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遇羅克:出身論(上)

2006-07-04 20:30:03 | 中国異論派選訳

編者まえがき:
 現在、北京市の中高生運動はどこも息絶え絶えの状況である。造反派は十分に努力しているが、大衆は立ち上がらず、ブルジョア反動路線は依然として猖獗を極めている。このような現象は、多くの同志の疑問を招いている。一体何がブルジョア反動路線に対する批判をいまだにかくも力強く阻んでいるのか?と。
 我々は、他でもなく、社会に広く市場をもつ唯出身論こそが原因だと考える。
 かつて、各中学高校で一般に行われたブルジョア反動路線は、その根っこは他でもなく、反動的な唯出身論であった。
 反動的な唯出身論は、ブルジョア形而上学の哲学のゴミの山の中からその理論的根拠を探し出し、学生を多くの等級に分け、社会主義制度の下で再び偽装され隠された特権階級と、反動的カースト制度を形成し、人と人の間に新しい圧迫を持ち込もうとしている。反動的唯出身論こそが、一部の青年学生に「生まれつき赤い(思想がよい)」という荷物を負わせ、自分を先天的な革命者と思い込ませ、その実修正主義の苗を育てているにすぎない。反動的唯出身論こそが、もう一方の青年学生に強烈な劣等感を植付け、彼らに将来を放棄させ、国家の前途・世界の前途に対して負うべき責任を放棄させている。そして、それこそが、多くのブルジョア反動路線に欺かれた同志たちを誤らせ続けている。罪深いそれこそが、多くの同志をいまだにブルジョア反動路線の前で恐れおののかせている!
 同志諸君、このように憎むべきものを打倒しないで、どうしてブルジョア反動路線を批判できようか?打倒せずして、どこで千百万プロレタリアートの後継者を養成することができようか?打倒しなければ、中国の色は変わって(訳注:反動化して)しまうだろう!
 全市の革命的造反派諸君、諸君はブルジョア反動路線の猛り狂った反攻を退けたいのだろう?諸君は千万の大衆とともに戦いたいのだろう?ならば、諸君は巨大な波涛を巻き起こし、徹底的に反動的唯出身論の堤防を決壊させなくてはならない!その日には、千百万の大衆が彼らを縛っていた一切を断ち切り、諸君と一緒になって抑えがたい力を生み出すであろう。そしてその日にのみ、ブルジョア反動路線は始めて徹底的に墓場に葬り去られ、中国の色は永遠に赤く染まるのだ。
 「北京家庭出身問題研究グループ」が発表した『出身論』は、社会に強烈な反響を呼び起こした。我々は言う、本当にすばらしものが出た!これは反動的唯出身論の破産と、プロレタリア革命路線の偉大な勝利を宣告している。
 『出身論』は社会の古い観念の呪縛を打ち破り、未だ強大な勢力を誇る反動的唯出身論に勇敢に宣戦を布告している。この革命的造反精神はすばらしい!
 『出身論』の出現は、一部の人からは大毒草とみなされるだろうが、それがどうしたというのか?マルクス主義も最初は毒草とみなされたのに、今では世界人民の指導思想となっているではないか。真理は謬論との闘争の中で初めて発展し、初めて多くの大衆から受け入れられる。反動的唯出身論はいまだに強大に見えるが、その反動的本質によってそれが腐った張子の虎でしかないことが決定付けられている。革命的『出身論』は今日はまだ火花にすぎないが、明日は必ずや燎原を燃やす炎となるであろうことを我々は確信する。
 同時に我々は、筆者の毛沢東思想理解のレベルに限界があるために、また、社会調査が十分でないために、『出身論』には少なからぬ欠点と不完全なところがあると考えている。我々は、幅広い革命的同志が毛沢東思想という偉大な武器でこれを衡量することを熱望し、同志諸君が『出身論』に批判を寄せてくれることを心より歓迎する。

