Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

浸潤の譖 膚受の愬 行なわれざる

2012-05-31 03:29:41 | Weblog


アジュガ(西洋十二単) Ajuga   日陰の愛 強い結びつき

子張、明を問う。
子曰わく、浸潤(しんじゅん)の譖(そしり)、膚受(ふじゅ)の愬(うったえ)、行なわれざる、明なりと謂うべきのみ。
浸潤の譖、膚受の愬、行なわれざる、遠しと謂うべきのみ。

子張が聡明さという事について尋ねました。
孔子は、「繰り返されて心に染み込んで行く様な誹謗中傷や真実味があり、肌身に感じられる様な事実無根の訴えを敢然として無視できるならば聡明と云えるだろう。
またその様な人物は多くのものを見通す事が出来るだろう。」と答えられました。


昨日の早朝は幾らか寒い様、雨上がりで雰囲気よくモヤっている。
でも、お昼近くの10時頃にはカッと暑さがありました。
私はちょうど花の苗の出来具合を見たり、それこそ、しゃがんだついでの草取りなどをしていました。
朝顔系昼顔系夕顔(夜顔)がマズマズ、マリーゴールドみたいな簡単な種植えの結果がまだまだ、だけどコスモスで何とか、ダメ元ってのもあるけれどもフォローするも想定内なので、6月に入って気温も上がり出してくれば何とかなるのだろうと考えています。
私はつい素手でやってしまうので、爪ブラシが重宝しています。
そろそろ新しいものに替えてもいいかなッと思います。

それで、家の中から木漏れ日の庭を眺めてるのって好きです。
大きな桜の木があるせいで、日当たり云々のことを言うとちょっと・・・かもしれませんが、↑の画像にも出ている通りに、白っぽくなっているところが日差しなのですね。キラキラと輝いて見える光景なんぞ眺めていれば、風情を感じるって云うか、趣があって、何とも言えずに私はキレイって想う、大袈裟、この瞬間を見る為に生きていて良かったくらいの、心地好さを感じます。
剪定するにしたって、無碍にブツブツと切ってしまうのは私は好まない。
桜の木も大きいけれど、真弓の木も大きくなって、それで伸ばし過ぎな牡丹でしょ、理想のプチな森の様になって来ました。
ただ昨秋は額アジサイをブッツリと切りました。普通のアジサイもそうだった様に、ひょっとして来夏は花の数が少ないかと思っていましたが、若い枝が伸びて来て一応のカタチが整って来ました。
連動して、アジサイの下にある色々がいつもの年よりかイイくなりましたし、全然目立たずなままだった、まだあるッ、アジサイ類も好くなって来ましてね、丹精してきた甲斐がありました。
何でもドレでもそうだけれど、先ず遣ってみて失敗をしてみて、それでも何とかってチャレンジしてみようと思うか、私はダメだ・・・と諦めるかが、コレって、個々の生き方にもつながるところがありそうですよ。
適当にやって一発上手く行ったことって、返って成功の秘訣が判りませんが、幾度かの失敗にこそ成功の鍵があります。
好きなことならば愉しんで諦めないことだろうと思います。
今大きくなった木々は、最初どれも菜箸くらいの苗から育てて来ました。我が家の大メインの蝦夷山桜などは11~12年経ってからやっと花を咲かせたのです。
一度花を咲かせたならば、どんなに遅い春だったとしたって、例年通りに絶対に花咲いてくれます。
何気、自然に対しての信頼感の様なものを持ってしまうくらいですが、私たちが西野に越して来てからの歴史をずっと眺めてくれていた、或いは共にして来たのだって想えば、まるで家族の様なものです。
それに、オカシナ話の様でそうではない、話しかけろとまで言わないが、植物でも動物でも毎日毎日「看て」あげることですよ。
たとえ相手は人間ではなくとも、人の優しい心は通じるものでしょう。
それを幸いとして、私は好き人間関係を築こうとしないとこが最大の欠点かと思うのですが、自分だって人を疲れさせるし、自分も人疲れしたくない気持ちが何よりも勝るところがあるから、もう私の一番居心地のイイ選択をしたっていいのだろうと考えたらば、今日だって明日だって、もしかして明後日だって楽しくなりました。
自分がそうされた愚か者だったとしても、ズルく逃げまわったり、途中で投げ出したり、人を騙したり、傷めつける様なウソを平気で言ったり、都合よく使ったりって、私は一度もして来なかった。
それが今の私のプライドと成り、ささやかな誇りでもあります。
頑張り方って色々あるんでしょうが、それこそは五十半ばでやっと自身を認められたのは、私は本当によく頑張って、楽しめてなきゃ嘘だろう、自分の人生と言える様な自信を持てたことは、きっとお金では買えないものだったに違いないって想います。

昨日の「三国志Three Kingdoms」では、司馬懿仲達の登場の仕方が意外でした。
司馬懿は大よそ曹操の息子の曹丕と同年代で、所謂、曹丕の養育係として出仕し、頭角を現して来るのは曹操が亡くなった後からだってのがお決まりと思っていましたから。
司馬懿は曹操健在のうちは、決して表だっては出て来なかった人と云う強かさがあったところが私は好きだったけど、ドラマの脚本上仕方ないんだろうって思いますが、まず、内容が曹操側なのがヤッパ愉快です。
今日は、司馬懿が曹沖の養育係として要請されるんですが、曹沖は確かウンと以前に亡くなっているはずなんだけどナァ~・・・って、また、本との違いを楽しむ日になりそうです。
宮城谷三国志も毎晩必ず読んでいますが、昼間はよく働いているんで、読めても1ページくらいです、眠たくって・・・。
(θ_θ゛)゜・゜


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人にして信なくんば 其の可なることを知らざるなり

2012-05-30 03:07:06 | Weblog


トマト  Lycopersicon esculentum    完成美

トマト苗に花が咲きました。

子曰わく、人にして信なくんば、其の可なることを知らざるなり。
大車輗(げい)なく小車(げつ)なくんば、其れ何を以てかこれを行(や)らんや。

孔子がおっしゃいました、
「人としての信義がなければ、うまくやって行くことなど出来ない。
大きな牛車に軛(くびき:牛馬を繋ぐ為の横木)が無く、小さな馬車に軛止めが無ければ、
どうして走らせる事が出来るだろうか?」

