Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

怨みに報ゆるに徳を以てす 老子

2012-03-31 03:17:56 | Weblog


或る人曰く、徳を以て怨みに報ゆれば何如と。
子曰く、何を以てか徳に報いん。
直を以て怨みに報い、徳を以て徳に報いよ、と。

ある人が孔子に尋ねた。
「恩徳を施して恨みのある者に報いてやると云うやり方はどうでしょうか。」
孔子が言われた。
「では、恩徳を施してくれた者には、どうやって報いればよいのか。恨みのある者には正しさで報い、恩徳を施してくれたものには、恩徳をもって報いるのが好いのだ。」

無為を為し、無事を事とし、無味を味わう。
小なるを大とし、少なきを多とし、怨みに報ゆるに徳を以てす。         老子

無為(=人為的な細工をしないこと)を自分の生き方とし、無事(=何事もしないこと)を自分の営みとし、無味(=好悪をもたぬこと)を自分の感情とする。
小さな者には大きな物を与え、少ない者には多くして返してやる。
恨みのある者には、徳をもって報いてやる。

今読んでいる「興亡三国志」には、故事や論語、史記、兵法等々がよく出されているのですが、私は疑問とか、調べてみたいことが度々と出てくるので、それが愉快だったりしています。
本屋さんで「老子」も手にとっては見てはいるものの、孔子とそうは変わりなどないものだと思っており、差ほど気にもかけていませんでしたが、興亡三国志内で劉備が言う老子の言葉「怨みに報ゆるに徳を以てす」と示されていて、早速調べてみたのです。
孔子も同じことを語っておりますが、その解釈が違うんだと云うことに気づいて、何か、嬉しい気分になっておりました。
この句に対する「論語」と「老子」の判断の違いが、儒教と道教の二つの考え方の極点を示すものの様だ。

「君は、心善からぬ同輩の告げ口で免官になっても、告げ口をした者やそれを信じた人も恨むことはしなかった。
怨ミ二報ユル二徳ヲ以テス、これを実行することは容易ではない。
まして今の様な乱世においては至難である。
それの出来た君こそが得難い才能を持っている証拠ではないか」と、劉備一流の口説き方。
才ある者はどんな立場や者(泥棒であっても)であっても我の下に来給え(才を活かすも活かさないも自分の使い方の腕前)と言う曹操とは対比する人材登用と云ったところでしょう。

「この世で受けた恩も仇も、わが命を賭けてこの世で返す」的な、ムキになってる韓国ドラマばっかし見ていると、何気に儒教って嫌気がさしていたものですが、仏教を主とし、儒教や道教、或いは密教的なものも混ざり合って日本では浸透していると知って、孔子にこうして興味を覚えているのだし、これからは老子も学んでみてもいいのかナと考えていた昨日でした。
文で読めばとっても難しいことの様に思われますが、仏教がそうである様に、私たちの日常や暮らし、日本人の道徳観に当然として儒教も道教も身についているのです。
枝葉の違い、解釈の違いだけのことだろうと私は思っています。
「史記」で有名な司馬遷が言う「士ハ己ヲ知ル者ノ為二用イ(或いは死ス)」と劉備に見込まれた人物が返答するのですが、これだって、現代に大いに通じたりしますよね。

そんなこんなしているうち、昨日の朝「ビン・缶・ペットボトル」を出しに出たところ、結構雪が消えてしまっているのには驚きました。
私はワザワザ雪や氷を割りに出ない方なのですが、どうしようとしまいと、平等に春が訪れて来るんだと云うのが、毎年繰り返されている事だけれど、この時季特有の新鮮な気持ちだろうと想いました。
人生だって、何を成そうと成さずとも同じ人生ではあるけれど、道を定めた真摯な心で穏やかに過ごす人生を私は望もう。

今日で3月も終わりかと思うと何かしら惜しい様な気にもなるんですが、月が替わるのも楽しみってあるって想うから、また、自分が遣るべき努力をし、心新たにし頑張れたらいいとイメージしていますし、自分の行きたいとかしたい方向が、若干でもこうして明確に成って来た喜び(?)を大切に。(G皿G)b

それと、昨日はときどき強い風が吹いたりしていました。

りんごを啄みに来たこの子が飛ばされそうでしたよ。


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以て六尺の孤を託すべく

2012-03-30 04:09:40 | Weblog

曾子日く、以て六尺の孤を託すべく、

以て百里の命を寄すべく、

大節に臨んで奪うべからざるなり。

君子人か、君子人なり。

曾子は言われました、
「亡き先君の遺志を継いで安心して幼い世継ぎの訓育を託す事ができ、
一国の命運を任せる事ができ、
どの様な事態になっても志しを失うことがない人。
こう云う人を君子人と云って良かろうか?
確かに君子人である」と。

「六尺の孤」とは、父親のいない十五歳前後の子のことを言います。

曾子は、孔子のお弟子で、儒教黎明期の重要人物。諱(いみな)は(しん)。字は子與(しよ)。
曾参(そうしん)は魯の出身で、孝の道(親孝行)に優れており、孔子より見込まれ、「孝経」を著したと云う説もあります。

二十四孝には、曾参はある時薪を取りに山に行った。
母が留守番をしている所に曾参の親友が訪ねて来た。
母はもてなしたいと思ったが、曾参は家におらず、元々家が貧しいのでもてなしもできず、
「曾参、急いで帰って来ておくれ」と指を噛んで願った。
曾参は山で薪を拾っていたのでしたが、急に胸騒ぎがするので急いで家に帰ってみると、母が事のいきさつを話してくれた。
指を噛んで願ったのが遠くの曾参に響いたのは孝行の心で、親子の情が深い証拠であると書かれてあります。


一晩休んで起きれば、アレ?、昨日は何をやっていたっけ?とかって寝惚けぎみに思ったりするのですが、朝、論語の一章でも読むうち、少しでも意味とかを知られたら、それって気つけ薬の様な気がしますし、以前は朝一番に好きな音楽とかを聴くとかしてましたが、朝に何を思ったかとか考えたか、感じたかでその日一日を左右するってことだってありますよね。
とにかく私的には、早寝早起きの習慣をつけて、夜寝る時には重いことを考えずに、朝起きてスッキリしているところで、ちょっとお勉強(?)する、これは案外と愉快なもので、体調まずまずの一役をかっているのかナとさえ思っています。
日常に差ほどの変化もないことを多分幸せって言うのだろうけれど、満足しているかしてはいないか、私はほぼ満足に近く、若干の不満足がこれが趣味になったりするのだろうかと考えております。
猫たちが居るから、それこそ毎日掃除等は欠かせませんが、生きているものらは飾り物ではないんですから、毎日の家事でもやる事や、本を読むこと、日記を書く事って、好い習慣であるんだと私は思っているよ。
私は自分の好きなことをしている時って、おそらくはスゴイ恰好をしてたりヘンな顔でいるって思うのです。
また、その姿って誰にも見られたくないってとこが自分の謎なところ。

