ほんとかなあ、とおもいつつ、こないだ「ユリイカ平成28年8月号:特集 あたらしい短歌、ここにあります」を買いました。せっかくだし全作レビューでもできればとおもったんですが、雪舟えま「愛たいとれいん」の感想だけで今回は終わりそうです。
彼を見たい
彼にいたるまでに出会う
人そのほかを眺めていたい
この作品の芯は、彼に対して向けられる視点の方向性が「会いたい」ではなく「見たい」と表現されているところにあります。「会う」よりもどこか即物的なニュアンスを伴った「見る」は、「会うこと」で始められる二人の時間に対する期待を含まず、「会う」と表現される以前の接触、つまり、視覚的な接触の経験だけで満たされてしまうほどの感情を喚起させます。と同時に、「会うこと」によって満たされる欲求は、「見る」にいたるまでの時間のなかで経験する「人そのほか」との出会いによって消化されていきます。「出会う」「人そのほか」のあいだに生まれる改行の拍が、「見る」と「出会う」の対比をより鮮明に見せつつ、たしかな切れ味を感じます。
八月を
君にゆっくり届きたい俺に
宇宙がよこす各停
その次に配置される作品は、彼を見ることへと向かう性急さとは対比的な遅さの表現があります。一読してまず、その全体像をうまくつかめない、揺らぐような感覚が生じますが、それは二行目の「届きたい」に由来します。「八月を/君にゆっくり届けたい俺に」、つまり「俺」が「八月」を届けるという表現であればスムーズに読めるところで、届けられることを期待されているのが実際は「俺」であるために、「八月」をどのように位置付けるかの判断が揺らぐからです。そして、この揺らぎは「ゆっくり」と対応することで、「俺」の求める遅さとして実現されます。そのため、「君にゆっくり届きたい俺」に「宇宙がよこす各停」とは、端的にこの揺らぎの感覚によって引き起こされる遅延であると考えることができます。改行によって実現される働きについても触れておきましょう。「彼を見たい」では、作品内で表現される欲求が一行で簡潔に述べられていますが、「八月を」では、構文の成立に三度の改行を含みつつ、かつ「届く」ことへの欲求が構文の内部に織り込まれています。この二つの作品の、「~したい」のちがいは、改行を意識することでどのように区別できるのでしょう。改行をおこなうと、一行の独立性の実現と他の行と切断が生まれるので、改行はそこに当てられる文章と時間的・空間的な比例関係をもちます。たとえば、一文が複数の行に分けられると、一行ごとに生み出される独立化および他の行との切断の効果によって、文を読むなかで生起する時間に遅延の感覚が伴います。これに加えて、「八月を」では、改行による意味の宙吊りが、構文自体の宙吊り感をアコーディオンのように多重化させていますので、「彼を見たい」と対照的に、出来る限り「ゆっくりと」したものとして読まれることが目指されているのではないかとおもいます。同時に「宇宙がよこす」という修飾をもつ各停が、地上の私たちとは異なる次元のものであることの説得力を、同時に強めてもいるのではないかといえます。
手のひらに座らせてくれたようだった
愛から創られた夏の汽車
この作品は、おそらく見開きにおいて進行していたこれまでの過程にけりをつける意図があるのではないかと読めます。直前の「各停」に「夏の汽車」が接続されているのはいうまでもありませんが、「愛から創られた夏の汽車」は、先ほどの二つの作品が、どちらも移動の性質を伴っていたことから析出される隠喩です。相手に向かう「~したい」という欲求を愛として、その欲求に付随して生じていた運動が「汽車」であるというわけです。「手のひらに座らせてくれたようだった」は、フレーズとしての意味合いが強く感じられますが、「座る」ことで一連の流れにある程度のおさまりがつくので、これ以降も作品は存在するものの、この三作品はセットとして一つのブロックをつくっているのではないかとおもいます。
というふうに、いつもどおりの感じでひとつひとつの作品を読み込んでいこうかとおもいましたが、今回はそれだけだとかなりの具合で片手落ちになるので、すこし視点を変えて見ていきたいとおもいます。
