五、「出稼ぎ労働者のための病院」の趙華瓊(ちょうかけい)
2005年11月27日、つまり中央テレビ局が「新聞調査」で「天文学的入院費」を放送した4日後、山東衛生テレビは「趙華瓊:出稼ぎ労働者のための病院」を放送した。
その1ヶ月前の10月27日、「南方週末」の記者戴敦峰は「杭州出稼ぎ労働者病院院長趙華瓊:財産を使い果たして出稼ぎ労働者を治療」の中で、すでにより詳細な調査報道を行っている。
10月28日、新華ネットの焦点網談に「一騎当千の女医医療暴利と戦う、作った出稼ぎ労働者病院が倒産の危機」という記事が発表されると、ネット市民の間で強烈な反響を巻き起こした。12月13日、新華ネットはふたたび、追跡報道「杭州出稼ぎ労働者病院でまた騒動、衛生局長が規則違反と責める」を載せ、趙華瓊事件をクライマックスへと押し上げた。
趙華瓊は寧波の代々医者の家に生まれ、両親とも医者で、5人の兄弟姉妹もみな医者である。この家庭は小さいうちから彼女に「施すことは受けることより楽しい」という道理を教えた。1967年、趙華瓊は寧波の衛生学校卒業後辺鄙な蒼山県の村医者に配属された。まるまる7年の間、彼女は周囲50キロの範囲の医療衛生活動に従事した。そこの貧乏な人は鶏卵1個と交換で1か月分の塩と醤油を得ていたので、彼らが卵を節約できるように、彼女はいつもおなかをすかせて帰って、サツマイモで腹を満たした。
1973年、趙華瓊は病気になって杭州に戻り、杭州の靴工場の医務室で仕事を始めた。1998年に退職後、彼女はある製薬会社で医薬セールスの仕事に応募した。数年間で稼いだお金で、何軒かの家を買った。2001年に、趙華瓊は辞職を決意した。「この業界はあくどすぎる。私はもうこの仕事で稼ぐことはできない」。
趙華瓊は杭州市西部の市街地と農村の境界域に出稼ぎ労働者向けの小さな診療所を開設して、医者一人と看護士一人だけを雇って診療を始めた。一人の出稼ぎ労働者が胃出血で来院したが、診療所では治せないので、彼に2000元を与えて大きな病院へ行かせた。結果、二日後に彼は戻ってきて言った「大病院も点滴するだけで手術はしてくれなかった」。
2004年末、趙華瓊は自分の家を売って500平米の崇一医療外来診療部を設立した。一般疾病の9つの診療科があり、すべての診療科が対外請負はせず、すべての医者が医薬品リベートを受け取らない。彼女の話では、「病院が30元で売る薬は、仕入れ値が5元、残りの25元は診療科、医者がリベートとして持っていく。私のところではすべての医者が一銭もリベートを受け取ってはならず、節約した中間マージン分は患者に回る」。
しかし、この個人で始めた出稼ぎ労働者病院が、よりによって医療行政部門の嫌がらせや締め出しを受けることになる。西湖区衛生局局長楊専成(電話:0571-8796-1856)は記者の取材に次のように答えた。「趙華瓊はすでにわれわれの衛生システムの民衆のため、法令遵守というイメージを傷つけている」。
楊専成の非難に対して、趙華瓊は自分の見解を述べている。10月初め一人の出稼ぎ労働者が生後5ヶ月の子供をつれて彼女を訪ねた。子供は先天性の心臓病で、手術にすでに5万元を使っていた。出稼ぎ労働者は「趙先生、私はもうどうしようもない。大病院には行けないから、食塩水を点滴して炎症を抑え、何とか持ちこたえさせてください」と言った。超医師は外来診療部に専門の小児科医師がいないのではじめは診察を断った。出稼ぎ労働者は彼女に尋ねた「出稼ぎ労働者の子供は人間じゃないんですか?先生が診てくれなかったら、連れ帰って死ぬのを待つだけです。」と言った。
趙華瓊は出稼ぎ労働者の願いを断りきれずこの赤ん坊を診たために、法令違反で西湖区衛生局から1000元の罰金を徴収された。趙華瓊はそのためにひとしきり泣いた。なぜなら、この罰金記録があるために、崇一外来診療部は省医療保険指定医からはずされる可能性が大きいからだ。
