Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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ヴィクトリア女王 日の沈まぬ国を作り上げた大英帝国の女王 (1819~1901)

2017-09-25 05:04:40 | Weblog

「ヴィクトリア時代」「ヴィクトリア様式」など、彼女の名を冠したものが数多くあることからも分る様に、ヴィクトリア女王がイギリス王室に君臨していた頃は、それまでのイギリス史上でも最も輝きを放ち、かつ安定した時代だった。

 

「夫アルバートへのひたむきな愛」
ヴィクトリアは、ジョージ3世の四男ケント公エドワードと、ザクセンのコーブルク家から嫁いだ母との間に生まれた。
本来なら、王位継承には程遠い存在だったヴィクトリアだが、ジョージ3世の跡を継いだ二人の伯父、ジョージ4世、ウィリアム4世共に後継者がおらず、エドワードも彼女が幼児の時に亡くなっていた為に順番が回って来たのだ。ヴィクトリア、十八歳の時のことだ。
独身で即位した彼女は、二十一歳で結婚する。
相手は母の出身国であるザクセン=コーブルク家一族のアルバート公子で、ヴィクトリアとは同い年のいとこと云う関係に当たる。当時は、身分の低い者が女王に対して求婚することはできなかったので、プロポーズはヴィクトリアの方からしたことになっているが、実際には、ヴィクトリアの熱愛に寄って成立した結婚だったという。
即位当初、女王はウィリアム・ラム首相のい助言に寄って政治を行っていたが、アルバートと結婚してからは、夫がヴィクトリアの良き指導者となった。
ヴィクトリアの治世下が議会制民主主義のお手本の如く謂われるのは、夫アルバートが女王を教育したからだった。ともすると政治家の好き嫌いが激しかったり、外交政策で親ドイツの立場で干渉したりするヴィクトリアに、立憲君主制や二大政党制の本当の意味と意義を教え、諭したのである。

私生活でも、一人娘として育てられたヴィクトリアの我がままが目立ち過ぎたり、他人を思いやることを忘れがちなのを、君主として恥ずかしくない女性に正し、決して驕らない、質素な生活に徹底させたのもアルバートだった。
二人が結婚して間もない頃のアルバートは、外国人で英語も苦手だったことから、社交が不得手であまり良い評判が得られなかった。それが、女王のパートナーとして、真面目で誠実な人柄が周囲に理解されるにつれて、徐々に評価を高めて行った。
ヴィクトリアもそれを十分に承知していて、四十二歳の若さで夫が亡くなった時には深く嘆き悲しみ、「私の人生は終わった」と言って宮殿に引きこもってしまい周囲を心配させたが、アルバートが教えた君主としての精神が、女王を蘇らせた。



「イギリス史上最長の在位」
アルバートは、亡くなる十年前に開かれた1851年の第一回万国博覧会を企画し、イギリスの国力を世界に示す、またとないチャンスを作っていた。そして強固な海軍を所有し、進んだ工業で生産力を高めながら、植民地を広げ、世界をリードするイギリスの姿を目の当たりにさせたのだった。
アルバートの死を乗り越えたヴィクトリアは、彼の生存中にも増して堅実に政治に取り組み、イギリス国内では普通教育法や労働組合法などの制定に漕ぎ着け、外交面でも自分が皇帝となってインド帝国を成立させている。この帝国主義政策は、後に抵抗運動や独立運動を生む火種となるものではあったが、この時代においては間違いなくイギリスの栄光の象徴だったと云える。
また、ヴィクトリアとアルバートの間には九人の子ども達が生まれているが、それぞれがヨーロッパ各国の王家と婚姻関係を結び、イギリス閨閥ともいえる家系が形づくられて行った。

1901年、八十一歳でヴィクトリアは没するが、十八歳で即位してからの六十四年に渡る治世はイギリス史上最長であり、日の沈まぬ国としての繁栄期だった。そして彼女は、後に起こる第一次世界大戦で彼女の子孫同士が対立する構図が生まれ、国の繁栄に影がさして行くのを知らぬまま、この世を去ったのだった。

             

            




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画像・ヴィクトリア女王と、夫のアルバート




秋明菊(Japanese anemone) Anemone hupehensis 薄れゆく愛 忍耐

今年は、この色の秋明菊しか持っていないけれど、よく咲いてくれています。
また、あっちこっちと増えてもいる。可愛いよね。(。◕ ∀ ◕。)


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