思いつくまま

みどりごを殺す「正義」はありや?
パレスチナ占領に反対します--住民を犠牲にして強盗の安全を守る道理がどこにあろう

章詒和《聲明》

2007-02-01 10:37:59 | Weblog
按:章詒和《聲明》刊於2007年1月20日台北《中國時報》。

2007年1月11日,在全國圖書定貨會開幕當日,中國新聞出版署召集了一個「通風會」。會上,副署長鄔書林先生以宣讀方式公佈了一份「2006出版違規書選」,被點名的書裏,《伶人往事》列於三。鄔先生對出版此書的湖南文藝出版社說(大意):「這個人(即指作者)已經反復打過招呼,她的書不能出,……你們還真敢出……對這本書是因人廢書。」接著,自然是對該社的嚴懲處。

鄔先生這裏說的「這個人」,指的就是我了。我是誰?我是從事戲曲研究的老研究人員,是中國民主同盟的老盟員,是退休在家的孤寡老婦。六十歲的時候,我拿起了筆,寫起了往事。先說的是父輩故事,後講的是伶人傳奇。第一本書被禁(即「賣完了,就別再版了」)。據說這是應中央統戰部的要求,其間無任何權力機關和政府官員對我本人實施侵害。這次,鄔先生沒有對《伶人往事》做出任何評價,對我卻實施了個人權利的侵害。我們的憲法有明文規定:「中華人民共和國公民有言論、出版、集會、結社、遊行、示威的自由。」他的「因人廢書」,直指我本人,直接剝奪我的出版權,而這是一個公民的基本權利。
我知道 - 在鄔先生的眼裏,章詒和是右派。好,就算我是右派。那麼,我要問:右派是不是公民?在當代中國,一個右派就不能說,不能寫了嗎?誰都知道,只要是個社會,就有左中右,其中的左派永遠是少數。我們這個國家是不是只許左派講話、出書?廣大的中間派和右派只有閉嘴。果真如此的話,我們的憲法應當立即修改,寫明容許哪些人出書,享有公民的基本權利;不容許哪些人出書,不能享有公民的基本權利(其實,現在某些左派和左派官員出書之難,並不在我之下)。鄔先生,您是什麼派?您代表誰?在就前不久,溫家寶總理在公開場合表示 - 希望並要求中國的作家和藝術家能講真話。言猶在耳哪!通風會就發出了這樣的聲音,宣佈了這樣的措施。新聞署是國家行政機構,這不是和國務院對著幹嗎?鄔先生,您到底要幹什麼?

借此機會,我想說明這樣一個態度:從提筆的那一刻起,我就沒想當什麼社會精英,想去寫什麼什麼「大」歷史。我只描述了與個人經驗、家族生活相關的瑣事,內裏有苦難,有溫馨,還有換代之際的世態人情。我的寫作衝動也很十分明確:一個從地獄中出來的人對天堂的追求和嚮往。因為第一本書裏的張伯駒、羅隆基,第二本書裏的馬連良,第三本書裏的葉盛蘭、葉盛長連同我的父母,都在那裏呢。「他們在天國遠遠望著我,目光憐憫又慈祥」。

再鄭重地重復一遍:我不會放棄對公民基本權利的維護,因為它維繫著一個人的尊嚴和良知。鄔先生的行為是違反憲法的!從精神到程式,他都沒有遵守。官場可以盛行「一致通過」,面對領導人可以做到「聆聽教誨」;與此同時,是否也可以給草民騰出一點兒空間:給他們留下一張嘴,叫他們說說;給他們留下一隻筆,讓他們寫寫。和諧社會的搭建不是靠勒緊,它需要的恰恰是鬆動。
前兩本書的被封殺,我均以「不在乎」對應之。但事不過三。這次,我在乎,很在乎!鄔先生,告訴您:我將以生命面對你的嚴重違法行為。祝英台能以生命維護她的愛情,我就能以生命維護我的文字。