 家庭の出身問題は長期にわたって深刻な社会問題である。
 この問題は関係する範囲が広い。もし、地主、富農、反革命、悪質、右派の各分子が全国人口の5%を占めるとすると、彼らの子女とその近親者はこの数字の何倍にもなる(そのなかには、まだ資本家、経歴灰色分子、高級知識分子の子女は含んでいないし、もちろん職員、富裕な中農、中農階級の子女は含んでいない)。すぐに分かることだが、紅五類でない出身の青年は非常に大勢いる。中国は遅れた国家であるから、解放前にはわずか200万人あまりの産業労働者しかいなかった。だから、プロレタリア階級家庭の血統の生まれの人は多くない。こんなにも多くの出身が悪い青年たちが普通軍隊に参加できず、重要な仕事につくこともできない。個々の事業所では、彼ら(非紅五類)が絶対的多数をしめる。
 形は「左」で実際は右の反動路線の影響で、彼らは往々にして平等な政治的待遇を与えられない。とりわけ、いわゆる黒七類出身の青年、すなわち「イヌコロ」は、準独裁対象となっており、彼らは先天的な「罪人」である。反動路線の影響で、出身はほとんどすべてを決定することとなった。出身が悪ければ、人より一等低いだけでなく、自己の家庭に反抗し、党中央を擁護し、毛主席を擁護し、紅衛兵に参加する権利を奪われる。この間に、どれだけの無実の青年が、唯出身論の深みにおぼれ、非業の死を遂げたことか。このような深刻な問題に直面すれば、国家の命運に関心を寄せる人は、正視しないわけにはいかず、研究しないわけにはいかない。冷静なようでいて、完全に折衷主義的な観点は、実際には冷酷かつ虚偽である。我々は暴露し、批判し、立ち上がって毛主席の革命路線を守らないわけにはいかない。以下に、我々は毛主席の著作と社会的実践の中で見つけ出した答案を、三つの問題に分けて述べる。

一、社会の影響と家庭の影響の問題

 まず、広く害毒を撒き散らしている対聯から始めよう。
 「親父が英雄なら息子は豪傑、親父が反動なら息子は馬鹿者、基本はかくの如し」。
 この対聯の議論の過程は、出身のよくない青年に対する侮辱の過程である。なぜなら、このような議論は最良の結論でも、彼らが馬鹿者でないというにすぎないのだから。始めのころはあえて正面から反論するものは少なかったし、たとえあったとしても、決まり悪そうなものだった。実はこの対聯の上半分は封建社会の山賊であった竇爾敦(ドウアルドゥン)から借りてきたものだ。ドウアルドゥンを批判するのにどれだけの勇気がいるというのだ?ある人はこの対聯はよい作用も発揮したという。本当だろうか?毛主席は、いかなる真理も人民の利益に合致し、いかなる誤りも人民の利益に合致しないと言っている。この対聯がよい作用を発揮したのかどうかは、それが真理かどうか――毛沢東思想に合致するのかどうかを見なくてはならない。
 この対聯は真理ではなく、絶対に誤りである。
 その誤りは、家庭の影響が社会の影響を上回るとみなし、社会の影響の決定的な作用を見逃していることにある。つまるところ、それは親父の影響のみを認め、親父がすべてを上回るとみなしているのだ。
 実践は、それと全く逆の結論を導いている。社会の影響がはるかに家庭の影響を上回り、家庭の影響は社会の影響に従っている。子供は生まれるとすぐに二種類の影響を受けはじめる。少し大きくなって学校の門をくぐると、先生の話は父母の話よりも権威があり、集団で教育を受けるほうが単独で教育を受けるよりも共鳴度が強く、学校にいる時間は家にいる時間よりも長く、共産党の雨露と毛沢東思想の陽光が新しい若芽を潤すので、社会の影響が主流となる。
 友人間の切磋琢磨、リーダーの指導、新聞、書籍、文学、芸術の宣伝、習俗の影響、仕事の陶冶などなど、どれも個人に消すことのできない影響を与える。これらを総称して社会の影響という。これらはいずれも家庭の影響が対抗しようもないものだ。
 家庭の影響もまた、社会の影響の一部である。個人にとって家庭の影響がよいか悪いかは、機械的に親父がどうかによって決められるものではない。英雄の親父と反動の母親だったら、影響は必ずしもよいとは限らない。父母がともに英雄であっても、子女が放任されたら、時にはもっとひどいことになる。父母の思想がよくても、教育方法が簡単粗雑であれば、やはり逆効果となる。同様に、親父が悪くても、家庭の影響は必ずしも悪いとは限らない。レーニンはその例証である。つまり、個人の家庭の影響のよしあしは、機械的に出身で判断することはできない。出身は家庭の影響の参考にしかすぎない。
 総じて言えば、我々の社会の影響はよいものだ。なぜなら、我々の社会制度は比類なく優れていて、我々の共産党は一貫して政治を突出させ、若い世代の成長を最も重視しており、我々絶対多数の人民は新社会を熱愛しているからだ。もちろん、我々も階級闘争の複雑性と尖鋭性を無視することはできず、我々がまだ小ブルジョアジーの大海の中にいることを無視することはできない。我々の文化教育制度は徹底的な改革を必要としている。時には社会の影響もまたすべてよいわけではない。いかなる出身の青年であろうと、社会の悪い影響を受ければ、普通はこの種の悪い影響に従い、いろいろな誤りを犯す。しかし、適切に教え導きさえすれば、彼はすぐに古いものを捨て、正しい立場に戻ってくる。したがって、故意に青年に歴史の重荷を背負わせることも、故意に青年に家庭の重荷を背負わせることも、どちらも誤った路線であり、残酷な行為である。社会の影響は比類なく強大であるが、すべてがよいとは限らないので、どのような出身の青年でも思想改造を放棄することは、誤りである。思想改造について言えば、出身のよい青年は出身の悪い青年と比べていかなる優越性もない。
 家庭の影響にしても、社会の影響にしても、いずれも外部要因である。影響を強調しすぎることは、主体性を承認しない機械論の表現である。人は自らの進む方向を選択できる。なぜなら真理はより大きく、より訴求力を持っているからである。君は本当にマルクスレーニン主義を比類なく正しいと信じているか?毛沢東思想を不敗の思想的武器と信じているか?内部要因が決定的な作用を発揮すると信じているか?それならば、君は親父の影響が何よりも大きいと信ずるべきではない。そうでなければ、君の思想が極限まで混乱していることを表明するものでしかない。

