Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

キリストが日本に!? 青森県のイスキリス・クリスマスの墓

2017-09-24 07:26:17 | Weblog

イエス・キリストは、ゴルゴタの丘で磔刑にされて、生涯を終えた。
ところが、日本に、イエス・キリストのものと思われる墓があることをご存知だろうか。場所は青森県の新郷村。
人の背丈よりも大きな十字架が突き立てられた土饅頭があり、これがまさにイエス・キリストの墓だと言うのだ。
雄略天皇に仕えた平群真鳥(へぐりのまとり)の子孫とされる竹内家に伝わっている竹内文書に、そのすべてが書かれている。

竹内文書によれば、ゴルゴダの丘で処刑されたのは、キリストの弟であるイスキリ(弟の墓も青森県にある)。生き延びたキリストは、日本に渡って青森に辿り着き、そこを第二の人生の住まいとしたと謂うのだ。新郷村には、ユダヤのシンボルであるダビデの星を家紋とする一族がいたり、生まれた子どもが初めて家の外に出る時に、額に墨で十字の印を着ける風習があったりするなど、キリスト教との奇妙なリンクが見られる。
更に、新郷村の旧名は戸来村(へらいむら)。まさか、ヘブライが転じて戸来村に...?
しかし、この様な突飛な発想からも分る通り、竹内文書には正史とされる確証はどこにもない。
竹内文書を公開した竹内巨麿が、自身の新興宗教の為に捏造したと云うのが通説である。

この様に、散々な風評を受けているキリストの青森落ち延び説だが、現地にはキリスト祭りやピラミッド型の遺跡などがあり、中々の賑わいを見せている。観光目的で訪れるのも一興かも知れない。

  

                                    「その後」の日本史
                                          歴史に名を残した偉人たちの「その後」コラム①




ゼラニウムがいっぱい咲いている様は、幸せの象徴の様な気がするんですね。(*´∀`*)


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エリザベス1世 イングランドを大国にのし上げた奇跡の処女王 (1533~1603)

2017-09-24 07:21:28 | Weblog

イングランド・テューダー朝とアイルランドの女王。
四十年以上に渡ってイングランド女王として君臨したエリザベス1世は、国内の宗教問題や内政をよく治め、対外的にも諸外国と渡り合い、大英帝国の基礎を作り上げた。国民から「良き女王」と慕われ、また、生涯独身だったことから「処女王」とも呼ばれた。

「アン・ブーリンの子として生まれる」
エリザベスの父はヘンリー8世、母は第二王妃アン・ブーリンである。
だが、国王の娘として生まれながらも、彼女には出生時から波乱に満ちた境遇が待ち構えていた。
ヘンリー8世は、前王妃とローマ教会を脱退してまで離婚を強行し、アンと結婚したものの、エリザベスが二歳の時、アンに不倫の罪を着せて処刑してしまった。そして、エリザベスも異母姉メアリーと同じ様にプリンセスからレディーへ、つまり、庶子へと落されることになる。ただ一つの救いは、再興の教育を与えられたことだった。
彼女はメアリーと共に住んでいた様だが、自分の境遇に負けることなく、スペイン語、ギリシア語など数カ国語を習得して、教養を身につけることを怠らなかった。六歳の時には、父からの贈り物の使者に対し、すでに貴婦人の様な作法で対応したと褒めそやされた記録が残っている。
だが、彼女の過酷な運命はこれで終わらなかった。
父の死後は、エリザベスの弟、更にはメアリーが即位したが、エリザベスは何度か謀反に巻き込まれ、側近を失った。更には、彼女自身もロンドン塔に幽閉されると云う憂き目に合う。
まさに薄氷を踏む思いだったに違いないが、それが彼女に生きる術を身につけさせ、彼女もそれを学び取る聡明さを持ち合わせていた。こうして、エリザベスは忍耐強く思慮深い女性に成長して行った。

「姉メアリーの死に寄って即位」
エリザベスに転機が訪れたのは、1558年、姉のメアリーが病死したことからだった。彼女の死に寄り、遂に王位が回って来たのだ。赤茶色の髪に理知的な褐色の瞳を持った二十五歳の彼女は惚れ惚れする程気高く、国民はこぞって新女王の誕生を喜んだ。
だが、エリザベスの前途は多難だった。
国内は旧教と新教に分裂し、疲弊しきっていた。対外的にも、フランスやスペインに利用されていた弱小国イングランドの舵取りは容易ではなかった。しかし、自分を律することができ、現実的に対処する力量を持った彼女は、その辣腕ぶりを発揮してイングランドを大国へと導いて行く。
国内で懸案事項だった宗教問題では中立的な立場を貫き、国内の平和を取り戻した上、国内をまとめる求心力も抜群だった。
彼女が大衆の前に姿を見せ、親しく触れ合うと、彼女の美しさと優しさが大衆の心をたちどころにに捉え、国内はよくまとまった。
そんな女王の治世の中でも一番輝かしい功績は、宿敵スペインの無敵艦隊を打ち破ったことだろう。両国の関係が一触即発になっていた1588年、英仏海峡に姿を現した無敵艦隊を相手に、イングランドは勝利を治めたのである。危機を脱したイングランドは逆に制海権を掌中にし、遂に大国への道を切り開いたのだった。
エリザベスは生涯独身で「処女王」とも呼ばれたが、結婚を望んだ恋人がいなかったわけではなかった。しかし、彼女は恋に溺れることなく、常に女王として生きる道を選び、独身と云う立場を利用して諸外国からの求婚を逆手に取るなど、強かさも併せ持っていた。
最後まで女王であり続けたエリザベスは、その後、国民に愛されながら七十歳の生涯を全うしたのだった。