家周りで何気かガタッ・・・と音がするのですが、まだまだあります雪や氷が、底が空洞になっており崩れる音。
家の裏のトイレの窓から見れば、氷の塊が山の様になっており、すべて消えるのは5月の声を聞いた頃になるかも知れないのです。
大袈裟、北海道は半年間冬なのですから、また私は生まれてこの方、この環境しっか知りません。
札幌などは全然暖かくって雪が少ないって今だに思っておりますが、田舎のチョ~厳しい、想像を絶する環境下で育ったことは、良い精神修養にさえ成ったのだと今なら思える。
この冬は岩見沢方面が大変な大雪でしたが、私が子どもの頃などは、冬ってあんな風が当たり前でした。
学校だってそう簡単に休校などなりませんから、近所の子のお父さんや爺ちゃんが馬そりを出してくれて、その後を辿って歩くわけです。
スゴイ凍れた時には、有線放送で1時間遅れで学校が始まると知らせがありましたね。
何度、ズル休みをしたいと思ったことでしょう。
帰りだって、まるで八甲田山の軍事訓練の様で、遭難しかけたみたいになっても家族の誰も迎えになど来てくれません。
私、そんな時何を想っていたか記憶しているんですよ。
「負けない、こんな事くらいで負けない!」
「絶対に死ぬものかッ!」って、それくらい過酷だったのです。
歌を歌って紛らわしたりもしていました。「きのうケメ子に会いました 星のキレイな夜でした・・・ ララララ~ ララララ~ ララララ~ ララララ ♪**(^,^)」とかって。

もう二度とそんな環境じゃ過ごしたくはないんだと思いもするけれど、人間は愉しいとか嬉しい思い出よりか、大変だった頃の方が懐かしく思い出すものですねぇ。
悩んだり苦しんだり、苦労をしてみたりで、成長が出来るのだろうと。

コロコロ転がるから「心」と言うんだよと、もし小学生や中学生だった私に出会えて、かける言葉があるとするなら、そう言うんだろうと思います。
幼くとも私は、それをきっと理解したでしょう。

 


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仲良きことは美しきことなり

2012-03-29 14:42:49 | Weblog

こうして、いつでも何処でも一緒、食べるのも一緒、カラスから逃げ出すのも一緒、休む時だって一緒。
 _
∈・ )
( フノ
 TT´
  、_
  /・>
 ミ_ノ彡
彡'LL

何て微笑ましいものかしらんと思うのです。

鳥たちにはきっと「ウザイ」なんて事態などないんだろうナ。(’-’*)いいなぁ…


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八百屋お七

2012-03-29 05:49:54 | Weblog

「八百屋お七の日」。
1683(天和3)年、18歳の八百屋の娘・お七が、3日間の市中引回しの上、火あぶりの極刑に処せられました。

前年12月28日の大火で避難した寺で出会った寺小姓・生田庄之介のことが忘れられずに、火事になれば再び会えると考えて3月2日の夜に放火してしまい、火はすぐに消しとめられましたが、お七は御用となりました。

当時は放火の罪は火あぶりの極刑に処せられていましたが、17歳以下ならば極刑は免れることになっていました。
そこで奉行は、お七の刑を軽くする為に「おぬしは17だろう」と問いますが、その意味が判らなかったお七は正直に18歳だと答えてしまい、極刑に処せられることになってしまいました。
お七が丙午(ひのえうま)の年の生まれであったことから、この出来事で丙午生まれの女の子が疎まれるようになったのだそうです。

井原西鶴の浮世草子「好色五人女」や河竹黙阿弥などが脚色して、芝居や人形浄瑠璃の演目に寄って、日本の津々浦々まで知れ渡っていますね。

「好色」と云う言い方って現在ではかなり嫌らしい聞こえではありますが、その五人の女性たちは純粋に恋に生き、死んでいった女性たちなんですよ。
…(*Ⅴ.Ⅴ)


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礼の和を以て貴しと為す

2012-03-29 03:55:51 | Weblog

有子曰わく、礼の用は和を貴しと為す。

先王の道も斯れを美となす。

小大これに由るも行なわれざる所あり。

和を知りて和すれども礼を以てこれを節せざれば、亦行なわるべからず。

有子がおっしゃいました。
「礼儀の意義とは社会の調和を保つ事にある。
古代の聖王たちの美徳もこの点にある。
しかしながらたとえ調和があったとしても、社会秩序が良く保たれるとは限らない。
調和を知り調和の中で生きていたとしても、礼儀によって社会の秩序は保たれるべきである。」

604年に制定の聖徳太子十七条憲法の第一条「和を以て貴しと為し、忤(たが)ふること無きを宗とせよ」は、「礼記」のほぼ同じ一節から採られたものだと言われています。

少し以前のBS歴史館の「聖徳太子」は興味深くて面白いものでした。

後漢王朝が滅びる前後から、中国は大混乱期を迎え、「三国志」には、激しい戦乱が続く事や凶作等が常態化し、やむを得ず故郷を捨て流亡する者らが続出し、その一部が日本に流れ着いたと書かれています。
私が読んだ「三国志」内には、「女王を中心に農耕に励み、争いを好まない国がある」と、人々のせん望のが書かれてありました。それに、魏志倭人伝以前から、中国国内の情勢等を倭国に知らせた者たちがいたとも伺えられ、それは、朝鮮半島の高麗・百済・新羅からと、卑弥呼や或いは聖徳太子のブレーンに成った者らが多くあったのだろうと察せられます。
好きな話って言うのも何ですが、魏の最後となる皇帝と、倭の卑弥呼を執成したのは「司馬懿仲達」ではないか?と云う説であります。
国家としての体制を整えつつあった聖徳太子のこの時代頃より、倭国から日本と呼ばれる様になりました。

また、有子と云う人は孔子の門人であり、容貌や言行が孔子とよく似ていた為に一門からたいへん慕われた人で、「子」とつけられたと云うのは、先生の代わりが為せた人であったと云うことだろうと思います。
本名は「有若」と言いました。


