Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

こころよく我れのはたらく仕事あれそれを仕遂げて死なむと思ふ

2012-04-30 04:34:48 | Weblog

こころよく

我のはたらく仕事あれ

それを仕遂げて 死なむと思ふ                石川啄木


昨日は、小樽築港駅からJRで小樽駅まで行き、都通りを通って小樽公園まで歩きました。
何が目的と云うこともなく、普段はこうして中々歩く機会ってないので、まだ涼やかなうち年に1~2度はこんな事をしてみることがあります。
あえて目的があったとすれば、都通りの「あまとう」で「桜ぜんざいパフェ」を食べたってことでしょうか。

いつかも小樽公園まで歩きましたが、札幌の桜が終わった頃で、公園は桜盛りでありました。
今回は、せいぜいコブシが咲いているくらい。
石川啄木の石碑がここにはあり、「こころよく 我のはたらく仕事あれそれを仕遂げて 死なむと思ふ」は「一握の砂」二十番目の歌だそうですが、
何気にいい歌だって思うんですよ。
孔子の「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」と似た心境を歌っている様に私は想いました。

それで帰りは運河通りを通って寄り道しながらウィングベイまで歩いて戻りました。

足がもつれるほど歩いたってことですが、普段よく動いている気になっているけれど、全然歩いてはいないってことが判る。
疲れはしたけども、普段こもりがちな私ですから爽快な気分になりました。\('∀';)>


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生じて有せず 為して恃まず 長じて宰せず

2012-04-29 04:41:55 | Weblog

生じて有せず、為して恃まず、長じて宰せず、これを玄徳と謂う。         老子

産み出しても所有せず、成功しても誇らず、そこで最高になっても支配する様なことをしない。
それを玄徳と謂う。

昨日も絶好のお天気。
前日は忙しかったと言ったけれども、昨日もお布団干しと洗濯に大忙しな日でしたが、ゴールデンウィーク突入ってことなんですね、それに対してはあまり実感がなく、いつものお休みと同じ感覚になるのでしょう、私は何処かに出かけるのも好いけれど、こうして家で一人バタバタしている方が好かったり、返って体調さえ好い感じになります。
若い時なら、何処かに行かなくちゃ、何かをしなきゃ恰好がつかない様に思ったものでしたが、面倒になって来ると云う感覚も年齢相応で好い気さえします。
それと、元気だけれども、パズルのピースがピッタリとハマらない様な、何とも言えずな体調・・・。
気のせいだとか、気が病んでるのかと思ったりもしますが、何気はどこまで行っても何気であり、時機が来なきゃ良くはならないのだろうって考えて、居直っているところなのですが。('д≦ι
我が家の蝦夷山桜も染井吉野も花芽が膨らんで来たのが見えて来ました。
札幌の桜の開花予想は5月5日と聞いたけれど、案外とその位には蝦夷山桜なら咲き出すカモと思ったりしているところです。
四季の中で桜が咲くって頃が私には一番重要な時季。
その頃までに何とかダルさとかボーッとした感じが解消しないものかと、目下の他、これが今の一番の願いだね。

玄徳って、三国志の劉備の字なのですが、中山靖王劉勝の末裔であると言われます。
三国志Three Kingdomsじゃ系図まで出して来てそれを強調していますが、色々と三国志を読んでもこの点が一番怪しいところだと思っています。
まあ、そうしなきゃ三国志の物語には成らないからだろうと思うけど、英雄と言うには程遠い様に思っています。
三好氏の三国志じゃ、人を見る目は確かだったって書いてあったけど、儒教的人間観察眼と思考はどうも詰が甘く、宮城谷氏三国志にある通り、曹操なりは古学に博識だが、その発想は必ずしも儒教的ではなく、前漢の高祖の劉邦などは儒教を忌み嫌ってさえいた。
私が思うところの孔子だって、礼で世の中を平安に治めると云う理想は果たせず、乱世では、人と物事を洞察し掌握するには儒教は根源的な力は持っていない。
宮城谷氏は返って老荘(老子荘子)思想の方が人の心眼を備えさせ開かせるのかも知れないとあるが、別なもので読んだ、孔子が老子に会った際に老子は、「君の高慢と多欲と、勿体ぶりと迷いの念を取り給え。それらは君に何の益もないものだ。私が言いたいのはこれのみだ。」と言った事は、難しい様で何気にも解る気がしました。
孔子は老子を掴みどころのない人だ風に話しをしたそうだが、老子の言いたかったのは、自然とか成り行きなどは全く知れないことで、それに身を任せるべきだろうと言いたかったのかと。
一応の平安の世の中に存在している私の好みとしては、老子の言われる所謂曖昧なことには拘らなくても良く、「上善は水の如し」の身を低きに置き、器にあわせて形を変える柔軟性、人の嫌がる低い所へ流れる謙虚さ、それはすごいエネルギーであるとすれば、例え日々暢気にしていてもいいものかと悩む者へ安堵を与え、だけど力強い後押しにもなるのではないかと考える。
私は何事にだって捕われてしまってる自分が一番見っとも無く思うこと仕切りです。
毎日何を遣っているか、どんな事を考え想っているのか、その発想って何処から来るのかと、人に知らせない様な生き方を好む様な、偏屈とでも変わり者とかって言われる範ちゅうに治まっているのが、何だか、あくまでも何だかアズマシイ。
そして、私的に思うには、前提には人の迷惑には絶対にならぬことだろうと考えています。

「昭和の日」。
この「昭和の日」は、1989(昭和64)年1月7日に崩御した昭和天皇の御誕生日です。


昭和天皇崩御後、生物学者であり自然を愛した昭和天皇を偲ぶ日として、「みどりの日」となりましたが、
2007年よりこの日は「昭和の日」と改めらました。
それは、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いを致す」と言う意味合いからです。
それと同時に、「みどりの日」はいままで「国民の休日」であった、5月4日に移動されました。