さて、以上三作品をテキスト単体で読む限りでは、「彼を見たい」における「彼」と呼ばれる存在が「八月を」における「俺」となるような、二人の恋愛について詠まれたものであるようにおもいます。事実、この三作品が埋め込まれている見開きには、おそらくどちらも男性と思われる、スーツ姿の二人のイラストが描かれています。「思われる」と言わざるをえないのは、二人の顔が雲とハートで隠れていてよく見えないからですが、ここで、今回の連作がもつ構成を、掲載されている作品も含めて、列挙してみましょう。「愛たいとれいん」は、見開き二つに作品とイラストが互いに関連しあうよう配置されていますが、便宜上、先行する見開きと後続する見開きを、それぞれ(1)と(2)に分けます。
・見開き(1)は、右ページに余白を大きくとったイラストの枠内に、改行を施された作品が右斜め上から左下(見開き中央)にかけて3つ、下降するように配置されている。左ページはイラスト。頭部をそれぞれハートの群れ、渦を描く雲によって顔を隠された細身のスーツ姿の(おそらく)男性の、上半身から膝下までが描かれている。左の男は腕を組み、壁によりかかりだれかを待つようなポーズを取り、右の男は左の男のそばに駆け寄って立ち止まるようなポーズを取っている。とりわけ目を引くのはスーツの柄だ。左の男のスーツには枯木立、右の男のスーツには大ぶりの椿のような花のプリントが全面的に施されており、スーツ自体の存在感は、それを着込む二人の体型と自身がスーツであることをぎりぎり示唆するに留められている。左の男の背景は黒地に雪、もしくは桜の花びらをおもわせる米粒状の塗り残しが散漫に配置され、太もものあたりにかけて黒ベタ、継ぎ足しカケアミ、白のパターンを繰り返す虹のような帯が、右の男の腰のあたりから伸びて、ページ中央部右側で一度バウンドしつつ、右ページ下方にかけて続いている。帯を構成するそれぞれのパターンの内側には「KAREWOMTI KARE」「HACHIGATSU」「TENOHIRANISUW」と、余白に配置された作品のローマ字表記が白抜きで(白地の帯のみは黒字で)書かれている。しかし、上から6つ目の帯(白地)には掲載作品には見られない文章「REIKADATOHITOBITOHAIU」(「冷夏(?)だと人々は言う」)が書かれている。
・作品は右斜め上から順に次のとおり。
彼を見たい
彼にいたるまでに出会う
人そのほかを眺めていたい
八月を
君にゆっくり届きたい俺に
宇宙がよこす各停
手のひらに座らせてくれたようだった
愛から創られた夏の汽車
・イラスト右下に「20160707」の表記。
・見開き(2)は左ページにイラスト+イラスト枠内の余白に改行作品3つ、右ページに改行なしの作品4つの構成を取っている。
・左ページ中心部には穿たれた穴のように円が描かれ、円は風に舞う牧草のようなもので縁取られている。作品は円の上部を囲うように3つ、虹の帯は円の下部を囲うように配置されている。円の内側には風景が描かれ、手前から牧草地・針葉樹林・草原・稜線のみで描かれた丘、の構成。前景の牧草地には輪切りにされた金太郎飴のような飼い葉が左手前に1つ、左手奥に1つ、右手奥に3つ配置され、日差しを受けて右手に影を伸ばしている(ここで、風景を縁取る丸と飼い葉のあいだに形態的な類似が感じられる)。
・作品は右ページから順に次のとおり。
運命に分かたれるまで触れあっている夏草と車の腹よ
紙魚のように光る姿勢のいい人がいると思ってよく見たら君
あとは寿司みたいな家に帰るだけ
君がやたらと光っておかしい
生命のねらいは何だろう
夜の空気が桜餅の匂いだ
素麺のほどいた帯を指先にゆらして
君を起こしにゆこう
・見開き(1)との類似点として、枠内に書かれた作品に改行が施されること、黒・継ぎ足しカケアミ・白のパターンで構成された虹の帯が挙げられる。しかし、帯の内側に描かれているのは作品のローマ字表記ではなく、「NATSUNO MIRAI HOKKAIDOWO drive SHTEIRU」「TO TOKIDOKI SOUGU SURUNODAKEDONA」「ZEKA OREHA KOREWOMIRUTO BAKUSHOU」(「夏の未来北海道をドライブSH(し?)ていると時々遭遇するのだけどなぜか俺はこれを見ると爆笑」)と、イラストそのもの(おそらく飼い葉)に対する言及と見られる文章がローマ字表記で書かれている。
