ほどほどに生きて、遊んで生活できれば
わたしは『 ほどほど 』 程々という言葉がすきだ。「広辞苑」には、それぞれの身分、身分相応、ちょうどよい程度とある。
仏教の世界では「中道」という考えがあり、釈尊曰く「八正道」の教えを説いているとか、宗教的には難しい教義解釈が色々あるようだ。
少し乱暴な解釈であるが簡単に言ってしまえば、「何事も両極端はいけない、ほどほどが良い」という解釈もあるようで、宗教学的にかなり深い意味があるようだ。「ほどほど」の効用をよく心得て生きよ。の教えか
少なくとも「曖昧・適当・中庸・中間・中立・中途」などの語句を意味しないことは確かだ。
そもそも、人それぞれに生き方、境涯も違うし、生き様も多種多様なのだから、どれが「いい生き方」なのかと考えることに意味があるだろうか。
さて、「ほどほど」がいいからと言って、曖昧で適当な姿勢で生きるのがよいと捉えてもまずい。
本来、「本当に悩むべきことを悩まず、悩まなくてもよいことを悩んでいる自己に、智恵の眼を生じさせるべきだ。」という言葉をみつけました。
何か、難しいことばの語句を考えていたら、なにか首筋の肩が凝ってきました。
わたしが日ごろ心に留めていることは、この終の棲家に於いて自分自身で日常生活の始末がつけられなくなる前に、終わりにできれば幸せだなと考えている。
妻共々に認知症や寝たきりにならずに、寿命まで生かされたいと願うばかり。
だが、自由に活動できない歳まで長生きしたいとは思わない。それに美味しい食事と酒が楽しめない生活も寂しいし望む気もない。
一年を通じて雨の日も風の日も雪の日も、一時間のウォーキングを台風以外は欠かさず毎日実行している。
己にとって、『ほどほど』に生きる人生を考える
我々シニアには、二度目の自由に生きなおす時間を手にしている。心配してもしょうがないことを心配しながら残り時間を数えながら無為に過ごしてはもったいない話だ。
法律に触れること以外、思いつくままやっても咎められることはないだろう。眉を顰められるか変わり者扱いされるだけだろう。よし、思いついたことはできるだけやってみようじゃないか。