それからこういうこともあった。ある出稼ぎ労働者が犬に咬まれて、狂犬病のワクチンを買った。出稼ぎ労働者の家には冷蔵庫がないため、趙華瓊のところに置いてもらおうと思った。なぜなら、防疫站でワクチンを注射すると手数料を取られるが、崇一外来診療部だと無料だからだ。「法律上は確かに私が間違っている。だけど出稼ぎ労働者の必死の願いを無視することができますか?」と趙華瓊は記者に聞き返した。「あなたは出稼ぎ労働者に向かって、あなたの病気を治療したら私が罰金を課せられるから、診られないといえますか?」。
それからこういうこともあった。江西省贛州市于都県禾豊鎮黄田村の農民丁俊華と妻華清英が、熱湯で太ももにやけどをした女の赤ん坊を連れて外来診療部にきた。その話では、数日前に子供を筧橋病院の熱傷科に連れて行ったが、病院は1万3千元の前金を払わないと診療しないといったが、金を集められなかったのでここに来たという。趙華瓊の規則違反の治療で、患者の両親はわずか200元の費用で子供の痛みを直すことができた。
こうしてみると、本当に出稼ぎ労働者に公共医療サービスを提供しているのは趙華瓊と彼女の外来診療部であり、本当に国民に公共医療サービスを提供しなければならないのは西湖区衛生局である。自分では権限を握りながら実行はしないという独占権力と部門利益を維持するために、趙華瓊の人を以って本となし、病を治して人を救うという天職を剥奪しようとしている。法律や規則は、楊専成が自分の非人道的、反人道的な部門権力を維持するための道具となっている。
さらに「杭州日報」記者の葛婷婷の2006年4月19日の報道記事「香港の客が善意の医師趙華瓊に会った」によると、趙華瓊の赤字続きだった外来診療部はすでに収入と支出が均衡した。しかしそれでも、彼女は巨額の債務を返済できない。外来診療部の賃料ももうすぐ支払期限が来るが、まだ金が準備できない。中国で最初の命を救い傷を治すことを第一目標とする出稼ぎ労働者病院は、依然として生死の境をさまよっている。
(参照:崇一外来診療部のホームページはこちら:http://www.hzchongyi.com/index.asp)
六、病院が救命金を奪う
北京で仕事をしている国家公務員として、私は今でも公費負担80%の公費医療を享受している。ただ自分が丈夫なのと面倒なので、ほとんど病院でこの特権を享受することはない。たまに持病が出ても、近所の薬屋で大衆薬を買ってきて自分で解決する。しかし、いったん病院に行ったら、医者に安い薬を処方してくれと何度も頼んでも、薬代は300元以上にはなる。私が享受する非常に限られた制度的優位と比べると、外地企業の従業員の保障は非常に頼りない。
2005年11月13日、中央テレビ局「焦点訪談」で「病院が医療保険をだますとは」を放送した。内容は江蘇省連雲港市の鉱山病院で、患者の医療費を実際より多く報告したり、ニセの入院患者を申請したりして、医療保険基金から金を騙し取っていたというものだった。「1998年、わが国で都市従業員基本医療保険制度がスタートし、保健に参加した事業所と個人は医療保険費を医療保険管理部門に納付し、従業員が病気になったら一定の補償を得られる。とりわけ、一部の生活困窮従業員にとっては、その金は彼らの救命金である。しかし、連雲港市の一部の病院では、この救命金を狙った者がいた」。
連雲港市鉱山病院入院部内科病棟で、記者が任意に林蘭英と陳家艶という二人のカルテを引き抜いた。連雲港市医療保険処の薬代計算書によると、この二人の患者は入院期間中にいずれも医療費が1900元かかった。一方、病院の入院患者の毎日の薬消費量を見ると、当時の内科病棟の入院患者はわずか4人だが、その中に林蘭英と陳家艶どちらの名前もなかった。さらに調査を進めると、記者はこの病院がニセの患者登録をしていることが明らかになった。検査をすり抜けるために、鉱山病院はこのニセ患者についてワンセットのカルテを作っていた。ニセの患者を使って騙し取った医療保険は、病院の電気・水道代、従業員の賃金と報奨金に使われていた。