昨日は、しばらくぶりな様な、日差しの好い日でありました。
こう云う日には私は少し外に出て、イライラや憂鬱解消の為にお日様を少しは浴びるべきなんだろうと思いますが、早朝にゴミや資源物を出しに行くか、回覧板をまわしに出るか、それしっかないですね。
でもよ、来月の半ば頃にでもなれば、敷地内をウロウロとしてガーデニング計画を練ったり、片づけ物とか掃除なんかがあったりで、家の中と外でまたまた忙しい(?)ことになるのですから、追々なことなのだろうと暢気な構えをしております。
けど、その春の喜びと楽しみの為、ホームセンターなどでお花の種くらいは早くから買っておきたいぞッとか思っています。
撒くのはウンと地温が上がる桜が咲き終わった頃でしょうか。
ですが、この冬とか春先は、いつの年になく絶好調であります。
暇にまかせて、果たして努力をし、遮二無二頑張ったなら幸福に成れるものなのだろうか?と考えてみたりします。
努力をするって、また遣れるって素晴らしい才能だと思いますが、思い通りの結果に成らない事を恐れずに、悩み苦しむ過程さえも愉しめているとか、どんな結果になろうとまた立ち上がればイイのだって勇気がなきゃ、努力だって無駄だろうと思います。
それと、努力と云うものって、それこそ人それぞれであっても隠せはせず、ふとした仕草や言動に現れてしまうのだから、如何に普段の自分って誤魔化したり出来ないものなんだろうとも思っています。

アメリカの報道で私的には実に愉快なものがありました。
よくネコ派イヌ派と言いますが、猫を飼っている人は一緒に犬も飼っている人って多いのだそうで、猫を飼う人が犬にも寛容になっているんだと云うデーター(?)に興味を覚えました。
アメリカみたいに家や敷地が広ければ、私だって犬を飼いたい希望があります。実は初めは私は大の犬好きだったんですね。
新婚時代に神様のお使いだったのか、毛色が真っ白で目がきれいなブルーな一匹の雌猫との出会いがあり、こうして猫飼いの挙句になっておりますが、十数匹や二十匹近くまで面倒を看て可愛がりました。
今思い出しても、私はその頃だって今だって、どれだけ救われ幸せだったかと感じています。
それが、多分犬だったならば、得られなかったことではなかったのかって思うのですよね。
まして、人との交わりの中では今の自分じゃなかったのだろうと想像され、まだ若いうちに死んでしまっていたのカモね・・・。
(ΟдΟ;)
猫と犬は別な動物であって、比較するのは違うのですよ。
猫はハンターじゃないですか。
それと、何よりか精神的であるところが、私が好むところで、そんなに猫の気持ちが解るなら猫になればイイじゃないかッ!と皮肉も言われたけれども、私は当然猫タイプですから、直に化けて出てやろうかッ!?と想ったりします。
例え、返り討ちにあっても、「鍋島猫騒動」とかって、主人の仇を返そうとする猫の心意気(?)って私は好きですね。
執念深い・・・のとは違うのだと考えています。


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二十四孝 閔子騫

2012-03-28 03:50:23 | Weblog

閔子騫(びんしけん)は、春秋時代の儒学者。
名は損で、字が子騫。魯国出身。
孔門十哲の一人。徳行で有名であり、孔子からも孝行者であると賞賛されていました。

閔子騫は、幼い時に母を亡くし、父が再婚したので異母弟二人ができました。
継母は実子二人を愛したが継子の閔子騫に辛く当たり、冬になると実子には綿入りの着物を与え、閔子騫には蘆の穂を入れた着物を与えました。
閔子騫が寒さに凍えているのを見かねて、父が継母と離縁し様と言うと、閔子騫は「母上が去られては、三人の子供は凍えます。私一人が凍えていれば、弟二人は暖かいのでどうか離縁しないで下さい」と言いました。
継母はこれに感激し、以後は実母の様に閔子騫を可愛がったのだそうです。

「二十四孝」は、中国において後世の範として、孝行が特に優れた人物二十四人を取り上げた書物です。
儒教の考えを重んじた歴代中国王朝は、孝行を特に重要な徳目としました。
日本にも伝来し、仏閣等の建築物に人物図などが描かれています。
また、御伽草子や寺子屋の教材にも採られていますが、孝行譚自体は数多く、ここに採られたものだけが賞されたわけではありません。


昨日、午前10時頃、洗濯掃除もやっと終わったので、軽く食事をしながら、録画してあった前日の「ミス・マープル」を見ていました。
その後は、私は忙しない人なのでまた細々と片づけ物とかをしたり、植物の世話、画像を撮ってみたりしているのですが、BSフジ「ジャイアント」を見た後って、何気、ポカッと暇な様になってしまいました。
あ~ッ、暇だ・・・って思うのは好まなく、最後の巻に入った「興亡三国志」を読むことにしたんですね。

趙昴と云う人には、大変な賢夫人・「異夫人」がおりました。
この戦乱の世に女性が出てくることは先ず珍しいことであり、所謂「列女」と言っていいでしょう。
彼女は「王異」といい、三国志にも何人かの列女が登場したりします。
「蔡文姫」と「孫夫人」「曹節」「張魯の母」と云うのは知っていましたが、あと数人は知らなかったので調べ始めたりして、彼女もその一人でした。
知らなかったと云っても全く知らないと云うのでもなく、だから面白くなってしまって、趙昴が馬超を討伐する決意の相談をした際、生まれたばかりの我が子の命を惜しむあまりがネックだったところ、夫人は言うのです。
「七歳で孔子の師となった項託にしても、その門弟の筆頭の頭淵にしても、百歳まで生きたわけではありません。節義に欠けた生き方をしたところで意味のないことです。
趙月(幼い我が子の名)の命に拘っていては、何一つ達成できないと思います。」と言いました。
その時は、馬超の信頼を得る為に、夫人から進んで我が子を馬超に差し出しており、所謂人質ですよね、夫に無断で判断をしたのです。
問われた趙昴は大変驚き、その驚いた様子で馬超の信頼を得たのでした。
異夫人は、男を勝る様な軍師だったり、策士だったと私は見ました。人を読み、先の先が見えている様な人です。

で、今度は七歳で孔子の師となったと云う子どものことが気になりだし、色々調べては見たものの、それこそ2500年前のことですから、明確に示されているとか、諸説でも好かったのだけれど、結局はよく判らない・・・ってとこです。
顔淵とは顔回のことで、字が子淵と云うので顔淵とも言います。

調べものなどをしていると、アッと云う間に夕方になってしまい、楽しみな「孔子伝」が始まりました。
主人はまだ「孫子兵法」が面白かったと言うのですが、それでもちゃんと見聞きしているんですよね。
季孫氏の執事が、幼少時代、貧しく父に甚振られたことを話し、「この世は、かごを担ぐ者と乗る者の二つしかない。いつか自分もかごに乗る側になろう!と決意した」と言った時、「そうだッ!(その通り)」と言いました。
私も口にこそ出さなかったけれども、執事の嘆き(何故自分の子をイジメるのか?)と自分をオーバーラップさせていたとこがありました。
明日の日記のタイトルを、親孝行者の閔子騫のことにしようと決めていましたが、胸中は何か複雑だったです。
まっ、当時の孝行心は、現代においては通じないところの方が多いです。
私は、やりたくない事、無理な事を始め様としたって、挙句は共倒れになるんだと思っています。

