日本より早い1900年にアメリカで出版された英語版「武士道」
「刀は武士の魂」という常套句は今やすっかりお馴染みである。帯刀が武士にのみ許された特権だったこともあり、武士の誇りを表す言葉として違和感を覚える人は少ないだろう。しかし、当の武士がこの様に言っていたのではないというのをご存知だろうか?
これは、明治末1908年に新渡戸稲造が書いた「武士道」という書籍の中にある言葉なのである。この「武士道」は元々アメリカで「Bushido:The Soul of Japan」というタイトルで出版されたもので、新渡戸が日本の良さについて外国人向けに記したものなのだ。日本の四季の美しさ、日本人の謙虚で控えめな精神、忠義に尽くす態度といった、現代でも外国から見た日本のステレオタイプとして挙げられそうな要素がふんだんに盛り込まれている。
江戸時代の武士が刀を大切にしていたことは確かだが、私たちの想像とは少し違った姿だろう。新渡戸の「武士道」も、新渡戸個人の考えが多過ぎると当時は批判されることも多かったようだ。
教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
行事・慣習のウソ
相対性理論をはじめとする数々の物理法則を発見し、現代物理の父とも呼ばれるアルベルト・アインシュタイン。
その功績もさることながら、彼の舌を出して写っているお茶目な写真が思い浮かぶ人も多いのではないだろうか。だが、舌を出しているのはふざけていたからではないそうだ。アインシュタインは生真面目な性格で、人前で笑顔を見せることがほとんどなかった。彼の晩年にあたる1951年、アメリカのISN通信社のカメラマンだったアーサー・サスが「笑って下さい」と頼んだ。それに応えるように思わず笑いそうになったアインシュタインは、とっさに舌を出すことで抵抗を試みたようだ。この写真はアインシュタインの72歳の誕生日に撮られたもので、彼自身このとき撮られた写真を気に入っていたという。焼き増しを頼んで友人に渡したとも言われており、お茶目な一面も本当にあったのかも知れない。
1951年3月14日、誕生日パーティーのあと車に乗り込んだところを撮られた写真 両脇は友人とその妻
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人物にまつわるウソ
時代劇などで武士が無礼を働いた百姓に向かって「切り捨て御免!」と言い、切りつけるシーンがある。「無礼討ち」という武士の特権の一つだ。この場合、悪いのは無礼者の百姓であって切りつけた武士は一切お咎めなしというイメージだろうが実は「切り捨て御免」はそう頻繁に行われることはなかったし、内容もイメージとは少し違っている。
最も誤解されているのが「武士は一切お咎めなし」という部分で、いくら武士の方が上の立場にあったからといって人の命を理由もなく奪っていいはずはない。無礼討ちをした武士はただちに奉行所に、事の経緯と切った理由を申し出なければならない。人を切ったということで一定期間の自宅謹慎を言い渡され、もし武士の方に確固たる理由や証言者、証拠がない場合、武士は切腹もできず斬首刑に処されたという。手続きが大変でリスクも大きい為、余程の恥をかかされたのでなければ、無礼討ちに出る武士はそう多くなかったのだ。
生麦事件を描いた「生麦之発殺」(早川松山・画)
生麦事件も無礼討ちが原因で起こった争い
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行事・慣習のウソ
アルフレッド・ノーベル これは50歳頃の写真とされる。
ノーベル賞の生みの親アルフレッド・ノーベルは、ダイナマイトという画期的な爆弾を開発し巨万の富を得た。
それまでの爆弾と比べて扱いやすさが格段に上がった為、ノーベルのダイナマイトはたちまち世界中の試掘現場などで重宝されることになる。しかし、正しい使われ方ばかりでなく、強大な威力を持つ兵器として使われることになり、ノーベルはそれを嘆いたという話がある。
