思いつくまま

みどりごを殺す「正義」はありや?
パレスチナ占領に反対します--住民を犠牲にして強盗の安全を守る道理がどこにあろう

韓寒:民族主義の市(いち)に集う

2008-04-28 18:35:13 | Weblog

一场民族主义的集
韩寒 @ 2008-4-20 15:48:34 

訳文:http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/d/20080429

    关于这个问题,大家的理由非常的充足,首先家乐福的大老板如何了,而法国政府如何了,其次不管如何如何,我们的目的是让国际社会感受到我们的态度,让某些国家知道我们的力量,让某些人道歉。

    我想说,道个歉是容易的。但是要改变对我们的态度和想法,似乎很难,而且经历此事,可能更难。

    为什么一定是家乐福呢?这没有一个一定,因为也可能是别的东西,到时候我们也会问,为什么一定是XXX呢。但官方喜欢抓典型,潜移默化之间,老百姓也已经能抓典型。

   我觉得,抵制家乐福其实挺没有出息的。对于真正爱国的检验应该是需要付出代价的,当你需要承受经济和生命的损失的时候,你愿意为了你心里的信仰而付出,这是真的。去家乐福闹闹,挺没有腔调的。其他国家侮辱你,你在自己国家为难一个超市,对着这个超市,有人抵制,有人拉横幅,有人要游行,有人看热闹,还有人用一百元去买小东西,要找光他们的零钱,有人自己降下家乐福的中国国旗,然后拍个照说是家乐福给中国降半旗。我认为这些行为都有点拿不出手,尤其是最后一条,那是猥琐加惟恐天下不乱了。爱国有的时候是自救,但有的时候是种腔调,我们做的没腔调。

    当然,你可以指责我说,那你做点有腔调的事情啊,你去围法国大使馆啊,你去法国抗议啊,你去吧炸空客A380啊。关键是,我为什么要这么做呢。我心里根本就没那么想过。我依然做着我的本职工作,写好东西,赛好车,一年比一年进步,现在我们拉力水平可以在亚洲比了,让赛车水平很高的日本人和相对比较高马来西亚人都刮目相看,而且不输他们甚至可以战胜他们,再给一段时间估计我国车手和赛事的水平能上欧洲的二流,希望能出现顶尖的代表去何欧洲的顶级车手抗衡……最后的目标就是法国的世界拉力锦标赛之王勒布,不管有没有这个可能性,这些都是我们在做的。而一些人在做的却是去搞一个超市,要是你不去搞的,就是汉奸和卖国贼。

    外国人说我们两句,骂我们两句,我们全国上下急成这样,而且边愤怒边得意,得意的是我们的“民族凝聚力”和“祖国终于强大了,所以一些国家开始害怕我们,企图分裂我国”。可是我怎么就没看见一个让世界都害怕的国家和民族的国民应有的气势呢。你搞家乐福,你很多中国人搞了半天,搞得家乐福里的中国员工也左右为难,然后围了越来越多的中国人,来几个坏事的中国人再砸那么几下,然后出动一帮中国防暴警察,看到的全是中国媒体的报导,敢情过程里没出现一个法国人啊。

    我们觉得,支持我们的,夸奖我们的,就是我们的朋友,反对我们的,贬低我们的,就是我们的敌人。这个是非观未免太简单了和太看重自己的面子了。

    我们的民族自尊心怎么那么脆弱和表面呢。人家说你是暴民,你就把人家骂一通恨不能打一通,然后说,我们不是暴民。这就好比小明说你是笨蛋,你就对着小明女朋友的弟弟的狗举个大牌子,上面写,我不是笨蛋。这个讯息的确会反馈给小明,但小明依然觉得你是个笨蛋,你像你觉得自己很委屈,而小明其实更加笨一样。

    到了今天,有一个让人难过的倾向,就是我们几乎没有正方反方,你就是要表态,你抵制不抵制,你如果抵制,好样的,你是中国人,你站对了队伍,你如果不抵制,你就是汉奸,你如果不表态,你也是一个孙子。不知道这时候法国政府开放对抵制家乐福的中国人的入籍申请,会有多少人想去法国做卧底?