でも、知っていたり憶えていたりしたって決して何かの役に立つってものではないですが、だからこそ、「知る」がヤケに愉しいし、一人遊びの趣味になると云うものです。
外出をするのを忘れてしまいそう・・・。(ノυ`◯)ゥフフ

「シルクロードの日」。
今から2000年前、中国の敦煌から砂漠を16日ほど進むと、ロプ・ノール湖のほとりに楼蘭(クロライナ)というシルクロードのオアシス都市がありました。
楼蘭はいつしか荒れ果て、砂漠の中に消えてしまいましたが、1900(明治33)年のこの日、探検家スウェン・ヘディンによって発見されたのです。

 


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一を聞いて十を知る

2012-03-27 03:46:51 | Weblog


紺侘助     慰めててあげます 乙女の祈り

子、子貢に謂いて曰わく、女(なんじ)と回(頭回)と孰(いず)れか愈れる。
対(こた)えて曰わく、賜(子貢)や、何ぞ敢て回を望まん。
回や一を聞きて以て十を知る。
賜や一を聞きて以て二を知る。
子曰わく、如(し)かざるなり。
吾と女と如かざるなり。

先生(孔子)が子貢に尋ねました。
「お前と顔回と、どちらが優れているか?」
子貢は、「彼は一を聞いて十を知るほど聡明ですが、私は二を知るくらいがせいぜいです。」と答え、孔子自身も顔回には及ばないと認められました。

また、顔回の人物を表すものとして、

魯の王、哀公が孔子に「あなたのお弟子で学問を好むのは誰でしょうか」と尋ねたのに対して、孔子は「顔回と云う人物がいます。彼は怒りを覚えても、決して他に八つ当たりすることもなく、また二度と同じ過ちを犯すことはありません。不幸にして短命(30歳くらい)で亡くなり、現在ではもう学を好む者もいません」。(孔子と顔回は30歳の年の差がありました)

「顔回は何ヶ月も思いやりの心を持ち続けることのできる人物です。その他の連中は一日だけ、或いは或る月だけ思いやりの心を持つだけだ」、顔回が思いやりの心を常に失うことがなかったと述べています。

顔回の生活について、
「賢なるかな回や、一箪の食、一瓢の飲、陋巷(ろうこう)に在り、人其の憂ひに堪えず、回や其の楽しみを改めず。賢なるかな、回や。」と、顔回はわずかな食事、わずかな飲み物、狭い路地に住み、とても他の者では堪える事のできない貧しい暮らしをしていても、自分の楽しみを変えることなくできる人物である、として褒め称えられています。

↑ 暮らし向き、例えばお金の有る無しと自分の楽しみとは別物であるとか、何処に行くとか行かないとかって云う価値観、幸いは自分のすぐ側や足元にあるものだと、私も大切に心したいと想っています。
また、論語は孔子とお弟子の問答って多いのですが、もし私が誰かのことを聞かれたなら、私は人間的に純粋、正直か否かを話すと思うのです。
嫌いな人物のことを聞かれれば、よく知らない人なんで・・・と云うのが上品なことかと思う。

孔子は、問うて来る人物のタイプを見て、それで合う答えを話したそうです。それって、実に柔軟な精神と思います。
子貢も有能なお弟子の一人でした。


昨日は、1~2日家を空けたのですから、洗濯掃除、猫や植物の世話が忙しかったですが、こうして外出の興奮(?)を、私的日常に元に戻すのです。
慣れたことで好むことだから忙しいと云う言い方って違うのですが、つまりは、ホッとするってことですねッ。
~~□Ю_(^-^*)

侘助も椿のうちだけれども、
その侘助と云うネーミングが好きだったりしますし、花身の小さ目なとこも慎ましやかで好いのです。

お昼過ぎのBSフジ「ジャイアント」を見たし、晩は中国ドラマ「孔子伝」。
BSプレミアムの「ミス・マープルの事件簿」は録画しておいて明日昼間に見るTV番組がない時に見ようって思っています。

ところで、孔子のお弟子の筆頭と言われる顔回ですが、ドラマでは日本の俳優・石田壱成が演じます。
いい役どころだナって思うし、きっともう少し後になるのでしょうが出演して来るのも楽しみなところ。
顔回は、孔子のちょっとした仕草さえ真似をした人物だと伝わっています。
敬意をはらえる人を見習って、あの人の様に成りたいと願う心は、その者を大きく成長させるものだと思います。
だから、仕える人や友人はちゃんとした目を持って選ばなければなりませんし、その者を見る場合には常に一緒している者らを見て、本人が判断される事って多いのです。
幾ら自分は違っているつもりでも、例えば、悪い連中と居れば、自分が悪い。
「朱に交われば赤くなる」ってことだね。
何か、何処かで交わって私に色がつくならば、私は最初から、赤や青、黄色だったりしたいです。
赤青黄は、好きな色なんですよ。p(*゜▽゜*)q

 

 

 


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子産と云う人

2012-03-26 04:05:09 | Weblog

子、子産を謂う。

君子の道に四有あり。

其の己を行うや恭、

其の上に事(つか)うるや敬、

其の民を養うや恵、

其の民を使うや義。

先生が子産を評して言いました。
「彼は君子としての徳が四つも備わっている。
第一に恭しく謙虚であること。
第二に主君に仕えるのに絶えず敬いの心を持っていること。
第三に人民を養うのに恵み深い心を持っていること。
第四に人を使役するときは、誰もが納得する理にかなった使い方をしている。」

子産は、紀元前6世紀、中国春秋時代の鄭(てい)の名宰相。
孔子より二十歳ほど年長でしたが、五十すぎの若さで亡くなりました。

氏の本で「子産 上・下」と云うのがあるんで、また、「管仲(管鮑の交わり)」「重耳」「太公望(覆水盆に返らず)」「孟嘗君」もいずれ読んでみたいッかな~って思っています。

昨日の日曜日は、我が家周辺は真っ白に覆われて冬に逆戻りした風。
私は前日の疲れはありましたが、とにかくはいつもの時間通りには起きました。でも、その後は外が明るくなって来たのも気づかずに、半ばボーッとし、半ば論語の一節を読んでスッキリとし、何気にヘンな気分だったりしましたが、どうやら切り替えは成りそうでした。本当に疲れが現れて来るのはお昼ころだろう。
中年になってからは一日或いは二日開けて疲れがピークになって来たりするんですよね。
その回復に一週間くらいかかった事ってあったけれど、最近は、ありがたくも好調で大よそ一晩休めば何とかなるのかナ~な感じであります。
それも事に寄るんですよね。
除雪や家事で力仕事的な事や、遠出のドライブは全然何でもないのに、スタジアムに出かけたのってエラク疲れが重いのでした。
( ̄△ ̄;)
自分が無事ってことを好し!と第一に思う様にすれば、マズマズってとこに成って行く。