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命を知らざれば 以て君子たること無きなり

2012-04-28 04:12:47 | Weblog

孔子曰わく、
命を知らざれば、以て君子たること無きなり。
礼を知らざれば、以て立つこと無きなり。
言を知らざれば、以て人を知ること無きなり。

孔子がおっしゃいました、
「自分に与えられた天命を理解しなければ、人々の手本となって指導する事などできない。
礼の持つ意味を理解しなければ、人として立つ事はできない。
言葉を理解しようとしなければ、人間を理解する事などできない。」


昨日はようやくこの時季らしいお天気に恵まれ、私も何かと忙しいことで、
だけど桜の蕾の膨らみ具合を眺める余裕くらいはある毎日だって想っていますが、今年はやはり若干桜の開花って遅れる様な感じで、私的にはゴールデンウィーク過ぎの方が好都合な気でおります。
大たいのことでも、今年はどんな風にしようかとまだ全然決まっちゃいないガーデニング計画。
ウ~~~ン、成り行き任せってことでイイかも知れない、そんな様にも考えているし、
それと、変わっちゃいないこともあるけれど、特に今年は何か気持ちが違う様に思います。
いっさい、慌てたり焦ったりしなくたっていいのじゃないかって。
背を突かれる様な、或る意味恐怖心がほとんどなく、もっと自分らしく生きていいものだって想っている。
或る日或る時には自分を見失ってしまった事があっただろうし、今だってそうは変わっちゃいないのかも知れないけれども、
ささやかでも生きていて好かったと実感できる、そんな事を積み重ねて行こうと日々の努力があった。
その代りに、何気に自分を縛りつけていた風な、過去のこだわりを徐々に始末してきた。
要らぬ物使っちゃいない物自分には釣り合わない物をずい分捨てたりして、そうしながら私は自分で想う自分探しをしていたのだと思います。
その中で、人に私って何?と問うのは筋違いなのだって事を理解したし、人と同じことをしていれば大きく道を誤りはしないかも知れないが、それは私は人の道を歩いてしまうって、後悔を持つ道の様にも思う。
どう云った初めが後悔になって行くかが見えて来た様に思い、挙句の果てだった過ぎた日々は糧にもなるが、喰った後にも持っていることもないだろう。
思い出してみれば、私には昔は良かったとか、昔はこうだったと懐かしむ気持ちなど全然なく、
延々と昔話をされるのは辟易してしまう方です。
こうあらねば成らぬみたいな頑固や、シツコク愚痴ばかりを人に聞かせてしまってる悪癖なんかアッサリ捨てて、軽く呆けずに長生きをしたいと私は夢があります。
資源が少ない日本国が、資源大国になるカモ・・・な未来まで生きられたらナ。(⌒о⌒)♪

「サンフランシスコ講和記念日」。
1952(昭和27)年、前年9月8日に調印された「日本との平和条約」(サンフランシスコ平和条約)が発効し、
日本の主権が回復、国際社会に復帰しました。


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吾の人に於けるや 誰をか毀り誰をか誉めん

2012-04-27 03:37:04 | Weblog

子曰わく、吾の人に於けるや、誰をか毀(そし)り誰をか誉めん。
如(も)し誉むる所の者あらば、其れ試みる所あらん。
斯の民や、三代の直道にして行う所以なり。

孔子がおっしゃいました。
「私は無闇に人を褒めたり非難したりしない。人を褒める時には必ず理由がある。
全ての人々は夏・殷・周の三代のいずれかの子孫でその性質を受け継いでいるのだから。」

人を悪く言うことも褒めることも、みだりに感情にまかせてすることはないと云うこと。

昨日は風が強い日でしたですね。
これでは外の作業など全く無理で、でも、家ン中に集中できるからそれも好しなんですが、私は好きですねぇ、部屋の模様替えをまた遣っていました。所謂、春バージョンってことですが、夏になって、もしストーブを分解掃除に出したとすれば、また夏バージョンってことになるんだろうって思います。でも、気分転換にはこうして部屋の何かの位置を替えてみるだけでも好いではないですか。
しかしながらってことじゃ、我が家の場合は猫との折り合いってことを考えて行かなきゃならないので、そこが思案のしどころ。
いたずらをしない様、遊びやすい様、休みやすい様・・・。(=`ェ´=)
お昼過ぎからポチポチと三国志らしからぬ三国志と云うのもヘンか、宮城谷三国志を読んでいました。
難しいと云えばそうなので、サッサと読めるはずもないのですが、それでも、それなりに健闘してよく読んでいるってとこです。
ただ、感想の書き様がないと云うわけで、主人にどのヘンを読んでいるかと聞かれたって、曹操と孫堅が生まれた頃だとしか答えられないですね。でも、読み方のコツってのがあるわけですよ。
「三国志Three Kingdoms」は呂布の死以後の放送を見ていないので、昨日からの放送が楽しみでした。
色々と三国志系を読んでいるから、ドラマの脚本はこう来たかッ!って見るのが愉快なところなのですが、行き成りドラマを見たって三国志に興味のない人や判らない人が見たところでちっとも面白くもないんだろうって思います。
それと、俳優陣がイメージとピッタリ合っているところが好いところで、本で読む曹操とか劉備、或いは後に出て来る大人に成った孫権などには見た目に大きな特徴がありますが、その通りにすれば、まるで西遊記になっちゃうよねッと主人と笑うのです。
見た目の良さと云うのでは、袁紹、荀、孫策、周瑜。
当時はルックスの好い者が、才知等、人々に憧憬されるすべてを兼ね備えていると考えられていたのです。
確かに、多少の覚えがあった方が、「三国志Three Kingdoms」も「恕の人・孔子伝」も面白いですよ。

「哲学の日」。
紀元前399年、ギリシアの哲学者・ソクラテスが、時の権力者から死刑宣告を受けて、刑の執行として獄中で毒を飲んで亡くなりました。
現在のアテネで活動し、対話的問答を通じて相手にその無知(無知の知)を自覚させようとましたが、アテナイ市民には受け入れられず、告発され死刑判決が下されたのです。
弟子たちは脱獄を勧めましたが、「悪法も法」だと言って毒杯を煽りました。

 

 