昨日は降水確率も高くって、幾らか寒い日だったです。
家の中のことも済んじゃって、いつもなら外に出たりするんですが、寒いのか寒気なのかで億劫になって、
丁度BS-TBSで「ラストドライブ」と云う面白そうなドラマをやっていたので、それを見ていました。
それで、お昼過ぎにお花等の画像を撮りに出て、しゃがんだついで草取りなんかをし、草取りって面倒かも知れないけども、始めたら夢中になるって云うか、集中しちゃって「無」になりもするし、或る時には達成感の様なものも得ることってあります。
今年もチューリップの球根は掘り出して乾かしておこうって考えていますが、次に植えたいものが、まだ苗にもなっていないので、球根が栄養を摂れる様、茎や葉が枯れるまでおいて置いてもいいかも知れない。
それと、ボチボチと牡丹が咲き出しそうです。
牡丹は6月の我が家の庭のメインになりますが、自分のHPのMy Gardenを更新するのも面倒くさくなったりしてヤメ様かと思ったりするところ、こうしてヒロイン的な花が咲き出せば、自己満足をしたくって中々止められはしなくなり、自分が愉快になれる事が大事、まっ、義務感なんか持たずに気楽に気の向くままで更新して行こうって思う。
そして、牡丹って他の何よりか丹精のし甲斐があるって、私的な、それこそ自己満足があって、
今日は幾つ咲いたとかって毎朝眺めるのが楽しみなのです。
牡丹ウィークで一番心配なのは大雨ですが、週間予報を見れば一応の晴れ続きでホッとする。
八重の牡丹などは特に哀れなことになってしまうのですから。

チョ~セコかった芍薬は牡丹の木の下にある。
ホント、小さな小さな苗を買ったのでしたが、今年はずい分好くなって、イメージしていた「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」が完璧に揃うことになります。
それぞれの良い時を見逃してはならないって、励みだし楽しみなんですよ。

また、だからどうだって事もないけれども、「Are you going to Scarborough Fair?」のイメージも気持ちよくって、
「パセリ セージ ローズマリー タイム」は必ず揃えておく癖の様なものがあります。
お料理に使うってことはありませんが、私は特に「thyme」が好きで、我が家じゃ自生させております。
「タイムの香りのする男」と云う賞賛の言葉ってあるのですけど、その匂い芳しく、たくましく勇敢な気分が感じられます。
そのタイムは今はアジュガとの勢力争いで奮闘中ってところです。

この時季の愉しみを話しだせばキリがないのですが、そろそろ「チマサンチュ」が食べられそうです。
レタス同様にサラダで食べようって思っているんですよね。


昨年は「トマト(アイコ)」がとても上手く行きましたし、今年は更なる向上めざし今現在(一番上の画像)の姿であります。

ともあれ、想いのまま使える時間があるのだってことがありがたい事であって、何なのだろうか?、今だにヘンな虚しさをおぼえることもありますが、今日や明日には要らぬ感情なのだと打ち消すことが出来る様になったのって、「本当の私」の勝利だナと思います。
何に負けたとしたって、自分が自分に負けてしまうのが何よりも悔しいことではありませんか。
嫌で堪らぬことはすべきじゃありません。
どうしたって人は好きなことや興味のあることにしか頑張れないし、楽しいはずもありませんし、続けられもしません。

自分の領域、或いは世界観は大事ですよ。
そこには何処の誰も入れてはならないのだと私は考えております。
それを持っていれば、人の領域にズカズカと無遠慮な土足で入り込む様な、下品な真似などしてはならないって事が判るはず。
人を喜ばそうと考えるよりか、人を怒らせたり嫌がらせることは、これは「恥」以外の何ものでもありません。

それと、自分が困った際には自然と人が手を差し伸べて貰えないとか、国民の税金で保護を受けて遊んで暮らそうとかの根性の芽が出たとしたならば、私はその程度・・・と降参し、私は潔く死のうって思います。
先日、確かBS朝日のニュース番組に片山さつき議員が電話出演していましたが、彼女曰く「このままでは日本はギリシア化してしまう」と云う危機感は、全くその通りだと思うんですよ。
返って、本当にお困りな方もズルな人も一応な擁護をしたスタジオに来ていた人物が「そう云う人たち」が居るお蔭で自分喰っているんだろうって腹が立ちました。
彼女とその人物は面識があるらしく、そいつ曰く「貴女のその言い方が本当にお困りな方たちを傷つけている!」と顔色を変えて言ったけれど、オイオイッ、本当に困窮した人々を悩ませているのって、お前らみたいな奴らだろー!と私は思った。
昔っから、身の周りにはズルして楽をしている者って居ますよね・・・。
遊ぶなッ!とは言わないけれども、昼間はずっとパチンコ屋さんに入り浸りと云う話は或る意味で伝統的になっているし、食べることにしたって、保護を受けてる負い目みたいな事を考えて、人の目を意識して当然、慎ましくできないものかって思う。
ついで、お口も心して慎むべきで、ズル自慢してる者って、居ますよね。
片山議員が言うには、「保護が受けられる様、嘘の診断書を書く医師を見た」と云うのも納得できるし、それだって真摯に努める多くのお医者さんたちの迷惑千万なことではないでしょうか。
働くに追いつく貧乏なし、小さくても社会参加をしている国民が報われる様に、賢明なる日本国民の為、生活保護法の改正を願うものです。
また、労働と納税は国民の義務でありますから、動ける者らは公共施設でのお掃除とかを義務付けるべきでしょう。
私は、一度寝て喰えた者って、二度と起き上がらないだろうと考えておりますが、人のことはともかく、自分は「天網恢恢疎にして漏らさず」を貫く人生であろうと思います。
また、私は、その方が自身は生きやすいと想う。


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ヒェ~~~ッ!牡丹が咲きそう!o(^▽^)/゜

2012-05-29 13:12:21 | Weblog

普段は差ほど手間要らずな私の牡丹だが、蕾をつける頃より、開花の時を思ったら支えが要るほど、
大きくしてしまっている。
でもなぁ~、丹精の甲斐あって、見事に咲いてくれそうです。(〃゜ー゜〃)
八重の濃い赤紫で、下の方には同じく八重の山吹色のと、一重の薄紫のがあります。

でも、牡丹は不思議よ。
どんな年も6月の声が聞こえる頃には絶対に咲く。

やたらセコかった芍薬も、今年はとても好くなりそうです。(^^_)ルン♪


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知者は人を失わず 亦言を失わず

2012-05-29 03:21:03 | Weblog


風露草(ゲラニューム・ピンク)    変わらぬ信頼 陽気

子曰わく、与(とも)に言うべくしてこれと言わざれば、人を失う。
与に言うべからずしてこれと言えば、言を失う。
知者は人を失わず、亦言を失わず。

孔子がおっしゃいました、
「語るに値する人物と語り合わなければ、その人との関係を失う。
語るに値しない人物と語り合うと言葉を無駄にする。
知恵ある者は重要な人を失わないし、無駄口もきかない。」