・イラスト左下に「20160706」の表記。
気になるのは、見開き(2)におけるイラストに書かれたローマ字表記の文章です。表記を戻すと、「夏の未来北海道をドライブしていると時々遭遇するのだけどなぜか俺はこれを見ると爆笑」と書かれているこの文章によって、今回の連作は、「プラトニック・プラネッツ」以降くりかえし作者が書いている、「楯」と「緑」の二人を主人公とした、一連の恋愛小説と地続きになっていることがわかります(小説の舞台は、「未来東京」や「未来京都」など、現実の地名に「未来」の名を冠しています)。ということは、今回の連作も楯と緑の二人の生活を描いたものであることが考えられます。というか、そうであるとしかいえないのですが、というのも、今回の連作と同名の小説が、「小説新潮2016年8月号」に掲載されていて、こちらを読むと、「汽車」「ロケで使われた駅」「牧草ロール」といった対象はもちろん、ちょうど見開き(2)のイラストに書かれているフレーズとまったく同じ文章が書かれている(「小説新潮」p.27)からです。
小説「愛たいとれいん」は、未来札幌で開かれる「月で働きたい法曹のための研修会」に参加する、弁護士になった緑の帰りを待つ楯が、緑の帰りを待ちきれずに列車で会いに行くというストーリーです。楯は緑に会うまでのあいだに、列車をすぎていく景色やそこで出会う人たち、よくわからない食事にいとおしいような、巨大な時間の流れに位置付けられ、それ自体としては儚くもろいものとして感じられつつも、そのつどの出会いが「この宇宙はじまって以来はじめてのできごと」として受け止められるような、かけがえのない魅力を抱きます。短歌「愛たいとれいん」は、小説「愛たいとれいん」で楯が出会う場面や思いを抽出し、短歌として置き換えたものであると考えられます。そうなると、見開き(1)の構成は、小説「愛たいとれいん」の要約として読むことができます(小説「愛たいとれいん」において、「汽車」という語に関して「こっちの人(未来北海道の人)は長距離を走る列車を汽車と呼ぶことがおおい」と、あからさまに補足が入れられています)。小説を意識した読解において、先ほどの三作品はすべて一つの(楯の)視点から詠まれたものであると考えられます。しかし、短歌「愛たいとれいん」の見開き(1)を、作品とイラストの配置において読むと、「君を見たい」と「八月を」のあいだの逆転した構成や、イラストにおける移動の感触をのこしながら「左の男」の上にやや重なる「右の男」と、その場に立ち尽くしてだれかを待つような「左の男」の構成から、二人の視点が交互に読まれ、ついに重なりあう小さな物語を組み立てることができます。つまり、この二つの同名の作品は、かなり明確な相似の感触を読み手に与えつつ、それぞれが互いに上手く一致しないようなひねりが加えられています。イラストに添えられた日付の、実際に目を通す時間の流れとは逆行する配置から、すでにその予感は与えられているのですが、こうした見開き(1)における物語の要約・変奏にとどまらず、次に挙げられる「牧草ロール」や「ロケで使われなかった駅」など、小説・短歌に共通して用いられている要素においても見受けられます。
ロケに使われたことなんか忘れて赤ちゃんのままでいなよ駅は
まず、「ロケに使われた~」は小説「愛たいとれいん」で、楯が未来富良野町に到着した際の場面に関連して詠まれていると考えられます。小説『愛たいとれいん』では、次のような描写で表現されています。
ホームに貼りだされている説明によると、この駅は前世紀後半から今世紀初頭にかけて人気のあった、未来北海道を舞台にしたドラマシリーズの撮影地にもなったらしく、駅舎の中にはドラマ原作者のサインやロケの記念品が展示されている。色あせた写真を眺めながら白湯を飲む。(p.27)