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義以て質と為し 礼以てこれを行い 孫以てこれを出だし 信以てこれを成す

2012-04-26 04:16:24 | Weblog


石楠花 Rhododendron  危険 警戒 尊厳 威厳 荘重

子曰わく、君子、義以て質と為し、礼以てこれを行い、孫以てこれを出だし、信以てこれを成す。
君子なるかな。

孔子がおっしゃいました。
「人格者たるもの、筋道を立てて物事を受け止め、礼儀正しく行動し、謙虚に表現し、信頼を持って対応する。
それでこそまさに人格者と言える。」

「戦火の馬」「長ぐつをはいたネコ」以来、昨日は、「ももへの手紙」を観て来ました。
時々はこうして映画を観に行くのですが、夫婦のどちらかが50歳以上だと、
一人1000円で観られるのも気軽に行けるキッカケで、何か夢があって好い気分転換になったりします。
これからのシーズンは、ドライブで遠出をしたり、好きな温泉にも行けたり、
道の駅等で美味しいモノを見つけたりと楽しみなことがいっぱいあるって思うんですね。
結婚して足かけ29年、価値観も性格も全く逆だったと思ったはずが、世に言う夫婦は段々似て来ると云うのが、最近は似て来たと実感することって多かったりしますし、二人だっけの間柄だったならば、コレと云う程の困難も苦労もなくやって来れたのではないかと思っております。
でも無い様であるもので、どちらかだけではなく、互いが自分を抑えて歩み寄る努力が出来て来たことは、神様が私と主人を組み合わせて下さったその意義が報いた様にも想います。
主人の良いところは行動的で明るいところだし、私もそう云うタイプ。
他にも似たところがあって、昔はどうだったかと、イイもワルイも過ぎたことなどを言わずに先を見ると云うところ。
思考することが未来を創るとするなら、前向きなところが最悪を呼ばない体質に成っているんではないかとよく思うのです。
それと、遣ることは、どちらの役目とかって決めつけていないところも好いことで、遣れる方の者が遣ればいいとの考えで、例えば、力仕事的なことは私の方が大得意だったりします。
よく新聞での人生相談とか、私の周りでもよく聞くことですが、ご主人との関係への不平不満などをよく口に出せるものだと思ったりしていますが、人のことを言ったつもりが自分を更に下げている様に見えたり聞こえたりするのが、本人って気付かないものなんですね。
私も聞かれれば、「そう云うことは考えた事もないですね」って適当なことを言うしかありませんが、その実は、私はprideが高いってことに成るんだろうと思ってもいます。
普通と云うボーダーラインがどの辺にあるのかは、本人の能力と知恵にあるもので、一番安心しちゃ行けないのは、普通と云うレベルをどの辺りで引いているかと云う自身ではないかって考えており、こうして生きているからには、乗り越えるとか抜きん出る力は、普段の、普通のつもりの自分から培われるものではなかろうか。
結局は言った言わないの揉め事になるのですから、どんな戯言にも責任が持てなきゃ行けません。
そう云うことで、私はガンバローっ!ってよく言うんですよ。
自分が口にしたことは、どんな事になっても守らなきゃ行けないですから。
     ○_ー ̄"/
     //    /
    // Figh!!/
    //  _,/
   //ー ̄ガンバレー!
   //∧_∧
  //( ・∀・)
  ○とニ  )
 // ノ  (⌒)
 " しー~" ̄

昨日、小樽のマリーナに大きな客船が停泊していました。
こう云う時にカメラを持って出なかったのが悔やまれることでしたが、私たちはフェリーでも好いですから、いつか旅が出来たなら好いねと話しをしたりします。
それと、外国船を見学できる機会ってあるそうで、それにはパスポートが必須なそうです。
だからと云うのでもないですが、近々私はパスポートを作ろうって思っており、運転免許がないので、確かな身分証明にもなるからと考えているんですね。
役所での色んな手続きで、私を証明するものが何もなくって不便だったことがありましたし、これから対応できる用意はしておくべきだろうの考えもありますし。
ひょっとして、外国旅行が出来るってことも無いわけでも無いだろうしで。


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ももへの手紙

2012-04-25 19:21:20 | Weblog

主人は以前、広島県によく出張しており、広島を第二の故郷と言うほど、懐かしくも親しんでおりますが、2月から「ももへの手紙」は絶対に観に行こうと私は誘われておりました。

瀬戸内の島々、特に大崎上島或いは大崎下島などには懇意な方々も居り、アニメではありますが、あの景色のままだと興奮気味で帰宅する。
映画の舞台は「汐島」となっていますが、大崎下島がモデルだそうです。

主人ならまたいつか訪ねることが出来るでしょう。
私も一度は瀬戸内の風景を眺めてみたく、好きな写真もいっぱい撮れると楽しい想像をしますが、行けないね・・・。
自分の大事な子(猫)らを置いては行けないです。(=^ェ^=)

美しい風景もさることながら、愉快な妖怪たちも出てきます。
そして、大切な人を亡くしても、死んだ人は空から見守ってくれていると云う、
日本人的な「死世観」を伝えてくれるって思います。
((/((\\
,)δ δ∠|
(”ン“∠/
_> _<__
_(ξ)_ \


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浸潤の譖 膚受の愬 行われざるは 明なりと謂う可きのみ

2012-04-25 04:00:11 | Weblog

子張、明を問う。
子曰わく、浸潤の譖(そしり)、膚受(ふじゅ)の愬(うったえ)、行なわれざる、明なりと謂う可きのみ。
浸潤の譖、膚受の愬、行われざる、遠しと謂うべきのみ。

子張が明(聡明さ)とは如何なる事であるかと問いました。
孔子は、
「繰り返されて心に染み込んで行く様な誹謗中傷や、真実味があり肌身に感じられる様な事実無根の訴えを、
敢然として無視できるならば聡明と言えるだろう。またその様な人物は多くのものを見通すことができるだろう。」と答えられました。