ここ何日かは朝晩には少し暖房がほしいってとこで、もう少し暖かくってもいいのかなって思っていますが、暑ければ暑いで嫌だし、よく身体を動かせば熱くなるくらいで丁度良いものなんだろうかとも思う。

チューリップもムスカリも終わってしまった花壇には、今度は宿根草の花忍が咲き誇る。
今時期の草花がまだあってもいいのかな~って、ピンクのゲラニュームを植えました。
アジュガ(西洋十二単)がずい分と増えて来たのもあるけれど、私の花壇はすし詰め状態と化し、
これは私の理想です、一目で見渡せますからねッ。
そして、寒さでヤラれたか、傷んだベゴニアをプランターから出して地植えし、代わりにビンカ(日日草)を植えました。
何せ色々種を撒いたものがあるので、それらがどの位発芽して苗になってくれるか判らないところがあるんで、やたら苗も買えないぞッって、結構考えてもいるのです。
今年は雪が多かったから、咲く時期が遅れがちな様だから、あまりザワザワと気忙しくしないでいるべきだろうかとかって、
そんな風にしているのが、楽しいって云う感じ。

昨日のヒットは、猫たちの爪とぎメッカな個所を、突然思いついたアイデアで補修したってこと。
どうしたものかと考えているうちは浮かばず、どうでもいいじゃんと居直って忘れていたらアッ!と思いつくってことが案外ありますが、何で今まで気づかずにいたのだろうかと、どんなセコイことだって嬉しい気がします。
特に最近はこう云う事が多いんですね。
ヒラメキが欲しいなら、一途から一旦離れてみる余裕みたいなものを持ってみるのはイイことで、
そんな意味じゃ、自然の中に出てみるとか、花々や動物たちに囲まれているお蔭と思うのです。
理屈も大義名分も杓子定規も深刻も、そうは役には立たないものだって、所謂「外せる」勇気を持てば、きっと愉快が残るのだろうと私は想っています。
自分にとって何が不要かと考えるよりか、自分に必要な好きな事だけを取るんだって思考の仕方が好きです。
そう云うことじゃ、私は「燃やせるゴミ」を出すのも好きだけど、月一度の「燃やせないゴミ」を出すのも気分がスッキリして好きですよ。
良い物悪い物の判断は、見て好い連想が出来るかどうかって云うのがポイント。d(-_^)
で、どんな物類かって云うのは、たとえば私と主人の二人暮らしなのに、多くの台所用品や食器は要らないし、20~30年も使った物などは汚らしいから捨てるべきだろうし、当然壊れた物などは置いておくべきじゃない。
ボチボチと大型ゴミ収集にも来てもらわなきゃならない物もあるし、自分、リフォームの際に経験した、不要物の始末とかゴミ類には結構な費用もかかり、労苦も多いってことを忘れちゃ行けないんだって思ってるし、何でも買う場合には捨てることも考えて買うから、私的には無駄を減らす暮らしが理想となり、返って、物を大切に大事にすることに繋がった風に思います。
人に見られたくない個所とか、見られるはずもない裏側さえ、整えておくとかきれいにしておけば、いつの間に全体が片付きます。
我が家は内装はしていないからヤケに古臭いですが、古いけれど掃除は行き届き、いつだってきれいです。
常時猫は10匹以上おりますが、そもそもは、私は猫がたくさん居るからって汚いとか臭いとか、だらしがない!などとは絶対に他人には言わせぬ様、猫可愛さで頑張って来ました。
猫がたくさん居たってガーデニングも出来ているし、部屋にも観葉植物がいっぱい置いてあるんだし、金魚も飼っています。
大変だとか忙しくてイヤになるだなんて、かつて一度もありませんが、判ったことは、自分の暮らし方とか暮らし向きをありのままを他で話しては行けないんだってことで、それはどうしてかって言えば、好意的は少なし、色んな取り方をする人が居ますもんね・・・ってことです。
「知者は人を失わず、亦言を失わず」。
私は決して知者じゃないし、重要な人物と思える人も片手に余るけど、無駄口には落とし穴が多いって事くらいはよく解っているつもりです。
今夕は「恕の人・孔子伝」があるのが楽しみ。
昨夕は野球中継で中止だったのが面白くなかったところだけど、順調に放送されたら早く終わってしまうから、まっ、イイと思いました。
「三国志Three Kingdoms」は、例の「苦肉の策」。
周瑜や孔明にクソ~~~ッ!(`~´)ξって思いつつ見ているのは変わらないけど、周瑜は曹軍側の毒矢に当たったのが致命傷で死に至るはずが、ドラマじゃ病気で死にそうな感じだ。
返す返すも「赤壁の戦い」は、私は曹操の大ダメージには全然なってないんだと考えている。
極論、物見胡散に行ったとも想っているし、曹操は勝敗は兵家の常であり、最後の戦いに勝てば良いとしている。
三国志がビジネスマンの必読書などと言われたりもするが、誰が模範となるかは「曹操」しっかいないだろうと思う。
孔明好きも多いだろうって思いますが、私が思うに空論が多過ぎだし、何せナルシスト、人心を掴めてないのが汚点だって考えています。
でも、「三国志Three Kingdoms」も「孔子伝」も本当によく出来たドラマだと感心し、その点じゃさすが中国って思い、この頃じゃ韓国ドラマって一つも見てはいないです。


5月29日読売新聞朝刊から

昔、我が家に居たテイオー(ダービー馬・トウカイテイオーからもらった名前。愛称はチン君、チンこい時に我が家に来たから。名も愛称も私がつけた。)みたいなニャンだなぁ~と記事を読む。
お母さんが、「キー坊」と言って涙を流されたお気持ちがよーく判り、私も涙が出ます。(T_T)

だから、猫はヤメられない。(=`ェ´=)


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信、義に近づけば言復むべし 恭、礼に近づけば恥辱に遠ざかる

2012-05-28 03:19:46 | Weblog


花忍

有子曰わく、信、義に近づけば、言(げん)復(ふ)むべし。
恭、礼に近づけば、恥辱に遠ざかる。
因(よ)ること、其の親(しん)を失なわざれば、亦(また)宗(そう)とすべし。

有子はおっしゃった、
「人との約束は、その約束が道理に近ければ、その言どおりに実行してよい。
恭しさが、礼に近ければ、恥ずかしめから遠ざかれる。
親族の人々と親しむ様にすれば、その人は模範としてよい人である。」

