終の棲家でのんびり暮らす田舎暮らし

リタイア後山中に終の棲家を建て、夫婦二人で自然すぎる環境での田舎暮らしは、どこまで続けられるか。

人生に楽園は必要なのだが

2017年09月26日 | 終の棲家

楽園は身近なところにあったことに気づく

『 人生の楽園 』という番組が放送されている。多くは退職後に色々と起業した人や農業移住などエネルギッシュな人々で、取り上げて絵になるような話題が中心だ。

薪割り機を積んでは降ろしての繰り返しの毎日だったが、やっと今回の薪作りは終わった。気持ちを切り替えて次の趣味にとりかからなければと思うのだが。

わたしの楽園はと問えば、
山の中に建てた「終の棲家」が拠点だ。妻とふたりで数少ない山野草を観察しながら草取り草刈の作務の毎日、ただの「ジジババ」生活だ。

奥さんの心配はといえば、
連れ合いが元気でないと田舎暮らしはできない。草刈、庭木の剪定も薪ストーブで暖まることもできない。真っ暗闇で、ひとりで暮らすのはいやだ。

ふたりで暮らせることが 、楽園の肝だ。!

なにより幸運なことは、街なか生活から山中での暮らしに妻が共感してくれたことだ。

我が家の 家計は、ふたりの年金を合わせてやっと成り立つ年金生活だから。

結婚してから大事にしていること、
共に楽しめる番組を見ながら毎晩の「ノミニケーション」と「ありがとう」の感謝の言葉だ。健康であるからこそ楽しめて、互いの元気度は 酒量でチェックしあえる。

自分自身も作業員となり伐採作業を手伝って集めた原木の山だったが、妻とふたりで根気よく薪作りに汗を掻いてきたことで、山もなくなり薪棚も満杯になった。

リタイアを機に自分を新たな道へと追い込んできたことで 、「リタイア症候群」にならずに済んだのかもしれない。

想い描く「終の棲家」の仕上げには、まだまだ時を要する。老いながらも遊べることが理想なのだが、簡単なことではない。

なにより、ふたりが健康で動けることが前提の話になる。一方が介護か逝った場合、困難だ。

「おひとりさま」になったとき、自身の体力気力も衰えて斜面の維持管理ができなくなり、放置したらたちまち草ぼうぼうの山に帰るだろう。

 楽園でほどほどに遊べるのも、「おふたりさま」の内だけか。

ふたりで遊びながら築いた「楽園」も、いつかは手放す時が来るのかな。

 妻は、春ごろから初めての卓球サークルに参加して楽しんでいる。

 わたしは趣味と実益を兼ねて、
「楽園のグレードアップ」というセコイ目標を立てて、遊ぶことにきめた。


リタイア症候群に向き合う

2017年09月18日 | 終わった人

リタイアでしだいに症状がでてくる

半年かかって四~五年分の薪をつくりました。暑い中頑張って四つの薪棚は35㎥の薪で満杯になった。お金はないが、四年間は確実に暖かく暮らせる。

リタイアで仕事がらみの人間関係がいったんリセットされることだと思う。寂しいと思う人、清々した解放感に浸る人それぞれだ。どちらにしてもすぐに飽きと喪失感が覆い被さってくるのではないか。

リタイア(早期退職、定年退職、廃業引退など)した途端にやりがい生きがいを感じた仕事はなくなり、仕事上の人間関係も同時になくなる。

やることがなく忙しく感じていた日々が懐かしく感じ、行動スケジュールが空白になる人もいる。

これから毎日が日曜日になり、朝からやることがなくなる。

私の場合は一時の解放感に浸っていたが、毎日続く喪失感に仕事人間だった私は数ヶ月苦しんだ。だが街中での暮らしから緑豊かな田舎暮らしへの転換に救われた。

山の中に終の棲家を建てることで、喪失感による「うつ」は吹き飛んでしまった。敷地の木を伐採した木で薪を作ったりと忙しくなった。そば打ち教室に行ったりして気分転換にも成功した。