時々模様の昨日。
お天気でも好ければちょっと今からでも植えられる球根があるので植えたいところでしたが、
それもこれも、もう少し地温が上がってからの方が好いでしょうか。何気に焦るところがあります。(ーヱ^;)
その代わり、食器棚を移動させたりし、掃除をしながら台所の模様替えをしていました。
幾らか広々としちゃったので気分好し。
普段はよく使い勝手とか置き場所を考えるのが趣味だったりするが、或る日突然思いついて、
何で今まで気づかなかったか?などとよく思うのです。
探し物をしている内は見つけられなく、何でもない時にアイデアが出るって、きっと人生と同じ。
そして私などは毎日毎日そうは変わり映えしない日々なわけだから、惰性とか義務感などじゃなく、張り合い持って励めるのは、
私ってエライね~と思うんですよ。
だってね、他の何処に私の居場所や世界観があるでしょう。
ここ(家庭)だっけなのだから、何よりか大切にしなきゃって思うのです。
予定などいっさい作らずに、朝一番のヒラメキを大事にする。
でも、家内での予定は大好きで、遣りきれっこないからと遣れるとこまで遣ろうとすると、案外早々に遣り終えることが出来ます。

私はとても意志が強く、そして、私は間違っちゃいないかと自問自答出来るところも良いとこで、正しいとまでは行かなくても大きくは外れてはいないだろうと思った場合、年齢のせいではないが今の年齢をありがたくも幸いに思う。
それと、向上心が保たれる様にも成ったし、人に言うほどのものではないけど、私はもっともっと良く成って行く自分を実感して行きたいと想っている。
それは人からのお世辞とか評価要らずなことだし、また、言いもしない、有りもしないことで、誹謗中傷を受ける様な筋合いでもない。
避けては通れないことだらけかも知れないだろうが、先ず誰を見るよりも私自身をよく見てみる。
私だって人のことなど言える何者でもないから、せめて後ろ指をさされない様に言動に気をつけ、あとは無視だね。
もし相手にしてしまえば、私も相手と同じ輩と化すのだから、安易に人と接するならば、私は最初っから例え友人になろうとはしまい。

色んなことってあるけれども、まだこうして元気でいるうちから、身の周りのこともケリをつけ整理をし、或いは始末をしておき、
人の口で冷たいと言われ様が、私は普段や一生を身軽にしておきたい理想があります。
果たして理想には届かずとも、理想に向かった経緯と云うものは掛け替えがないだろうって想うのです。

「国連記念日」。
1945(昭和20)年のこの日、サンフランシスコ会議が開催され、国連憲章が作成されました。

 


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人の己を知らざることを患えず 己の能なきを患う

2012-04-24 03:19:40 | Weblog

子曰わく、人の己を知らざることを患えず、己の能なきを患う。

孔子がおっしゃいました。
「他人が自分を評価してくれない事を気に病むよりも、自分に能力が無い事を気にしなさい。」

埃っぽかったあとの一雨は実に爽やかなもので、モヤった朝の空気が季節到来を知らせてくれる様です。
昨日は洗濯と掃除、或いは片づけ物や準備にと色々と忙しい日となりました。
だけど、好調なせいでしょうね、遣る事には一つの無駄もない様な、そんな張り合いがあります。
毎日毎日同じ様でも、想えばその違いがある様だし、ちょっと変えるとか変えられる、それが愉しいと云うのもある。
長い長い冬は恵みの為の季節だったが、春となって解放されたこの気分も好いもので、私はほとんど出かけることもない人だから、少し浮世から離れた様な気分を、ここに在っても味わえないわけではない。
「人の己を知らざることを患えず、己の能なきを患う」と似た言葉が幾つかあり、重複している様でそうではないのは、孔子はお弟子の性格に合った答え方をしているわけで、多少キツめの言い方をしても、この者ならば意味を理解し乗り越えるだろうと信じているからこそだと思った。
色々と読んだり調べている際に、子貢がある時に他人の悪口を言ったことがあったそうで、その際孔子は「お前は人を謗るほど時間があるのかね?、私はそんな暇などない。」と言ったのだそうで、人を批判するとか悪く言う、或いは良い意味であったとしたって、そんな余裕が持てるほど私も時間がないものだと思う。
これは自己本位ではない、己の頭の上のハエもおえずに人を構っていいものかと、良い戒めになると私は思いました。
「恕の人・孔子伝」を見て、録画して後で見る「三国志Three Kingdoms」も見て、今日(23日)はよく働いたから心地好く疲れてしまったナ。\(´∂`)」ξ
今日(24日)は宮城谷三国志のページを進めなきゃ行けないんで、昼間に時間を持とうと思っています。

「日本ダービー記念日」。
1932(昭和11)年、目黒競馬場で第1回の日本ダービー(東京優駿競争)が開催されました。
イギリスのダービーステークスにならって企画された物で、当時の出走馬は19頭、優勝したのは1番人気のワカタカでした。


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その人の思いがその人の人生を作る様だ (=`ェ´=)

2012-04-23 04:21:05 | Weblog

子曰わく、詩三百、一言以てこれを蔽(おお)う、曰わく思い邪(よこしま)なしと。

孔子がおっしゃいました。
「詩経には300篇もあり、その内には色々のことを歌ってあるが、。これらを一言で言い表すとしたら、思い邪なしと云う言葉である」。

「思い邪なし」=読む人の心を正しくする。

昨日も小樽の温泉施設に行きました。
ここのブログの四年前の今頃にはもうパンジーやビオラの画像を撮っており、今年はやっぱり春が遅れたのだろうかと思いましたが、季節のことですから、毎年キッチリとは行きません。
雪が多かった年は豊作になると昔から言いますが、どうかその通りである様にと、そんな風に想いました。
で、温泉して買い物して帰宅する頃には、小樽市内も風が強くなっており、街中土ぼこりが舞っている。
草木はまだ芽吹いておらずな感じだけれど、セコイ我が家の庭同様に、これから一気に花が咲いて緑が膨らんで来るし、
心躍る季節となります。
直ぐ近くに、山や川、海が臨める場所がある。
今年の春はこれまでとはまた違った気持ちで迎えられそうで、どうとも言えない様な、何か愉しみがありそう。