逆説的に言うと、たとえば約束ごとであっても、その約束は道義に反すると思えば反故にしてよいと云うことになるし、
恭しさも礼を欠く様であったなら、返って人に軽蔑されることにもなる。
一族と親和していない人は信用されない。

有子は有若のことを言い、容貌や言行が孔子に似ていたので、孔子の没後に師と仰がれたのです。


昨日の朝は、私はいつも通りの時間に起き、ここの日記を書いてから、猫たちの食事をみてやり、掃除を遣り終えたのが6時少し前。
外に出て草花等のチェックですが、お天気はまるで雨上がりの様な風で、結構寒めな感じがしました。
牡丹の木は3本あるのですが、大きく伸ばし過ぎた牡丹に蕾が多く着きました。
花が咲けば重たかろうって、数本の竹棒の支えをしてあったのですが、下の方から新しい枝が出ており、また大きな蕾もあるので、支柱をもう1本追加し、木のカタチを整えました。
直に、脚立を持ち出して、もっと上の方を縛ってやらないとならないでしょうが、小さい方の牡丹も大きく育って、毎年想う、今年の牡丹は好い牡丹が更にッ!ってことに成りそうで楽しみなことです。
牡丹にも事ある度に肥料などを入れてやったりしていたけれど、他の花木も草花も好いのは、先の冬は雪が多かったせいだろうかと想うのです。
冬に多く雪が積もるって、春への恵みも多いものですと、どなたかが言っておられたのを、寒い冬の最中に温かな想いと感じて私は受け入れた。
返す返すも、長かった冬からの解放は、私的56回目の春ですが実に新鮮な想いで迎えて、マンネリ化した我が庭にも愛着が一際ってとこです。
私はもう何処にも行かないし、一日だってあなたを見ずに終わらせることはない。

6月になれば毎週水曜日も休みになるので、まだ5月のうちは定番の行き所の小樽の温泉施設に行き、ホームセンターで猫たちのモノを買い、お花の苗も幾らか見て買い、台所の電子レンジを置くのに何か丁度良いモノがあればいいって見たりしていました。
それと、夏場涼しく寝られる為の寝具とかも見ました。
私は北海道の夏の暑さでさえ苦手なのですから・・・。(;´д`)ゞあちぃ

朝も食事をしてないんで、私は小樽バインに行きました。
チーズ4種が使われたパリパリ風のピザ、主人は行者にんにくのリゾットを注文。
私はいつも主人にピザを一片分けてあげるのです。
「分け合う美しさは思いやりの境地なり」とかってブツブツと言いながら。(`⌒´)!!

でも、私は自分のこともそうだけれど、家や家族(主人と猫たち)をホント大事にしよう、せっかくある「思いやる心」をここで発揮すべきだって、まだまだ狭い度量ながら、例のあの3・11を目撃してしまった大ショックからやっと抜け出せた気がしています。
意外と私って繊細で、弱いのとは違う。
幾度も心が折れてしまったけど、それでも根を張り新しい枝を出せる樹齢56年。
また、要る要らないの色々も更に明確になって来た気もしていますし、どこかで限りある命ならば、とてもじゃなく今日一日を粗末になど出来ません。
生きて元気でいるうちに見られるとか感じられる楽園は、我が家もそうだけれど、そうした感受性を養って行き、いっぱい見たい気がしています。

帰りはまたまたいつものルートで、ウィングベイで夕飯の買い物をし、主人が新しい靴を買いました。
冬用もそうだったし、Timberlandと云うメーカーの靴が最近の気に入りで、良いものが買えて好かったって思います。

「花火の日」。
1733(享保18)年のこの日、両国川開きで初めて花火が打ち上げられました。
この川開きは徳川八代将軍吉宗が行ったのが最初で、前年の大飢饉とコロリ病(コレラ)による死者の霊を慰め、悪霊を退散を祈願する水神祭として年中行事になりました。
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昨年のそれこそ3・11で、各所の花火大会が自重或いは縮小されたりしましたが、この話を私は知っていたからこんな時こそッって思ったのでした。
大震災から1年経ちましたが、復興への勢いをつける為に、今年はどこでも賑々しく花火大会が催されるといいなぁって思っております。


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明日ありと想うこころの仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

2012-05-27 17:16:34 | Weblog

「明日ありと、想うこころの、仇桜、夜半に嵐の、吹かぬものかは」

「明日桜を見ようとしても、夜に嵐が来て、桜は散ってしまうかも知れない、桜の運命と同様、明日の事は私達人間には分らないのですから、今、得度させて下さい」と九歳の親鸞聖人が得度を受ける前夜に詠まれた歌と伝わっています。

私は、おそらく明日があるだろう前提で、久しぶりにこんな雑誌と本を買ってみました。

毎週の様に小樽に行っていると云うか、しょっちゅう行っているもので行きつくした感もあったのですが、
また参考にして、小樽行きを愉しんでみたいって思いました。

この先生の本は、よく新聞広告に出ていて、特に「一日一食のすすめ」ってところが気に入って、買おうッかな~、どうしようかな~と迷っている間に文庫化されたので、なら、買いました。
人間の身体と云うものは飢餓に耐えられる様に出来ており、過食には耐えられるはずがないって聞いたことがあるし、
私自身は大昔から一日三食って云う習慣を持たずに来ており、ここ数年だけのことを言うなら、日中にご飯ものを食べると具合が悪くなってしまうと云う事情があります。
私は或る時期ほとんど食事ができなくなってしまって、14㎏も体重を減らしてしまいました。
痩せられたのは嬉しいことだったけど、それこそ食べられないんですから気力ってやつが全くなくなりました。

今は、日中は空きっ腹気味の方が何をするにも集中するし効率も上がるから、これって言える様な食事はしていませんが、夕食のみならきちんと食事が出来ます。それで充分に健康体です。

読むものは、三国志と兵法と論語と老子ってのを、時には気分の転換って意味でもいい事でしょう。
~~□Ю_(^-^*)


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強梁なる者はその死を得ず

2012-05-27 02:39:25 | Weblog

道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。
万物は陰を負いて陽を抱き、沖気以って和を為す。
人の悪む所は、唯だ孤・寡(か)・不轂(ふこく)なるも、而(しか)も王公は以って称と為す。
故に物は或いはこれを損じて益し、或いはこれを益して損ず。人の教うる所、我も亦たこれを教えん。
強梁(きょうりょう)なる者はその死を得ず。吾れ将に以って教えの父と為さんとす。
                                                                                                                                老子