昨日は疲れのピークって頃には、小樽の手宮の温泉施設に居ました。
帰りにはいつもの様に買い物をして、ウィングベイの本屋さんにも寄り、色んな本のチェックをしておくのも愉しみなんですね。
宮城谷氏の本には、殷の前の時代は「夏」ではないかと云う説もありますが、その時代の本もあったりするんで後の楽しみになるカモと想うだけでも嬉しい様な気持ちになりますね。

帰宅して、あと今日の日曜日のお楽しみって晩の9時のBS韓国ドラマ「トンイ」だっけ。
早めに夕飯して私は興亡三国志を読んだりして一旦寝ておくのです。
トンイを見終わったら、幾らか眠ったせいで遅くまで興亡三国志を読めたのでした。
曹操は策の失敗などで目先の戦いにはよく負けたりするんですが、最後の最後には勝っているんだよね。
物語上ではあるけれど、そう簡単には上手く行きっこないんだってとこは、私の普段にだって大いに役立っている事です。
負ける度に強く成って行くとか、先々のことを考えてみるとか、軍中にあっても常に学問をしていたとか、もうこれまでか・・・と思っても不思議と死ぬ気がしないとか。
希望を語るだなんて私は少し気恥ずかしい様に思っていますが、漠然とでもこうして過ごせている事や、ささやかに日曜日と月曜日火曜日に楽しみがあるんだよね~が希望なのかも知れないです。
自分が手を伸ばせば届くとこ届くとこを掴んで、誰にも平等、一日一日が大事なんだと思う。
((())))))
 )∪ ∪(((
(“∇" ((
(ξ)

「楽聖忌」。
1827年、ドイツの作曲家ベートーベンがウィーンの自宅で亡くなりました。
 ベートーベンは多くの交響曲を作曲し、「楽聖」と呼ばれたのです。
その亡くなる3日前、甥のカールを唯一の相続人にする様に遺言書を補足し、
「諸君、拍手し給え。喜劇は終ったのだ」と云う有名な言葉を呟きました。

2~3日に一度、リンゴを替えてやらなきゃって思っています。
毎日、こうして遣って来てくれるのは、とても楽しみなこと。
   ∧ ∧
  ミ∂ ∂ミ
   ∩ ∩
     *
  u u

 

 


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人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ず。

2012-03-25 04:18:14 | Weblog

子曰く、人能(よ)く道を弘(ひろ)む。

道、人を弘むるに非(あら)ず。

先生がおっしゃいました。
人間が人の正しい生き方を広めるのである。
自然に正しい生き方が人間に広まるのではない。


昨日の早朝は前日の晩に録画しておいたBSプレミアム 沢田研二ライブツアーin武道館、40年ぶりにタイガース復活を見ていました。また、そのあともう一回見ましたけれど、平均年齢64歳、年を重ね、六十にして耳順(したが)うタイガースを見るのは一際感慨深いものでした。
先日、BS-1ホットアジアと云う番組でピー先生が登場した時にはビックリしました。
そこで、40年ぶりにタイガースを結成した様子がチラっと出ていたので、見てみたいものだナ~って思っていたのでした。
ジュリーがすっかりメタボになっちゃってるし、みんな白髪頭にもなったけれども、私はこれから60に成って行く勇気みたいなもの、それこそ年を取るのもいいもんだネって思った。
「僕のマリー」とか「銀河のロマンス」、馴染みやすいメロディーラインで、タイガースの歌ならば全部歌えたりする。(^σ^)♪

昨日は、朝は宮の沢の練習場に居ました。
そして札幌ドームでVS浦和レッズの応援をしていたわけだけれども、私はいつも想うのです、あと何度、こうしてスタジアムに駆け付けることができるだろうかって。
だって、ずっとずっと共にとか、所謂永遠にと口にはしても、私はソレを見たことがないのだから。
でも、この日一日を元気にして無事に過ごせたことは本当にありがたいって思っているここ4~5年。
「勝敗は兵家の常」とか、三国志でおぼえた事ですが、繰り返せば直に納得が出来てくるのが自分に対して成長の一歩くらいには成れているんだろう!?って感じています。
仕方が無いってことはないだろうとは言うけれども、仕方が無いとしか言い様もなく、仕方が無いを受け入れられる寛容な気持ちが、自分的にはシンプルで判りやすくも感じやすくもあり、仕方が無いことが起こってから、そこからが勝負ってこともあるんだし、対処の仕方を施せる、これが少しは長く生きている者の知恵と経験かと考えれば、これって人生してるって、そこから湧き起こるものってあるんじゃなかろうか。
熱心は好いことだけれど、それを執着にはしたくはない。
一つの物事をやり抜くことだって好いことだ。
だけど、それで返って視野を狭くする様な事って、私ならば望みはしない。
浅くとも広くしたい、それがどうしようもなく一般ピープルの私の楽しみでもあるし豊かさとしたいし、せっかくの一度の人生ではないかと想うんだよね。
判りやすい論語では若干物足りない様なエラソーな気になって、少し難しいかナと云うのを手にしてみようとチャレンジしつつあるが、これは、それこそ難しい。
でも、自分の愉しみではないか。遣ってみる甲斐はきっとあるんだと励んでみたいと考えています。

「興亡三国志」は、劉備がヤモメになったので、所謂政略結婚なのだが孫権の妹を嫁にもらったところですが、これは周瑜の策なのでした。
周瑜は実は自分の命がそうは長くはないと感じており、呂布や袁紹、曹操や劉表と、ことごとく世話になった人物を裏切った劉備は、必ずや呉に対しても禍根となるだろうと考えていたのです。
そんな劉備が何故仁徳義を兼ね備えた人物と評されていたのかは、1800年前の価値観として朱子学が流行していたとは云え、全く想像がつきません。
返す返すも劉備って逃げ回ってばかりいた人物よ。

赤壁に敗れた曹操は、銅雀台と云う大きな御殿(?)を建て、孫子兵法の注釈の真っ最中ですが、郭嘉さえ生きておれば、赤壁に向かうのは時期尚早と反対をしてくれたのだろうと、兵法の注釈にも、我が至らなさを悔やんでいるのでした。
呉に送られている間者からの知らせで、
を呼び相談を持ちかけます。
曹操の良さは、決してワンマンではなく、臣下たちに自由に物を言わせてみるって、自分の気づかぬ事を気づき、思いつき考える者を重宝したのは、挙句は魏軍の強さでもあったのです。
傲慢でも残虐でもなく、孔明が言う逆賊でもなかったと云うのが証明されたのは近代になってからの事でした。

3度目の三国志ですが、書き手と云うか解釈する人に寄って、彩りが違って来るのが三国志の魅力だったりしますし、我がストレス解消には絶対的に三国志を友として行きたいナと理想(?)があります。
本を裏切るとか、裏切られたと云う言い方ってありませんよね。だからこそ、私の生涯の友だちなんだって思います。