言動がどんなに真面目で正しいとしたって、一番重要なのは心で思うイメージだと想う。
思い邪なしは、私が信じた道を、明るく前向きに進めばその通りになって行くよと教えられているのだって感じています。
襲われる邪な不安とか心配など跳ね除けて、いつも私が幸いと想える様に、それが天に報いることだって考えて、ただガンバローッ!とだけ、私はまだまだ遣れると自分を励まして行こうと思います。

「サン・ジョルディの日」。
スペインのカタルーニャ地方に伝わる守護聖人サン・ジョルディを祭る日として、男性は女性に赤いバラを、女性は男性に本を贈る習慣があります。

女性にお花をと云うのは簡単だろう。
でも、男性に本を贈ると云うのは難しいことでしょうね。
どうなんだろう?
本は自分で選んで買うものだと思うのですが、私は昔から本が一番の友だちだったから、本を読まないとバカになると云う観念があるのは、友だちの一人もいない・・・と云うのと似た感じがしています。
花だって、自分で選びたいとか、自分で育てて花咲かせたいとか。
 

 

 


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好くない時も好いもので (u_`u。)

2012-04-22 04:08:07 | Weblog

子曰わく、已矣乎(やんぬるかな)。
吾未だ能く其の過ちを見て内に自ら訟むる者を見ざるなり。

孔子は言われました。
「私は、自分の過ちを認めて、他人のせいにすることなく、自分を責められる人を未だに見た事がない」と。

已矣乎=見ることがないことを恐れてこれを歎する。
内に自ら訟むる=口で言わないで自らを咎める。

この孔子の言葉は、人を励まして自らの過ちを改める様にしたら良いとのことですから、
こんな時こそ自分に何が欠けているか?、どこに問題点があるか?と、
自己充実を図り、スランプの原因を探る好い機会と考え、そこから新たな境地に至れたなら、
日々や人生の大きな一歩となるでしょう。

昨日の何よりかのご馳走は、今年になって一番の好天だった事でしょうか。
私は終日札幌ドームに居ましたが、行き帰りには汗をかいたほどでしたから、これでは、予想されている桜の開花もグンと早まるのではないかって思いました。
外でお花を愉しむならば、先ず桜に咲いてもらわなければなりませんが、昨日のお昼、西野二股のバス停で知り合いのイクちゃん母子にお会いした。先にイクちゃんが私を見っけてくれたけれど、お母さんの方は暫く私が誰かが思い出せない様だった。
どちらに行くの?と聞いたらば、お花を見に行くって言ったけど、いったい何処のお花を見に行くのだろうと後で思いました。
はっきり言ってイクちゃんは精神障害のある子なのですが、私に会ったらば満面の笑顔になってくれ少し興奮気味になるのです。
こう云う子を相手にした場合って、どうして良いか判らない事ってありますが、私は私のままで接すれば良いことで、私はイクちゃんの大人しくて素直なところや、心が優しいところ、ちゃんと人の目と合わすところが大好きです。
ずっと以前、彼女のお家でも猫を飼っており、お隣のお家のワンコを預かり散歩のついで、よく我が家に猫たちや花々を見に来たものです。
そのお礼なのか、施設で自分で作ったパンをプレゼントしてくれた事がありましたが、その時の私の嬉しさは涙が出るほどでした。
彼女も、もう30に届く年齢になったはずだが、一人で出歩くには困難になった様。
何よりか下品なことは、彼女の先々を他人が言うことで、今この時の彼女を見てあげれるところが私の良いところだし、お母さんが恐縮して「ヘンなことばかり口走るでしょ!?」と言ったことがあるけど、確かにツーテンポ程答えが遅れるが、イヤなことなど一度も言ったことはありません。
純粋が過ぎているところがその障害の由縁だと思ったし、愉しい子だと私は思っていますから。

帰りには主人に迎えに来てもらって、昨日は夕食はアッサリとしたモノが好くってお蕎麦を食べて、買い物をして帰宅しました。
で、留守の間のニャンたちのいたずらの始末とか掃除をするのが恒例。
多ニャン飼いの宿命の様なものです。(=`ェ´=)

日曜日に映画を観に行く予定でしたが、主人が水曜日休みにしないかと言うので、まあ、それでも好い。
日曜日と月曜日火曜日の晩がエラク楽しみなんですから。
寝違いも治ったし、調子も上がって来た。
庭の雪も融けたことだし、これからは外のことも忙しく出来るかナってのも楽しみにしていますから、一週間が早く感じられるのじゃないかって想っているところです。
Fight!!(o^-^)尸~☆

 


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益者三友 損者三友

2012-04-21 03:22:42 | Weblog


広島のサンフルーツ

孔子曰わく、益者三友。損者三友。

直きを友とし、諒を友とし、多聞を友とするは、益なり。

便辟(べんへき)を友とし、善柔を友とし、便佞(べんねい)を友とするは損なり。

孔子はおっしゃいました。
我に益のある者に三種の友がある。我に損のある者に三種の友がある。

直(直言して隠すことのない者)を友とすれば己の過ちを聞くことができるし、諒(誠実で裏表のない者)を友とすれば己も化して誠に進むし、多聞(博学で教養が深い者)を友とすれば己の知識が広まる。

便辟(礼儀作法に慣れて直言しない者)を友とすれば己の過ちを聞くことができなく、善柔(何事にも媚び順って誠のない者)を友とすれば己の誠を失うに至り、善柔(口先が上手で実際の見聞のない者)を友とすれば己の知識は日に低下して行く。
この三種の友は我に損のある者である。