「道」が一を生み出し、一が二つのものを生み出し、二つのものが三つのものを生み出し、三つのものが万物を生み出す。
万物は陰の気を背負い、陽の気を胸に抱いて、これらを媒介する沖気によって調和している。
人々は「孤(みなしご)」「寡(ひとりもの)」「不穀(ろくでなし)」などと呼ばれる事を嫌うが、諸国の王達はこれらを自称としてその高い身分を保っている。
つまり物事と言うのは損して得をし、得をして損をすると云う事もあるのだ。人から聞いた良い事は私も人に教えよう。
「いたずらに強さを誇る者は、ロクな死に方をしない。」 私もまさにこれを肝に命じて教えの根本にしようと思う。


きっと雨模様になるのだろうと思っていた(幾らか風がありましたが晴れました)昨日は、家の中のことに専念しました。
ここになくても、こおでなくたってイイんだよね~の発想で模様替えをしていたんですよね、しかし私って模様替えが好きです、掃除もよくよく出来るので、片付く、気分が変わる、きれい(?)になるの、一石数鳥くらいにはなるカモ知れません。
コツは、減らしこそすれ、決して増やしてはならないってこと。
ストーブの分解掃除の案内が来ているが、出している間に片づけたいことがあるんで、いつ時にしようかと迷ったりしている。
まだ、朝晩なら若干暖房が欲しいってことがありますからね。
家や家庭を維持して行くことはとても大変なことではあるけれど、我が家は我が家なりの身の丈に合った家風(?)を築き上げて行くのって、今ならば一番愉快なことの様にも想うし、有る分だけで無いものねだりしないで頑張って来た挙句だナと、私のささやかな理想が叶って来たのだって感じています。
昔は好きでインテリアとか雑貨の本や住宅情報などを参考にしていたことってあるんですが、ン~~~・・・、何にも成んないってこともないけど、私には相応しくなかった様に思います。
返って、たとえば「捨てる技術」的な本とか、気障ですよッ、「徒然草」「親鸞聖人の教え」「論語」「老子」等々、自分の精神的整理をすることが先決で、自分っていったい何者なのか?、また何を望んでいるのか?と自身を見つめ直すことが、何をするにもしないにも大事なことであったのだと考えています。
星の王子さまの言う「大切なことは目には見えない」って、考えてみれば私の本心とか想うことや考えだって口には出せないことばかり。
目に見えないことを見ようとし、口には出せないことを飲み込んで、何と言っていいのやら、負われることもないし責められることもなくなったと想う、返って楽になった気がしているのです。
私レベルの者が何を成せるはずもないのだが、何を成して世間で評判にならずとしたって、私はやっと自分の道を歩けているのだなぁって、それが毎日嬉しい気分なのです。

老子の言葉にはよく「道」と出て来ますが、私は研究者でもなく有識でもないから独自の解釈で、道は個人かと想ったりしています。だから、私は他の人が作った道などは歩くことは出来ないのだし、道なき道を歩こうとして、後ろに道が出来ていたで好いんだと思う。
また、変わり者と言われる方が、普通の人とか良い人って言われるよりも、ちょっと誇りかな~って思っており、お調子づけば最初の最期でエライめに合うのだって恐れを抱こう。

でも、例えどんな亡くなり方をしようと、その寸前は誰もが納得してお浄土に旅立つものだって想いもあって、お釈迦さまのお弟子と成れる、所謂お仕え出来る喜びがあるとすれば、死に方に好いも悪いもないのかな?って思い、生きていられるこの時間を少しでも大事にしなきゃならない。
だって、自分の死んだあとのことを心配したところでどうなるんだろうか。
人は誰もが平等で、いつか必ず死ぬ為に頑張っているから、それをどうとらえているかが、生きているうちの悩みや苦しみ、色んな煩悩の根源だろうって考えております。
無駄な抵抗なく、甘んじて受けた方が、「道」となるかも知れぬ。

仏教では六道と云うのがあって、よく地獄が恐ろしい様に言われるけど、その上の「餓鬼」「畜生」の方が或る意味では恐ろしいものらしいです。生前はどんなに善い人でも、大ていの皆さんは餓鬼か畜生の世界に行かれる様です。
知った面白いオバサンに寄ると、お坊さんだって多いんだそうですよ。

で、知ったお坊さんが教えてくれた話では、或る僧侶が、高僧にあんなに優しかった自分の母がどんな世界に逝ったものかと尋ねたら、餓鬼の世界で喘いでいるとの答えがあったのだそうで、嘆いた僧侶は自分が熱心にお弔いを重ねれば上の世界に上げられるものかと問うと、幾らかは・・・と答えられたそうで、所謂、無理!ってことだと云う話もあります。
僧侶の母は生前、我が子にだけは情け深く優しい人でしたが、他人には意地が悪くてイジメをやっていた人だったそうで、
返す返すも、生きているって罪を重ねるものなんだと思うのです。

きっと残った者らが悲しまない様にお浄土への旅立ちと言いますが、私的には大ッ嫌いな奴と餓鬼の世界で会ったならどうすっかナ~?と想像するのは、生きている間の暇つぶし。(ι^ー^)

「百人一首の日」。
小倉百人一首は、天智天皇から順徳天皇の時代まで100人の歌人の歌を一首ずつ取り上げた歌集ですが、1235年(文歴2)年の今日、藤原定家が「小倉百人一首」を撰したとされています。

 


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礼とは人間の仕上げの様なものですか!?

2012-05-26 03:18:42 | Weblog


額アジサイ   咲いたのではなく、咲いているものを買ったのです。ピンクの紫陽花も欲しかったですから。  

子夏問うて曰わく、巧笑倩(こうしょうせん)たり、美目盼(はん)たり、素以て絢(あや)を為すとは、何の謂いぞや。
子曰わく、絵の事は素を後にす。
曰わく、礼は後か。
子曰わく、予(わ)れを起こす者は商なり。始めて与(とも)に詩を言うべきのみ。

子夏が孔子に、「詩経にあるニッコリ笑うと口元にエクボ、、目元バッチリ、紅白粉で美しさを仕上げたとありますが、
これはどういう意味でしょうか?」と問い、
孔子はこう答えられました、
「絵で言えば最後に胡粉で仕上げをする様なものだ。」
子夏がさらに、
「礼とは人間の仕上げの様なものですか?」と問うと、孔子は、
「私を啓発してくれるのは商(子夏)だよ。これからはお前と詩経について語り合う事が出来そうだ。」と答えられました。

子夏は孔子に「物足りない」と評された人物で、子張が「遣り過ぎ」と評された人物。
結局孔子は、「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし、つまり二人ともまだまだだな。」と言われましたが、子夏は大変文学に優れていたのだそうです。