 

   我觉得,现在的情况就是:家乐福就像一个充气娃娃,让一帮人抱着发泄,一方面可能的确平时活得太压抑,要找个没什么代价的出口。一方面边发泄还要边问这充气娃娃和充气娃娃的制造商,我强不强啊,我强不强啊,看见旁边那些对于搞充气娃娃没兴趣的人还指责他们性无能。

 

    五月一号会发生什么事情,反正你我都不知道。但我真的怀疑大家的内心是否真的那么愤怒,还是大家很久没有行游和会集了?参加行游很好玩吧,去会集很热闹吧?爱国主义庇护下的行游和会集又很安全吧?如果你真的不能忍受,觉得现在的情况等同于八国联军侵略,是国难当头,是形势危急,是四面楚歌,而解决的办法就是必须对着超市抗议,那么我也尊重你,我最终也能理解你的情怀。就怕你是个集的。

出典:http://www.bullog.cn/blogs/twocold/archives/128296.aspx


梁文道:中国も多民族国家であることを忘れるな

2008-04-28 18:24:43 | Weblog

梁文道:中国も多民族国家であることを忘れるな

不要忘了中国也是多民族国家
  来源: 作者:梁文道  [2008-04-09 20:11:58]

         我们常常忘记中国原来是个多民族国家,往往以为五十五个少数民族只不过是种由服装、歌舞和饮食构成的“风情”。
  
   假如美国总统对外公开宣称,他不能理解阿米绪人为何还要坚持原始落后的生活方式,你猜接下来会发生什么事呢?假如一位孟加拉的知识分子在报刊畅谈伊斯兰的保守愚昧,你猜接下来会发生什么事呢?假如一个芬兰网民在论坛里公开呼吁因纽特人放弃自己的游猎传统,接受现代文明的洗礼,你猜接下来又会发生什么事呢?有意思的是,这一切看似不可思议的情况,其实都曾以不同的形式不同的面目出现在中国的土地上,而我们看似什么都没有发生。
   马丁·路·金博士逝世四十年了,美国民权运动原来已经是五十年前的往事。在那一场震撼人心的大潮里面,有一句口号令我久久难忘:“白色也是一种颜色”。这句话针对的是白人那种盲目的种族世界观,总是把世界一分为二,主流是白人,而任何其他肤色的种族皆可简单纳入“有色人种”的类别,仿佛白色不算一种颜色,白人是一种超乎任何色谱之外的中性人种。这句话提醒了大家,原来白人也是有其特殊性的种族。不管他们在美国的人口比例里占了多少,也不管他们如何界定了美国的主流价值,白人始终也只不过是一个族群罢了;相比起美籍非裔的说话腔调,白人的言谈风格不是标准,它只是另一种族群的方式而已。
   全国“两会”期间,我们总是能看到少数民族代表穿上了“民族服装”,问题是为什么绝大部分的汉人代表不穿“汉服”呢?除了服装与歌舞表演之外,少数民族对大部分汉人到底意味着什么呢?
   曾几何时,很多人预言到了21世纪,民族主义和族群政治都会自动消失。然而放眼全球,我们今天不仅看不见族群政治稍有缓解的迹象,甚至还越演越烈,到底族群之间的问题应该如何处理呢?回顾美国民权运动的遗产,它的最大贡献之一是把美国从一个“大熔炉”渐渐转成了一大幅五彩缤纷的“镶砖画”;从强调各个族群逐渐融入白人为主的主流社会,转而重视各族群间的平等共存。在这个背景之下,近三十年来甚嚣尘上的“多元文化主义”于焉成形。
   把多元文化主义路线走得最彻底的,大概就是加拿大了。为了留住离心甚深的魁北克,加拿大联邦政府不只把法语列为官方语言,还要求魁北克以外各个说英语的州一样要在中学教授法语。虽然多元文化主义在学理和实践上也遭遇了不少困难,但赞成魁北克独立的人确实日益减少,而且它也确实可以给我们一点启示。那点启示就是要主流族群发现我们也是一个族群。不要以为只有少数民族才有独特的社会特性和生活方式;相对于他们,主流族群的社会特性和生活方式其实也是独特的,而非无色无味的客观标准。
   坦白讲,我们常常忘记中国原来是个多民族国家,往往以为五十五个少数民族只不过是种由服装、歌舞和饮食构成的“风情”。今年是藏历和回历的什么年份,有多少汉人知道呢?当每一个少数民族的中学生都用“普通话”(“普通”这个中性的说法很容易使大家忘了它其实是现代汉语)记熟了唐宋元明清的王朝世系时,又有多少汉人知道吐蕃王国应该放在这段“正统”里的那一个位置呢?化外番邦吗?
   所谓民族政策,不只是单向地对少数民族做工作,给予他们更多的优惠和权益,而且还要把占人口多数的汉人也当成一个民族,让大家彼此认识互相尊重。我想,身为一个汉人,多元文化主义教给我的或许就是更谦卑地自省,更开放地学习,把其他族群的文化也当作是自己也要继承的宝贵遗产。毕竟中华人民共和国不是只属于汉人的,我们团结的基础在于公民的身份,多于族裔的血缘。
   (作者为凤凰卫视主持人)
  
