったので、江戸ではなく高知城下で育ち下々の事情にも通じていた。しかし1848年に土佐藩主となり、藩政改革に尽力した。自ら「鯨海酔候」と称する程の酒好きで、後年、隠居部屋に扁額「酔擁美人楼」を掲げる遊び人でもあった。豪放磊落を装った部分も少なからずあったにしろ、公武合体派のビッグネームとして、幕末期に独特の存在感を放ったのは事実である。
将軍継嗣問題では、一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推し、徳川慶福を推す大老・井伊直弼と対立した。結果、慶福が十四代将軍・家茂となると、井伊が行った反対派への大弾圧(安政の大獄)に反発して隠居。この頃から容堂の号を用い始めた。
朝廷の権威を背景に、幕府権力の再生を図ろうと云うのが公武合体だが、公(勤王)とも武(佐幕)とも定まらぬ容堂の態度は、特に尊王攘夷派や、後の討幕派からは蔑まれた。山内家は薩長や佐賀と違い関ヶ原では東軍だったが、長宗我部の旧臣たちの郷士を抱えて、彼らを中心に尊皇思想も強かったのだが........。
薩長の接近で討幕機運が高まる中、容堂は坂本龍馬らが持ち込んだ案を入れ、幕府に大政奉還を建白。政治の大権自体は朝廷に返上しながら、徳川宗家は指導的立場で諸侯らによる公議政体をリードしようと云うのだ。名より実を取る手である。
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◆大事な席で酔って失言 討幕派を勢いづけてしまう
 大政奉還が実現し、容堂の狙いが当たったかに見えたのは一瞬のこと。直後に開かれた小御所会議で、武力討幕派の反転攻勢を受ける。薩摩・尾張・越前・芸州の各藩代表が集まった席で容堂は、大政奉還を英断した徳川慶喜がこの場に居ないのはオカシイと主張。また、慶喜の辞官納地が決まると、徳川宗家だけが土地の返納を求められることにも強く反発してみせた。
そこまでだったら筋の通った話だが、ここで容堂は酔いに任せて失言してしまう。一部の人間が幼沖(幼いの意)の天皇を担いで権威を欲しいままにしていると批判してしまったのだ。事実であるが、天皇を指して幼沖とは不敬の極み、明確な根拠もなく、天皇の決意が他者に操られていると決めつけることは許されない。
この小御所会議を境に、公武合体論は一気に萎み、情勢は薩長が推し進める武力討幕へと傾いた。そして起きたのが、1868年の鳥羽伏見の戦いである。容堂は土佐藩兵の参戦を禁じたが、薩土両藩の有力者たちが密かに結んだ薩土密約(軍事同盟)により、藩士たちは官軍に与して戦った。容堂はきっと苛立ったことだろう。
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◆四十代の働き盛りに引退し 放蕩の日々を送る
 ドラマなどでは、如何にもゴツイ感じの初老の役者が存在感タップリに演じることが多い。その為、西郷隆盛や大久保利通、桂小五郎と云った薩長の主要メンバーより遥かに年上ではないかと思いがちだが、維新時点で容堂はまだ四十二歳。バリバリの働き盛りである。土佐藩は官軍側として戊辰戦争を戦ったこともあり、容堂も維新政府で官職を得た。内国事務総裁、議事体裁取調総裁、学校知事、制度寮総裁、上局議長など、いずれも短命に終わったが、それなりにポストは与えられていたのだ。
しかし、取り分け身分制度に厳しかった土佐の支配者階級に生まれた容堂のことである。所謂、成り上がりの新政府首脳陣と折り合えるはずもない。元号が明治となって二年目の1869年には早々に中央政界から引退してしまう。箱崎にある元の御三卿・田安家の屋敷に短期間住んだ後、容堂は橋場の別荘に移って余生を過ごした。
酒と女と詩。
孤独ではあったが、愛したものたちに耽溺した晩年。
中風で倒れて半身不随、1872年6月21日、四十六歳の波乱の生涯を終えた。

(画像・山内容堂の肖像写真、山内神社境内にある容堂の像)

*まとめ すべての官職を辞し、別荘で酒と女と詩作の日々

          