二、重要なのは表現(訳注:大躍進後の3年人災後に共産党が出した懐柔策:「成分は考慮するが、唯成分論ではなく、重要なのは表現である」)の問題

 もしも、君が社会の影響は家庭の影響よりも大きいということに反論できなければ、また現在の社会ではよい影響が主流であることに反論できなければ、また出身と家庭の影響の間には必然的な関係がないということに賛成せざるをえないのであれば、我々は一緒に「重要なのは表現」ということについてのいくつかの問題について一緒に検討しよう。
 プロレタリア文化大革命の初期には、多くの人は「重要なのは表現」とは修正主義の観点であるといっていた。後にこれが毛主席が提起したものだということを聞いて、急いで主張を改めた。このことから彼らはこの政策について全く理解していないことがわかる。彼らにこの政策について解説させたら、歪曲されること必定である。紙幅の関係で、3種類の解説についてのみ、毛沢東思想に適合するか否かを検討する。

1、出身と成分はまったく異なる
 官許のような顔をした同志は出身の悪い青年に対して常々次のように語っている。「第1に我々は成分論であるが、第2に唯成分論ではなく、第三に重要なのは政治的表現であり、……」。原注:『出身論』を発表したばかりのころ、我々はやむなくこのように書いた。1966年7月共産主義青年団中央委員会第九期中央委員会全体会議の席でこの演説をした李雪峰とその仲間たちは、いまではとんでもないブルジョア反動路線の代表人物になっていることを我々は知っている。
 これは対象を見ていない。
 江青同志はこの言葉を解説したことがある。彼女は、これは自分の階級に背いた個別分子についていっているのだという。江青同志の解説はどういう意味か?例を上げれば、エンゲルス自身は資本家であるが、彼は自分の階級に背いて、共産主義の第一代の公民となり、労働者階級の傑出したリーダーとなった。パリコミューンにおいてもブルジョア階級の委員がいたが、彼らは労働者階級コミューンの代表であった。わが国の革命期にも同じような例がある。我々は彼らの成分が悪いからと彼らの歴史的功績を抹消することができるだろうか?できない!我々は政治的表現を重視しなければならない。これがすなわち「不唯成分論」である。我々は逆の状況でもこの公式を採用できると考える。成分は炭鉱労働者であっても、プロレタリアートに背き、革命に背いた者は、やはり表現を重視しなければならず、彼の罪を軽くすべきいかなる理由もない。小さなことで言えば、李鼎銘(リーディンミン)は地主分子だったが、抗日戦争時期に共産党支配地区政府に出した「精兵簡政」の提案を、毛沢東は賞賛して「どんな人であれ、……おまえの言うやり方は人民に利益になるから、おまえの言うとおりにやろう」。これこそ人の発言をその人物によって判断せず、また不唯成分論の具体的表現でもある。