2006年4月12日、中央テレビ局「焦点訪談」は再び「男の院長が女性病棟に『入院』していた」という番組を放送した。それによると、安徽省蚌埠(ぼうふ)市伝染病病院では、「登録ベッド」というやり方で医療保険基金を騙し取っていた。記者が病院の病室で名札には17号と18号のベッドは患者がいるのに、実際にはその二つのベッドはずっと空いていることを発見する。51号と55号のベッドも同様だった。記者が40号のベッドを調べて、このベッドは当該病院の男性の院長陳継齢が入院していることを発見する。彼の生化学的検査データ、入院カルテはいずれも偽造されたものだった。果ては何を間違ったか、女性病室に「入院」していた。調査によると、ニセの入院患者は「登録ベッド」と呼ばれ、病院が医療保険加入者の名前を使って入院手続きをし、本人はまったく入院していなくても、検査、生化学的検査、注射、服薬などの出費はすべて医療保険で支払われていた。
さらにインタビューを重ねて、記者は「登録ベッド」は病院の経営層が相談して決めたことだと知った。2005年12月28日に開かれた病院中間管理職会議で、病院の副院長張翼は今年二月から「登録ベッド」を大幅に増やす手配をしていた。
七、医療保障の邪悪な制度
医療体制改革に関するにぎやかな議論の中で、もっともよくその弊害を突いているのは北京大学光華管理学院の張維迎教授である。彼は2006年4月4日に「健康報」に発表した「医療体制改革の主要問題は政府独占である」という文章の中で次のように書いている。「最近医療体制改革に関する議論が非常に多い、非常に広く流布している説は、現在の医療体制の問題を市場化改革のせいだという。私が思うに、この見解には根拠がない。市場の最も重要な一面は、自由な参入退場であるが、改革開放以降、医療業界は基本的に国家独占である。……政府自身がうまくできないのに、他人にやらせないことが、深刻な医療供給不足をもたらした。常識的には、社会の医療サービスに対する需要の伸びは経済成長よりも高いはずである。しかし、中国の医療サービスの成長ははるかに個人収入の成長より低い。簡単な例を挙げると、1978年から2004年までの中国のGDP成長は10倍近いが、医療衛生機関のベッド数はわずか60%増えただけである。政府独占が中国全体の医療サービスの深刻な不足を招き、医療費の異常な高騰を招いただけでなく、現在のさまざまな問題も招来したのだ」。
言い換えると、医療保障体制を含む中国社会の根本問題は、「苛酷な政治はトラよりも恐ろしい」という問題である。あるいは、公的権力が数値化可能かつ操作可能な制度的ルールの効果的な監督と強力な制約を受けていないという問題である。いわゆる社会主義制度は、実際のところは公的権力を掌握した共産党政府官僚がやりたい放題に国民の私有財産を国家の公有とし、その後で国有のものを党派の私物やはては個人の私物とする強盗式の邪悪な制度である。そのもっとも根本的な強盗論理は「俺の物は俺の物、おまえの物も俺の物」という野蛮な共産主義である。毛沢東時代と現下の中国社会の違いは、前者がいかに良かったか後者がいかに腐敗しているかということではなく、前者が毛沢東一人だけに国家政治権力を凌駕してほしいままに自分の残忍なオオカミ性を発散することを認めたのに対し、後者がすべての公共権力と公共権力を掌握している者がみな自分の勢力範囲の中で法律をしのぐ権力をふるって邪悪なオオカミ性を発揮できるという違いである。
医療保障体制についていえば、裸足の医者がどんな病気も診た低級保障状態を懐かしむノスタルジアにも注目すべきである。その中で最も代表的かつ最も現実から隔たっているのは、台湾成功大学医学院公衆衛生研究所の陳美霞教授の長編論文「大逆転:中華人民共和国の医療衛生体制改革」である。朱鎔基が推進した経済改革の最大の誤りは、不健全でしかも不公正な公費医療と公費教育制度を徹底的に壊してしまったことである。その結果、この二つの最低限の社会保障の最低ラインを破壊してしまった。たとえそうであっても、医療衛生体制改革を丸ごと元に戻す「大逆転」は、どうやっても不可能である。
