「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 100均的生活思想短歌、ラブ! 笹井宏之賞大賞歌集『母の愛、僕のラブ』(柴田葵)を読む 平居 謙

2020-03-21 18:37:24 | 短歌時評

 

0 はじめに

 僕は今、大阪に住んでいるある書き手の詩集を編集中だが、その帯に次のように書いた。

  生活思想詩の成果
  スローガンを語る社会詩でもなく、自己の感覚のみに閉じる生活詩でもない。
  生活の中から紡ぎだされた身体感覚としての生活思想詩。

(近刊予定 畑章夫詩集『猫的平和』帯 部分)

 社会のことを言おうとすると大上段に構えがちで理屈が過剰になる。逆に自分のことに終始すると急激に視野が狭くなる。畑の作品に関しては詳しくはここでは置くが、彼の詩では生活と「私」がうまい具合に社会に開かれていると僕は感じた。このことは詩でも短歌でも同じところがあるはすだ。「戦争」「震災」「政治」等々、現在を生きる人として言わねばならないことは沢山ある。しかしそれを作品の中で言おうとすると、窮屈な理念の塊になってしまう。狙いと実作との乖離は常に問題になる。
 今回扱う柴田葵歌集『母の愛、僕のラブ』にも間違いなく「生活の中から紡ぎだされた身体感覚」が示されている「生活思想短歌」である。しかも、非常に「低価格」のところで提供しているという印象だ。1980年代後半、俵万智『サラダ記念日』をリアルタイムで読んだ直後に「ああ、短歌は今こんなところに来ているのか」という感銘を覚えたが、30年以上を経た今『母の愛、僕のラブ』はもっともっと低地にまで短歌を連れてきている。『サラダ記念日』がファミレス短歌であるならば、『母の愛、僕のラブ』は百均的生活思想短歌だ。

  くまの首つややかなリボンときめいてこれがほんとに百均ですか(P25)

 もっとも、「これがほんとに百均ですか」と思わせる、ホンモノのようなレベルのものも含まれているから、辛うじて短歌というジャンルを文藝の中に留めさせているという印象がある。百均短歌は瀬戸際短歌でもある。以下、本稿ではいくつかの側面に渡って本歌集について考えてみる。
 
1 生活思想短歌5首

 柴田葵歌集『母の愛、僕のラブ』の真骨頂ともいえる「生活思想短歌」ぶりが、もっともよく現れているのは、ここにあげる作品だろう。

  コロッケのたねをつくって揚げるのが面倒になり掬って食べる(p10)

  傘なんて意味をなさない霧雨に全身とりわけ眼鏡が濡れる(P18)

  さようなら母さん、いつか戻るまで少しでも歳を取らずに生きて(P74)

  みなしごのアルマジロ連れ帰るごとかぼちゃ抱えてゆっくりと冬(P100)

  午後五時の螻蛄葉さぼてん窓際にならべて点呼をとりたい気持ち(P103)

 「コロッケのたね」の歌は、いわゆる「料理あるある」を見事に「掬って」歌にしている。これって個人的な話じゃないの? という疑問もあるだろうが、それだけではないように僕は思うよ。「面倒になり」一番大事なことをしない、ということはものすごく大きな問題なのだ。今の政治は駄目だなあと思う。でも結局自分は何もしない。原発なんかなければいいのにと日々思いながら、「コロッケのたね」だけつくって、「揚げるのが面倒にな」ってしまう。もちろん作品には、政治批判も原発も書かれていないけれど、コロッケを揚げるのが面倒な人は(たぶん)反原発のデモにもゆかない。政府のインチキ発言について疑念を抱くだけで、実際に衣をつけて揚げるところまでは仕上げてゆかない(だろうと想像する)。
 しかし、この現状を自覚することこそ生活思想短歌の第1歩だ。「揚げるのが面倒になり掬って食べる」という自覚が、社会への可能性を開いている。現状は負であるが、負ではない形でいずれ出てゆく可能性がある。ともかく「コロッケのたね」は準備されているのだ。
 「傘なんて」の歌は、「全身」から「眼鏡が濡れる」へと移動する「とりわけ」の語のもたらすスピード感が凄い。「さようなら母さん」は後半が無責任だが、所詮人間なんて無責任に生きるしかない。それを開き直って堂々と描いているのが素敵だと思った。「みなしごのアルマジロ」の歌は、「かぼちゃ抱えて」アルマジロを想起するところなどは喚起力のある表現だと感心する。最後の「ゆっくりと冬」という言い方は、字数の制限を意識しない自由詩の書き手としては、そのスピード感にまたはっとさせられる。どこかのほほんとしたものを感じそうな本書の装丁だが、意外と高速感覚に揺り動かされるのが楽しくなってきている。