 出身と成分はまったく異なるものである。親父の成分は息子の出身である。もしも、封建社会の家庭であったならば、子が父の仕事を継ぐのが一般的であろう。しかし、資本主義社会になれば、必ずしもそうではなくなる。家庭の紐帯はすでに緩んでおり、若い世代は社会の所有となる。そして、社会主義社会においては、普通の青少年はプロレタリアート教育を受け、プロレタリアート事業のために勤務する準備をする。それなのに息子と親父を一緒くたにするのでは、あまりにも「潮流」にあわない。
 毛主席は1939年に書いた『中国革命と中国共産党』の中で、当時の知識分子は小ブルジョア階級のカテゴリーに入ると述べている。そこでは分類分けをしているのではなく、ある階級出身の知識分子をその範疇に帰属させているのである。
 毛主席は1957年に書いた『人民内部の矛盾を正確に処理する問題について』の中で、「我々の大学生は、その多くが非労働人民家庭出身の子女であるが、わずかの例外を除いて、みな愛国的で、社会主義を擁護している……」と述べているが、これもまたひとつの例証である。
 このことからも分かるように、同一の家庭の成員が同一の階級の成員とは限らない。この点は階級の敵もはっきりと知っている。たとえば、運動期間の北京中級人民法院のある判決書には次のように書かれている。ある反革命富農分子は、3人の息子が彼を検挙したので、夜間に彼らを殺傷した。またあるビラによると、市内某公社工場の共産党書記……変節分子は、自殺する前に、自分の子供を溺死させた。彼は遺言の中で、子供は大きくなっても自分の仇をとってくれることはできないと書いていた。
 出身と成分は同列に論じることはできない。次の会話は非常に味わい深い。甲(学生):「君の出身は何だ?」。乙:君は?。甲:「僕は紅五類だ。僕の父は労働者だ」。乙:「だったら僕の方が強い。僕は労働者だ」。
 もしも唯成分論に道理がないなら、唯出身論がなぜ存在できようか?
 一部の人は、毛主席の言葉を引用して反論する。「階級社会においては誰もがある階級的地位を持って生活しており、各種の思想はどれひとつとして階級の烙印の押されていないものはない」。これは世界中どこでも通用する真理だ。地主、資本家は長年にわたって搾取階級の地位の中で生活しているので、彼らの思想はいずれも搾取階級の烙印が押されている。よって、彼らは人間として生き直さなければならならず、換骨奪胎的な改造を経なければならない。これが我々の「有成分論」の根拠である。しかし、彼らの子女については、このように見ることはできない。とりわけ、新社会で育った青年について、搾取階級の地位の中で生活しているといえるだろうか?世界のどこに搾取しない搾取階級があろうか?そんなものはない。個人の思想に烙印を押すのは、家庭でだけはなく、より重要なのは社会である。今日の社会は毛沢東思想の大きな学校である。青年の階級的地位は、労働者になるための準備か、すでに労働者となっているかである。そんな時に彼らに対して「成分」を強調するのは、彼らを敵対階級に追いやるものでしかない。
 我々は出身と成分の間の混同してはならない。その境界をしっかりと弁別しなければならない。この境界を抹消するものは、見た目は非常に「左」であっても、実際には階級の境界を抹消するものだ。