中国の農民が本当にお腹いっぱい食べられるようになったのは、1978年の農地戸別請負制以後のことである。農村乳児死亡率の減少もまた、中国の農民がお腹いっぱい食べられるようになってからのことである。1978年以前の「文化大革命」時代、私は学校が引けるとよく山の奥の深い谷まで羊の放牧に行った。数日おきに谷底に死んだ子供を入れた竹かごが捨てられているのを見た。私の下の妹は1971年生まれだが、裸足の医者が取り上げたのではなく、私と同じく村の産婆が取り上げた。私自身はもっとひどい裸足の医者医療体制の被害者である。子供時代は栄養不良と寒さでしばしばひどい風邪をひいた。風邪をひいた時に裸足の医者からもらえるのは、きまって症状にあっていない白い大安片(訳注:スルファジアジン錠。サルファ系抗菌剤)何粒かと、自家製の漢方薬錠剤何粒かである。そのうちに、かぜは一日中鼻水の出る蓄膿症となった。冬になると、綿入れの袖口は鼻水を拭く最良の道具となり、両方の袖口はこすられてぴかぴかになった。北京に来てから私は2回鼻の手術をしたが、数十年続く持病を根治することはできなかった。いわゆる裸足の医者は、その大部分が農作業をしないで高い労働点数を稼げる貧農下層中農子弟と勉強のできない郷鎮役人の子弟だった。
結論としては、現下の中国の医療保障制度を改善する根本的な道は、人を以って本となす立憲民主制の構築であり、実行可能かつ有効な法的手続きと制度ルールにより、市場法則や法律制度までも凌駕する独占権力の手を強力に監督することである。張維迎の言葉を借りれば、「米国は今現在、非営利団体のGDP比は5%だが、60%のコミュニティ病院は非営利団体の経営であり、それが入院ベッドの70%を提供し、30%の看護サービスを提供している。これらの事実は我々の参考になるだろう。私が思うに最も重要なのは病院市場を開放し、非国有や私人の資本さらには外国資本が病院に参入することを許すことである。政府は病院を運営する責任があり、基本的医療保険を提供する義務がある。しかし政府には私人や政府以外の組織が病院を経営するのを制限する権利はない」。
「人と人権」2006年7月号より転載
http://www.renyurenquan.org/ryrq_article.adp?article_id=473
2005年11月27日、つまり中央テレビ局が「新聞調査」で「天文学的入院費」を放送した4日後、山東衛生テレビは「趙華瓊:出稼ぎ労働者のための病院」を放送した。
その1ヶ月前の10月27日、「南方週末」の記者戴敦峰は「杭州出稼ぎ労働者病院院長趙華瓊:財産を使い果たして出稼ぎ労働者を治療」の中で、すでにより詳細な調査報道を行っている。
10月28日、新華ネットの焦点網談に「一騎当千の女医医療暴利と戦う、作った出稼ぎ労働者病院が倒産の危機」という記事が発表されると、ネット市民の間で強烈な反響を巻き起こした。12月13日、新華ネットはふたたび、追跡報道「杭州出稼ぎ労働者病院でまた騒動、衛生局長が規則違反と責める」を載せ、趙華瓊事件をクライマックスへと押し上げた。
趙華瓊は寧波の代々医者の家に生まれ、両親とも医者で、5人の兄弟姉妹もみな医者である。この家庭は小さいうちから彼女に「施すことは受けることより楽しい」という道理を教えた。1967年、趙華瓊は寧波の衛生学校卒業後辺鄙な蒼山県の村医者に配属された。まるまる7年の間、彼女は周囲50キロの範囲の医療衛生活動に従事した。そこの貧乏な人は鶏卵1個と交換で1か月分の塩と醤油を得ていたので、彼らが卵を節約できるように、彼女はいつもおなかをすかせて帰って、サツマイモで腹を満たした。
1973年、趙華瓊は病気になって杭州に戻り、杭州の靴工場の医務室で仕事を始めた。1998年に退職後、彼女はある製薬会社で医薬セールスの仕事に応募した。数年間で稼いだお金で、何軒かの家を買った。2001年に、趙華瓊は辞職を決意した。「この業界はあくどすぎる。私はもうこの仕事で稼ぐことはできない」。
趙華瓊は杭州市西部の市街地と農村の境界域に出稼ぎ労働者向けの小さな診療所を開設して、医者一人と看護士一人だけを雇って診療を始めた。一人の出稼ぎ労働者が胃出血で来院したが、診療所では治せないので、彼に2000元を与えて大きな病院へ行かせた。結果、二日後に彼は戻ってきて言った「大病院も点滴するだけで手術はしてくれなかった」。