トマト苗が大きくなり小さな花をつけ始めました(=^▽^=)ってことで、昨日は午前の10頃に外に出て苗や種を撒いたものの観察をし、水をあげたいものもあったので、暫しの間作業をしておりましたが、暑くって頭が痛くなって来ましてね(;´д`)、家に入ることにしました。
そうでもなければ、習慣の家の外回りをウロウロと、草取りなんかをしていようって思っていたのですが・・・。

途中、明日は子どもさんの運動会があるからって早めの集金をしに来た女性があって、どうやら変わりやすいお天気の様だから、もしかして一度で運動会は済まないかも知れないですって言う。
全く子どもたちの色々には疎い私だけれど、いつも思うのは子も孫もなくって清々だってこと。

それと、宗教関係の布教ってことでしょう、知らないオバサンがやって来てにこやかに「こんにちは。お暑いですね。お花を育てていらっしゃるの?」って来た。
うっかりと相手をしてしまったら話しが長くなるので、「今の時代、何故こんなことが起きてしまうのか考えてみませんか?」って、言うか言わないかの前に私は「すいませんが、私はそう云ったお話は結構です」とやんわりとキッパリと話しの腰を折る。
だったなっら、それ以上はシツコクは出来ませんよね。
私は私の宗教観や思想をわざわざ真っ赤な他人などに語る必要などなく、色んなことで断りを入れなきゃならないことってあるけれど、断るのならば100%断るのが後に禍を残さない一番の手でしょう。
自分が嫌な人に思われたくないあまりに半端な返事で、或いは条件付きなどにしたならば、それこそが禍根を残す。
私はどんな人物に思われたところで別にいいし、私の問題でもないから相手の感情を図ることもないんで、笑ってハッキリ言う方、聞こえはよくないが、多くの人を信用などはしてないんですよ。
でも、もしもその多くの人と些細でも約束をしたなら守ります。いついつ集金に来てもよいですか?って言われたら、いいですよって言う程度ですが。

それこそ頭痛がして来たから家に入りましたが、午後から幾らか涼しくなって来た風で、曇って来て若干の雨も降りましたですね。
私はガーデニング的には雨になってもらった方が好く、それで日曜日には晴れてくれたなら好いことだ。

「三国志Three Kingdoms」は「赤壁大戦」の章であるから面白くもないッ!って怒ったりしているとこが実は愉快だってとこで、
三好徹さんの「興亡三国志」も読んでいたのが幸いで、私は孫策と周瑜、当然、諸葛亮孔明が大嫌いだと思う。
そして、三国志には出て来てよい女として、「貂蝉」と「孫夫人」多少「呉国太」で充分だって思って、大喬小喬なんかに物を言わすなやッ!って怒る。
(`δ´)
最初はドラマの脚本上ショウガナイって思っていたし、またそう云う解釈の三国志もありかと考えていたけど、挙句、怒るまで行ったのって、これ、幸いなことだろうって思ったりもし。(;´ー';)

 


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人にして仁ならずんば 礼を如何せん

2012-05-25 02:54:58 | Weblog


ガステリア・エクセルサ

子曰わく、人にして仁ならずんば、礼を如何せん。人にして仁ならずんば、楽を如何せん。

孔子がおっしゃいました、
「仁愛を持たぬ者が礼儀正しくしたとしても無意味である。仁愛を持たぬ者が音楽を奏でたとしても無意味である。」

昨日もとても好いお天気でした。
お天気の好い日恒例、お布団干しと洗濯って欠かしたくありませんが、毎日やっている家事も、毎日やっているのに毎日しなきゃならないことだらけ、それを何とも思わずに毎日やる私はスゴイって思います。
思い通りにならないことだらけの中、思い通りになる事も多くあって愉しいのは、それは自分次第だからです。
依然として外と内を出たり入ったりって、今の時季は自分が育てている植物とか、先日種まきをしたものらがどうなっているかって見てやらなければならない、これだって愉しいことです。
ようやっと朝顔たちの芽が出て来ました。
今年は更に根気強く熱心にやってみたいと考えているので、種たちには期待に応えてほしいと望んでいます。
忙中、閑が絶対あるんで、「知者は水を楽しみ 仁者は山を楽しむ (^σ^)♪」「己の欲せざるところ 人に施すことなかれ (〃'∀')⌒♪」って孔子伝の歌を歌ったりして、窓から自分の育ててる花木草花を楽しみ、空模様を楽しみ、猫たちと楽しむ。
また、明日の論語のタイトルを何にしようかと色々読んでみたりする。
最初論語に興味を持ったきっかけって何だったのかは忘れたけれども、いつの間に自分を支えるものの一つに成った風に感じるし、自分らしさの正しい位置取りで落ち着いて来られた様にも想う。
出合うとか巡り合うと云うのも、自分がどこかしら求めていなければ決して合わないんだろうかと思ったら、人生って理不尽も多いけど、魅力的に不思議なものだって感じること仕切りであり、同じ様で同じではないせっかくの昨日今日明日を愉しまずせずにどうしようって思いますね。
スカッとした晴れやかに気分や体調のイイ日など一日もないが、今在るがままの私がどう過ごすかって天から試されているんだって、役に立ちこそすれ厄介な老人に成らない様、心がけて心がけて頑張らなきゃ。(ゝД//)〇"~☆
私の良いところは、キッパリとして割り切りがよいところで決断力があるところ、それは徹底される。
また同時に欠点でもあるかも知れないのだが、私が思うところの規律正しく、品行方正的に私はやっていた方が私自身が楽な気がしている。それはすべてにおいてではないけれど、どう云う意味か、ダラシナイのって何よりか疲れや腹立たしさをおぼえるのです。ダラシナイのが許せないのなら、自身はだらしなく無い様にやればいい話です。

我が家のある西野って山側のせいか春~秋の早朝はややモヤったりしてるのですが、私はここに越して来て25年以上、この雰囲気が大好きだし、特に先の冬は雪がとっても多かったけど、植物が好いのは雪が多かった恵みのお蔭だなぁと想うのです。

心しばるものを捨ててかけて行きたい 懐かしい腕の中 今すぐにも (o・∀・o)♪ って歌いたくなる朝はありがたい。
☆★☆★☆★☆★☆
∮ ∧__∧~♪∮
§((* ̄(I) ̄) §
∮ |∪ ∪  ∮
§ C_⊃_⊃  §
☆★☆★☆★☆★☆