ここには「ロケに使われた駅」に対する短歌作品の表現と対応する視点がなく、淡々と場面の(どちらかというと)写生的な立ち上げが行われていて、「ロケに使われた駅」という語に対する短歌と作品の関連性は、短歌が小説に付随されるようなものではないと感じられます。「ロケに使われたことなんて忘れて」という呼びかけは、小説の本文からはなかなか引き出しにくいのではないかとおもいますし(逆もまた然りです)、それ以前に、絶えず自身の構成要素を増やし、雑多に膨れ上がりながら作品の輪郭を分裂させていく小説特有の性質に対して、器のようなものとしてすでに与えられている形式と共振しつつ、輪郭を閉じるように組み立てていく短歌という、二つの媒体の差異もここにはあるとおもいます。「ロケに使われた駅」は小説「愛たいとれいん」全体を背負わされておらず、せいぜい「未来札幌に向かう道中の場面」、つまりこの小説をデザインする配置の一つとして組み込まれている一方で、短歌「愛たいとれいん」の「ロケに使われた駅」は、「ロケに使われたことなんか忘れて赤ちゃんのままでいなよ駅は」として、作品全体において詠み込まれています。この差異は、やはり両者で読まれる「駅」の一致をむずかしくします。短歌と小説の双方において類似を意識させつつも、一方が他方に組み込まれるような視点によって書かれてはいないという事態は、小説と短歌の両方に共通してあらわれているこの対象を、どちらの媒体をも中心化せずに、媒体間の余白において、確固たる存在感を持って立ち上がるように感じます。「似たような・まったく同じ」対象が互いに区別される複数のあり方で記述され、かつ、この複数のあり方が媒体間の差異といった、異なる視点の統合を妨げるような符丁を挟み込まれた際、そこでは対象の多面的な見方ではなく、それら多面的な見方のどれにも支配されない、対象の異常な存在感が現れる、と言い換えてよいでしょう。小説の言葉を引くと、「だれも通らなければそこは道ではなく、だれにも見られなければその景色は存在しない」と書かれてしまう道や景色が、にも関わらず、自分たちのためにつくられた道のように見えてしまうとき、その道は、ちょうど「ロケに使われた駅」のような道として、私たちの目の前でありつつ、私たちの外に存在するかのように感じられるのかもしれません。
牧草ロールは真面目で可愛い君のよう野にいて星を宿したつもり
「牧草ロール」についても同様のことがいえますが(短歌「愛たいとれいん」に関しては、「真面目で可愛い君」との類似が詠まれていますが、小説「愛たいとれいん」では、緑への類似だけでなく、なにかしらの感情を喚起させるような機能の手前で、見るだけで「笑いの中枢をずくずくに刺激され」てしまうという、反射レベルの反応を楯に取らせるものとして書かれています)、こちらはさらに、もうすこしひねりが加わっていておもしろく読めます。というのも、ここで詠まれる「牧草ロール」は、小説における「牧草ロール」との呼応以前に、この作品が配置されている見開き(2)の左ページにおいて、小説「愛たいとれいん」で使用された文章のローマ字表記を随伴させながら、実際にイラストとして描き込まれているからです。しかも、小説「愛たいとれいん」には、次のような描写が見られます。
今回のロールは、牧草を巻いただけではなくさらに白いビニールでラッピングするバージョンで、俺はとりわけこれに弱くて、腕を口に押しつけて声をころしながら笑った。薄曇りののどかな緑の中にピカピカした白い巨大なラムネ錠。遠近感の狂った感じがおもしろいのだろうか……(p.26-27)
こうした「牧草ロール」の描写は、短歌「愛たいとれいん」のイラストにおける、極端に単純化されたフォルムをもった円柱の白い物体を、どうしても喚起させますし、あたりに生える草のせいで、遠近感もたしかに歪むようです。つまり、このイラストは、小説「愛たいとれいん」における視覚的な比喩を、視覚性においてかなり即物的に引き写したものであるといえます。そして、こうして絵にされた「牧草ロール」は、小説「愛たいとれいん」における「巨大なラムネ錠」の視覚的な表現を引き継ぎつつも、「野にいて星を宿したつもり」と短歌「愛たいとれいん」において書かれた印象を、同時に引き写しているかのようです。「野にいて星を宿したつもり」は、実物の牧草ロールがもつ独特の異質感をどこか想起させるものです。牧場を背景とした空間のなかで、牧草を素材としながら、人工的な規則性をもって組み上げられたフォルムをもちつつ、同時にそれがあたりにいくつも、バラバラに転がっている光景は、どこか牧草地のもつ雰囲気から遊離した、別の世界から降りてきたもののように感じられます。見開き(2)において視覚的な図像として現れ、楯の反射的な爆笑を誘う存在でありながら、同時に小説では書かれなかった「君」との類似性を伴わせる、星を宿したような神秘性をもつ存在でもある牧草ロール。小説・短歌のあいだでイラストによる指示を伴いながら、絶えず異なる印象へと移行するおかしな白い物体は、私たちの目の移り行きに合わせて揺れ動くかのようです。