もう仕事したくないです。毎日遊びたいんです。

なにを言っているんだ!みんな働いているぞ!はじめは妻の加給年金がありがたかった。

政府は、人生100年時代。「65歳から70歳まで働けるだけ働けと」年金支給開始年齢の引き上げを画策している。少子超高齢社会に入って社会福祉の財源不足を喧伝している。小学生でも解ることを政治家は長年にわたって無為無策だったのに今さら。

わたしの車に積んでいる薪作りアイテム。チェンソー、燃料、チェーン油、研ぎ治具、引っ掛けフック、清掃工具、皮むき、鳶、チェーンブロック一式。休憩用椅子

政府はボロボロになるまで働けるだけ働いてください。本音は「運悪く死ぬのを待っているの」

70歳過ぎたら体力頭も劣れてきますよね。これから人生を謳歌しろって言われてもできますか。

国家的詐欺から「運よく年金をいただいている」私だが、手にした第二の人生を謳歌しよう。

何事もほどほどが大切だが。

そう、「リタイア症候群」からの脱出する妙案はないのか。人を頼りにせず、自分で考え自分で解決していく、実はほとんどできるんです。ネットから情報を得ればもう職人です。ありがたい世の中だ。

自分が住んでいる「終の棲家」が、将来的に『 負動産 』 にならないように、価値ある立派な『 不動産 』にグレードアップさせる趣味に無理やり抛りこんでしまう。

いやあ~やる事がいっぱいあるんです。

なけなしの金を使って、業者に頼むなんてもったいない。所詮、職人も自分に毛が生えた程度と思えばいいのだ。 ちょっとぐらいの失敗! 自分の家ですもの 『ノークレーム』 だよ。


ほどほどに生きる効用

2017年09月09日 | 終わった人

ほどほどに生きて、遊んで生活できれば

眉刷毛万年青(マユハケオモト)の花芽が開花しました。日の光を求めて窓際に長い首を伸ばしています。(拡大可能)

わたしは『 ほどほど 』 程々という言葉がすきだ。「広辞苑」には、それぞれの身分、身分相応、ちょうどよい程度とある。

仏教の世界では「中道」という考えがあり、釈尊曰く「八正道」の教えを説いているとか、宗教的には難しい教義解釈が色々あるようだ。

少し乱暴な解釈であるが簡単に言ってしまえば、「何事も両極端はいけない、ほどほどが良い」という解釈もあるようで、宗教学的にかなり深い意味があるようだ。「ほどほど」の効用をよく心得て生きよ。の教えか

少なくとも「曖昧・適当・中庸・中間・中立・中途」などの語句を意味しないことは確かだ。

家の前の道端に咲くハナニラ(花韮)はネギ亜科ハナニラ属に属する多年草。草刈機で刈ってしまうには惜しい花だ。

そもそも、人それぞれに生き方、境涯も違うし、生き様も多種多様なのだから、どれが「いい生き方」なのかと考えることに意味があるだろうか。

さて、「ほどほど」がいいからと言って、曖昧で適当な姿勢で生きるのがよいと捉えてもまずい。

本来、「本当に悩むべきことを悩まず、悩まなくてもよいことを悩んでいる自己に、智恵の眼を生じさせるべきだ。」という言葉をみつけました。

何か、難しいことばの語句を考えていたら、なにか首筋の肩が凝ってきました。

わたしが日ごろ心に留めていることは、この終の棲家に於いて自分自身で日常生活の始末がつけられなくなる前に、終わりにできれば幸せだなと考えている。

けがをしたパンダのような猫が時々やってきます。けがも大分よくなった。ほどほどの距離だが窓越しの関係もいいね。

妻共々に認知症や寝たきりにならずに、寿命まで生かされたいと願うばかり。

だが、自由に活動できない歳まで長生きしたいとは思わない。それに美味しい食事と酒が楽しめない生活も寂しいし望む気もない。

一年を通じて雨の日も風の日も雪の日も、一時間のウォーキングを台風以外は欠かさず毎日実行している。

己にとって、『ほどほど』に生きる人生を考える

我々シニアには、二度目の自由に生きなおす時間を手にしている。心配してもしょうがないことを心配しながら残り時間を数えながら無為に過ごしてはもったいない話だ。

法律に触れること以外、思いつくままやっても咎められることはないだろう。眉を顰められるか変わり者扱いされるだけだろう。よし、思いついたことはできるだけやってみようじゃないか。