東藻琴他、北海道では芝桜の名所は多くありますが、芝桜で思い出すのは私の祖父です。
祖父は大きな松の木の下やライラックの下に、芝桜やスズランをたくさん植えてあった人で、幼い私には「絶対に触るな!」と厳しい人でした。
セタナリアと云う言い方もありますが、芝桜って方が気分、出ますよねぇ~。
我が家は場所もないものでわずかしっかありませんが。<(^ー^ι)

 


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人に禦るに口給を以てすれば、屡々人に憎まる

2012-05-24 02:51:57 | Weblog


サルビア Salvia splendens  尊敬 燃える心 知恵 家庭の徳

或るひと曰わく、雍(よう)や、仁にして佞(ねい)ならず。
子曰わく、焉んぞ佞を用いん。
人に禦(あた)るに口給(こうきゅう)を以てすれば、屡々(しばしば)人に憎まる。
其の仁を知らず、焉んぞ佞を用いん。

ある人が言いました、
「雍(冉仲弓)は人格者だが口下手だ。」
孔子がこれを聞いておっしゃいました、
「口下手でもいいじゃないか、人を説得するのに弁舌をもってすれば人から嫌われる事になる。
雍が人格者かどうかは知らないが、能弁である必要は無い。」

冉仲弓は、顔淵、閔子騫、冉伯牛と共に徳の実践に優れていたとされる。


昨日は、主人が休市だったので、久しぶりな平日休みながら先の日曜日には遠出をしているからって、いつもの様に小樽の温泉施設に行き、必須の猫たちのモノを買い物し、ウィングベイで食事して帰宅しました。
雨予報だったのが曇りなお天気で時々日もさし、道中の小樽の山も海も緑だって、花々も咲いて、多少モヤの中、本当にキレイだって思いました。
新鮮な影響を受け、我が家に帰ってから、買った「ラベンダー」と「薄いピンクの紫陽花」を、明日何処に植えたものだろうかと思案するのも愉しみで、私なりに想う色んなキレイを大事にし励みにもして行こうって思います。
いったいどうすれば自分が気持ちよく、機嫌よくして居られるかって事がよくよく判って来た様だ。
若い時なんかより今の年齢であることを嬉しく思い、一昨年より昨年よりも私は元気ではなかろうかって錯覚(?)したりする。
それは、私なりにいっぱい努力したせいだろうと思ったら、努力って言葉も実行することも好きになって来るんだよね。
Fight!!(o^-^)尸~☆

だんだんと夜が明けて来るところを眺めているのも好いことで、私が早起きなものだから当然猫たちも朝が早いです。
これらが居ればこそだなぁ~とよく思うんですよ。


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仁者は仁に安んじ 知者は仁を利とす

2012-05-23 03:33:32 | Weblog


花いちご

子曰わく、不仁者は以て久しく約に処るべからず。
以て長く楽しきに処るべからず。
仁者は仁に安んじ、知者は仁を利とす。

孔子がおっしゃいました、
「不仁者は本心の徳を失っているから、安楽な生活を持続させる事も出来ない。
仁者で知恵ある人々は久しく約に処ることも出来るし、長く楽に処ることも出来る。」

昨日は、お布団干しもしたし、洗濯物もたくさんしました。
返す返すも私は外に洗濯ものを干すのじゃないんだけれど、二階の部屋でもその日のうちに乾いてくれるのが好いところです。
また、特にすることもなかったけど、外で家周りをチェックしているうち、ついつい草取りなんかしてしまうの、何か、家に居るのってイイなぁと思います。
少し暑いくらいでした。
休憩に家に入れば、終わったチューリップが目につき、で、また外に出たりと、所謂、出たり入ったりし、まずまずその日一日が終わってしまうってとこです。
昨日紹介した「花しのぶ」他、草花的なものが今年は良さそうなので、どうしてか?と考えてみれば、昨秋、もういつ雪が降って来てもおかしくない頃、暇にまかせてよく肥料を入れてやったせいかって思います。
ナニナニの肥料ってよくあるけれど、何にでも間に合う配合肥料で十分ですね、それと、土を柔らかくしておいてあげるってことも良いかって思います。

「三国志Three Kingdoms」は赤壁の戦い前、呉に孔明が舌先三寸で、対曹操に挑むべきだと進言に行ったところで、
現代的に考えれば実に小ズルイ感じがし、人のフンドシで我が勝利を得ようと、私的には面白くはありません。
ドラマ内では、孔明は仕える人物を見つけたものの、時機ではないなぁ・・・と水鏡先生が言うところが、今後の孔明の明暗を分けるところになります。
正直、赤壁大戦の章が終わってくれないかって、いつも次の日にまた見ていた録画を見なくなっちゃって、
その代りに「恕の人・孔子伝」の録画を見ています。

孔子にもいろいろ矛盾点は見られるけれど、そのヘンの、所謂孔子の人間臭さをよく表しているものと私は見ています。
昨日は、「子、南子を見る。子路よろこばず。」のシーンで、「子女と小人は養い難し」と言う孔子でも、南子の美しさに緊張し、いったいこのドキドキ感は何なのだろうと戸惑っているのが面白いところでした。
次回も孔子が南子に寵愛され、果たして、女性とはこう云うものなのか?とショックを受ける孔子が見られるのですが、来週の月曜日の放送はBS日テレだから、多分例の中継でお休み。(´ε`)
でも、前にも述べた様に、孔子伝のエンディングテーマやドラマの内容に、論語として伝わっている数々が見られるのが愉快で、返す返すも解りやすく書かれた論語を読んでいれば、この先の展開が判って来るってとこが私は楽しい。
孔子のスゴイところは私たちと同じに欠点だらけの人ながら、克服して更なる向上をしようとしたところで、楽しく毎日を暮らせるヒントがあるのが論語です。
解釈は、その人その人が元気に明るく居られるのであれば自由ではないかって私は想うのです。
幾つか好きな言葉でも見つけられたなら、それはシメたものですよね。
大事なことは、自分は世の中の何にも知らないままで存在している小人(愚か者)であると自覚することで、親鸞聖人が言われる「悪人正機」と同じで、「改める」と云うことが自身の人生を豊かにし、君子(賢こい者)と言えるのではないだろうか。
人のことを構う前に、己はどうであろうと想えば、ボサーッとしている様でそうではない、暇でショウガナイって事などはありませんし、理屈ではなく、自然な暮らしの中の一つ一つで身につけて行ければ好いなぁと思う日々です。

「三国志Three Kingdoms」でたまに言われる「腐れ儒者」って言い方があるんですが、パッと思い浮かぶのは孔子の子孫の「
孔融」と「諸葛亮孔明」だった。
学問に幾ら精通し優秀であったとしても、人の心を持ち合わせてないものならば、何ら意味も意義もないものだと私は思う。