さて、ある対象を別のバリエーションで詠む流れは、ここで対象が配置される状況そのものへと、注目をシフトさせていきます。
運命に分かたれるまで触れあっている夏草と車の腹よ
こちらは、以下の文章と重なっているようです。
家から車で未来新得駅まで約四十分。そこから、未来帯広から出る特急「エクスカリバーとかち」上り始発に乗って緑は未来札幌へ行く。俺は彼のジープが見えなくなるまで、家の前から見送った。(中略)玄関から麦わら帽子をとってきてかぶり、駐車スペースに敷いている玉砂利のすきまから生える雑草を抜く。ここにはブタナーー緑は「豚のサラダ」なんてしゃれた名前を知っていたけど、タンポポそっくりなそいつが生えて、ジープの腹をくすぐっている。(p.20)
小説では「ブタナ」への注目において組み立てられ、ジープの腹はむしろその周囲に組織化されている文章が、短歌では「夏草と車の腹」という組み合わせのもとで抽出されています。ここでは、「ロケに使われた駅」や「牧草ロール」のような、対象からなにかを読み取る視点を変化させるのではなく、ある対象と対象の配置の力点自体を組み替えたと考えられます。そうなると、小説が短歌に先行して書かれているということを前提にしてしまいそうですが、もちろんそうではなく、短歌において詠まれた組み合わせをばらして、小説に再配置したという方向性もありえます。作者が実際に直面した経験において、その近傍に見られた要素の配置を組み替えて作品に落とし込むという方法は、短歌に限らずあらゆるジャンルの表現に見られますが、そうした操作は、文章を読んでそれを頭のなかで組み替え直し、理解し、あるいは書き換える操作に伴う思考の流れと切れているわけではなく、地続きです。それでは、短歌「愛たいとれいん」における「運命に分かたれるまで」は、小説においてどのような対応があるのかのいえば、すこし仰々しく感じられますが、いうまでもなくそれは研修に向かう緑を見送る楯という場面そのものでしょう。つまり、ここでは対象そのものから異なる読みを引き出すのではなく、同じ読みが同じ対象同士の異なる組み合わせから生み出されているわけです。しかし、短歌において「運命」によって分かたれるのは「夏草と車の腹」そのものですので、小説において「ブタナとジープの腹」の外で展開していたはずの事態が、短歌においては「夏草と車の腹」の内側で起きており、小説と短歌で構成が裏返しになっています。
こうした裏返しの構造を取った作品は、次にも続きます。
紙魚のように光る姿勢のいい人がいると思ってよく見たら君
短歌において詠まれているのは、「君」を認識できずに「紙魚のように光る姿勢のいい人」と見なし、「よく見ると」による取り消しをはさんだあとで、その人が「君」であると再認するまでの過程です。「紙魚のように」で立ち現れる知覚対象の小ささは、文字の羅列のような人ごみを背景に「君」を見つけるという細部を意識させますが、小説版でこれに該当するものは、おそらく緑の視点から見られる楯の姿であると考えられます。小説「愛たいとれいん」のクライマックス、未来札幌駅で緑が現れるのを待つ楯が、彼の姿を見つける場面が当たります。
俺はこちら側にとどまったまま、頭のうえにたたんだ干し網をのせてみた。渡ってくる人たちの何人かが俺を見る。そのうちの一人が彼で、俺に目を向けてそらし、すぐまた俺を見た。(p.33-34)