だが、ノーベルは楽天的な発明家ではなかった。ダイナマイトが兵器として使われることは想定済みだったのだ。寧ろ、ダイナマイトの力が戦争の抑止力として働くことを願っていたとも言われており、発掘以外の用途も考えていたのだ。武器を作って巨万の富を得たノーベルは「死の商人」とも言われ、死後どのような評価を下されるのかが気がかりだった。その思いから自分の遺産をつぎ込んでノーベル賞を作ったというのは有名な話である。
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人物にまつわるウソ
1930年代、世界恐慌の煽りを受けて混乱する日本では、政界や財界に不満を抱く軍部が台頭して不穏な空気が流れ、クーデターや暗殺事件が相次いだ。中でも衝撃的なのが、海軍の青年将校の一団に、首相の犬養毅が暗殺された5・15事件だろう。
この事件から分かる通り、軍部は犬養毅をずい分と嫌っていたようだが、犬養自身は寧ろ軍事予算を中心とした膨張政策を採って景気を回復させようとしていた。この膨張政策は日銀総裁経験のある高橋是清蔵相によって進められた。政府支出で軍需産業を支援し、製造業や重工業など軍事生産に関連する企業への需要を生み出して財政再建を図ろうとしていたのだ。
この政策が功を奏して景気は徐々に回復したが、軍部は財閥だけが利益を独占しているとして犬養と高橋に敵意を抱いた。更に中国に駐屯する関東軍が無理矢理建国した満州国について、犬養は国として承認せず中国との融和を図るべきだと主張して軍部の怒りを買ってしまう。犬養は天皇直属の統帥権を侵した大罪人として敵視されることになったのだ。こうして海軍の青年将校は「統帥権干犯」を理由に犬養を亡き者にしたが、この統帥権の干犯は、1930年に開かれたロンドン海軍軍縮会議の政府交渉を批判する為、当時野党だった犬養自身が持ち出した考えだった。皮肉にも、自分自身の考えが死を招く原因になってしまったのである。
1932年、5・15事件を報じる新聞記事
暗殺前年の1931年、政友会総裁の犬養毅が演説する様子
(犬養木堂記念館所蔵)
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政治と事件のウソ
1963年6月16日、史上初の女性宇宙飛行士が宇宙へ飛び立った。ソ連(当時)のワレンチナ・テレシコワその人だ。彼女が宇宙へ辿り着いてから地球に呼びかけた第一声は、「わたしはカモメ」というものだった。この詩的な響きに胸を打たれた人もいるかも知れないが、実はこれはあらかじめ用意された台詞だったそうだ。「カモメ(ロシア語で「チャイカ」)」というのが、テレシコワに与えられた個人識別用のコールサインであり、事務的な応答として「ヤー・チャイカ(こちらカモメ)」という言葉を発したにすぎない。
この言葉が広く報じられたのは、ロシアの戯曲作家チェーホフの作品『かもめ』の中で登場人物のニーナが言う「私はカモメ(ヤー・チャイカ)」と同じだったからだと言われている。本来の意図と違うとはいえ、このロマンチックな言葉は世界中に、もちろん日本にも広まり、当時の流行語になったのだった。
テレシコワ(中央)
当時のソ連書記長フルシチョフ(右)ガガーリン(左端)
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人物にまつわるウソ 「世界編」
「人民の人民による人民の為の政治」という有名な演説を行った第16代アメリカ大統領エイブラハム・リンカーン。彼は南北戦争の最中に黒人奴隷解放宣言をしたことで「奴隷解放の父」とも呼ばれている。しかし、リンカーンが黒人差別をしていなかったかといえば、そうではない。