2 恋の生活思想短歌5首

 柴田葵の場合、生活の中にさりげなく恋や男女や妊娠という繊細なことがらが読み込まれているようだ。

  マーガリンも含めてバターと言うじゃんか、みたいに私を恋人と言う(P42)

  柏木くんって居たじゃんあの子姉ちゃんを好きだったよと春分の日に(P58)

  おい、ごみを捨ててんじゃねえよとサーファーが言い捨ててゆく わたしらのこと(P64)

  教室でオードトワレをぶちまけた男子が連れていかれて香だけ(P66)

  もうあなただけの体じゃないのよとわたしに微笑む全然知らないお婆さん(P89)

 「マーガリン」の歌は、「恋人未満、友人以上」みたいな微妙な恋の姿だろうか。あるいはいわゆる「道ならぬ恋」かもしれない。しかし相手はこともなげに「私を恋人と言う」。その内実が「マーガリンも含めてバターと言うじゃんか、」という形で比喩されているのでなかったとすれば!とろけるような恋慕の感覚がきっと伝わってこなかったかもしれないと強く思う。「柏木くんって」に関しては、「春分の日に」設定される必要があるのだろうかと一瞬浮かんで、いや馬鹿、それこそが命だろと気が付く。春の恋。青春の恋。「おい、ごみを」はもしかしたら、サーファーたちはゴミを捨てる私らを注意してくれる良い奴らなのかも。と読める一方で、私らをあざ笑いながら、こいつらが「ごみ」だ、と言っているブラックジョークとしても解釈できる。後者ならいいな。いずれにしても「ごみ」が比喩の根幹にあり、生活思想短歌としての面目躍如という印象だ。「教室で」は残り香が、男の子のものだというところが面白い。誰に連れていかれちゃったのかな、男子。「もうあなただけの体」は、全ての語句が、つまりは短歌空間の全てが極めてありふれた言辞で占められているのがチープで安っぽい100均を思わせて、いい。「もうあなただけの体じゃないのよ」「わたしに微笑む」「全然知らないお婆さん」のどれにも、カスのような陳腐さしか存在しない。特に、最後の「全然知らないお婆さん」が言うところなど反吐が出そうだ。一元的価値観。村の掟的!しかし、全部組み合わせてみると、100均とは言え、イマドキの消費税10円分くらいのプラスアルファは、嬉しさも感じられる。奇妙な読後感の残る問題作だ。


3 「私」的主題5首

 この歌集を読み進める中で、「私」へのこだわりが面白いほど浮き上がっていたが、それは、以下の

  おでん しかも大根として生きてゆく わたしはわたしの熱源になる(P14)
  
  ひんやりと四角い蒟蒻ひきちぎる私のすべては繋がったまま(P61)

  「明るいね、性格」「まあね(本当は自分をちぎって燃しているだけ)」(P67)

  ババ抜きのババだけ光って見える目を持ってしまった子のさみしさだ(P101)

  自分ちにいるのに家へ帰りたい刈っても刈っても蔦の這う家(P112)

 「おでん」の歌は、「そ、そ、そうですか。。。」としか言いようがない。「わたし」に特に興味のない読者(少なくとも僕はそうだ)にとっては、「大根として生きてゆ」こうが「がんもどきとして生を終えよう」がどうでもいい話だ。しかしそういう場所においても媒体となるのは、生活感あふれる「おでん」「大根」という語彙。生活思想短歌の本領発揮だ。「ひんやりと」「「明るいね、性格」」の2首は、どこか共通している主題だ。後半などは、「蒟蒻」の「こ」の字も出てはこないが、並べてみると、どこか蒟蒻を火にくべている奇妙な自分の像が見える。「ババ抜きのババだけ光って見える目」を持っているという自覚が、この歌人「私」の自覚か。そうか。僕個人のことでいえば「じじ抜きのじじだけ見える目」を持っていたい。歌人の役割について僕はよく分からないが、少なくとも詩人はまだ形になっていない「ババ抜きのババ」を透視するようなレベルに留まらず「最終的にじじだったと後で分かる」ものを予め霊視するような目線をもっていたいなとこれを読んで思った。「自分ちにいるのに家へ帰りたい」の歌の中に流れる感覚は、嫁いだ女性にとっては生家へ、或いは、生家に住んでいるものにとっては過去の時間への郷愁なのだろう。私的主題は詩的主題であり、どこか切ない。