2004年末、趙華瓊は自分の家を売って500平米の崇一医療外来診療部を設立した。一般疾病の9つの診療科があり、すべての診療科が対外請負はせず、すべての医者が医薬品リベートを受け取らない。彼女の話では、「病院が30元で売る薬は、仕入れ値が5元、残りの25元は診療科、医者がリベートとして持っていく。私のところではすべての医者が一銭もリベートを受け取ってはならず、節約した中間マージン分は患者に回る」。
しかし、この個人で始めた出稼ぎ労働者病院が、よりによって医療行政部門の嫌がらせや締め出しを受けることになる。西湖区衛生局局長楊専成(電話:0571-8796-1856)は記者の取材に次のように答えた。「趙華瓊はすでにわれわれの衛生システムの民衆のため、法令遵守というイメージを傷つけている」。
楊専成の非難に対して、趙華瓊は自分の見解を述べている。10月初め一人の出稼ぎ労働者が生後5ヶ月の子供をつれて彼女を訪ねた。子供は先天性の心臓病で、手術にすでに5万元を使っていた。出稼ぎ労働者は「趙先生、私はもうどうしようもない。大病院には行けないから、食塩水を点滴して炎症を抑え、何とか持ちこたえさせてください」と言った。超医師は外来診療部に専門の小児科医師がいないのではじめは診察を断った。出稼ぎ労働者は彼女に尋ねた「出稼ぎ労働者の子供は人間じゃないんですか?先生が診てくれなかったら、連れ帰って死ぬのを待つだけです。」と言った。
趙華瓊は出稼ぎ労働者の願いを断りきれずこの赤ん坊を診たために、法令違反で西湖区衛生局から1000元の罰金を徴収された。趙華瓊はそのためにひとしきり泣いた。なぜなら、この罰金記録があるために、崇一外来診療部は省医療保険指定医からはずされる可能性が大きいからだ。
それからこういうこともあった。ある出稼ぎ労働者が犬に咬まれて、狂犬病のワクチンを買った。出稼ぎ労働者の家には冷蔵庫がないため、趙華瓊のところに置いてもらおうと思った。なぜなら、防疫站でワクチンを注射すると手数料を取られるが、崇一外来診療部だと無料だからだ。「法律上は確かに私が間違っている。だけど出稼ぎ労働者の必死の願いを無視することができますか?」と趙華瓊は記者に聞き返した。「あなたは出稼ぎ労働者に向かって、あなたの病気を治療したら私が罰金を課せられるから、診られないといえますか?」。
それからこういうこともあった。江西省贛州市于都県禾豊鎮黄田村の農民丁俊華と妻華清英が、熱湯で太ももにやけどをした女の赤ん坊を連れて外来診療部にきた。その話では、数日前に子供を筧橋病院の熱傷科に連れて行ったが、病院は1万3千元の前金を払わないと診療しないといったが、金を集められなかったのでここに来たという。趙華瓊の規則違反の治療で、患者の両親はわずか200元の費用で子供の痛みを直すことができた。
こうしてみると、本当に出稼ぎ労働者に公共医療サービスを提供しているのは趙華瓊と彼女の外来診療部であり、本当に国民に公共医療サービスを提供しなければならないのは西湖区衛生局である。自分では権限を握りながら実行はしないという独占権力と部門利益を維持するために、趙華瓊の人を以って本となし、病を治して人を救うという天職を剥奪しようとしている。法律や規則は、楊専成が自分の非人道的、反人道的な部門権力を維持するための道具となっている。
さらに「杭州日報」記者の葛婷婷の2006年4月19日の報道記事「香港の客が善意の医師趙華瓊に会った」によると、趙華瓊の赤字続きだった外来診療部はすでに収入と支出が均衡した。しかしそれでも、彼女は巨額の債務を返済できない。外来診療部の賃料ももうすぐ支払期限が来るが、まだ金が準備できない。中国で最初の命を救い傷を治すことを第一目標とする出稼ぎ労働者病院は、依然として生死の境をさまよっている。
(参照:崇一外来診療部のホームページはこちら:http://www.hzchongyi.com/index.asp)
六、病院が救命金を奪う
