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「王直墓」騒動と学術成果社会還元の重要性

2006-08-21 21:23:03 | 中国異論派選訳
沈登苗(浙江省に住む在野の歴史研究者)

2005年1月22日、日本人が安徽省歙県(しょうけん)で民族の裏切り者王直のために墓を建立したという『新民晩報』のニュースが伝わると、たちまち国をあげて非難の声があがった。国家の尊厳を傷つけるとか、中国人に恥をかかせたと言うものあり、墓を破壊せよと要求するものあり、地方政府を責めるものあり、これは挑発行為だというものあり、・・・・・・あたかもこの行為が本当に前代未聞の奇妙な出来事であるかのように、日本の「友人」と安徽省地方当局はあまりに度を越しているというのだ。その結果、墓は二人の大学教員によって破壊された。しかし、中国人はこんなに怒る必要はない。王直の功罪については歴史的評価がある。

王直(?-1559)という人を理解するには、まずこの半世紀中国歴史学界において最も議論されているテーマの一つである「嘉靖倭寇」についての論争から始めなければならない。

明代嘉靖年間(1522-1566)、わが国の東南沿海地区で日本人が加わった大規模な略奪殺戮が発生した。動乱は調停によって平定されたが、十数年の戦争によって、この最良の地は惨憺たる損害をこうむり、国力も衰えた。史上これを「嘉靖倭寇」と称する。

嘉靖倭寇の性格などの問題については、400年余り前の当事者のころから議論がある。しかし、正統派の観点は一貫して、嘉靖倭寇は日本の海賊の中国に対する侵略であり、中国の倭寇攻撃は正義の戦いである、というものである。しかし、20世紀の、とりわけ1980年以降、林仁川、陳抗生、戴裔煊(けん)等を代表とする中国大陸の歴史学者が、伝統の正統派の観点の再検討を始めた。彼らの考え方はおおむね以下のようにまとめることができる。
(1)朝廷の厳格な海禁(人民の海上進出と、外国人との私的な交流を禁止する政策)が、東南沿海人民の生活を脅かしたので、商人・民衆が倭寇、盗賊になったのが「嘉靖倭寇」である。その実質は中国の海上商人が指導し、幅広く破産農民、手工業者及びその他の下層人民が参加した反海禁闘争である。それは中国資本主義萌芽のメルクマールであり、この闘争は朝廷に限定的な開放を迫った。
(2)「倭寇」の首領と主要メンバーは大部分が中国人であり、少数の日本人も中国商人の支配下にあった。よって、嘉靖「倭寇」は、異民族の侵略ではない。
(3)16世紀中葉、対外通商は人民の利益と時代の発展の方向を代表していた。よって、海禁と海商討伐は歴史の流れに逆らう動きであり、その結果東南の最良の地の社会が破壊されたことの主な責任は統治者が負うべきである。
(4)嘉靖倭寇討伐は中国をして西洋列強との平等な対話と社会転換の機会を失わせ、中国近代社会の発展あゆみを遅れさせた。よって、王直たちの悲劇は、中華民族の悲劇でもある。
以上の観点を、学術界では「新論」と呼ぶ。

しかし、陳学文、郝毓楠、範中義、張顕清などを代表とする学者は、いまだに倭寇とは日本の海賊で、嘉靖倭寇討伐は異民族の侵略を防いだ正義の戦争であるという観点を堅持している。筆者が収集した100篇近くの論文を分析したところ、文章の数でも、作者の比率でも、今までのところ論争は均衡状態にあり、どちらも相手を説得し切れていない。しかし、全体の流れとしては新論を受け入れる学者が増加し、影響が拡大している。

国際的に見ると、嘉靖倭寇研究は主に中国、台湾、日本で行われている。台湾と日本の学界の観点は中国の新論に似ている。よって、国際的な明史学界では、新論がすでに圧倒的に優勢である。もし我々がこの国際学界の主流を見逃せば、王直の功罪は明らかにすることはできない。

