ロシア・ロマノフ王朝ニコライ2世の皇女アナスタシアは、1917年のロシア革命の翌年、両親や兄弟と供に処刑されたと謂われている。だが、その一方では彼女の生存説も囁かれ、アナスタシアと名乗る人物も登場した。
彼女が語る数奇な運命は多くの人々の注目を浴びたが、今尚真相はベールに包まれたままだ。
「ロシア・ロマノフ家の末娘」
アナスタシアは、ロシアのロマノフ王朝の皇帝ニコライ2世と、イギリスのヴィクトリア女王の血を引くアレクサンドラ皇后の四女として生まれた。彼女は小柄で愛くるしく、灰青色の瞳が美しい皇女だった。
ニコライは皇帝としては威厳に欠けていたが、良き父で、四人の娘と一人の皇太子に恵まれた一家は、皇太子が血友病であることを除けば幸福そのものだった。だが、20世紀のロシアは内政不安が噴出し、各地で暴動が勃発、ロマノフ一家の周辺にも不穏な足音が近づいていた。
やがてそれは革命に発展し、1917年3月にニコライは退位、ロマノフ王朝も崩壊する。アナスタシアの身上も激変した。
一家はエカチェリンブルクの館に軟禁され、彼女は自分の運命を知るすべもなく、姉たちと無邪気な毎日を送っていたが、翌年7月、一家は地下室に呼ばれ、革命軍に寄って全員銃殺となる。アナスタシアも、もちろんその中に含まれていた。
だがその直後から、一家の皇女たちの処遇を巡る奇妙な噂が囁かれることになる。何と、彼女らが生存していると云うのだ。
ソビエト政権がロマノフ家以外は他へ移したと発表したこと、或いは国内の混乱がそんな噂を作り出した様だが、悲劇の皇女の物語は、その後も多くの人々の興味をかき立てて行った。
「アナスタシアを名乗る女性の登場」
生存説が駆け巡る中、末娘のアナスタシアだと名乗り出る者が続出する。これは、後に幾つもの映画や小説になったが、
なかでも世間の話題をさらったのが、1920年にベルリンで自分はアナスタシアだと名乗った女性、アンナ・アンダーソンだった。
彼女は死ぬ間際まで自分はアナスタシアだと口にしていた。
話に寄ると、彼女は姉の陰になって死を免れた、そして、一兵士の助けで逃亡し、その兵士の子を産むが、やがて彼は死亡。
彼女は親戚のイレーネ王女に助けを求めて単身ベルリンに渡ったものの、絶望して橋から身を投げたと言うのだ。
彼女はやつれ果て、以前はふくよかだったその面影を見出すことはできなかったが、耳の形やホクロの位置など、身体的に酷似している点もあった。そして何より、アナスタシアでなければ知り得ない一家の記憶を話したことから、彼女こそがアナスタシア本人だと信じる者も現れた。
しかし、自称アナスタシアの存在とその数奇な運命は、ヨーロッパの王室も巻き込み、賛否両論が入り乱れた。
やがてアンダーソンは熱心な信奉者に支えられ、司法の場にこの決着を持ち込んだが、長い裁判でも白黒をはっきり着けられないまま終わりを告げた。
しかし、半世紀以上世間を賑わせたこの問題も、20世紀末になってようやく解決へ向けて新たな道を歩み始める。
1998年に、ロシア政府に寄って皇太子と第三皇女マリア以外の遺骸は確認できたと発表されたのだ。つまり、アナスタシアの遺骸もあったと云うことになる。しかも、すでに故人となったアンダーソンもDNA鑑定からポーランド系ドイツ人の女性だと判明し、アナスタシア本人ではなかったと云う判断が下されたのである。
こうして、アナスタシアはあの薄暗い地下室で両親と一緒に銃殺されたと結論付けられた。
だが、アナスタシアの生存説を信じる人々は、見つからない二体の遺骨のうち、一つはマリアではなく、アナスタシアではないかと唱えている。果たして、アナスタシアはいったい何処に行ったのだろうか。
もし、彼女が地下室で殺されずに、その後も生存していたとしても、もうすでに百歳を超えていることになるが...。
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