4 死の主題5首

 僕は短歌は結局のところ、暗さやさみしさや切なさが命なのではないかと思っている。それは詩も同じだが、究極は「死」とどう向き合うかということだろう。ちゃんとこの100均短歌の中にも「死」を巡る切なさが存在している。

  シルバニアファミリーここは僕らのお墓それから生家かたづけようか(P46)

  魚屋の種別に並ぶ魚類魚類全員ひだりを向ている死だ(P73)

  祈るような歩幅で朝の陸橋を行くお婆さん いつも行くだけ(P96) 

  先々週死んでしまった電球と同じだけれど生きているもの(P117)
   
  有事かと思うわ子どもがなん人も這いつくばって拾うBB弾(P121)

 そういえば長女が幼かったころ、家の中にも「シルバニアファミリー」が転がっていたな、などと思いながら読み進める中で唐突に現れる「僕らのお墓」の一語に途方に暮れる。たしかに小さな動物たちの部屋べやが、「お墓」に見えてきてしまう。言葉の喚起力。「魚屋の種別に並ぶ」の歌は過去の或いは来るべき大量虐殺の季節を思わせる。それにヒトは他の生き物たちに常に大量虐殺の罪を犯しているのだとも感じさせる。「祈るような歩幅」はこの言葉自体素敵だが、この歌自体、とても象徴的で面白い。つまり、僕らが「お婆さん」を見るのは「いつも行くだけ」である。短歌が捉える時間が「瞬間」だとすれば、「帰り際」まで見ていられないのはそれは当然だろう。その意味でこの歌は短詩型文藝の本質を射止めている。「先々週死んでしまった電球」と「同じだけれど生きているもの」を対比することで、世界の理不尽さや不公平さが浮かび上がる。しかも理屈っぽくならないのは、「電球」というチープなモノに主題を託しているからだろう。「有事かと思うわ」の歌は「BB弾」を「這いつくばって拾う」子どもの姿を捉えた主婦・母目線の面白さだ。子供・男目線では、「有事」の感覚は生じないだろう。ここにも生活思想短歌独自の特長が現れている。

5 絶品生活絶唱短歌3首
 
 それではお待たせしました!本歌集ベスト3作品の発表です!
 それでは第3位から。
   
  外食はおいしい だって産業になるほどおいしい 外食が好き(P110)

 この単純な歌のどこがいいって言えば、困っちゃう。しかし、ひたすらに前向きで、そして「外食」から「産業」と言う語へ飛躍する飛躍の仕方の低空飛行とそれ故の安心感。そして最後に「外食」をまた出してくるクドさと「好き」という語の清々しいい響き。
 次いで第2位は

  汚れから私を護るエプロンをラブと名付けてラブが汚れる(P122)

です!「エプロンをラブと名付け」るという行為の可愛さ。それに反して「ラブが汚れる」とうことの残念さ。そしてもちろんそこには生活の中で愛が磨り減ってゆくことの、さりげない仄めかしがなされているということの熱度。
 栄えある一位は、以下の歌。

  犬がゆくどこまでもゆくあの脚の筋いっぱいの地を蹴るちから(P95)

 詩でも歌でも、躍動感は難しい。この歌を選んだのは、この歌がまさに生活思想短歌の可能性を端的に示しているから。詩も短歌も結局のところ「死」であり「挽歌」でもある。しかし、にもかかわらず、あるいはそれだからこそ、生への賛歌も内包すべきなのだ。べき、ではない。せざるを得ないのだ。
あの脚の筋いっぱいの地を蹴るちから」を見つけた以上、僕もまたひとりの「」として「どこまでもゆく」ことが出来そうな、そんな気分に、この歌集を読んでノセられている。

(書肆侃侃房 2019年12月)