東京八王子の山中に残る八王子城跡には、幽霊が出るという噂が古くから聞かれる。
真偽は定かではないが、430年近く前にこの城で発生した惨劇を振り返ると、さすがに冗談ではすまされなくなるだろう。
天正18(1590)年、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして、20万の大軍を動員し、関東地方へ攻め込んだ。小田原征伐である。
関東を支配する北条方の支城は、その多くが、圧倒的な軍勢の前に次々と降伏したが、険しい山中に築かれた八王子城では、城主の北条氏照が寡兵ながら、徹底抗戦を決意して豊臣軍の到来を待ち受けた為、逃げ込んで来た近隣の住民や兵の家族も合わせ3000人ばかりが籠っていた。 降伏勧告を拒絶後、その八王子城に迫ったのは、前田利家、上杉景勝、真田昌幸など名だたる武将が率いる1万5000もの豊臣の大軍であった。 6月23日、深い霧が立ち込める深夜を狙って、豊臣方の軍勢は総攻撃を開始した。八王子城は、何層も城郭が取り巻く堅固な守りだが、兵士が少ない上に不意を突かれ、大混乱に陥った。城は僅か1日で落城し、城の内外には数え切れない死体が転がっていた。文字通り皆殺しである。特に、追い詰められた女性たちが身を投げたという御主殿滝の周辺には、数多くの死体が積み重なり、川へと流れる水は三日三晩の間、赤く染まっていたという。
これほど苛烈な城攻めが行なわれたのは、八王子城を血祭りにあげることで、本城小田原に圧力をかける見せしめの為であった。 小田原征伐が終わった後、八王子城は廃城になったが、間もなく怪異が続発するようになる。「下り坂」という場所では、夕暮れ時に武者の首が追いかけて来たり、「月夜の峰」という場所では人馬の怒号が聞こえて来たという。
他にも、周辺ではすすり泣く声や武士たちが歩き回る姿を目撃するなどの怪異が相次ぎ、近くの村人たちは恐れて近づかなかった。現在もそうした現象は報告されており、400年以上の時が過ぎても犠牲者の念が渦巻いているようだ。
日本史ミステリー
背筋も凍る.....今もなお消えない「呪い」の伝説
ベルガモット(モナルダ、松明花) Monarda fistulosa 野性的 安らぎ 感受性豊か
燃え続ける想い 身を焦がす恋
イタリア産のベルガモットオレンジを連想させる香りで、北米オスウィーゴ川付近に多く自生し、
この辺りに住む先住民がお茶として古くから飲み、後に、ニューイングランドを中心にこのお茶が広まったそうです。
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縦欲之病可医。而執理之病難医。 事物之障可除。而義理之障難除。
縦欲の病いは医(いや)すべし。
而れども執理の病は医し難し。
事物の障りは除くべし。
而れども義理の障は除き難し。
「理に堕する弊害」
欲望を欲しいままにする人間の癖は直すことができる。
しかし、理窟に拘る人間の癖は直し難いものである。
また、物資的な障害は取り除くことができる。
しかし、道理の上での障害は取り除き難いものである。
中央アジアを横断する東西交易路として栄えたシルクロード。
その重要な補給地としてタクラマカン砂漠の東端に栄えたのが、オアシス都市「楼蘭」である。
長安から辺境の町・敦煌に至り、そこから玉門間を出て半月あまりで当時のキャラバンは楼蘭の都クロライナへと辿り着く。楼蘭はそこから西域へと向かって西へ延びる、西域北道、西域南道の分岐点にあたり、繁栄を約束された土地であった。
楼蘭の名はエキゾチックな響きもあって、独特のロマンを感じさせる古代都市として日本人にも馴染み深い。
*砂漠に埋もれた幻の都