                        「その後」の日本史
                             幸せな余生を送った偉人たち


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桂昌院 (1627~1705)悪法「生類憐れみの令」の発布を勧めた徳川綱吉の母

2018-03-25 04:40:58 | Weblog

犬公方と呼ばれ、悪政を敷いた将軍の代表格の様に謂われる、五代将軍徳川綱吉。
その生母が桂昌院だ。
彼女は、三代将軍の家光の側室。
しかし、元々は庶民の出で、普通なら大奥に入れる様な身分ではない。
それが運に恵まれ、大奥と云う女の園で絶大な権力を持ち、息子を犬公方にしてしまったのである。
桂昌院は、家光に寵愛されたお万の方付きの侍女として、京都から江戸入りしたが、それは運に恵まれての事だった。
彼女の父親は京都の八百屋で、母親が公卿の家司の妾になったことで養子となり侍女奉公をしている時に江戸行きが決まったのだ。
そして、お万の方が側室を引退する年齢になった時代わりに側室となり、男児(綱吉)に恵まれたのである。
しかも、後継に優先権のある綱吉の兄たちが次々に死に、彼だけが直系の後継者として残ったと云うのも、まさに運と謂えた。

ところが、肝心の綱吉に世継ぎができない。
そこで、子が得られる「願かけ」として桂昌院が綱吉に発布を勧めたのが、「人間よりも犬を大切にせよ」と謳ったとんでもない悪法、生類憐れみの令だった。

              


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日野富子(1440~1496)応仁の乱を引き起こし金儲けに励んだ剃髪の猛女

2018-03-25 04:34:31 | Weblog

室町幕府八代将軍足利義政の妻富子は、夫の義政以上に権力を掌中した、
まさに猛女だった。
息子を将軍にする為に戦争を引き起こし、それは延々と続いたが、彼女は何処吹く風。
頼りに為らない夫を尻目に金貸しをして金儲けに励み、
権勢と富を築いて女将軍としての威光を照らしていたと云う。
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「将軍との結婚と天皇との不倫」
 一四四〇(永亨十二)年、内大臣日野政光(重政)の娘で、十五歳の富子は足利義政の下へ嫁いだ。日野家は代々将軍家の正室を出した家柄で、義政の母も富子の大叔母にあたる。
だが、嫁いだ富子は愕然とした。
そこは「三魔」が幅を利かす、まるで魑魅魍魎の跋扈する様な世界だったのである。三魔とは、「ありま」「からすま」「おいま」を意味し、それぞれ、側近の「有馬持家」と「烏丸資任」、
そして、義政の乳母でありながら側室でもあったと云う「お今」こと今参局のことを示していた。
中でも、将軍の寵愛が深いお今は、富子にとってはまさに脅威の存在であり、実際、富子は暫くの間、義政に相手にされなかった。

富子は、結婚五年目にしてようやく男の子を産むが、その子は直ぐに死んでしまう。そこで富子は、姑の重子と謀り、お今が子どもを呪い殺したのだと義政に訴えた。
義政も、せっかく生まれた男児を亡くしたことに気落ちしたのか、お今を琵琶湖の小島に流した。もちろんお今は無実を訴えたが、それが叶わないと知るや、そこで自害して果てたと云う。
また、一説に因ると、富子らが彼女を殺害させたのだとも言われている。

富子は、後は跡継ぎを無事に産みさえすれば良かった。
ところが一四六四(寛正五)年、義政が突然、僧籍に入っている弟義尋を後継に立てて、隠居すると言い出したのだ。義政二十八歳、富子二十四歳。もちろん、まだまだ子どもができなくなる様な年齢ではない。

義政は、八歳で家督を継いで十四歳で将軍となり、もう疲れたと言うのだ。
確かに、庭いじりだけが趣味と云う義政に、将軍の荷は重過ぎたのかも知れない。
だが、理由はそれだけではなかったとも囁かれている。