 


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君子は諸を己に求め、小人は諸を人に求む。

2012-03-24 04:03:18 | Weblog

子曰く、「君子は諸(これ)を己に求め、小人は諸を人に求む」と。

君子(学識や人格共に優れた立派な人)は、何事の結果も自分に責任を求め、反省をします。
しかし、小人(自分の考えや意見を持たない人)は他人のせいにして、反省などすることはない。

朝の早い時間は、玄関前や道路が凍って歩きにくかったりしていますね。
でも、まだ降る、まだ降るんだと見ていてもずい分と融けてもいます。こうして段々と春になって行くのだと、何十年と見て来たこの風景だって、想うものなら感慨深いものとなります。
「五十にして天命を知る」。
これを天命と想えているものなんて何もない様だけれど、こうさせて貰っている事を天命だったとし、ただ出しゃばる事は慎んで、控え過ぎるくらいにして私は丁度好いのだろうと思っているのです。
実は、こう言われたことがあります。
「貴女は前に出れば強くなり過ぎる運だ」と。
若い時は、強くなれるのだとしたらどんな事でも表や前に出てみるべきなんだろうと、お調子に乗ってしまって、返って色んな失敗をしました。
それを今恥じるのでもないけれど、少しは我を抑える、そんな事が出来る様にも成ったのかナと思うと、だから私は言うのですよ、自分、年齢を重ねるのって満更でもなく、好いことかもネ。d(-_^)good!!
そして今凝ってる(?)のは、自律神経を整えるのには、自分の意識でどうにか成らないものか!?ってこと。
君子には何度生まれ変わっても成れないだろうけど、半歩でも近づくことが出来たらナァ~とかって。(;゜▽゜A


「壇ノ浦の戦いの日」。
1185(元暦2)年のこの日、長州沖の壇ノ浦で源義経が率いる源氏軍が平家軍を破り、平家一門が滅亡しました。

「祇園精舎」

祇園精舎の鐘の声

諸行無常の響きあり

沙羅双樹の花の色

盛者必衰の理をあらわす

驕れる人も久しからず

ただ春の世の夢のごとし

長けき者も遂には滅びぬ

偏に風の前の塵に同じ


栄華は続かない。
栄えていても、いつかは落ちて行くものだと、この世の儚さが唄われています。

ところどころのフレーズは知ってはいたものの、私は吉川英治「親鸞」で初めて全文を読みました。
いい歌だナと云うのもオカシナ言い方ですが。

 


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川上(せんじょう)の嘆

2012-03-23 04:01:47 | Weblog

逝く者は斯(か)くの如きか。昼夜を舎(お)かず。

川のほとりで、先生はこう言われました。
「過ぎ去るものはみなこの川の流れのようなもの。昼も夜も、休むことはない。」

「川上の嘆」として解釈されるのが一般的でしたが、
河の流れも、人間の流れも同じである。時々刻々、流れている。
流れ、流れている。
長い流れの途中には、いろいろなことがある。併し、結局のところは流れ流れて行って、大海へ注ぐではないか・・・と、
現代においては「希望の言」と、とらえられています。


いつかの日、今年は春が早々に訪れてくれるのではないかと想ったのはあっさりと覆されて、冬とも言えないけれども春でもなし。
実に半端な時季だと思うけど、確かに春が近づきつつあるのは、暖房の設定温度は低いままで好いことです。
私は相変わらずに洗濯をし、掃除も終えたあとに軽く食事をし、また思いついた所を替えてみたり、ついで拭き掃除をする様な、何て言うんだろう、愉しいと云うものじゃないんだけれど、したい事をしている、そんなある意味で充実感があったりしますね。
そして午後からはよくTVを見ています。
以前、CarpentersのRichardのもとに、谷村新司が訪問してインタビューが行なわれた番組の再放送も真剣に見ていました。その数日前、2005年放送され、幾度もアーカイブスされているCarpentersの番組も見ました。
Carpentersのどの歌も大好きだったこと、カレンの早過ぎる死がどれだけ残念に思ったこと、特に自分が小学生高学年~中学生、高校生だった頃のことなどが思い出されて、数少ない希望の一つだった事を、番組を幾度見たところで鮮やかに甦って、何とも切ないのです。
許されるものならばあの頃に戻りたいか?と問えば、絶対に戻りたくはない頃です。
「Top of the World」、天にも昇る気持ちって、どんな背景なんだろうと想像してみたけれど、こう云うことを言うんだネ!の実感も掴めずにってとこです。
でも、どんな人でもいつか必ず死に向かうじゃないですか。
生きることばかりを言うことって多いけれど、先に、いつかは死んでしまうのだから今を生きることが大事で貴いんだろうと思う。
私は、自分が死ぬ時にこそ、天にも昇る気分って理解すると想うんだよ。
天国の門で受け付け拒否されぬ様、生きている今を、嘘をついたり虚勢を張ったりせずに、愚痴や悪口を言わず、好きな人には明るく元気に挨拶をし、好きな人の喜びと悲しみだって共有しよう、また、自分が正しいと信じることには真っ直ぐと向かって行きたい。
真摯に誠実に日々を送ろうとしたならば、暇だなんて言っていられないよね。
この先は、私は老いぼれて行くばかりだろうけど、この年齢で今日が一番イイわと自信満々で言える様、精進と云うのも大袈裟だろうか、頑張って努めて行かなきゃナァと想うのです。

小さなアザレア数鉢が、今一番の美しい見頃となっています。
ジッと花々やその花びらを観察すれば、そここそがHeavenかと想う。
((/((\\
,)δ δ∠|
(”ン“∠/
_> _<__
_(ξ)_ \  


 

 

 


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その日のことはその日に決着をつける

2012-03-22 03:45:57 | Weblog

曾子(そうし)曰く、吾日に三たび吾身を省みる。
人の為に謀りて忠ならざるか。
朋友と交わりて信ならざるか。
習わずを伝うるかと。

孔子のお弟子である曾子が言いました。

「私は私自身の行動を毎日何回も振り返っている。
人の為に物事を考え、不忠実はなかったか。
友人に対して不誠実ではなかったか。
よく判っていないことを人に伝えてしまわなかったか、って」