寝違えて首が後ろに行かないのが何ともせつなく、ついで頭痛までする様な、そんなここ二日です。
でも、徐々に季節も好くなって来たことですし、庭の桜の木が何気にピンクがかって見え、お向かいのお家じゃ鯉のぼりを上げ始め、桜と鯉のぼりが春を象徴し嬉しい風情と感じます。
思えば、毎年3~5月って家に居る分はいいけれど、何気に調子が好くない憂鬱な時期であります。
よく日に当たるとか、何処かを散策してみて気分転換をしているうちに、いつの間に治っているのですが、まあまあショウガナイ、過ぎるのを待つしかないのですよね。(≧へ≦)
焦ってはみたって、時機が来なきゃ何でも好くなりっこ無い。
昔から木の芽時によくない・・・と云う言い方があるのも判る気がしますが、ビリビリと寒い時季には絶好調だったと云うのってどう云うことだろうって思うんです。
それに、眠っている時によく夢をみている感じもし、私はパッと起きてしまえば忘れてしまう方だけれど、調子が好くない時こそ夢をみているって、ストレス的な何事かがあるでしょうか!?
だけど、切り替わると云う意味じゃ、私は忘れるとか忘れられるってイイことだって思っているのですよね。
詰め込むにしたって一旦出して(忘れて)、次を入れる(覚える)、踏ん切りのいい選択とか判断を、人それぞれの「道」であるかの様に想います。ネチネチと迷って悩む時間が私にはそう残っていない様な気もするし、まだまだ十分に熟せることも多いけれど、もうこの辺で好いではないか・・・ってことも無いわけでは無く、それが多分ストレス的になって悪い夢をみてしまうのだろうと考えます。

昨日の読売新聞夕刊に名作うしろ読みと云う記事があって、メーテルリンクの「青い鳥」の話が出ておりました。
青い鳥はいつも自分の側にいるものだと私は解釈していたけれど、「幸福の青い鳥は辛い旅を経験した者、人に優しく出来る者だけに与えられる」「青い鳥は逃げてもまた探せばいい」、ジッとして大人しくしていればイイんだよッ!それが幸せじゃないか!とまるで現状に満足をすべきだと強いられた解釈だったものだったと目からウロコが落ちた様に思いました。

居なくなったら捕りに行けば良い。
一つ終われば次が始まる。
カタチあるモノはいつかは消える、消えたならまた作ればいい。
出会った人があるなら別れることにもなり、別れがあるからまた何処かで出会いもあり、その繰り返しの人生。

私はこんな事を思ったりし、何だか勇気がわいて来た気がしています。
きっと誰だってそうなのだ、好くない時の中にこそ気づく事だってあるだろうし無駄のないものだと思い、ほんの少しの勇気で遥か遠くを見てみるべきなのだろう。
現実に今自分が望んでいることが真に望みなのだろうか?と問うのも自分次第であり、
それこそチルチルとミチルが探しに出かける「青い鳥」の意味なのでしょうか。

原作にはまだ先があるそうで、役目を果たした青い鳥がまた逃げ出した際に、

「どなたかあの青い鳥を見つけた方は、どうぞ僕たちに返して下さい。僕たちが幸福に暮らす為に、いつかきっとあの鳥が要り様になるでしょうから。」

そんな時に、孔子が言われる益者三友に恵まれたなら、彼ら彼女らが青い鳥の化身なのかも知れませんね。

↑画像のサンフルーツは、主人が美味い柑橘が食べたいって一箱買って来ました。
私は柑橘系もほとんど食べないのですが、ホラ、具合が好くないんだ・・・って言っているじゃないですか、昨日お昼に何気に食べてみたんですよね。
したら(北海道弁)、とっても美味しく感じたので、二個も食べました。(*・~・*)モグモグ
昨今は柑橘にでさえ甘さを言う人が多いですが、柑橘は酸味があってこそ柑橘なんですよね。


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礼に非ざれば視ること勿かれ 礼に非ざれば聴くこと勿れ

2012-04-20 03:11:29 | Weblog


躑躅(炎の舞)

顔淵、仁を問う。
子曰わく、己を克めて礼に復るを仁と為す。
一日己を克めて礼に復れば、天下仁に帰す。
仁を為すこと己に由る。
而(しか)して人に由らんや。
顔淵曰わく、請う、其の目を問わん。
子曰わく、礼に非ざれば視ること勿かれ、礼に非ざれば聴くこと勿れ、礼に非ざれば言うこと勿れ、礼に非ざれば動くこと勿れ。
顔淵曰わく、回、不敏なりと雖も、請う、斯の語を事せん。

顔淵が仁について尋ねました。
孔子は、「自分に打ち勝って礼の原点に立ち戻る事だ。もし一日自分を律して礼に立ち戻るならば、世界が仁の心に立ち戻るだろう。すべては自分次第なのだ。他人を責めてはいけない。」と答えられました。
顔淵がさらに、「どうかその要点を教えてください。」と尋ねれば、
孔子は、「礼に適わぬ時は見ない、礼に適わぬ時は聞かない、礼に適わぬ時は言わない、礼に適わぬ時は動かない。」と答えられました。
顔淵は、「私は愚か者ではありますが、先生のお言葉を実践したいと思います。」と言いました。