その名の初見は、紀元前176年に匈奴から漢に送られた書簡で、1世紀から5世紀頃まで独立国として栄えたとされている。しかし、何時しか砂漠の砂嵐の下に没してしまった。そうした楼蘭を発見したのは、1900年、幻の湖とされたロプノールを探索していたスウェーデンの探検家、スウェン・ヘディンである。 都市の中心である楼蘭城は、高さ約10㍍の仏塔を中心に、一辺310~330㍍の城壁で囲まれていた。仏塔の隣りには、大規模な木造建築や漢の軍隊の駐屯地と見られる建物の跡が残る。
*楼蘭の人々が都を捨てた理由
かつて楼蘭は、ロプノール湖と深い関係にあると思われていた。街の中には、湖から流れる川を利用した水路があり、重要な水源となっていた。しかし、ロプノール湖は「さまよえる湖」と呼ばれるように、位置、面積などが大きく変化する。その為楼蘭の町が滅びたのは、ロプノール湖の移動によって川の流れが変わり、それに対応できなくなったのが原因と言われて来た。
ところが、最近の研究によると、そこに疑問が生じる。 中国の歴史書「史記」には、楼蘭が塩湖に臨むことがき記されている為、湖畔のオアシスだと思われがちだが、実際は楼蘭を支えた水はロプノール湖の水ではなく、ロプノール湖へ注ぐタリム川とコンチェ川の水だったことが判明したのだ。
その証拠に、ロプノール湖と楼蘭は約30㌔の距離を隔てており、このタリム川とコンチェ川に挟まれてロプノール湖と楼蘭を結ぶ水路が城を通っていた。 こうしたことから、楼蘭が歴史の舞台から姿を消したのは、ロプノール湖の位置の変化によるものではなく、ロプノール湖にそそぐ川の流量の減少が原因ではないかという説に変っているのだ。
かくして生活を支えていた水を失った楼蘭の人々は、都を捨て北方へと移住して行ったと言われている。 さまよえる湖と運命を共にしたと考える方がロマンを掻き立てるかも知れないが、果して真相はどちらなのだろうか。
世界史ミステリー
新たな真実が判明!ロマンあふれる「伝説」のミステリー
1度抜けば人を斬りたい衝動に駆られ、人の血を見るまで鞘に収まらない.....。
呪われた妖刀として人々を震え上がらせたのが「村正」である。
村正とは、室町時代の伊勢国桑名に於いて3代に渡り活躍した刀工が生み出した名刀で、元々切れ味の鋭い名刀として知られtいた。
村正が造られた伊勢桑名は徳川家の発祥の地である三河に近い為、村正を所持している徳川家の家臣も少なくなかった。 本多忠勝の「蜻蛉切」、酒井忠次の「猪切」も実は村正の作である。
その名刀が、何故一転して妖刀として世間から恐れられるようになったのかーーー。
それはひとえに、徳川家を襲った「呪い」とも呼べる負の連鎖が原因である。
悲劇は家康の祖父・松平清康に始まった。若くして三河を統一した清康だったが、出陣中、家臣の安部弥七郎に誤まって斬り殺されてしまう。敵と勘違いしたとも、父の謀反を疑われた為とも言われるが、その時の刀が村正だったのである。
更に10年後、松平家を継いだ清康の子・弘忠も、家臣の岩松八弥の乱心により斬り殺される。この時も同じく村正の脇差が使われたのである。 家康自身も今川家での人質時代、村正の短刀で指を傷つける体験をしたという。 ところが呪いの連鎖はこれで終わりではなかった。
家康は天正3(1575)年、織田信長から武田家との内通を疑われた息子の信康を、切腹に追いやらざるを得なくなる。その時、信康の介錯に用いられた刀も村正、更に同様の理由で殺された家康の正室築山殿を斬ったのも村正だったとされる。
徳川家に何の恨みがあるのかは分からないが、村正は何と家康の祖父、父、本人、息子と徳川家4代に渡って次々と凶刃を振るい、その血を吸い取ってしまったのである。 村正がこれほどまでの妖刀を持った由縁として、次のような逸話が伝えられている。
初代の刀工・村正は、当時名を馳せていた刀工・正宗の弟子であったが、刀が一向に売れなかった。彼は師である正宗への嫉妬をつのらせ、打つ刀に怨みを込めていった。その結果、怨念の籠った刀が生まれたというのである。
