『戦国時代の幕開けとされる応仁の乱は将軍・足利義政の妻・日野富子が引き起こしたと言われて来たが、原因はもっと複雑なものだという指摘がある。』
戦国時代の幕開けとされる応仁の乱は、日本史上屈指の大乱である。細川勝元方の東軍約16万、山名宗全(持豊)方の西軍約11万の計約27万もの兵力が投入された合戦で、室町時代後期の応仁元(1467)年から約11年続いた。
争乱は京都を中心に地方へも拡大し、大半が文明年間(1469~1487)のことである為応仁・文明の乱とも言われる。 応仁の乱はこれだけ大きな合戦であったにも関わらず、非常に分かり難い。そもそも大乱の原因がハッキリしないのだ。従来、よく伝えられて来たのは室町幕府の将軍家の家督争いが原因だとする説。寛正5(1464)年、男子がいなかった8代将軍・足利義政が弟の義視を養嗣子としたが、翌年、義政の妻・日野富子が実子・義尚を産んだ。富子は我が子を将軍にする為に義視を排斥。これが大乱を誘発したと言われて来た。富子は史上「悪女」と言われて来た女性だけに、彼女が応仁の乱を引き起こしたとする説は多くの人を納得させて来た。しかし、国際日本文化研究センター助教・呉座勇一氏によれば「義視の妻は富子の妹であり、両者の関係は必ずしも悪くなかった。富子は義尚成長までの中継ぎとしてなら義視の将軍就任を支持する立場」(呉座勇一著 『応仁の乱』中公新書)であったという。その義視は東軍の総大将として西軍の討伐に意欲を見せていたが、後に富子の反発を招くと将軍御所を出て宗全方(西軍)に走っている。 従って、富子に追い出されたようにも見えるが、大乱の原因はそれだけではなかった。当時、管領(室町幕府の中央機関を統括し、将軍を補佐する中心的な職)家の畠山・斯波両家でも家督争いが起こり、更に勝元と宗全が幕府の主導権を巡って対立していた。そこで近年では、これらの内紛・権力闘争と将軍家の家督争いが複雑に絡み合ったことが応仁の乱の原因と考えられる。
*畠山家の家督争いに絡む義政・勝元・宗全
もう少し詳しく見てみよう。先ず畠山家の内紛は文安5(1448)年、当主の畠山持国が弟・持富を後継者とするという約束を破り、実子・義夏(後の義就)を後継者に立てたことに始まる。持富の死後の享徳3(1454)年4月、持富の家臣が遺児の弥三郎を家督にしようとしたが、将軍・義政は持国・義就を支持し諸大名に弥三郎討伐を命じた。 しかし、同年8月、実力者の勝元と宗全が弥三郎を支持すると、畠山氏の家臣は大半が弥三郎に付いて形勢は逆転。持国は隠居し、義視は京都から逃げ出した。義政も弥三郎の家督相続を認めたが、11月、宗全の討伐を諸大名に命じた。これは、宗全が義政の側近・赤松氏の仇敵だったからだとされる。勝元によって討伐は中止となったが、宗全は家督を嫡子・教豊に譲り、但馬(兵庫県)に隠退した。 すると、義政は義就を京都に呼び戻し、今度は弥三郎が京都から大和(奈良県)へ脱出。翌年7月、義就は大和に侵攻して弥三郎の軍勢を敗走させた。長禄3(1459)年7月、弥三郎が没すると、義就との家督争いは弥三郎の弟・弥二郎(後の政長)に引き継がれた。ところが、寛正元(1460)年9月、義政は自分の命令に従わない義就から家督を取り上げ、政長に与えた。更に、諸大名に義就討伐を命じた。すると、義就は河内(大阪府)の嶽山城に籠城した。この2年前の長禄2(1458)年、越前(福井県9守護の斯波義敏と家臣の甲斐常治との間で合戦が起こると、義政は常治を支援して義敏を敗走させ、家督を剥奪。寛正2(1461)年、斯波義廉を新しい家督とした。しかし、寛正4(1463)年、義就と共に義敏を大赦によって罪を許すと、文正元(1466)年には義廉から家督を取り上げて義敏に与えた。こうして、斯波家でも家督争いが生じたが、義廉は宗全の娘を娶り宗全の支持も得ることになった。