実は、富子には不倫の噂があったのだ。
しかも、相手は土御門天皇。
富子は義尋改め義視が義政の養子になった翌年、義尚を産むが、義尚は天皇の子とも言われている。義政の隠居宣言は、前から噂があった富子の不倫に対する抗議の意味もあったのかも知れない。
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「息子の為に起こした応仁の乱」
 何とかして義尚を将軍にしたいと考えた富子は、山名宗全を後見人に立て、一方の義視は細川勝元を頼った。そして遂に、将軍の跡継ぎ争いと両家の思惑が絡み、一四六七(応仁元)年、応仁の乱が勃発した。

富子は精力的に画策し、一四七三(文明五)年に義尚を将軍職に就けることに成功する。だが、皮肉なことにそれでも戦乱は終わらなかった。

しかし、富子にとっては長く続く戦乱は好機でしかなかった。
以前から富子は大名から賄賂を受け取り、京への入り口に関所を設けて税金をかけたり、米の買占めも行うなど金儲けに励んでいたが、戦費がかさむことに目を付け、大名たちに高利で金を貸し付けたのだ。

こうして、富と権勢を集めた富子の下へ人が寄って来るのは当然である。
彼女は自らが引き起こした戦乱を尻目に、悠々自適に暮らした。

ただし、そのツケが回って来たのか、富子の晩年は、自分の息子やその後継者たちとの対立に終始していた様だ。

              



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◆最初に滅んだ戦国七雄 「韓の滅亡」

2018-03-25 04:28:45 | Weblog

*秦に領土を奪われ続けた
 『史記』によると、昭候(韓の君主。紀元前358~333年)の時代に、韓は西の領域を秦に侵略されていた。次の代の宣恵王の時には都の近くまで秦の侵入を許し、次の襄王の時には西方の大都市・宣陽を陥落させられる。そして桓恵王の時には、上党郡や諸都市の多くを秦に奪われる。この時は、ほとんど都のみを辛うじて維持しているような状態だったと言う。
そして、桓恵王の次の代である、韓の最後の王である韓安の時代。紀元前233年に韓の王族である韓非が、李斯の策により秦で殺害されると云う一件があった。韓非の父である王の韓安は、使者として派遣した韓非が「韓を滅ぼせば、残りの他国の連合を招く危機がある。寧ろ秦と韓が組んで趙を攻める方が得策だ」と秦を説得することを期待していた。息子である韓非に望みを託していたのだ。しかし無残にも韓非は自殺を強いられる。同じく荀子の門下で秦の高官であった李斯が嫉妬し、謀略を企てたのだ。
李斯が嫉妬したのは、韓非の著作である『韓非子』を読んだ始皇帝が激賞した為である。韓非の死を受けて、韓安は秦に南陽の領土を差し出して生き残りを図る。紀元前231年、内史騰(内史とは首都近辺の長官のこと)がこの地を治める仮の太守となっているが、この騰が韓を滅ぼす秦の将軍となるのだ。紀元前230年、秦の内史騰は10万の軍で韓を攻め、韓安を捕虜とする。領土はことごとく秦に奪われ、韓は滅びてしまった。

◆周王朝の名族も最後は力なく..... 韓のルーツと末路
 紀元前230年に秦の将軍・内史騰が10万の兵を率いて韓を攻める。韓の首都である新鄭を攻め落として、韓安を捕らえる。内史騰は人気マンガ『キングダム』にも登場しているが、史実ではその名が伝わるだけで、詳しい経歴などは不明である。韓を滅ぼすと云う大きな功績を上げているにも関わらず、記述がほとんどないと云う謎多き武将である。

 韓安が捕らえられ、韓は潁川郡として秦の統治下に入り、国としての韓は滅亡する。捕虜となった韓の最後の王である韓安自身はその時点では生きながらえたものの、紀元前226年に韓の都であった新鄭で韓の元貴族による反乱が起き、それが鎮圧された際に処刑されている。

 『項羽と劉邦』でお馴染みの劉邦の配下の張良。張良の祖父も父も韓の王の宰相を務めていた。生国を滅ぼされた恨みから、張良は始皇帝暗殺の計画を立てる。屈強な男に鉄槌を投げさせ始皇帝を狙うが失敗、張良は逃亡。後に張良は、紀元前206~202年の楚漢戦争の際、韓の旧王族の韓王成、韓王信を擁立している。