曹操が孔子の子孫を殺したこと、またその子供らも挙句殺した事情と云うのは、父子共に論語の真髄とも言える「孝」の精神の些かもなかったからです。
子どもだけはどうか助けて欲しい。
父を許して下さいと泣きわめくものだったなら、曹操は情けをかけたはずなのです。
先祖が有能であったからって、それが末代までって事などあり得ませんが、それこそ三国志が書かれた時代の朱子学流行により、所謂「世襲」が主体だったからでしょう。
劉備の漢室の末裔ってのは如何にも怪しいことが書かれてあるのも、朱子学のせいらしい。
だからって朱子学がオカシナものだってことではありません。解釈の仕方だって思うのでした。
劉備が漢室の末裔でなきゃ、「三国志」って面白い物語にはならんだろうし・・・って思いもするし。


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名は好いけれど、落ちぶれる・・・∑(/-Δ―;)/

2012-05-22 15:00:05 | Weblog


花忍 Polemonium  落ちぶれる 君を待つ 来て下さい或いは降りてきなさい(英) 戦争(仏)

ハナシノブ科ハナシノブ科
英名は、「グリークバリリアン」「ジェイコブズラダー(天国に届く「ヤコブのはしご」の意味)」「チャリティー」と言い、
和名の「花しのぶ」は、葉の形がシダ類のシノブに似ているところから名付けられたそうです。

小さな苗だったものを買い、3年目にして、らしくなりました。
これから蕾がドンドン開花して行きそうです。o(^ヮ^)o


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「愛はきらめきの中に」

2012-05-22 06:28:16 | Weblog


ダブルインパチェンス

早朝に、イギリスBBCのニュースで、BEE GEESのメンバーロビン・ギブ氏が癌の為に亡くなったことを知りました。

ビージーズの歌では好きな曲はいっぱいあるけれど、今あげるとすれば、小学生の頃に聴いた「マサチューセッツ」、高校生の時だった「メロディ・フェア」、若い頃は「ステイン・アライヴ」。

今もたま~に聴く「愛はきらめきの中に」は大好きな曲です。

才能のある人とは、生き急ぐものですね・・・。(* ̄- ̄)人 i~


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足るを知れば辱しめられず 止まるを知れば殆うからず

2012-05-22 03:27:21 | Weblog

名と身と孰(いず)れか親しき、身と貨と孰れか多(まさ)れる。
得ると亡(うしな)うと孰れか病ある。
この故に甚だ愛めば必ず大いに費え、多く蔵すれば必ず厚く亡う。
足るを知れば辱しめられず、止まるを知れば殆うからず。
以って長久なるべし。
                                                                                                       老子

名誉と自分の体はどちらが大事だろうか。自分の体と財産はどちらが大切だろうか。
ものを得るのと失うのではどちらがより害があるだろうか。
名誉にこだわれば必ず浪費をせねばならず、財産を蓄えれば必ずそれだけ多くの損失を出す。
名誉や財産に囚われずに満足する事を知れば屈辱などとは無縁になり、
ほどほどを心得ていれば自らを危険に曝す事も無い。
この様にして安らかに暮らす方が良い。


昨日の朝の7時過ぎくらい、外の雰囲気が少し変な様に思いました、明る暗い・・・って云う言い方もヘンかと思いますが、金環日食の影響(?)ってヤツだったのでしょうか。
けど、NHKのカメラで映し出された各地の日食のその瞬間の映像を見て、実に素晴らしく見事なものだって思いました。
天体で先ず滅多にないことがあるのは、私は何か吉兆があるって夢見るところがありますが、全国的にまた見られるのは300年後、北海道じゃ18年後に見られるのだそうで、自分の年齢に思わず18を足してみますが、おそらく、生きているのではないかナって思うし、70を過ぎた主人と私とで、金環日食を見るんだッ!って張り切れていれば良いなぁと思いました。
美味しいものを食べた時、美しい風景や珍しい光景を見たりする時、こう云った場合に伴侶があるってことは、私はきっと何よりか幸いだろうって思うのです。
私が三国志や孔子老子とか、中国の歴史に興味を持っているものだから、俺が留守番するから中国旅行に行ってみればよいと言うけれど、確かに怖いもの見たさはありますが、私だけ行ったって面白くはないんだろうと思う。
でも、同じく主人曰くじゃ、その歴史の痕跡は返って日本や台湾に残っている様だと言うのも解る、私は精々日本にある孔子廟や関羽廟で好いとも思ったり。

昨日は午前からお昼過ぎまで、買って来た植物や種を撒いてみたりし、こちゃこちゃした理想(?)の庭になって、ダブルインパチェンスが可愛らしく、私みたいだナァ~って、忙しくも愉しい一日になりましたし、家の中の窓から眺めた場合はどうかとか、こう云うのを自由って云うんだろうって至福な想いです。
私的に想う品の良さって、完璧には遣らず「抜く」とか「引く」事で、足りるを知れるのだって考えるのだよね。
それに、大ていのことは自分の手で遣れる。
出来ないことは、考えや想いの視点を変えてみる。
自分の範ちゅうを心がけていれば、誰でもなく私が幸せに成る。
今朝のタイトルの老子の言葉は私には大き過ぎるけれど、安らかに愉しんで暮らして行く事を望むのならば、最もなことだナって思います。
私たちには手は二本しかないから、二つ以上のことを望んだりすれば、すべて失くしてしまうでしょう。

夕飯は、洞爺湖や真狩、留寿都で買って来た食材揃いで、何て地物は美味しいことだろうかと思う。
スーパーで買うのとは全然お味が違うんだよ、これが野菜の味!って感じでね。
留寿都の地元のお豆腐屋さんが作っている昔風のお豆腐が私と主人で大好評。懐かしい味だ。
私たちが子どもの頃には返って本物が味わえていたのですよねッ。
旬のものを簡単な調理で食べるのが一番の心と身体の為でしょう。
これから夏~秋にかけ、私ら二人はウサギになるんだろうと楽しみです。
 
それに、昨今は多いことですが、野菜でも果物でも植物類でも生産者の名前や写真が示されていますよね。
あれって、とても良いことだと思うんですよ。
私は食べる前や植える前に名前を拝見して、勝手に、心優しく温もりある素朴な人柄なんぞを想像するのが好きです。
о(´▽`)о〃


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小樽毛無山からの展望

2012-05-21 13:54:00 | Weblog

子を負ひて

雪の吹き入る停車場に

われ見送りし妻の眉かな

                          石川啄木

 

 


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