つまり、先ほどの三作品は小説「愛たいとれいん」における、楯が見た景色と呼応関係を結ぶように組み立てられていましたが(ついでにいえば見開き(1)のシーケンスも、楯が経験した時間の総括であるといえます)、ここで楯が見られる対象として、「紙魚」のように景色のなかに位置付けられています。言い換えれば、これまで二つの作品間で(互いに異なるバリエーションとなるように)対象を観測していた視点そのものが、今度は対象として観測されているわけです(その端的な現れとして、「姿勢のよさ」が読まれていると考えられます)。しかし、こうした視点の急激な変更は、これまで小説・短歌の両者において共通する対象を異なる視点において読むというプログラムによって書かれた見開き(2)作品のなかにも、あらかじめ潜在していたものです。なぜなら、小説および短歌間で異なる書かれ方をしていた個々の対象は、根底においてそれを見る視点が(小説および短歌のあいだで)たがいに異なったあり方で存在していたからこそ、異なる強度をもった対象として見られるからです。また、短歌「愛たいとれいん」の個々の作品間における連続性は、連作につけられた題名と同名の小説を参照できるという条件のもとで持つ連続性と、短歌連作それ自体の枠組みのなかでの連続性として、それぞれ異なる由来を持っています。そのなかで、後者の連続性において見られる個々の作品に内在する視点は、ひとまず作品単位で独立したかたちで生み出され、それぞれになんらかの継起性を装填しなければ、共約可能的な視点をなかなか持ちにくいです(だからこそそれらを統合する視点として短歌において私性はかなりの具合でつきまとうのかもしれません)。つまり、作品内で観測される対象を蝶番にした媒体間の視点および個々の短歌作品間の視点は、一見すると題名の同一性や対象の同一性などの安定した基盤を持ちつつも、それらがむしろ絶えず揺らぎを呼び込むために、不安定な性質を帯びたものとして私たちの目の前に浮かんでいます。短歌の独立性を「私の同一性」ではなく小説へと迂回させることによって連続性を出現させ、再び短歌の独立性に返すことで小説の視点を逆転させると同時に、その狭間で世界を多重的にスパークさせつつ、短歌において描かれる「私」をより複雑に組み立てなおすという、見かけの印象からは想像もつかないほどに手の込んだ構成が、この作品をとおして感じられます。
あとは寿司みたいな家に帰るだけ
君がやたらと光っておかしい
「紙魚のように」において書かれた場面が、「君がやたらと光って」によって引き継がれつつ、「紙魚」においては「君」の発見に伴う知覚の誤差動として回収できた「光る」が、知覚と独立して(知覚に関係なく)存在しているかのような変奏が印象的です。と同時に、「紙魚」において開かれた、小説「愛たいとれいん」の緑の視点が引き伸ばされ、楯と会えた緑の喜びとたしかな呼応を結びつつも、独立した回路を維持しています。
生命のねらいは何だろう
夜の空気が桜餅の匂いだ
「あとは寿司」の次に配置されるこの作品は、「光る」によって繋ぎ止められた継起性とは異なり、食物のモチーフを介して「寿司」と繋がります。モチーフによる媒介をとおした継起性は時空間操作に由来する継起性とは異なり(同一の配置や語をとおした不一致の計測という仕組みにおいては同じですが)、どちらかというと詩や短歌における連続性の保存に採用されやすいものですが、それと同時に、小説「愛たいとれいん」におけるテーマである「時間の無限性と空間の有限性」を裏打ちするような感慨として、「生命のねらい」が引き出されているといえましょう。
素麺のほどいた帯を指先にゆらして
君を起こしにゆこう
そして、食物による連鎖的な展開はこの作品をとおして終わり、短歌「愛たいとれいん」は幕を閉じるのですが、ここで描かれている場面は、小説「愛たいとれいん」の冒頭部を、ほとんどそのまま引き写しています。短歌連作の末尾と小説の冒頭を一致させる試みは、小説「愛たいとれいん」と短歌「愛たいとれいん」の呼応関係を形式的に引き締めつつ、知らず知らずのうちに、「君」と名指される対象が再び楯から緑へと反転されています。この連作における「君」は不在者や超越的な他者を現すものではなく、語の配置関係において対象を示す、可換的かつ関数的なものとしてデザインされた語なのでしょう。また、ここでこの作品が位置する見開き(2)のイラストに付された「20160706」と、見開き(1)に付された「20160707」のあいだの、進行と逆行する日付が意味深に立ち上がってくることも指摘しておく必要があります。とはいえ、見開き(1)と(2)の作品に書かれた作品群は、見開き(2)の最後の作品に描かれる場面が小説の作品における最初の場面に対応することを除けば、その他の作品は時系列的にバラバラな場面と対応しているうえに、見開き(1)において、すでに物語的な過程は丸ごと要約されているという感触があります。つまり、時間はここでさらに小説の単線的な時系列と短歌の不確定な時系列、イラストの逆転した時系列の三つに、互いに呼応関係をもった時間は分裂しているわけです。こうして組まれた紙面の上で、私たちはそれぞれ別の時間に位置する文章・イラストを参照しながら、そのつどの共鳴および異種の視点を見つけていくことになります。