 晋に仕えていた公族が、韓原(現在の陝西省韓城県)に封ぜられ、韓武子を名乗る。これが韓のルーツであると言う。韓氏は晋の6つの有力な家柄の一つとなり、紀元前453年には趙氏、魏氏と晋を三分。紀元前403年には、趙、魏と共に韓は周王から諸侯として認められて、完全な独立国となった。

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◆秦を悩ませた強国の一角 「趙の滅亡」

*中枢の腐敗により滅びる
 戦国の七国の中ではトップの座を秦と争い、ライバルと云えた趙。武霊王(在位紀元前325~299年)が「胡服騎射」と呼ばれる軍事改革を行って騎馬軍団を創設する。この改革により目覚ましい戦果を上げ、趙は台頭して行った。だが、末期には趙の中枢はすっかりと腐敗していた。王である遷(幽繆王)の周りにはイエスマンばかりが揃い、秦のスパイまでもが入り込んでいた。特に酷いのが奸臣・郭開である。趙を出奔した名将・廉頗が帰参を願い出たが、かねてから廉頗を嫌っていた郭開は使者を買収して会談の間に3度も失禁したと云う嘘の報告をさせ、帰参の話を破談にするなど、とにかく趙の為にならないことばかりした。秦が邯鄲を包囲した時、秦を2度も撃退した名将・李牧が趙の守将となり、秦軍の包囲に耐えていたが、秦が郭開を買収して、李牧が反乱を企んでいると遷に讒言させると、遷はすっかり信じて李牧を殺してしまう。そして、紀元前228年、秦の将軍・王翦は趙の都の邯鄲を攻め滅ぼす。李牧の死から僅か3か月後のことだった。趙王遷は捕虜となり、房陵に流される。王子の嘉は代と云う地(現在の河北省蔚県南西部)に逃れ、代王を名乗るものの、紀元前222年に滅ぼされて、趙の王の血統は途絶えるのだった。実は、こうして滅びた趙と始皇帝とは、因縁浅からぬ関係にあった。始皇帝の母は邯鄲の舞姫であり、始皇帝自身も邯鄲で生まれているのだ。邯鄲を手に入れた際には、始皇帝自身が幼い頃を過ごしたこの地に乗り込み、母の家と敵対関係にあった者をすべて捕らえて殺したと言う。

◆守護神・李牧を自らの手で葬り..... 趙のルーツと末路
 紀元前236年に魏の鄴を攻め落とすと、今度は趙に向かって進軍した王翦。紀元前229年には趙の北方の守りの要である井陘も攻略する。こうした王翦の働きによって、既にほぼ秦と趙の戦いの趨勢は決まっていたと言える。紀元前228年に王翦は羌瘣と共に趙を攻めてことごとく領土を奪い、東陽で趙王遷を捕らえて、趙を滅亡に追いやるのだった。

 趙の名将・李牧は囮を使った作戦で騎馬民族・匈奴の10万余りの大軍を撃破して名をあげた。紀元前243年には燕の2城を落とし、紀元前233年と232年には侵攻して来た秦軍を撃退するなど、華々しい戦績を誇っていた。しかし、最後には、秦の策略で趙王が「李牧が謀反を企てている」と吹き込まれ、殺されてしまった。

 武霊王の「胡服騎射」とは、趙が度々戦いを繰り広げていた相手である北方の遊牧民族の戦法を取り入れると云うものである。馬に乗るのに適した遊牧民族の服装で、騎乗して弓を射るから、「胡服騎射」なのである。馬が引く戦車での古くからの戦法が時代遅れとなっていて、機動力のある騎馬部隊こそ力を発揮したのだ。

 どこまでが事実か疑わしい面はあるが『史記』によると、趙と秦の王室は同じ祖先から分かれたものだと言う。殷に仕えた蜚廉と云う人物がいて、この長子の血統である悪来が秦に繋がって行き、次子の李勝の血統は趙に繋がって行ったと言うのだ。周に仕えた趙氏は、その後、晋に仕え、晋の力が衰えると、趙国を打ち立てることとなる。

画像 戦国七雄の図

      


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