2、出身と表現の関係は非常に小さい
 そこで、官許派の同志は成分を語らない。彼らは、「我々は出身と、表現(すなわち政治的表現)を見る」という。
 これは、「出身すなわち成分論」の焼き直しである。両者を比べれば五十歩百歩であり、たいした違いはない。
 出身は死んだものであり、表現は生きている。死んだ基準と生きた基準で同時に人を計って、同じ結論を出せるだろうか?
 我々が本文の第一の問題ですでに分析したように、出身は家庭の影響の一要素であり、家庭の影響は表現の一要素、かつ副次的な要素である。社会の影響こそが表現の主要な要素である。よって、出身と表現はまったく同一性がない。個人の受けた影響がよいか悪いかは、実践の中でのみ検証できる。ここでいう実践とは、個人の政治的表現のことである。表現がよければ、影響はよく、表現が悪ければ、影響は悪いのだ。このことと出身とは全く関係がない。
 一歩譲って、我々が出身も、表現も見なければならないとしよう。では、出身が悪くて表現がよい場合、その人の成績を抹消できるだろうか?出身がよくて、表現が悪い場合、その人の欠点を隠すことができるだろうか?出身が悪くて、表現が悪い場合、罪を一等重くすべきだろうか?出身がよく、表現もよい場合、その優れた点を誇張すべきだろうか。そのようにすることに道理があると思うかね?
 「出身も見て、表現も見る」とは、実際には「出身だけを見て、表現を見ない」泥沼にはまってしまうことである。出身はとても簡単に見ることができる。個人ファイルをめくれば、それで分かってしまう。あるいは、街角ではじめて会った人に、「君の出身は何だ?」と聞けばそれですべて分かってしまう。本当に簡単で面倒がない。表現を見るのは本当に面倒だ。とりわけ訳のわからない懐疑派は、絶対に君の普段の表現を信じず、非常時における表現も信じない。君の過去の表現を疑い、君の今の表現も疑い、そして君の将来の表現を疑おうとする。そして君が死んでしまって、棺おけのふたを閉じてやっと結論を出すのだ。ついに彼らも疑うことに飽きるというわけだ。もしも、出身を見るならば、2秒で大問題が解決する。また、表現というものは、人によって固定した基準がない。おべっか使いの人にとっては、お世辞が最良の表現であり、偽善的な人にとっては堅苦しい挨拶が最良の表現であり、間違った路線をとる人にとっては、出身の悪い青年が一日中自分の経験を越える懺悔をすることが最良の表現である。出身と比べることができようか?出身を見るなら、「親父が英雄なら息子は豪傑、親父が反動なら息子は馬鹿者、基本はかくの如し」ただこの三言ですべてが解決してしまう。
 毛主席が我々にどう教えているかを見てみよう。毛主席は「革命の、あるいは不革命の、あるいは反革命の知識分子の最後の境界線は、労農民衆と結合することを望み、それを実行するかどうかを見ることである。これは基準であり、私が思うに唯一の基準である」。この基準は出身だろうか?
 毛主席が提起した革命の継承者の5項目の条件の中に、出身という項目はあっただろうか?
 十六条(訳注:『中国共産党中央委員会のプロレタリアート文化大革命に関する決定』1966年8月8日)の第5条は「共産党の階級路線を断固として執行する」であり、誰に依拠するか、誰と団結するか、誰に反対するかについては言及しているが、どこで出身を根拠としているというのだ?
 革命左派の3つの基準に、出身という基準はあるだろうか?全くない!出身の良し悪しと、革命的か否かにどんな関係があるというのか?出身が悪くても、同じように革命左派になることはできるし、プロレタリアート事業の後継者になることはできるし、革命の依拠対象となることもできるのだ。
 『出身論』が張り出されたばかりのころ、この言葉の横に「大毒草」とか「でたらめ言うな」などの言葉がたくさん書かれ、譚力夫(訳注:「親父が云々」の対聯の創作者。現在は北京故宮博物院共産党委員会書記。改名して譚斌と名乗っている)などのやからの安っぽい憤慨を発散させた。彼らには眼がある。これこそが『出身論』の主題だからである。しかし、歴史は畢竟無情なものだ。今では多くの紅衛兵組織がこの言葉を引用して組織綱領としている。ある紅衛兵組織の宣言には、「過去の紅衛兵組織はいわゆる紅五類子女だけの参加を許していたが、これは毛沢東思想に合致しないので、我々はそれをひっくり返さなければならない」。これら組織の大胆で恐れを知らない行動に対して、我々は革命的敬意を表する。
 表現の前では、すべての青年がみな平等である。出身の悪い青年は他人が恵んでくれた団結を必要とせず、他人の同調者にしかなれないということもない。誰が中堅か?生まれでは決定できない。個人の努力によってはえられないいかなる権利も我々は承認しない。革命の最も断固とした人は、表現の最も優秀な人である。だれも、王傑の輝きは雷鋒に及ばないとはいえない(訳注:王傑は農民出身、雷鋒は貧農出身。どちらも死後共産党員の模範とされた)。
 表現についてどう見るかについて思い出すのは、古代の思想家の寓言である。彼は千里馬はよくいるが、千里馬を見出す伯楽はめったにいないといった。普通の人が馬を見るときは、母馬、外形、産地、値段などからその馬のよしあしを判断するが、馬を走らせて試すことを忘れている。昼間に千里を走り、夜に八百里を走ることができるかどうかを見ることで、千里馬かどうかを見分けることができるのに。今の人々も同じではないか?彼らは、出身とか、社会関係といった死んだ材料にだけ注目して、本当に根拠とすることのできる表現を忘れている。長い間には、千里馬を無駄にするだけでなく、普通の馬までが「イヌコロ」になってしまうだろう。
 われわれは出身と表現の位置を正確に決めなくてはならない。ある青年が革命的か否かにとって、出身は基準とならず、表現だけが唯一の基準となる。君たちが本当に出身がよければ表現もよいと考えているのならば、表現の上で出身の悪い同志を越えればいい。表現がひどい人だけが出身という旗を虎の皮代わりにかぶって威嚇し、親父を商標とし、人に受け入れさせようとする。例えば、頑固に反動路線を堅持し、毛主席の著作を学ばず用いないなどなどというよに、君が表現が悪ければ、例え紅五類の中の前三類(革命幹部、革命軍人、革命烈士)であっても、全く役に立たないのだ。
 出身、社会関係などは参考程度になるに過ぎない。一人の青年の政治的表現をはっきりと理解すれば、それらは参考としての価値もなくなる。
漢語原文:http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/
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出身論(下)

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