さて、ここまで見てきた「愛たいとれいん」の構成は、単なる「小説から引き出された短歌」および「短歌から引き出された小説」としてはとうてい位置付けられない、複雑な企みに満ちています。その複雑さは語句や構文の難解さ、詩的な言語の介入によるものというよりも、異なる回路をもった複数の文章による、互いに異なったかたちでの変奏・展開において、プリズムのように世界認識や時間、人称を乱反射させることで成立しているものです。そしてなにより、複雑さは見かけの文章の内部というよりも、複数の回路をもった文章をまたがるように読み、そのつどの記憶によって各々の細部を共鳴させる、読み手としての私たちの認識の側で立ち上がるものです。つまり、今回の連作が目指す新しさは、短歌に書かれた私ではなく、短歌を読む私(を巻き込む、作品の配置)に対して向けられているといえるでしょう。
彼を見たい
彼にいたるまでに出会う
人そのほかを眺めていたい
この作品の芯は、彼に対して向けられる視点の方向性が「会いたい」ではなく「見たい」と表現されているところにあります。「会う」よりもどこか即物的なニュアンスを伴った「見る」は、「会うこと」で始められる二人の時間に対する期待を含まず、「会う」と表現される以前の接触、つまり、視覚的な接触の経験だけで満たされてしまうほどの感情を喚起させます。と同時に、「会うこと」によって満たされる欲求は、「見る」にいたるまでの時間のなかで経験する「人そのほか」との出会いによって消化されていきます。「出会う」「人そのほか」のあいだに生まれる改行の拍が、「見る」と「出会う」の対比をより鮮明に見せつつ、たしかな切れ味を感じます。
八月を
君にゆっくり届きたい俺に
宇宙がよこす各停
その次に配置される作品は、彼を見ることへと向かう性急さとは対比的な遅さの表現があります。一読してまず、その全体像をうまくつかめない、揺らぐような感覚が生じますが、それは二行目の「届きたい」に由来します。「八月を/君にゆっくり届けたい俺に」、つまり「俺」が「八月」を届けるという表現であればスムーズに読めるところで、届けられることを期待されているのが実際は「俺」であるために、「八月」をどのように位置付けるかの判断が揺らぐからです。そして、この揺らぎは「ゆっくり」と対応することで、「俺」の求める遅さとして実現されます。そのため、「君にゆっくり届きたい俺」に「宇宙がよこす各停」とは、端的にこの揺らぎの感覚によって引き起こされる遅延であると考えることができます。改行によって実現される働きについても触れておきましょう。「彼を見たい」では、作品内で表現される欲求が一行で簡潔に述べられていますが、「八月を」では、構文の成立に三度の改行を含みつつ、かつ「届く」ことへの欲求が構文の内部に織り込まれています。この二つの作品の、「~したい」のちがいは、改行を意識することでどのように区別できるのでしょう。改行をおこなうと、一行の独立性の実現と他の行と切断が生まれるので、改行はそこに当てられる文章と時間的・空間的な比例関係をもちます。たとえば、一文が複数の行に分けられると、一行ごとに生み出される独立化および他の行との切断の効果によって、文を読むなかで生起する時間に遅延の感覚が伴います。これに加えて、「八月を」では、改行による意味の宙吊りが、構文自体の宙吊り感をアコーディオンのように多重化させていますので、「彼を見たい」と対照的に、出来る限り「ゆっくりと」したものとして読まれることが目指されているのではないかとおもいます。同時に「宇宙がよこす」という修飾をもつ各停が、地上の私たちとは異なる次元のものであることの説得力を、同時に強めてもいるのではないかといえます。
手のひらに座らせてくれたようだった
愛から創られた夏の汽車