彼は南北戦争中の演説で「この戦争に於ける私の史上の目的は、連邦を救うことにあり、奴隷制度を救うことにも、滅ぼすことにもありません」と述べている。つまり、奴隷解放宣言を出したのは、あくまでアメリカという国を一つにまとめるべく、先ずその戦争を終わらせる必要があったからに過ぎない。その為、奴隷解放宣言では奴隷を解放する州は南部に限られ、北部の奴隷州では奴隷は解法されないままであった。当時の白人は、黒人が白人と同じ土俵に立つことなど有り得ないと考えており、リンカーンもその白人の一人だったということだろう。それを裏付けるかのように、リンカーンは黒人に関して「白人と黒人の社会的・政治的平等をもたらすことを好んだことはない。私は、ここにいる誰もと同じように、白人に与えられている優等な地位を、保持することを好んでいる」といった旨を黒人奴隷解放論者との対談に於いて発言している。ただし、「だからといって黒人の全てが否定されていいということではない」という発言もあり、頑なな黒人奴隷論者でもなかったようだ。当時のアメリカに於いて、白人が黒人より優位にあることは疑いようもない「常識」だったのである。リンカーンによる奴隷解放宣言によって黒人の奴隷は解放され自由を得たように見えたが、黒人への差別がなくなったわけではなかった。衣食住を確保する為に、彼らは引き続き白人の下で働かざるを得なかったのである。
閣僚に奴隷解放宣言の初稿を提示するリンカーン(左)
フランシス・ブリッケル・カーペンター画、1864年
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人物にまつわるウソ 「世界編」
■西郷隆盛と運命の出会い
維新の雄・西郷隆盛と坂本龍馬との出会いは、薩長同盟から遡ること二年前の、1864年頃だといわれる。
当時、龍馬が慕っていた幕臣の勝海舟は、この頃、神戸海軍操練所の軍艦奉行を務めていた。しかし、独自の海軍構想を練っていた勝は、幕府にその職を罷免されてしまう。幕府から帰府を命ぜられる前に、勝と西郷が初めて会ったのも、互いに様々な思惑あってのことだろう。神戸港の開港延期を案ずる西郷に、勝は策を授けたといわれる。その後、勝はしきりに西郷について語った。ならば龍馬も勝の紹介状を手に西郷の元を訪れる。坂崎紫瀾の「維新土佐勤王史」によると、龍馬は西郷について、「西郷は馬鹿である。しかし其の馬鹿の幅がどれ程大きいか分からない。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る」と評している。
■饒舌な龍馬、無口な西郷
龍馬と西郷との間で、どのような会話がなされたかについては諸説あるが、饒舌、飄々とした龍馬を評して西郷は、「度量の大、龍馬の如きもの、今だ嘗て之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」と述べたという。
龍馬も西郷を「馬鹿なら大きな馬鹿、利口なら大きな利口」と評しており、互いに腹に一物ありと見て取ったのだ。西郷との出会いで、龍馬は更なる飛躍を遂げることとなる。
学校で習った歴史はウソだらけ!?
日本史 大ウソ事典 「幕末」
バジル(Basil ) Ocimum basilicum 良い望み 強壮 何という幸運
都来眼前事、知足者仙境、不知足者凡境。
総出世上因、善用者生機、不善用者殺機。
都て眼前に来たるの事は、足るを知る者には仙境にして、
足るを知らざる者には凡境なり。
総て世上に出ずるの因は、善く用うる者には生機にして、
善く用いざる者には殺機なり。
「足るを知り、善く用いる」
すべて目の前に起こって来る現実の問題は、
満足することを知る者にとっては、
仙人が住んでいるとされる理想郷のようなものであり、
満足することを知らない者にとっては、
凡人の欲望に満ちた世界である。
また、すべて世間一般に現れる事柄は、
その本来の姿に従ってよく用いる人にとっては、
ものを生かす働きであり、
本来の姿を損なうような人にとっては、
ものを殺す働きとなる。
一休宗純
破天荒な生涯から様々な逸話が生まれ江戸時代に人気を集めた。
坊主頭のとんち小僧といえば、アニメの一休さんを思い浮かべる人が多いだろう。無理難題を突き付けられても機転を利かせて見事に切り返す一休さん。だが、モデルになったお坊さんがとんち小僧とは程遠い奔放過ぎる奇人だったことはご存知だろうか?