スッカリと好天とは行きませんが、昨日は暖かくって一日中窓を開けておいても寒いとは感じませんでした。
でもこの時季って、ストーブを消したり着けたりと、熱いと思っても消せば薄ら寒くて寂しい様な、結局、設定温度を下げて着けてしまうんですよね、せわしない事です。
午前中は洗濯掃除も早くに終わったから、PCに入っている以前使った画像の始末とかしていました。案外と時間を喰ってしまったのですが、午後から宮城谷三国志のページを進めて、曹騰が自分の兄たちから養子を取らずに同郷の夏候家から取ったかの謎が解けたってとこです。
解けたと云ったって史書にも示されてない宮城谷氏の推理ではあるが、私的には十分説得力がありました。
私が当たったのは漢の高祖に仕えた夏侯嬰と云う人の存在のみで、夏侯嬰の曾孫の頃に夏候一族は没落していたそうなのだ。
また同じく漢王朝建国の功臣の一人「曹参(そうしん)」は大まかに言えば曹一族の先祖に当たるのだが、曹一族だって後には繁栄には至っていなく、あくまでも曹騰が順帝の下で中常侍と云う立場を得て、宦官ながらも生き甲斐を見出し、後継者があれば家産も継続され名誉も受け継がれると云うラッキーに合った挙句と云うことだろう。
ちなみに曹操は、父が夏候の出なので夏侯嬰の末裔と云う方が正しいと思います。
家主は初代が攻めの人であれば、二代目は守りの人物が相応しい。そして三代目はまた攻めに転じればよく、二代目として夏候から迎えた嵩は聡明さを目立たせる様な子ではなかったのが打って付けだったのだろうし、嵩は宦官ではないので自分と違う生き方をする、オープンな考え方な点も家の永続になると曹騰は考えた様です。
曹嵩は、三国志でも人気のキャラクター夏候惇の兄の叔父にあたり、つまりは曹操とは従兄弟同士。
曹騰は三代目での天下取りを夢見たのではなく、自分が建てた家が永く続いて行くことを望んだだけだったのに、攻め守り攻めのビジョンがこうもハマるとは予想していなかっただろう。
文中には論語(孔子)や老子、孟子や荀子のことも出てくるのですが、「春秋左氏伝」のことも出ており、調べてみればエライ面白い話だそうで、一般的な言い方で「左伝」と云うのは知ってはいたけれど、面白いと聞いたからにはいずれ読まなければならないと思いました。
本を読み読み、また調べものがあったりでアッと云う間に軽く半日は使ってしまう。
こう云う時の私は他には見ない集中をしてしまうのですが、確かに目が疲れるとかってあるけれど、何とも心地好い疲れな様な気がします。
貧乏人だけれど、自分の時間が十分に取れて何せ自由じゃありませんか。
そこそこのスタンスで在ることをありがたくも幸いだって想うのでした。

「穀雨」。
旧暦三月、辰の月の中気で、穀雨とは、百穀を潤す春雨を言います。


 


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禍は福の倚る所、福は禍の伏す所なり。たれかその極を知らん。

2012-04-19 03:40:48 | Weblog


宮城谷三国志第一巻より19人の宦官の挿絵

その政悶悶たれば、その民は醇醇たり。
その政察察たれば、その民は欠欠たり。
禍いは福の倚(よ)る所、福は禍いの伏(ふ)す所。孰(た)れかその極を知らん。
それ正なし。
正は復た奇と為り、善は復た訞(よう)と為る。
人の迷えるや、その日固(もと)より久し。
ここを以って聖人は、方なるも而(しか)も割(さ)かず、廉なるも而も劌(すこな)わず、
直なるも而も肆(の)びず、光あるも而も耀(かがや)かず。
                                                       老子

政治がおおらかで曖昧であれば人々は純朴で豊かに暮らす事ができる。
政治が事細かにきっちりしていると人々は利を求めてピリピリする様になる。
災いは福の始まり、福は災いの始まりでこの循環がどこへ行き着くかは誰も知らない。
そもそもこの世に常識なんてものは無いのだが、
こちらで常識であったものがあちらでは非常識となり、こちらでの善い事があちらでは怪しげな事になる。
世の人々はその事に気づかずにずっと迷い続けているのだ。
だからこそ「道」を知った聖人は、品行方正でありながら善悪を区別せず、清廉でありながら他人を非難せず、
真っ直ぐでありながら他人に無理強いはせず、まばゆいばかりの智恵を持ちながら目立とうとはしないのだ。


引き続きってとこですが、ここ2~3日は寒気がして気持ちが好くないです。
風邪、引いたでしょうかねッってとこですが、それにしてもまあまあ元気なのです。
だけど、まだ外で色々と作業をするには早いし、またいつもの家事くらいしかする事もなく、だけど、まだ片付くことってあるカモって、それで私はせわしないのだと言うのです。
結構我が家は整然としていますが、私的には足すよりか引くのが趣味なところがあり、精神的にも好い影響がある様に私は考えています。
所謂、「モノ」があるから無くなったり減ったりするのが怖く寂しい気がしてしまうのであり、元々避けたり無ければ怖くも寂しくもありませんし、自分に必要な「モノ」が返って見えて来ます。

宮城谷三国志に「禍は福の倚る所、福は禍の伏す所なり。たれかその極を知らん。」と出ていましたから、早速に老子を調べたりして、あの本のあそこに出ていたとすれば、後々まで記憶が出来ますよね。
そうして、老子でも論語でも、その他の格言とか謂れを知れることが多く、私には何気に充実感が出ても来ます。
努力し目指し頑張らなきゃ行けないことだって多いけれど、流されるままでも好いではないか、どーせその程度なんだものと気楽にさせられる言葉たちに、不安とか心配、戒めを犯す自分を払拭する力があると私は考えています。
それと、習うよりか慣れろと云うのも確かで、細かな文字でビッシリと難しいことを・・・だってこなせて来ます。
それが宮城谷三国志なんですが、数ページごとに↑の様な挿絵があったりし、昔、挿絵のところまで読もう読もうとして、アッと云う間に本を読み終えてしまった事を思い出します。
曹操のお祖父さんの曹騰は順帝に功績を認められ、異例の出世「小黄門」に昇格し、宦官にも家族を持つことや養子を取ることが許される時代になったのです。
でなければ、後の曹操は生まれなかったと云うことになります。
これからまだまだ長い話になるだろうけれど、曹騰がどんな風にして宦官の頂点に立ったか、どう云った経緯で夏候氏から養子(曹操の父・曹嵩)を得たかが興味深いところで、自分の考えですが、曹氏と夏侯氏の繋がりを予想しているところがあるのですけど、当たらずとも遠からずであったら、ちょっと嬉しいッかな~と思っています。
ドラマはドラマで、「三国志Three Kingdoms」も毎回楽しみにしていますが、以前見た時よりか私も知識(?)が広く深くなったので、見方が変わった様な気がするし、こう云うのって、何と愉しいことだろうか!と思う毎日です。(*´∪)ェヘヘ


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述べて作らず 信じて古を好む

2012-04-18 03:58:40 | Weblog

子曰わく、述べて作らず、信じて古を好む。

竊(ひそ)かに我が老彭(ろうほう)に比す。

孔子がおっしゃいました。
「私は昔から言われていることを伝えているだけで、私が文章を作っているのではない。
昔からの教えを信じて愛好し、
密かに尊敬する老彭(ろうほう)のやり方を真似ている。」