王直(明史によると「汪直」)号は五峰、安徽省歙県の人である。唐力行先生の考証によると、王直はもとの姓を汪と云ったが、海上密貿易に携わるため、やむなく、苗字を改めた。王直は嘉靖年間の中国海上商人の首領である。嘉靖31年(1552年)2月、王直は(舟山列島の)定海関に入り、当局がもう一人の首領を討伐するのに協力して、「勝利をささげて関にぬかずき、貿易の許可を求めた」が許されなかった。ここに至って、明朝の海禁緩和の可能性が失われ、また南蛮人から売掛金の支払いを迫られていたため内外に行き詰まり、八方ふさがりの状態で、王直は反旗を翻した。それに多くの生活の糧を失った人たちが参加し、「封建的海禁政策に反対する武装蜂起」が始まった。嘉靖倭寇を語る場合、ほとんど王直に触れないものはない。今日の学者が王直を専門に論じたものも少なくない。代表的なのは唐力行の「安徽商人:王直」(『徽州社会科学』1990年第1期)である。唐はこの中で、「王直たちの活動は新生産力の発展の意志を代表し、歴史を進歩させる意義がある」としている。戦争による破壊については、「王直の攻撃が及んだところでは、無辜の民衆が被害を受けたこともあろう。我々は同じような事実をもって張獻忠(1606-1646)が明末農民反乱の指導者であることをを否定しないのに、なぜ王直に対しては厳しいのか?」と反問している。唐先生は別の文章で、王直たちの「反乱の意義は農民戦争を上回る」と述べている。陳抗生先生は「嘉靖「倭寇被害」実相探求」(『江漢論壇』1980年第3期)において、王直たちは「明代における視野の最も広い、思想が最も開かれた中国人であった」と述べている。晁(ちょう)中辰先生は彼の「王直評議」(『安徽史学』1989年第1期)において、はっきりと「王直は反海禁の人民指導者だ」と述べている。

反対の立場の人もまだ多いとはいえ、以上の論点に関しては、今日の学会ではすでにこの見方は定着している。だとすれば、国内で自分から王直の墓を建てる人がいても、可笑しくはない。そしていわゆる「倭寇と結託」、「悪逆非道」、「民族の裏切り者」などは、決して王直の定まった評価ではない。

次に日本側から分析してみよう。王直は嘉靖21年(1542年)に初めて日本に行った。3年後には中国の商船隊を率いて日本に貿易に行き、日本商人を寧波双嶼港に招き、中国、日本と西洋の民間貿易を大きく促進している。また、王直たちは中国の進んだ造船技術を日本にもたらし、日本の造船技術を飛躍させている。造船業は技術要素が多く、また当時としては最も総合的な業種であり、日本文明の進歩をもたらしたことは疑いない。また、考証によると王直がポルトガルの海賊商人を日本に連れてゆき、西洋と中国商人が知っている火薬、火器の知識を日本に伝えたという。ここまで書いて、中国人が王直の罪状に一等を加えるのを避けるために、筆者はこれについて簡単に述べざるをえない。10年にわたり注意深く追ってきたが、まだ成熟していない観点をここで披露しよう。嘉靖戦争前と初期においては倭寇は火器で優勢であった、それは嘉靖21年(1542年)発生した「種子島事件」(火器の日本への伝来、実際は1543年)のわずか数年後であり、日本はこの技術を吸収したばかりであった。しかし、戦争後期になればなるほど倭寇が使う火器は少なくなった。しかし、このころ日本では鉄砲が普及してきており、織田信長(1534-1582)の統一過程において、決定的な役割を果たした。この研究は、戦争前と初期において倭寇が使用した火器は主に中国の密貿易商人が西洋から買ったものか、あるいは自分たちで作ったものであることを示している。さらに重要なのは、これが軍事的な面で嘉靖倭寇が日本政府とは関係ないことを証明していることだ。中日両国の交戦であったとすれば、日本側はなぜ最新の武器で武装しなかったのか?
このように見ていくと、日本にとって王直の貢献は広範囲であり、「報恩」から当時王直が活動していた長崎県福江市の友人が中国に来て王直の墓を立てることも自然なことだ。

これが、王直墓の歴史的源流と現代における背景である。これで明らかなように、誰が王直の墓を立てたかは重要ではなく、重要なのは王直の歴史的地位である。記念碑を建てた人の動機がなんであれ、客観的に中日友好に有利である。