とんち小僧一休宗純は室町時代、後小松天皇の子として生まれたと伝えられており、大寺院である大徳寺の住持を務めた。出自や経歴からは真面目な僧侶のように見えるが、実際は戒律を破って、酒を飲んで肉を食らい、男女を問わずに淫行に走り、ドクロを持ち歩いて正月の挨拶に回るという破天荒な人物だった。だが、こうした奇行には、戒律を破って偉そうにしている偽善的な僧侶を非難したり、死という現実が必ず訪れることを暗示していたりと、実は奥が深い。また、自由奔放に生きながら常識破りの詩集をつくって文化人にも影響を与えており、とんち小僧以上の傑物だったことがひしひしと伝わって来る。
教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
人物にまつわるウソ
甲冑姿の秀吉 (名古屋市秀吉清正記念館所蔵)
裏切りが渦巻く戦国乱世であっても、主君の為に身命を賭す者は少なからずいた。後に天下人となって日本を牛耳った豊臣秀吉もその一人で、主君織田信長の前では平身低頭を貫いた。そんな秀吉に信長がつけたあだ名が「猿」。信長から「猿」と呼ばれた秀吉が、嬉々として返事をする姿をTVで一度は見たことがあるだろう。
しかし、そんなお馴染みの光景とは裏腹に、信長が秀吉のことを猿と呼んだという記録はない。信長が秀吉の妻ねねに宛てた書状では、浮気を繰り返す秀吉のことを「禿ねずみ」と記しているが、これが普段の呼び名であるかは不明である。
では猿というあだ名が空想だったのかというとそうでもないようで、同時代の史料には秀吉が猿に似ていると記したものが多く残っている。その為、江戸時代に入ってからはそのイメージが更に促進されて信長と結び付けられたのだろう。
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人物にまつわるウソ 「日本編」
江戸時代、日本は鎖国状態にはなかった。こう聞くと違和感を覚える人がいるかも知れない。当時の日本が外交窓口を長崎に限定して明(後に清)やオランダ以外の国と交流を断っていたことは有名だし、日本人の海外渡航も禁止されていたではないかと言う人もいるだろう。教科書にも必ず載っている言葉だから無理はない。
しかし、実はこの「鎖国」という言葉は江戸時代にはほとんど使われていなかった。鎖国という言葉は、オランダ商館の通詞(通訳)だった志筑忠雄が、過去に同館で働いていたケンぺルの著した「日本誌」の一部を翻訳し、「鎖国」と名づけた。これが鎖国という語の元になったのだが、この書物は刊行されることなく一部の幕閣や知識人の間で写本が認知されていた程度で、庶民の間には浸透していなかった。鎖国という言葉が本格的に普及したのは明治時代になってからである。
また、幕府下の長崎奉行が管理する出島の他に、松前や対馬、薩摩の各藩が幕府から許可を得て外国との交渉窓口として機能していた。つまり、外国との交易自体が禁じられていたわけではないのだ...。松前はアイヌ、対馬は朝鮮、薩摩は琉球との交易を独占し、文化交流や服従関係など特権的な地位を得ていた。
鎖国の目的はこのような交易の統制・管理と、キリスト教拡大の阻止にあった。キリスト教布教に熱心なスペインとポルトガル船の来航は禁止されたが、幕府の統制下で(限定的ではあるが)海外交流は行われていたのである。こうした実状からも「国を鎖す」ことを意味する鎖国という歴史用語が相応しくないことが分かるだろう。
では、鎖国がダメなら何と呼べばいいのかと思うだろう。研究者の間では、明や朝鮮でも行われていた「海禁」という用語を用いるべきだという意見が主流になりつつある。海禁とは、自国民の海外渡航を禁じる政策のことをいう。早い話が、民間人の交流や貿易を制限することが目的の政策のことで、鎖国と実態は変わらない。寧ろ、江戸時代の人々はこの海禁という用語を使っていたことが分かっている為、こちらの方が相応しいと言えるのだ。
長崎に造られた出島(中央)と唐人屋敷(左)オランダからはインドやペルシアの織物の他、鰐皮、毛織物、香辛料、時計や眼鏡などを、清からは生糸を輸入し、日本は金や銀を輸出した。
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歴史教科書のウソ
人気が高い『三国志』の中でも「赤壁の戦い」は特に有名でファンが多い。勢力を拡大していた魏の曹操軍と蜀・呉連合軍による衝突で、「蜀の名参謀・諸葛孔明が風向きを読んで火攻めを敢行し優位にあった曹操軍を撃退した」というエピソードがよく知られている。ドラマ性に富んだ戦いだが、これは話を盛り上げる為の創作で、諸葛孔明が風を読んだなどという記録は残っていない。
では何故『三国志』にはこのようなドラマ性に富んだ物語が多いのだろうか?