誰だってその日一日をどこかしら振り返っているんだろうと思います。
今日は実にラッキーな日だったとか、思いがけない人に出会ったとか、美味しいモノをいただけたとか。
逆に、苛立ちや腹立たしさの連鎖でガッカリな日だってあります。
また、何が起きようと、自然と自分の言動だって思い起こしているんだろうと思います。
自分はもしかして違っていたのではなかろうかとちょっとだけでも反省が出来、今からでも改める様に努めようとするならば、また、怒りや憎しみの向けどころなく悩むことだってありますが、私は日記をつけることがとても好いことではないかと考えています。
書きながら自分と対話ができますものね。
それと、私は夜に日記を書くのはネガティブになるから、一晩気持ちを落ち着けて、目覚めのヒラメキ一発!、早朝に書くことにしています。
こんなことにでさえ色々と紆余曲折がありましたが、想いや考えを巡らせて、自分の至らなさを考えてみる一番の方法だったとも現在思えています。
絶対的にもし人が見てくれたところで興味を惹くことを書こうとしているんじゃないから面白おかしいものではないですが、私は早朝一番の何よりか愉しみにしていることです。
本を読んだりして、その感想とかを書けたとしたらば、その日一日の気持ちがとても充実します。
読みっぱなしよりか感想を言うとか書くとかすれば、更に自分の身につくからです。
「源氏物語」や「三国志」、「親鸞」、史記とか他色々と、もう少しは勉強したいかナって思っていますが、何で私の様な愚か者が「論語」に心髄しているかなど人から見れば呆れたことだろうと思います。
ワケなく、ソレは私が愚かだって思うからです。

だから私はこうした自分の興味関心ごとは絶対に人前で言ったりはしていないはずです。
自分の日記で言いたいあまり。~~□Ю_(^-^*)
それに、イメージとして画像にも力が入ったりしますねぇ。

自分のことばっかし言いたがる人に出会った場合、こちらに迷惑な話をするんなら、自分で日記をつければ誰にも迷惑をかけないのだしストレス解消の半分くらいにはなるだろうに・・・って私は思っているのです。
人に、他に公開するしないを選択できるのですし、コメントを受け付ける受けないだって自由なことですしね。
ただし、書きっぱなしではない、当然の礼儀とか道徳観をもって、人のことをやたら責めた批判や悪口は、誰のことでもなく、書く自分の人間性が見られてしまうのだって事は心した方がよいのではないかナって考えています。

昨日はタラタラしているせいで調子が出ないのだろうかと思ったっけ、また少し風邪がぶり返した様だったです。σ(/。\)
私の場合はどう云う意味か避けては通れないことなのでショウガナイんですが、いつもの家事プラスアルファーで、家の内っかわの窓を外して拭いたりもしていました。

お昼にBS-1、NHK福岡局のニュースで被災地のガレキ受け入れ絶対反対!の市民団体の言い草を見聞きしてしまって、私はとっても腹が立ちました。
施設が不十分でと言うなら判りもするけれど、同じ日本人同士があんなに困っているのに、何故手助けすることを拒むのだろうか?
、まるで自分たちだけに安全安心が保たれればいいんだと、本当に勝手な旗揚げの様に見ました。
もし、自分の地域で起こった震災に、手を貸してくれない同じ日本人があったとしたなら、彼ら彼女らはいったいどう感じるのか?
その代わりとして、大枚の義援金でも出す気なのかな?

思いやり、助け合う、まして「絆」などと云うお体裁ばっかしイイ言葉が、また一つ、実に虚しく情けなくも感じました。
自分たちが今手にしている物などは何でもない物で、知るのにも何よりか「恥」と云うものを知るべきだろうし、日本人をヤメて下さいませんか!?とキツク言いたい気持ちにもなりました。

こんな冷ややかな人の心ってどこにある?
逝った人々、家族を失って残された人々に、どうして憐みを持てないか?

それに、局の垂れ流し的な報道だって如何なものかとも思っています。



「生まれた年代は違っても、もしも滅びるものならば共に」と、私は想う。


 


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位なきを患えず、立つ所以を患う

2012-03-21 03:56:32 | Weblog

位なきを患(うれ)えず、立つ所以を患う。
己を知ることなきを患えず、
知らるべきをなさんことを求むるなり。

「地位のないこと」を悩んだりせず、「地位を得るだけの力が不足していること」を悩むことだ。
また、「世間が自分を認めてくれないこと」を気にかけたりなどせず、「自ら求めなくとも世間に知られる様に」と修養することだ。

 

真冬に逆戻りのここ数日です。
私は普段はそう出かけることもないんですが、返す返すも、お休みの日には遠出のドライブに出かけられる様にと、待ち遠しい春だったりします。
昨日は、また小樽・手宮の温泉施設に行きました。
そしてウィングベイで買い物をし、お昼少し過ぎに帰宅。
毎日見ているBSフジ「ジャイアント」を見て、見たかったけれど見逃していたカナダ・中国・ドイツのジャーナリストが見た被災地の再放送をBS-1で見ていました。
外国から見た日本、外国人から見た日本人、改めて日本や日本人はどう云うものかと判る気がします。
ドイツ人ジャーナリストが被災地に立ち、これがドイツで起きたなら日本人の様な行動が出来ただろうか?と問うシーンで、この大災害は日本だけの問題ではなく、世界の問題と捉えて各お国で報道してもらいたいと私は思いましたし、今後も多方面で協力と理解を深めて欲しいのだと思う。
3大変革、明治維新、第二次世界大戦後、そして東日本大震災。
日本が潰れ消えてしまったっておかしくない度に、日本国は力強く立ち上がり必ずや復興を遂げるのだと確信したい。
多くの大切な人命を失った酬いとして、残った者たちの、これは使命だと想います。

早めの夕食をしながらの楽しみは、BS日テレ「孔子伝」。
意外と私は真剣に見ており、気がつけば正座をしていたりするんですねッ。

今朝の言葉より、私に起こることは私が起こしており、常に私自身と向き合って、人の評価や評判などは気にせずに、色々と努めて行きたいって思います。
人の口に戸は建てられない様に、人は中々と自分の都合の好いことなど言うはずもなく、私は決して阿ることなく、少しは頑張れてやれて来ました。
辛かった様な苦しくもあった様にも感じていますが、迷いながらも自身を律することの大切さに慣れれば、私自身が楽になれて来るんだと、その味をしめる時期になれたのかナ~と思っています。
(*´∀`)」"

 


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過ぎたるは猶及ばざるが如し ~~且_(^-^*)

2012-03-20 05:01:27 | Weblog

子貢問う。師(子帳)と商(子夏)と孰(いず)れか賢(まさ)れる。

子曰く、師や過ぎたり、商や及ばず。

曰く、然らば即ち師まされるか。

子曰く、過ぎたるは猶及ばざるが如し。

孔子のお弟子である子貢が「子帳と子夏とどちらかが優れていますか」と尋ねました。
孔子は言いました。
「子帳は遣り過ぎで、子夏は足りない」。
「それでは子帳の方が優れていますか」と尋ねれば、孔子は「行き過ぎは不足と同じ様なものである」と言いました。