老彭(ろうほう):殷の伝説上の賢大夫の彭祖(ほうそ)の事だと言われ、仙道に通じ800年生き、伝説上の聖帝である堯・舜から夏王朝・殷王朝に仕えたと伝えられる。

昨日、時々
それに少し肌寒い日だったです。
でも、雪融けで乾いた道路の埃が洗われ気持ちよくなった感じもします。
そして、これからの季節って、窓から庭や遠くの山、或いは空だって、眺めていても飽きが来ない事になりますから愉しみなことになるなぁと想っています。
私は具合が好くないって云うのでもないけれど、何気に身体が重い風で少し憂鬱ですが、いつものことだから通り過ぎて行くのを待てばいいでしょう、頑張るも努力するもなく、待てるのも余裕が持てる様になったお蔭かと思い、年齢のせいばかりにしては行けないと言うが、年齢のせいとか、年齢のお蔭で慌てず騒がずに出来るってこともあるじゃありませんか。
調子が出ない様な・・・とは云っても、家に居るって私は大忙しです。
こうしました、ああしましたと言えない様なことだらけを家事と云うと私は思っていて、せわしない性分が故にジッとTVを見たりする間も本当はありませんが、10~20分の間を取り、論語や老子をランダムに読んでみるってイイ気分転換になりますよ。
それと、「徒然草」も好いです。
何気にでも、疲れたと実感する時には、思考を広げれば回復も早まるものだと私は考えていて、自分の基盤が強化される様に思います。
挙句は、もし思い悩んだとしたって、どーせ成る様にしか成らない。成せるほどの力も自分には無いのだと居直るのもいいではありませんか。
私は、我が家が一番好いと思う様に、私と私が話し合ったりお喋りし合うのが一番好いんではなかろうかと思っており、自己愛の持てない事が自信のなさになるのだろうと考えて、ウ~ン・・・、驕り高ぶれるほど何もない自分ではあるから、返って日々成長して行ける自分を実感してみたいと云う「意欲」はあります。
長生きだってしてみたいと云う「欲」もありますし、そんな意味での欲ならば、どこの誰にも迷惑などをかけないのではないのでしょうか。土台、人が生きていれば気づかずに迷惑をかけ合うものだって判っていますが、中には自分次第で遣れることってあるんじゃないのかナ。
きっと私を励ますのは過去の自分と色んな経験と体験と想うと、70や80に成った時の自分を励ませられる様に、今やっておくべき事がいっぱいある気がして、だから私は忙しなくしている。
老いぼれてしまっても、ちゃんとしたことが言え、ちゃんとした事を書けて・・・、そんな自分の将来をイメージすれば、ありがたい事で、今や今日が一番好きなことが遣れていると、天からいただいた運に感謝をしたいと思っています。
運がなかったとか縁がなかったとか色々とあったけれど、それが、そこが分岐点だったと想えているのが運の良さであると思う。
(* ̄- ̄)人

 


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天、何をか言うや

2012-04-17 03:38:15 | Weblog


ガーデニア(クチナシ) Gardenia Ellis. とても幸せです 美しい日々

子曰わく、予れ言うこと無からんと欲す。
子貢曰わく、子如し言わずんば、則ち小子何をか述べん。
子曰わく、天何をか言うや。
四時(しじ)行なわれ、百物生ず。天、何をか言うや。

孔子がおっしゃいました、
「私はもう何も言わない事にする。」
すると子貢が、
「先生が何もおっしゃらなかったら、これから我々は何について論じれば良いと言うのですか。」と言い、
孔子は、
「しかし四季は巡り、生命は誕生する。天は何も語らないが、天から学ぶものはある。」と答えられました。


昨日は、いつもの家事以外にやっと雪囲いを外し、些か外の片づけ事などをしたからとっても忙しいことになりました。
時間的にお昼を過ぎちゃうカモと思っていましたが、お昼少し前には終わらせてヤレヤレってところです。σ(^_^;
面倒な気もしたのですが、思い出しましたッ。いつもの昨秋には、春になって囲いを外しやすく私は工夫しているんだって。
そのこともあるけれど、チューリップや水仙の他、いったい何の球根を植えたかを忘れてる。
忘れるくらい、長い長い冬でしたですね。
明日は雨の予報もあるので、遣る場合は一気にッと思ってたんですが、忙しかったけど、これから暖かくなってくれば、家を出たり入ったり、一日中外で作業をしてみたりが増えて行くので、身体もそれに慣れて行くだろうと思うのです。
先日は幾らか花の種を買いました。
得意のヘブンリーブルーとフライングソーサー等、いつも早めに植えて失敗することも多いので、今年はウンと地温が上がる頃、桜が終わった頃がイイだろうかと考えています。
また、お花の苗もよく買おうと思いますし、昨夏は美味しいトマトが豊作で、今年はもっと熱心にやってみたいって考えています。
花用野菜用の土、培養土だってたくさん居るナってとこです。(;^_^A
でも、小さくとも遣りたい好きなことがいっぱいあって、それを自分の手で行う、これは何と幸いなことでしょう。
例え趣味だってそう易々と上手くは行きませんが、何度もチャレンジしてみたり、思い直してみて工夫したり、或いはアッサリと諦めてみたり、その日常の積み重ねが人生に成って行くんだろうと想いますし、こうして生きて元気でいるうちに、何でもいいから学習して行くことを常とし、生きている甲斐を得たいと、それは或る意味で勇気なのだと思うのですよね。
勇気があれば希望も叶う。

先に「三国志Three Kingdoms」を録画しておき、「恕の人・孔子伝」を見る。
今日火曜日もその段取りで、夕方になるのがとても楽しみです。
目の前に、ちょっとした楽しみがあればいつの間に結構前進をしているもので、「論語」や「老子」にも親しみが持てる様になりましたが、それも事の初めは三国志(本)からでした。(^^_)ルン♪


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