  
  出典:http://www.infzm.com/review/pljj/200804/t20080409_42394.shtml


梁文道:大国の暖かさと世界の夢

2008-04-28 18:13:14 | Weblog

梁文道:大国の暖かさと世界の夢

大国的温柔与世界的梦想 / 梁文道
2008-04-17 10:17

  运动和政治到底有没有关系呢?答案是没有。然而,正因为大家都相信运动和政治没有关系,运动的政治效应才能发挥到最大程度。情况就和艺术一样。当纽约爱乐乐团破天荒往赴平壤演出时,它的指挥马捷尔也是如此回答记者的问题:“我不想谈美朝关系,我们是来演奏音乐的。”可是大家都晓得这次旅程不简单,效 果一如昔年的乒乓外交,要是把音乐家和运动员换成了外交官,不只成效截然不同,甚至根本不可能会有这些人人称道的美事。


  中国再三强调奥运和政治无关,人家偏偏就越是要利用它来为难甚至羞辱中国,因为他们看见中国确是以举国之力来承办奥运,确实想借着北京奥运展现国家新貌。 英文的“torch”本来只是火炬的意思,在中文里则变成了“圣火”,于是有人就觉得抢夺“圣火”果然可以掉中国人的面子了。其实,美国总统从来没有参加 过国境外的奥运开幕式,但布什既然受邀出席北京奥运开幕典礼,于是三位总统候选人就都要拿住这点做文章了,好像布什来不来真的很重要似的。


  我的意思不是要中国人都带着点阿Q的心态,一起不把奥运当回事;我只是想指出一点很简单的现实,那就是你越紧张什么,别人就越会把它当成目标。


  过去短短几年之间,中国崛起突然从科幻式的预言变作现实,不仅许多西方人一时接受不了,连不少国人好像也适应不及。没错,我们好久没做过“大国”了,所 以还不大明白当大国的代价与心理准备。做一个大国,必备的心理条件之一就是要明白别人会怕你,会因为你的体积庞大而加倍注视你,会因为你的影响深广而格外 提防你。十年之前,英美等地的报刊还只是偶尔报一报中国来的消息;到了今天,任何一份有点自尊的国际大报都不能忍受一天没有中国新闻。有没有想过为什么我 们老是在电视上看见美国的一桩枪击案甚至微不足道的小花边呢?如果不是现在,至少也是不久的将来,中国境内的治安事件也将会得到这等级别的对待。同样地, 美国大概是这个世界上最被人针对的国家了,从年头到年尾,从东半球到西半球,全球的反美示威加起来大概能够组成一条全年无休太阳不落的链条。终于,在最近 的反北京奥运示威浪潮之中,我们总算也感到了身为世界第二强国的滋味。


  所以,当大家不满西方的反华示威,愤恨于部分西方 传媒的偏颇报道时,千万不要以为我们还是那个八国联军兵临城下的羸弱小国;恰恰相反,中国已经是个令人畏惧的世界强国了。又由于中国跃升的速度如此之快如此之猛,别人的疑惧就更是深重。了解到这一点,我们的心态方能恰当转换,方能更好地应对当前处境。