しかし、非常に遺憾なことに、学会で嘉靖倭寇についての論争が半世紀も続き、しかも新論がすでに国際的な主流となっている今日において、社会、民間及び教科書は伝統にとどまっていることである。とりわけ、1930~40年代の中日関係の非常時の認識の上に、「徐福(秦代の方士)東渡(日本渡航)」の幸運を連想している現状について、学会が考えるべきことは少なくない。同じく「東渡」なのに、浙江・江蘇人がうまくチャンスをつかんだのか、安徽人が宣伝べたなのか。今日、徐福東渡に関しては、レベルの高い学術雑誌には説得力のある論文が掲載されたことはないのに、伝説に基づく徐福東渡は浙江・江蘇人はほとんど誰でも知っている。しかし、大量の歴史資料があり、現代の研究成果がたくさんある王直の本当の姿は、ほとんど誰も知らない。沿海の各省が徐福の出航地について争っているとき、国をあげての糾弾の矛先が王直の故郷の地方政府に向けられている。東部地区が次々に東渡「遺跡」を参拝する友好人士を迎えている時に、メディアは「中部」の王直の故郷に日本の友人が来ることを「歓迎しない」、墓を建てた行為を「はっきり調査すべき」と懸命に訴えている。そしてついに、王直の墓が何度も壊されるという滑稽で悲しむべき結末を迎えた。この二つの「東渡」研究は、なぜかくも正反対の認識を生じたのか?徐福の東渡の方が重要なのか?そうとは限らない。徐福東渡は、日本側だけが利益を受けたが、王直たちの貿易は東洋、西洋に及び、全世界に影響を及ぼした。王直研究は現実的意義を有しないだろうか。そんなことはない。嘉靖年間の王直たちの商業と強盗活動は、西欧の原始的蓄積段階の資本主義の萌芽・成長と法則は同じだ。とりわけ指摘しなければならないのは、陳抗生が言うように、王直が率いた武装商船団は、当時の世界で最強の海上隊商であり、彼らがもし成功していたとしたら、中国のみならず、世界近代史は書き換えられたかもしれない。嘉靖倭寇の研究は、我々が歴史の教訓を汲み取り、より確固として対外開放の道を歩むのに有益である。よって、歴史研究において、嘉靖倭寇を超えるような現実的意義を有するテーマは少ない。

これは社会科学者に対して提起する問題であるが、学術成果を社会に還元する必要はあるか?どのように還元すべきか?

「王直墓」騒動を見ると、嘉靖倭寇研究の情報は、象牙の塔の中にとどまっている。成果の社会還元はほとんどゼロである。もし学会の王直の功罪についての討論がマスコミに浸透していたら、『新民晩報』のような大新聞は、今回のような報道はしなかっただろう。少なくとも、伝統的観点の学者をインタビューするだけでなく、同時に、読者にそれと異なる意見も提供すべきであった。もし、文化界の友人が王直が国際研究の焦点になっていることを少しでも知っていたら、前衛の『中国青年報』は「王直を研究対象として扱わなければならない」というような奇妙な提案をしただろうか?二人の大学教員は怒りの「義挙」に打って出ただろうか?もし、マスメディアが嘉靖倭寇論争の双方の観点について少しでも知っていたら、ニュースが王直墓について報道してもネット上で「撤去しろ」とか「ぶち壊せ」という意見が氾濫しただろうか?中国人自身の王直に対する認識がこの程度なのに、どうして日本の民間人にもっとよく知るよう要求できるだろう?

筆者は、一貫して学術のための学術を主張してきたが、学者が論文のために論文を書くことには反対してきた。この数十年間、国は大量の資金を学者に投入して嘉靖倭寇を研究させてきた。しかし、「投資者」は研究の進展と現状についてほとんど何も知らないようだ。研究者は一般大衆の認知に何の助けにもなっていない。社会科学研究は本当にコストパフォーマンスを計算しなくていいのだろうか?

中国人が「王直墓事件」を「炎黄子孫(中国人を指す。炎帝と黄帝は伝説上の漢民族の祖先)の大恥だ!決して我慢できない」というとき、私は逆に聞きたい。龍の継承者(中国人を指す)-中国大陸の倭寇研究者はいつ書斎を出るのか?いつ社会大衆に顔を向けるのか?と。

樊樹志教授が言うように、「これは王直再評価のチャンス」である。21世紀の中国では、このような「無知な」「狭隘な民族主義」はもっと少なくなってほしい。

歴史の流れは止められない。最後に、筆者は予言する。中国人自身が王直の記念碑を立てるのも、時間の問題だろう。しかも、戚継光(明の武将、王直を捉えた。?-1587)よりも高く評価することが、一層歴史を尊重することになり、一層現実的な啓発意義を有することになる。もしも我々が鎖国時代に戻りたくないのであれば。

2005年2月8日筆
原文:http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/
e/b6cabc2b349c5d8cfd5440095c72ea56