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の解釈では多々ありますが、他の解釈には「やり過ぎなよりか、少し足りな目がマシだと云う」と云うのもあったりで、何気にキッパリとしない様な、でも出過ぎた真似をしなさんなと取れば、そうなのかナ~と思ったりし、難しいところですが、でも、現代的にとか、積極性を考えたとしたならば「やり過ぎてみる」「遣れるところまで突っ走ってみる」、所謂、「限界まで挑んでみる」と云うことの方がピッタリと来る様な気がしています。
足りない者や遣ろうとしない者は、力が足りなく実力や能力が劣っている、自分には出来っこないと決めてかかっているからだと考えられますね。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」はとてもイイ言葉だけれど、逃げ口上にしては成らないと私は思います。

主人が元居た会社の若い職員が、「給料が足りない・・・」って話をよく聞くらしいのですが、「仕事を待っているだけだから給料が少ないんだろう」と返すらしいのです。
仕事とお金は別なもので、懸命に仕事に向かった結果でお金が着いて来たと言うならまだしも、どれだけの能力があるのかも発揮せずに、お金のことを言うのは破廉恥なことである。
お金をたくさん得たい目的も一つの生き方ではあるけれど、その為に失うもの、捨てなきゃ行けないものって一杯あるのだよ。
寝る間も休む間もなく、食事の時間さえ惜しみ、化粧やお肌や髪のお手入れもする気も起きず、友だちや恋人とのお付き合いも出来なく、当然遊びに出る時間だってないんだし、フッと想うことは私は明日の朝には生きていやしないかも・・・。
早朝出勤や残業で、確かにお給料は多くいただいたけれども、いったい私は何をやっているんだろうと虚しさに包まれていましたが、走り出してしまった事に、止まるには返って勇気が要ったし、私は止まれなくなってしまった。
誰も休む大切さを言ってはくれなく、当の私も休むとか辞めるなんて甲斐性のない者のすることだと罪悪感に追われていました。
でもね、当時の自分を懐かしくも今思い起こせば、イキイキと輝いて一番キレイだった頃だったって想うんですよ。
私は、26歳でした。
私は結婚しないのだろうと漠然と感じていた頃でもありましたが、幸いに良い人(主人)と出会って、主人との仲だけを言えば大した波乱もなく、今こうして、私的に考える「お金」と「仕事」について幾らかは語れる立場にあります。
自分や家族の生計も成り立たせなく、無駄飯喰いの者がお金のことを言うなんて、子ども以下で恥ずかしくないんだろうかって思うのは、私がウンと齢を重ねたってことだね。
私がこうして50半ばに成って財産と思うことって、仕事をする上で得た多くの経験だったと思います。
仕事をやれたなら、家事育児だって段取りと云う点じゃ共通している事で何でもないことなんだとの哲学(?)があり、ただ、人からや他からお金をいただくって事は、如何に得手勝手な自分を殺して行けるかと大変厳しいものだと考えています。

月曜日と火曜日の晩の楽しみは、BS日テレの「孔子伝」。
難しそうでツマラナイ様で、さすがの主人も「見ていれば面白くなって来たナ~」と言うのがシメたもの。
本で論語を読むのは大変だし(でもこれだって面白いヨ)、ドラマや例えばアニメで見られるのって好いですよねッ。
学び、そして実行してみること、礼儀や道徳観を養って行こうとするその生き方が、たとえ大金持ちには成れなくたって、全うする人生として豊かになって行けるのではないか。


「春分の日」。
旧暦二月、卯の月の中気で、この日、太陽は真東から昇って真西に沈み、昼と夜の時間がほぼ等しくなります。
一般では、この日を春の「彼岸の中日」と言い、国民の祝日の一つで「春分の日」(元は春季皇霊祭)になっています。

「暑さ寒さも彼岸まで」と言うには、昨日や一昨日降った雪は冬に逆戻りした風です。
我が家周辺じゃまだ雪が真っ白だったりしますが、朝方氷点下でも真冬のそれとは全然違う感じがしています。
降り積もりながらも融けて行き、そんな風景を窓から眺める毎日です。


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意母く 必母く 固母く 我母し

2012-03-19 03:52:00 | Weblog

子、四を絶つ。

意母(な)く、必母く、固母く、我母し。

孔子は「四つのもの」を絶った。
自分勝手な心をなくし、無理を通さず、頑なにならず、我を張らない。

昨日、「長ぐつをはいたネコ 3D」は11時20分からだったので、先に手宮のホームセンターでニャンものの買い物をしました。
それから、まだ少し時間があったので、ウィングベイをウロウロ。
映画を観終わってから、夕飯等の買い物をし、それから浅里川温泉に行きました。
小樽は若干だけれど吹雪気味。
札幌はどうかと思ったけれども、トンネルを抜ける度に積雪量が多くなっている風で、西野の自宅前は足首が埋まるくらい雪が積もっておりました。
まるで一歩進んで二歩も下がってしまった様なこの時季ですが、毎年こう繰り返して春になって行くのですね。
早めに夕飯をして、私は恒例に「興亡三国志」を読みたいので一旦休みました。
で、NHK-BSプレミアム「トンイ」が始まる頃に起き、その後、昨晩は10時からBS-1で「実の親を殺したのは育ての親」、アルゼンチンでの軍事政権下で起きたドキュメントを見ました。
面白いと云うのじゃない、興味深かったのです。
TVを見る前、集中しちゃってずい分ページが進んだのでしたが、TVを見た後も遅くまで読んでいました。
赤壁後の孔明と周瑜中心ですが、曹仁へ曹操が授けて置いた策に周瑜がはまり、毒矢を受けてしまいます。
結局は周瑜はこれが致命傷になるんですが・・・ってとこです。

三国志が書かれた後に、何故劉備が称賛され、曹操が逆賊とされたか?の謎(?)が一つ解けました。
当時は朱子学が流行しており、皇帝の跡目は皇族からってことで、劉皇淑と献帝が親しく思った劉備が正当とされるわけです。
だけど、劉備が末端の皇族の血筋と云うのも相当に怪しい話であり、叔父もマユツバであると言っていたのに、スッカリとその気になり、劉表にすべて面倒を見てもらったりと、曹操にだって色々と厄介に成りっ放しの人です。
家族を放って逃げ出すのと、人に取り入って食客(?)に入り込むのとが実に上手だナって、またそれを助ける者らが出て来るとかって、現代風に考えればヘンな話でもあります。
「脾肉の嘆」 とは、劉備が戦場で闘った歴戦の将と云うよりか、逃げ出す事もなくなったと云う安心感であって、嘆きとするには「あざとい」と私は想っています。
それと、返す返すも劉備の義兄弟の関羽は、孔明の底意地の悪い策と配置で、挙句、呉に首を取られたのだとも考えています。
張飛の場合は自業自得ですが、桃園の誓い、劉備の側から義兄弟を遠ざけたい、居なくなって欲しいと、さすが孔明!と云うには、人間的に欠如した部分が多いとも思います。


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