*今も祟り続ける凶刀
江戸幕府の正史である「徳川実紀」にも、このおぞましい来歴を持つ刀を徳川家康が嫌悪し、「今後は村正を捨てよ」と命じ破棄されたと伝えられている。
やがてこの噂が世に広まり、村正は妖刀として畏怖され、大名や旗本の間でも村正を持つことを敬遠するようになった。 逆に徳川家に敵対していた者は、徳川に仇なす村正を好んで所持した。豊臣恩顧の大名・福島正則、更に徳川家康打倒を掲げた真田信繁も、村正を持っていたという。
一方、家康自身は死ぬまで村正を手元に置いていたとも言われている。村正を邪険に扱うことで、より強く呪われることを恐れた為かも知れない。実際に徳川家所有の村正が、東京国立博物館に所蔵されている。 このように家康をも畏怖させた凶刀だが、実は科学が進歩した現代に於いても、その呪いが生き続けているとの指摘がある。 並木伸一郎氏の「戦国武将の都市伝説」によると、切れ味を測定する測定器にかけたところ、村正だけいつも数値が一定せず、刀を研いでいる時に誤まって手を斬ると、他の刀とは違う痛みが走るなどの噂も絶えないという。
日本史ミステリー
背筋も凍る.....今なお消えない「呪い」の伝説
薄紅葵( Mallow) Malva sylvestris 穏やか 柔和な心
持身不可太皎潔。
一切汚辱垢穢、要茹納得。
与人不可太分明。
一切善悪賢愚、要包容得。
身を持つに、太だしくは皎潔なるべからず。
一切の汚辱垢穢も、茹納し得んことを要す。
人に与するに、太だしくは分明なるべからず。
一切の善悪賢愚も、包容し得んことを要す。
「寛容の功徳」
この身を安全に保って行くのには、あまりに潔癖過ぎては行けない。
一切の汚れや穢れも、すべて受け入れてしまう必要がある。
また、人と一緒に物事を行う際には、あまりハッキリ割り切り過ぎては為らない。
一切の善も悪も、すべて包容し入れてしまう必要がある。
ストケシア(瑠璃菊、Stokesia) Stokesia laevis 追想 清楚な娘
語云、登山耐側路、踏雪耐危橋。
一耐字、極有意味。
如傾険之人情、坎坷之世道、若不得一耐字、撑持過去、 幾何不堕入榛莾坑塹哉。
語に云う、「山に登りては脇路に耐え、雪を踏んでは危橋にう」と。
一の耐の字、極めて意味有り。
傾険の人情、坎坷の世道の如きも、若し一の耐の字を得て、
撑持し過ぎ去らずば、幾何か榛莾坑塹に堕入せざらんや。
「耐の一字に励む」
古語に「山に登る時は、険しい傾斜路に耐えて行き、
積雪を踏んで行く時には、危険な橋に注意し耐えて歩きなさい」と言っている。
この「耐」と云う一字には、極めて深い意味がある。
険しくて危ない世間の人の心や、容易に進めない世の中の道のようなものは、
もし「耐」の一字を身につけて、それを大事な身の支えとして生きて行かないなら、
どれだけ多くの人が、藪や草むらや、穴や堀の中に陥らないで済むことがあろうか。
いやほとんどの人が陥ってしまうに違いない。
恩宜自淡而濃。 先濃後淡者、人忘其恵。 威宜自厳而寛。先寛後厳者、人怨其酷。
恩は宜しく淡自りて濃なるべし。 濃を先にし淡を後にせば、人は其の恵を忘る。
威は宜しく厳自りして寛なるべし。 寛を先にし厳を後にせば、人は其の酷を怨む。
「恩恵と威厳の示し方」
人に恩恵を施すには、初めはアッサリとしてから、後に手厚くすべきである。
先に手厚くして後でアッサリすると、人はその恩恵を忘れてしまうものである。
人に威厳を示すには、初めは厳しくしてから、後に緩やかにすべきである。
先に緩やかにして後で厳しくすると、人はその厳しさを恨む様になるものである。
1865年頃に観葉植物として日本に導入されたヒメジョオン。
その強い繁殖力から明治時代には雑草となってしまいましたが、素朴な美しさを持つ花ですね。