  看近日的西方媒体,从独立的网站到主流大报,虽然批评中国人权问题与西藏政策的仍占多数,但另类的声音也开始渐渐出现了。例如英国《泰晤士报》著名的专栏作家西蒙•伯恩斯就指 出,反北京奥运的浪潮其实隐含了种族主义的逻辑。我觉得这个判断是有道理的,事实上,从关注西藏问题开始上升到针对整个中国人权状况的氛围里面,我们的确 可以发现一种非常简化的倾向。最初只是批判中国政府,后来则仇视一切在海外声援圣火传递的华人,以为他们全是受到洗脑的官方传声筒,最后更闹出了CNN主 持人卡佛说中国人是“一群五十年不变的呆子和暴徒”的事件。伯恩斯反问他的英国读者:假如有外国人跑来揍你一顿,说你们英国人有份侵略伊拉克,你会有什么 感受?


  由关注中国人权状况变质为反华情绪,从批判中国政府的集权跳跃至仇视所有中国人的集权性格,这里头潜伏的正是对中 国崛起的恐慌。以前有人害怕中国这座世界工厂会抢走大家的饭碗,现在则无法接受这座工厂背后的价值观和自己的不同。他们怕的不只是个一般的大国;还是一个 陌生的、不一样的大国。


  面对这种情绪,应该如何响应呢?我以为与其用强悍的防卫姿态去刺激出更大的反应,倒不如学学狮子的步伐,轻缓一点。不是说抗议不对,而是平心静气的柔性态度可能更合身份,更有效果。假如别人冤枉你是暴徒,你会用暴力恐吓他的方法去叫他认错吗(例如某 些网站上声称要痛打外国驻华记者的帖子)?


  北京奥运是一次消除偏见缓和对立的绝佳机会,靠的不是宏大的新机场,也不是惊世的奥运场馆,而是真正的大国风范:宽容、开放和自由。中国的经济成就已经用不着再夸耀,那是人尽皆知甚至因此忧虑的现实;现在要宣扬的该是中国的政治开 明、思想解放和民情理性。毕竟世界的同一个梦想不是人人都能说英文,而是公认的普世价值。

出典:一五一〇(4月28日現在表示不能)


冉雲飛:至るところ愛国主義のポーズ

2008-04-28 17:19:09 | 中国異論派選訳
冉雲飛:至るところ愛国主義のポーズ

 愛国主義の演技は、最近始まったという人がいるが、じつは中国では古い伝統がある。あまり昔まで遡らなくても、共産党誕生からの愛国主義演技だけで、膨大な「破屍(poseの音訳、訳注:バラバラ死体の意と掛けている)史がある。たとえば、1929年の中東鉄道事件(訳注:張学良のソ連からの中東鉄道強行回収に端を発するソ連軍の北満侵攻事件)では、ソ連が中国の利益を窃取したことは天下に明らかであるが、このとき共産党は「愛国」のために武装してソ連を防衛した。抗日戦争期に彼らはほとんど戦わず、期に乗じて勢力を拡大した。アヘンを生産して財政収入に当て、国難の期に乗じて財をなした。しかし彼らは偽装がうまいので、最後には黒を白と言いくるめて、自分を抗日戦争の大黒柱に仕立て上げてしまった。1945年末から1946年にかけてソ連は中国で多くの財産を強奪した。このことは一世代上の東北人なら絶対に覚えている(彼らは毛深い連中の悪さは日本よりひどかったと言っている)。しかし共産党はソ連兄貴を大歓迎した。彼らはこのような「愛国」なのだ。1949年以降になると愛国「ポーズ」は多くて数え切れない。彼らの党に有利でさえあれば、彼らは相手を愛することを愛国とみなし、たとえばソ連一辺倒になる。もちろん、党の利益と衝突すれば、ソ連を悪人とみなす。要するに、当局の数十年の愛国「ポーズ」の演技の中で、党派利益がはるかに国家利益を凌駕してきたし、党派利益を国家利益にすりかえてきた。そしてこのようなすり替えは愚民化によっておこなわれ、世の中の是非をごまかす効果を上げてきた。たとえば、国共内戦の中共側犠牲者を烈士とみなし、全ての納税者に祭らせることは、党派利益を国家利益の上に置くことである。しかし、我々の数十年の愛国教育基地(訳注:愛国主義教育基地というのは1989年の天安門事件鎮圧以降に共産党が始めた愛国心宣伝の一環として指定された旧跡など)のうち、幾つが当局の党派利益の体現でなかっただろうか? 本当に民族の利益のために戦った抗日烈士の墓の多くが1949年以降破壊されてしまった。重慶の抗戦記念碑は「解放碑」に改名され、また抗戦宣伝の書籍は反動書籍とみなされ大量に廃棄されてしまった(拙文『彼らが廃棄した「反動」書籍を見よ』を参照)。このような歴史改ざんは、1949年以降さまざまな分野に及んでいる。とりわけ教科書は、歴史に対する無知、もしくは多くの間違った理解を生んでいる。