遵守憲法的首先當是政府。您是一位高官,自然比我清楚。

章詒和
2007年1月19日

(章詒和《聲明》全文完)


「右派」生存者50年後の訴え

2007-02-01 10:27:24 | 中国異論派選訳
香港「明報」2007年1月28日

今年は中国共産党「反右派」運動50周年である。一群の反右派運動の生存者と被害者の遺族が、ここ数年次々と立ち上がって、連名や単独で中国共産党中央委員会および関係部門に陳情し、中国共産党が右派を完全に名誉回復し、反右派運動を反省し、被害者と遺族の物質的精神的な損害を賠償するよう要求している。かつて右派だった学者は、賠償要求ブームの出現は民衆の権利意識の目覚めを示していると語る。

今回の「陳情ブーム」の中でもっとも有名なのは山東大学の数名の「右派」生存者が連名で出した。明報は発起人の一人、山東大学付属中学退職教師李昌玉の話しとして次のように書いている。署名活動は2005年末から始まり、3ヶ月のうちに各地の1000名を越える生存者と遺族の署名を集めた。しかし、当局の圧力を受け、署名活動は停止に追い込まれた。だがその後も、多くの人が直接北京や関係部門に陳情書を送っている。

1957年の「最大の右派」で、中国民主同盟の創設者の一人章伯鈞(しょうはくきん)の娘章詒和(しょういわ)が、最近その著書『伶人往事』が中国共産党によって販売禁止とされたことに公然と抗議し、内外の注目を集めた。章詒和は、北京でも一群の生存者や遺族が活動しており、完全な名誉回復と賠償を要求していると話している。

彼女によると、1979年中国共産党は右派を訂正した時、目立たないように処理し、1枚の「訂正書」を交付しただけで、謝罪もなければ総括もなかった。当時右派とされた55万人の内、今でも生きているのは半数に満たない。生きていても70歳以上である。彼ら心身に深い傷を負った老人の先は長くない。彼らと彼らの巻き添えになった配偶者と子女が当局を訴え、物質的精神的補償求めるのは当然である。

金銭は被害者の損失を埋めることはできないが、多くの被害者は金銭賠償を自分のために要求するのではなく、中国民主基金を設立し、中国の人権擁護と民主主義の発展に役立てたいのであると章詒和は語る。

北京大学物理学部の3年生だったときに右派とされた燕遯符(えんとんふ)女史は、1995年に北京大学に手紙を出し、学校側に謝罪と賠償を要求した。10年待っても回答がないので、彼女は再び北京大学学長宛に手紙を送り、学校側の謝罪と賠償を要求し、あわせて賠償金を同窓会基金に寄付すると伝えた。

1957年に右派とされ、その後中国共産党中央党学校理論室副主任と中国政治体制改革研究会幹事長を務めた杜光則は、右派が問題が訂正されてから20年余り経って始めて賠償要求を始めたのは、権利意識の覚醒にそれだけの時間がかかったからだと語る。彼は、当局と民間でこれに対応した適当な措置をとり、反右派運動を引き起こした制度的な根源を清算し、独裁主義の現在の政治における影響を一掃することを望んでいる。

1957年の反右派運動は、毛沢東が「陽謀」とよび、もともとの党内の粛清が全国民的な右派粛清に拡大し、多くの政界、文化教育界、商工業界の上層部の人物が粛清された。しかも、矛先は社会でもっとも活気のある知識人と青年学生にも向けられ、政治に関心のない平民にも及んだ。「右派分子の帽子(レッテル)」をかぶらされた人数は当局側の統計で55万人を超え、学者の丁抒(『陽謀』という著書がある)の研究によると、レッテルを貼られた人は150万人から200万人で、彼らは解雇されたり降格されたり、監視つき労働になったり、「労働教養キャンプ」に収容されたりし、その後有罪とされたり刑を加重されたりした。(了)

原文:
http://www.chinaaffairs.org/
gb/detail.asp?id=70535