それは16世紀に中国で出版された『三国志演義』が影響している。
ベースは歴史書の『三国志』だが、個性豊かなキャラクターが数々のドラマなど、大衆向けにアレンジが加えられたことで、中国のみならず日本でも大ヒットした作品だ。この作品が史実をもとに描かれていることもあって、赤壁の逸話なども歴史的事実だと誤解されてしまったのだろう。
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戦乱と歴史のウソ
秋明菊(Japanese anemone) Anemone hupehensis
薄れゆく愛 忍耐
人肯当下休、便当下了。
若要尋個歇処、則婚嫁雖完、事亦不少。
僧道雖好、心亦不了。
前人云、如今休去便休去。
若覓了時無了時。
見之卓矣。
人、肯て当下に休さば、便ち当下に了ず。
若し、個の歇む処を尋ぬるを要れば、則ち婚嫁完しと雖も、
事も亦少なからず。
僧道好しと雖も、心も亦了せず。
前人云う、「如今休し去んとらせば、便ち休し去る。
若し了時を覓めば、了時無からん」と。
之を見るに卓なり。
「如今、当下で悟る」
人は何事につけても、思い切ってその場で止めてしまうと、
その場で全てが解決してしまう。
ところが、もしそれを止める適当な時を訊ね求めると、
たとえば嫁入りなどの大切なことを済ましてからと思っても、
遣らなければ為らないことは少しも減らないし、
かと言って、出家して僧や道士になったら良いと思っても、
そんなことをしたところで心の問題はちっとも解決できない。
古人の詩にも「今直ぐ休止しようと思ったら休止することは簡単にできる。しかし、もし休ませずに解決できる時を求めても、解決できる時はあり得ない」とある。
この言葉を見るに、非常に優れた見解である。
小田原藩(現・神奈川県小田原市)に生まれた尊徳は藩家老家の財政を立て直して名を広めた。
薪を背負いながら本を片手に勉学にいそしむ少年といえば、多くの人が二宮尊徳を思い浮かべるだろう。
江戸時代後期、農民から身を起こし勤勉や倹約を説いて農村を復興した尊徳は、戦前の小学校では勤勉さの象徴として敬われ多くの銅像が建てられた。だが、薪と本といったイメージを後世に伝えた尊徳の弟子自身が、そのイメージの信憑性は保証できないとしているのだ。銅像の逸話は尊徳の弟子が記した『報徳記』にある。幼少期の記述は尊徳の死後に村人から聞いた話をまとめたものだが、尊徳が働き始めたのは14歳頃からだと考えられており、像に表されるような少年像とは食い違う。実際の尊徳は、成人すると180cm、体重90㎏を超える大男となった。当時の日本人男性の平均身長が155cmほどだったことを考えるとかなりの大柄だ。こうした立派な身体があったからこそ、農作業に従事して地道な農村復興活動を行えたのかも知れない。
教科書も間違っていた 歴史常識のウソ
人物にまつわるウソ 「日本編」