 歴史の改ざんにより彼らの必要とする「愛国主義」を偽造するほかに、彼らは「愛国」主義の人物も偽造する。たとえば、劉文学、雷鋒、黄継光、董存瑞、邱少雲(この三人は抗国連朝鮮支援〔訳注:朝鮮戦争〕の英雄。いわゆる朝鮮支援とはその実はイデオロギー支援、党派利益支援なのに、国の名前で民衆の利益を犠牲にした。現在、沈志華、陳謙諸両氏の研究でこの点が明らかになっている)、頼寧など、挙げればきりがない。これら党派利益人物を使って、小さいうちから子供に愛国という名の愛党を教え込んでいる。まさにこのような愚弄によって、愛国はとっくに愛党の別名になっている。自由と民主主義のない、言論の自由のない、情報公開のない鉄のカーテン国家では、愛国主義がどんなに変質するか、君も少し考えれば理解できる。しかし、彼らはこのようにはなはだしく愚弄された愛国主義によって人々の頭脳を支配し、当局がいつでも愛国主義愚民を利用できるようにし、しかも効果的に彼らが民衆にもたらした災難をごまかし、過ちを決して認めない。過ちを決して認めないばかりか、愛国主義で彼らが民衆にもたらした災難を美化までする。世界の多くの民主国家の著名な人物が愛国主義に多くの批判を加えている。いわんやメディアが無制約かつ完全に当局に支配されている我が国では、愛国主義の災難ははるかに深刻である。愛国主義の災難が中国で頻繁に演じられていることは、人道主義の災難が中国で頻繁に発生しているということである。

 反日デモは演じられた。大使館被弾の抗議行動は演じられた。中米軍用機接触事故の抗議行動は演じられた。私は日本を批判するのが悪いというのではない。また、大使館は爆撃すべきだというのでもない。いわんや米軍機は中国軍機にぶつかるべきだというのでもない。そうではなく、毎回このような「災難」のたびに、彼らは民族的憎悪の感情を扇動することに成功し、国民の民生に対する視線をそらさせ、当局のでたらめな政務のもたらした危機を解消し、党派利益の強化を達成している。そして実質的に民主主義と自由のプロセスを推進するのではなく、むしろ社会を後戻りさせている。今回のチベット問題とオリンピック問題は、本来なら中国を民主的で自由な社会に向かって前進させる良い機会だった。しかし、当局は民主主義、自由、民生問題に努力するのではなく、逆にチベットの自治の訴えの弾圧と民衆の国内民主化への注視を押さえつけることにより、インフレ、経済の下降、国内利益矛盾の先鋭化をごまかし、責任を逃れることに成功した。私はいかなる暴力行為にも同意しない、だから、チベット情勢のコントロールは当然だ。しかし、完全に真相を公開し、報道と言論の自由を保障すべきである。しかし、いま行われているのは一層の粛清と逮捕である。同様に、私はオリンピックのたいまつリレーへの抗議はたいしたことではないと考えるが、それを当局は「聖なる火」に神格化し、国民を愚弄している。たいまつが抗議を受けることが国のメンツを失うかのように民族主義者と愛国主義者のグループをヒステリックに騒がせている。その結果のカルフールボイコット騒ぎだ(もちろんボイコットを通じて、デモの仕方、自分の権利の主張の仕方を学ぶことができるが、わたしは自分の権利の主張はカルフールのボイコットだとは思わない)。このやり方は、毒酒を飲んで渇きを癒すようなもので、将来共産党当局がこうした極端な民族主義の付けを払わなければならないだけでなく、社会全体が、民衆が、重い代償を払わなければならない。極端な民族主義と非理性的な愛国主義は、敵を八百人殺して味方は三千人死ぬ毒薬である。しかし、当局は党派利益のために、自らの非合法な統治の危機を乗り切るために、いかなる代価も惜しまず、情報封鎖で愚弄した民衆を熱狂に駆り立て、国内の民生への視線をそらすことに成功した。