北京で仕事をしている国家公務員として、私は今でも公費負担80%の公費医療を享受している。ただ自分が丈夫なのと面倒なので、ほとんど病院でこの特権を享受することはない。たまに持病が出ても、近所の薬屋で大衆薬を買ってきて自分で解決する。しかし、いったん病院に行ったら、医者に安い薬を処方してくれと何度も頼んでも、薬代は300元以上にはなる。私が享受する非常に限られた制度的優位と比べると、外地企業の従業員の保障は非常に頼りない。
2005年11月13日、中央テレビ局「焦点訪談」で「病院が医療保険をだますとは」を放送した。内容は江蘇省連雲港市の鉱山病院で、患者の医療費を実際より多く報告したり、ニセの入院患者を申請したりして、医療保険基金から金を騙し取っていたというものだった。「1998年、わが国で都市従業員基本医療保険制度がスタートし、保健に参加した事業所と個人は医療保険費を医療保険管理部門に納付し、従業員が病気になったら一定の補償を得られる。とりわけ、一部の生活困窮従業員にとっては、その金は彼らの救命金である。しかし、連雲港市の一部の病院では、この救命金を狙った者がいた」。
連雲港市鉱山病院入院部内科病棟で、記者が任意に林蘭英と陳家艶という二人のカルテを引き抜いた。連雲港市医療保険処の薬代計算書によると、この二人の患者は入院期間中にいずれも医療費が1900元かかった。一方、病院の入院患者の毎日の薬消費量を見ると、当時の内科病棟の入院患者はわずか4人だが、その中に林蘭英と陳家艶どちらの名前もなかった。さらに調査を進めると、記者はこの病院がニセの患者登録をしていることが明らかになった。検査をすり抜けるために、鉱山病院はこのニセ患者についてワンセットのカルテを作っていた。ニセの患者を使って騙し取った医療保険は、病院の電気・水道代、従業員の賃金と報奨金に使われていた。
2006年4月12日、中央テレビ局「焦点訪談」は再び「男の院長が女性病棟に『入院』していた」という番組を放送した。それによると、安徽省蚌埠(ぼうふ)市伝染病病院では、「登録ベッド」というやり方で医療保険基金を騙し取っていた。記者が病院の病室で名札には17号と18号のベッドは患者がいるのに、実際にはその二つのベッドはずっと空いていることを発見する。51号と55号のベッドも同様だった。記者が40号のベッドを調べて、このベッドは当該病院の男性の院長陳継齢が入院していることを発見する。彼の生化学的検査データ、入院カルテはいずれも偽造されたものだった。果ては何を間違ったか、女性病室に「入院」していた。調査によると、ニセの入院患者は「登録ベッド」と呼ばれ、病院が医療保険加入者の名前を使って入院手続きをし、本人はまったく入院していなくても、検査、生化学的検査、注射、服薬などの出費はすべて医療保険で支払われていた。
さらにインタビューを重ねて、記者は「登録ベッド」は病院の経営層が相談して決めたことだと知った。2005年12月28日に開かれた病院中間管理職会議で、病院の副院長張翼は今年二月から「登録ベッド」を大幅に増やす手配をしていた。
七、医療保障の邪悪な制度
医療体制改革に関するにぎやかな議論の中で、もっともよくその弊害を突いているのは北京大学光華管理学院の張維迎教授である。彼は2006年4月4日に「健康報」に発表した「医療体制改革の主要問題は政府独占である」という文章の中で次のように書いている。「最近医療体制改革に関する議論が非常に多い、非常に広く流布している説は、現在の医療体制の問題を市場化改革のせいだという。私が思うに、この見解には根拠がない。市場の最も重要な一面は、自由な参入退場であるが、改革開放以降、医療業界は基本的に国家独占である。……政府自身がうまくできないのに、他人にやらせないことが、深刻な医療供給不足をもたらした。常識的には、社会の医療サービスに対する需要の伸びは経済成長よりも高いはずである。しかし、中国の医療サービスの成長ははるかに個人収入の成長より低い。簡単な例を挙げると、1978年から2004年までの中国のGDP成長は10倍近いが、医療衛生機関のベッド数はわずか60%増えただけである。政府独占が中国全体の医療サービスの深刻な不足を招き、医療費の異常な高騰を招いただけでなく、現在のさまざまな問題も招来したのだ」。
