広島のサンフルーツ
孔子曰わく、益者三友。損者三友。
直きを友とし、諒を友とし、多聞を友とするは、益なり。
便辟(べんへき)を友とし、善柔を友とし、便佞(べんねい)を友とするは損なり。
孔子はおっしゃいました。
我に益のある者に三種の友がある。我に損のある者に三種の友がある。
直(直言して隠すことのない者)を友とすれば己の過ちを聞くことができるし、諒(誠実で裏表のない者)を友とすれば己も化して誠に進むし、多聞(博学で教養が深い者)を友とすれば己の知識が広まる。
便辟(礼儀作法に慣れて直言しない者)を友とすれば己の過ちを聞くことができなく、善柔(何事にも媚び順って誠のない者)を友とすれば己の誠を失うに至り、善柔(口先が上手で実際の見聞のない者)を友とすれば己の知識は日に低下して行く。
この三種の友は我に損のある者である。
寝違えて首が後ろに行かないのが何ともせつなく、ついで頭痛までする様な、そんなここ二日です。
でも、徐々に季節も好くなって来たことですし、庭の桜の木が何気にピンクがかって見え、お向かいのお家じゃ鯉のぼりを上げ始め、桜と鯉のぼりが春を象徴し嬉しい風情と感じます。
思えば、毎年3~5月って家に居る分はいいけれど、何気に調子が好くない憂鬱な時期であります。
よく日に当たるとか、何処かを散策してみて気分転換をしているうちに、いつの間に治っているのですが、まあまあショウガナイ、過ぎるのを待つしかないのですよね。(≧へ≦)
焦ってはみたって、時機が来なきゃ何でも好くなりっこ無い。
昔から木の芽時によくない・・・と云う言い方があるのも判る気がしますが、ビリビリと寒い時季には絶好調だったと云うのってどう云うことだろうって思うんです。
それに、眠っている時によく夢をみている感じもし、私はパッと起きてしまえば忘れてしまう方だけれど、調子が好くない時こそ夢をみているって、ストレス的な何事かがあるでしょうか!?
だけど、切り替わると云う意味じゃ、私は忘れるとか忘れられるってイイことだって思っているのですよね。
詰め込むにしたって一旦出して(忘れて)、次を入れる(覚える)、踏ん切りのいい選択とか判断を、人それぞれの「道」であるかの様に想います。ネチネチと迷って悩む時間が私にはそう残っていない様な気もするし、まだまだ十分に熟せることも多いけれど、もうこの辺で好いではないか・・・ってことも無いわけでは無く、それが多分ストレス的になって悪い夢をみてしまうのだろうと考えます。
昨日の読売新聞夕刊に名作うしろ読みと云う記事があって、メーテルリンクの「青い鳥」の話が出ておりました。
青い鳥はいつも自分の側にいるものだと私は解釈していたけれど、「幸福の青い鳥は辛い旅を経験した者、人に優しく出来る者だけに与えられる」「青い鳥は逃げてもまた探せばいい」、ジッとして大人しくしていればイイんだよッ!それが幸せじゃないか!とまるで現状に満足をすべきだと強いられた解釈だったものだったと目からウロコが落ちた様に思いました。
居なくなったら捕りに行けば良い。
一つ終われば次が始まる。
カタチあるモノはいつかは消える、消えたならまた作ればいい。
出会った人があるなら別れることにもなり、別れがあるからまた何処かで出会いもあり、その繰り返しの人生。
私はこんな事を思ったりし、何だか勇気がわいて来た気がしています。
きっと誰だってそうなのだ、好くない時の中にこそ気づく事だってあるだろうし無駄のないものだと思い、ほんの少しの勇気で遥か遠くを見てみるべきなのだろう。
現実に今自分が望んでいることが真に望みなのだろうか?と問うのも自分次第であり、
それこそチルチルとミチルが探しに出かける「青い鳥」の意味なのでしょうか。
原作にはまだ先があるそうで、役目を果たした青い鳥がまた逃げ出した際に、
「どなたかあの青い鳥を見つけた方は、どうぞ僕たちに返して下さい。僕たちが幸福に暮らす為に、いつかきっとあの鳥が要り様になるでしょうから。」
そんな時に、孔子が言われる益者三友に恵まれたなら、彼ら彼女らが青い鳥の化身なのかも知れませんね。
↑画像のサンフルーツは、主人が美味い柑橘が食べたいって一箱買って来ました。
私は柑橘系もほとんど食べないのですが、ホラ、具合が好くないんだ・・・って言っているじゃないですか、昨日お昼に何気に食べてみたんですよね。
したら(北海道弁)、とっても美味しく感じたので、二個も食べました。(*・~・*)モグモグ
昨今は柑橘にでさえ甘さを言う人が多いですが、柑橘は酸味があってこそ柑橘なんですよね。