 中国当局のように極端な民族主義と非理性的な愛国主義を利用していたら、当然多くの愛国主義ポーズを演じる人間が出てくる。その中の主な人を上げよう。たいまつを守った障害者の金晶は、数日前までは「愛国主義者」にとっては民族英雄で、大いに尊敬されていた。その後金晶がカルフールボイコットに反対すると、同じこの「愛国主義者」がこれ以上ない下品な言葉で金晶を漢奸、走狗などと悪罵した。まさに手のひらを返すとはこのことだ。合肥のカルフール前では、大人の呼びかけと誘いに、小学生までカルフールをボイコットした。昆明のカルフールの入り口では、ボイコットする者とボイコットに反対する者が対峙し、ボイコット側がミネラルウオーターで反対者を殴った。ある老人(人は「愛国主義」ポーズを演じるのは青年だけだと思っているが、中共の愚民宣伝が非常に成功しているので、一部の人は尊厳のない一生を送らされてきたのに、当局の愚民のたくらみを見抜けないのだ)は、この漢奸の醜い顔を写真にとってネットに公開しろと言っていた。「王千源事件」では、王千源が自主的に自らのチベット問題に対する見方を表明したら(彼女の見方が正しいか否かは、君は議論し批判してもいいが、相手の言論の自由を侵害してはならない)、漢奸と決めつけられ、彼女のプライバシーが公表され、彼女とその家族が脅迫された。さらには完全な当局の代弁者である中央テレビ局までが暴力的かつ侮辱的な言辞で取り上げたことは、恥知らずも甚だしいといわざるを得ない。こんなメディアが反CNNなどと言って恥ずかしくないのか? 私はCNNのカファティ記者のコメントの中の種族主義的な口調には同意しないが、彼が言った60年来中国で大量の暴徒が発生してきた(当局が暴力的で、民衆を愚弄してきたから暴力的で愚昧な民衆が生まれた)、というのはすこしの嘘もない。我々は良心に背かないで正直に言えば、彼が言ったことが事実であると証明できる。反発は、彼がアメリカ人で白人だからに過ぎない。外交部スポークスマン姜瑜はカファティの発言はすべての中国人民を侮辱したといったが、これは彼らの慣用する全称判断(訳注:すべてのAはBであるorでない)の乱用である。たとえ私一人が侮辱と感じないとしても、彼らは全称判断を用いることはできない。彼の言説の中の優越感ないし少なからぬ民族差別には嫌気がさす。しかし、彼の話の中には事実の要素が含まれている。一国の外交部が「厳粛に」CNNが中国政府と中国人民の関係に水をさしたことに反駁するなどということは、それ自体が見掛け倒しで、心中やましいことのある現れである。本当に民衆に敬愛されている政府は他人が水をさすことを恐れるだろうか? 中国のメディアが米国を侮辱するのはよく見るのに、なぜ米国国務省は「厳粛に」中国メディアを批判しないのか? こうしたすべての愛国主義「ポーズ」の演技は、実に拙劣で滑稽である。当局が民衆にこの世界で穏やかに理性的に対応するよう教えず、他人の批判には火に油を注ぎ、一時の危機の転化を企むならば、自業自得になるだろう。当局がこのように民衆を「教化」していたら、どうして全世界が中国を脅威と感じずにいられようか?

 ある友人は、もし英雄と漢奸が金晶のようにレッテルを貼りやすかったら、中国は将来奇観が見られるだろう。すなわちそれは14億人の漢奸で成り立つ国である。泥棒が他人を泥棒呼ばわりするレッテル好きの人も含めて、だれも漢奸呼ばわりの難を逃れることはできない。これはまさに世にもまれな愛国主義の「ポーズ」演技で成り立つ滑稽マンガである。

2008年4月19日成都にて
原文:http://www.my1510.cn/article.php?ebc8e2a79b41fe14