             

                                                    世界の「美女と悪女」がよくわかる本


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アン・ブーリン 無実の罪で断頭台に散った悲劇の王妃 (1507頃~1536)

2017-09-24 07:17:27 | Weblog




イングランド・テューダー朝ヘンリー8世の第二王妃アン・ブーリンは、自らの魅力で国王の心を捉え、前王妃を押し退けてその座に就く。だが皮肉なことに、その王妃の座が彼女に悲劇をもたらすことになる。
結婚僅か三年で彼女は夫から無実の罪を着せられ、処刑されてしまうのだ。いったいそこには何があったのだろうか。

「ヘンリー8世との結婚」
ロンドン生まれのアンが、三年間のフランス宮廷での生活を終えてイングランドに戻って来た時、見違える様に洗練された、艶やかな女性にへんぼうしていた。それが、人生の大きな転機となるとは、彼女自身も思わなかったに違いない。
アンはロンドン郊外ケント地方の城で、フランス大使も務めたトーマス・ブーリンの次女として生まれた。
幼少の頃から聡明の誉れ高く、楽器の演奏をよくし、外国語も学んでいたと云う。姉と共にフランスに渡り、フランス王妃に仕え、ヨーロッパ風のマナーやファッションセンスを身につけて帰国した時は十五歳だった。やがて、アンはイングランドのキャサリン王妃に仕えるが、彼女の艶やかな黒髪、魅力的な瞳、洗練された雰囲気に加え、男を虜にして止まない不思議な魅力がたちまちヘンリー8世の心を捉えた。
だが、アンは直ぐにヘンリー8世の求愛を受け入れなかった。
姉メアリーが彼の愛人になっていたと云う理由の他、愛人のままで終わるのが嫌だったからである。ただ、この焦らしが結果的にヘンリーの心に火を着ける。彼は、キャサリン王妃に代えてアンを王妃にすると約束し、二人は恋に落ちた。
しかし、キャサリンの親戚にもあたるローマ教皇は離婚に同意しなかった。そこで、ヘンリーはアンが妊娠したこともあり、彼女の子を庶子のままにするわけには行かないと、遂にローマ教会から離脱し、キャサリンとの離婚を強行する。
宗教改革を行ってまでアンを王妃に迎えたのである。
こうして、6年越しの愛を実らせたアンだったが、王妃の座は決して平穏なものではないことを、この時に知るよしもなかった。

「でっち上げられた不倫の果てに」
ヘンリー8世がアンを王妃に迎える為強硬手段に出たのは、もちろん彼女を愛していたからだが、男児が欲しかったと云う理由もあった。彼はキャサリンとの間にメアリー王女しか子を儲けておらず、自分の跡継ぎを熱望していたのだ。しかし、アンが産んだのは女児エリザベスだった。そして、落胆したヘンリーの心は次第に他の女性へと移って行く。
ただ、まだ若いアンには男児を産む道が残されていた。皇太子の母になれば王妃の座も安泰で、ヘンリーの心も戻って来るに違いないと彼女は望みをつなぐ。だが1536年、彼女はヘンリーの愛人問題が原因でヒステリーを起こし、せっかくの男児を流産してしまう。その時彼女の心を過ったのは前妃キャサリンの悲しい運命だったに違いない。しかし、現実はそれよりもっと残酷だった。
と云うのも、その年の五月、アンは姦通罪で逮捕されてしまったのだ。彼女は兄を含めた五人の男と密通し、国王の命を奪おうとしているとの根も葉もない罪状を突きつけられ唖然とする。この件は、離婚に懲りていた国王と側近たちがアンを厄介払いする為に仕組んだ陰謀なのは明らかだった。
裁判も形式だけのもので、彼女は兄たちが処刑された数日後、二十九歳と云う若さでロンドン塔の処刑台の露と消えた。
そして、最後に彼女に与えられたのは、国王を誑(たぶら)かした不埒(ふらち)な女と云うレッテルだけだった。
ヘンリー8世が愛人ジェーン・シーモアと結婚したのは、それから僅か十日後のことだったと云う。

             

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