言い換えると、医療保障体制を含む中国社会の根本問題は、「苛酷な政治はトラよりも恐ろしい」という問題である。あるいは、公的権力が数値化可能かつ操作可能な制度的ルールの効果的な監督と強力な制約を受けていないという問題である。いわゆる社会主義制度は、実際のところは公的権力を掌握した共産党政府官僚がやりたい放題に国民の私有財産を国家の公有とし、その後で国有のものを党派の私物やはては個人の私物とする強盗式の邪悪な制度である。そのもっとも根本的な強盗論理は「俺の物は俺の物、おまえの物も俺の物」という野蛮な共産主義である。毛沢東時代と現下の中国社会の違いは、前者がいかに良かったか後者がいかに腐敗しているかということではなく、前者が毛沢東一人だけに国家政治権力を凌駕してほしいままに自分の残忍なオオカミ性を発散することを認めたのに対し、後者がすべての公共権力と公共権力を掌握している者がみな自分の勢力範囲の中で法律をしのぐ権力をふるって邪悪なオオカミ性を発揮できるという違いである。
医療保障体制についていえば、裸足の医者がどんな病気も診た低級保障状態を懐かしむノスタルジアにも注目すべきである。その中で最も代表的かつ最も現実から隔たっているのは、台湾成功大学医学院公衆衛生研究所の陳美霞教授の長編論文「大逆転:中華人民共和国の医療衛生体制改革」である。朱鎔基が推進した経済改革の最大の誤りは、不健全でしかも不公正な公費医療と公費教育制度を徹底的に壊してしまったことである。その結果、この二つの最低限の社会保障の最低ラインを破壊してしまった。たとえそうであっても、医療衛生体制改革を丸ごと元に戻す「大逆転」は、どうやっても不可能である。
中国の農民が本当にお腹いっぱい食べられるようになったのは、1978年の農地戸別請負制以後のことである。農村乳児死亡率の減少もまた、中国の農民がお腹いっぱい食べられるようになってからのことである。1978年以前の「文化大革命」時代、私は学校が引けるとよく山の奥の深い谷まで羊の放牧に行った。数日おきに谷底に死んだ子供を入れた竹かごが捨てられているのを見た。私の下の妹は1971年生まれだが、裸足の医者が取り上げたのではなく、私と同じく村の産婆が取り上げた。私自身はもっとひどい裸足の医者医療体制の被害者である。子供時代は栄養不良と寒さでしばしばひどい風邪をひいた。風邪をひいた時に裸足の医者からもらえるのは、きまって症状にあっていない白い大安片(訳注:スルファジアジン錠。サルファ系抗菌剤)何粒かと、自家製の漢方薬錠剤何粒かである。そのうちに、かぜは一日中鼻水の出る蓄膿症となった。冬になると、綿入れの袖口は鼻水を拭く最良の道具となり、両方の袖口はこすられてぴかぴかになった。北京に来てから私は2回鼻の手術をしたが、数十年続く持病を根治することはできなかった。いわゆる裸足の医者は、その大部分が農作業をしないで高い労働点数を稼げる貧農下層中農子弟と勉強のできない郷鎮役人の子弟だった。
結論としては、現下の中国の医療保障制度を改善する根本的な道は、人を以って本となす立憲民主制の構築であり、実行可能かつ有効な法的手続きと制度ルールにより、市場法則や法律制度までも凌駕する独占権力の手を強力に監督することである。張維迎の言葉を借りれば、「米国は今現在、非営利団体のGDP比は5%だが、60%のコミュニティ病院は非営利団体の経営であり、それが入院ベッドの70%を提供し、30%の看護サービスを提供している。これらの事実は我々の参考になるだろう。私が思うに最も重要なのは病院市場を開放し、非国有や私人の資本さらには外国資本が病院に参入することを許すことである。政府は病院を運営する責任があり、基本的医療保険を提供する義務がある。しかし政府には私人や政府以外の組織が病院を経営するのを制限する権利はない」。
「人と人権」2006年7月号より転載
http://www.renyurenquan.org/ryrq_article.adp?article_id=473