*無定見の義政の言動が諸悪の根源
畠山・斯波両家の内紛が続く中、義政は義視を後継者に指名したが、富子が義尚を出産したことで管領家の家督争いに将軍継嗣問題も加わり、事態は一層複雑になった。しかし、これまでに見て来たことでも分かるように、事態をややこしくした張本人は将軍である義政に他ならないのだ。 享徳3年の畠山家の家督争いを巡る争いの際も、最初は持国・義就を支持して弥三郎討伐命令まで出しておきながら、勝元・宗全が弥三郎を支持すると一転して弥三郎の家督相続を認め、討伐命令も撤回。しかし、宗全が京都を離れると義就を京都に呼び戻し、その義就が大和に侵攻し勢力を拡大すると、家督を取り上げて討伐命令まで出す始末だ。 また、斯波家の内紛にも介入し、義敏から家督を取り上げ義廉に与えた後で、今度は義廉から家督を剥奪して義敏に戻している。将軍・義政は無定見であり、その決断・行動は二転三転し、節操がない。要するに将軍の器ではなく、他人の言動に簡単に左右されやすい人物なのである。 その義政の側に仕え、あれやこれやと進言していたのが側近の一人・伊勢貞親だ。貞親は幕府政所執事の要職にあり、文正元年に大赦によって義敏の罪を許し、家督を義廉と交代するよう義政に進言した人物である。 ところが、同年8月、義廉を支持した宗全は京都に軍勢を呼び寄せ、勝元とも共闘態勢を築いた。すると、9月、貞親は「義視に謀反の疑いがある」と義政に讒言。貞親の言葉を信じた義政は義視の抹殺を企てたが、義視は宗全・勝元に助けを求めた。翌日、宗全・勝元をはじめ諸大名が抗議すると、義政は側近らに罪を被せ、貞親や義敏が失脚した(文正の政変)。
*義就の無断上洛で遂に大乱が始まる
文正の政変によって宗全と勝元は共通の敵であった貞親を失脚させたが、2人の思惑は別のものであった。勝元は諸大名と共に義政に忠誠を誓い、義政に仕えて幕府の主導権を握ろうとしたが、宗全は義視を将軍にして自分が政権の中心になろうとした。 そして、文正元年12月、宗全が義就に上洛を促すと、義就は義政に無断で河内から京都に入った。義政は怒って政長を支持したが、翌年1月、義政は政長を管領職から罷免し、屋敷を義就に引き渡すよう命じた、義政は宗全・義就の強大な軍勢を前にして、ここでも節操のない人事を行ったのだ。 その後、義就と政長が京都の上御霊社(現在の御霊神社)で戦い義就が勝利した(御霊合戦)が、宗全は義就に援軍を送り、政権奪取に成功した。しかし、これによって宗全と勝元の関係は悪化し、5月、赤松政則が勝元の支援を受けて宗全から旧播磨(兵庫県)領を奪回、更に勝元方の武田信賢・細川成之らが宗全方の一色直邸を攻撃し、遂に応仁の乱が始まったのである。 勝元方の東軍は将軍御所周辺に陣を構え、宗全方の西軍は一条大宮一帯に布陣した。ちなみに、現在の西陣の地名は、この辺りに西軍の陣営があったことに由来するという。 東軍に属した大名は勝元をはじめ政長・義敏。成之・政則らであり、一方の西軍に属した大名には宗全をはじめ義就・義廉・義直・土岐政弘らがいる。 応仁の乱は文明9(1477)年に中央の戦乱はようやく終結した。これまでの通説によると、この長きに渡った大乱によって幕府の権威が失墜し、戦国時代の幕が開けたとされる。しかし、近年の研究によれば乱後に幕府支配の再建が進められたとされる。そこで、戦国時代の始まりも、幕府の権威が決定的に失墜した明応2(1493)年の明応の政変以降とする説が唱えられている。
日本史最後の謎
群雄割拠した戦国時代の謎 4-1