この作品は、おそらく見開きにおいて進行していたこれまでの過程にけりをつける意図があるのではないかと読めます。直前の「各停」に「夏の汽車」が接続されているのはいうまでもありませんが、「愛から創られた夏の汽車」は、先ほどの二つの作品が、どちらも移動の性質を伴っていたことから析出される隠喩です。相手に向かう「~したい」という欲求を愛として、その欲求に付随して生じていた運動が「汽車」であるというわけです。「手のひらに座らせてくれたようだった」は、フレーズとしての意味合いが強く感じられますが、「座る」ことで一連の流れにある程度のおさまりがつくので、これ以降も作品は存在するものの、この三作品はセットとして一つのブロックをつくっているのではないかとおもいます。
というふうに、いつもどおりの感じでひとつひとつの作品を読み込んでいこうかとおもいましたが、今回はそれだけだとかなりの具合で片手落ちになるので、すこし視点を変えて見ていきたいとおもいます。
さて、以上三作品をテキスト単体で読む限りでは、「彼を見たい」における「彼」と呼ばれる存在が「八月を」における「俺」となるような、二人の恋愛について詠まれたものであるようにおもいます。事実、この三作品が埋め込まれている見開きには、おそらくどちらも男性と思われる、スーツ姿の二人のイラストが描かれています。「思われる」と言わざるをえないのは、二人の顔が雲とハートで隠れていてよく見えないからですが、ここで、今回の連作がもつ構成を、掲載されている作品も含めて、列挙してみましょう。「愛たいとれいん」は、見開き二つに作品とイラストが互いに関連しあうよう配置されていますが、便宜上、先行する見開きと後続する見開きを、それぞれ(1)と(2)に分けます。
・見開き(1)は、右ページに余白を大きくとったイラストの枠内に、改行を施された作品が右斜め上から左下(見開き中央)にかけて3つ、下降するように配置されている。左ページはイラスト。頭部をそれぞれハートの群れ、渦を描く雲によって顔を隠された細身のスーツ姿の(おそらく)男性の、上半身から膝下までが描かれている。左の男は腕を組み、壁によりかかりだれかを待つようなポーズを取り、右の男は左の男のそばに駆け寄って立ち止まるようなポーズを取っている。とりわけ目を引くのはスーツの柄だ。左の男のスーツには枯木立、右の男のスーツには大ぶりの椿のような花のプリントが全面的に施されており、スーツ自体の存在感は、それを着込む二人の体型と自身がスーツであることをぎりぎり示唆するに留められている。左の男の背景は黒地に雪、もしくは桜の花びらをおもわせる米粒状の塗り残しが散漫に配置され、太もものあたりにかけて黒ベタ、継ぎ足しカケアミ、白のパターンを繰り返す虹のような帯が、右の男の腰のあたりから伸びて、ページ中央部右側で一度バウンドしつつ、右ページ下方にかけて続いている。帯を構成するそれぞれのパターンの内側には「KAREWOMTI KARE」「HACHIGATSU」「TENOHIRANISUW」と、余白に配置された作品のローマ字表記が白抜きで(白地の帯のみは黒字で)書かれている。しかし、上から6つ目の帯(白地)には掲載作品には見られない文章「REIKADATOHITOBITOHAIU」(「冷夏(?)だと人々は言う」)が書かれている。
・作品は右斜め上から順に次のとおり。
彼を見たい
彼にいたるまでに出会う
人そのほかを眺めていたい
八月を
君にゆっくり届きたい俺に
宇宙がよこす各停
手のひらに座らせてくれたようだった
愛から創られた夏の汽車
・イラスト右下に「20160707」の表記。
・見開き(2)は左ページにイラスト+イラスト枠内の余白に改行作品3つ、右ページに改行なしの作品4つの構成を取っている。
・左ページ中心部には穿たれた穴のように円が描かれ、円は風に舞う牧草のようなもので縁取られている。作品は円の上部を囲うように3つ、虹の帯は円の下部を囲うように配置されている。円の内側には風景が描かれ、手前から牧草地・針葉樹林・草原・稜線のみで描かれた丘、の構成。前景の牧草地には輪切りにされた金太郎飴のような飼い葉が左手前に1つ、左手奥に1つ、右手奥に3つ配置され、日差しを受けて右手に影を伸ばしている(ここで、風景を縁取る丸と飼い葉のあいだに形態的な類似が感じられる)。
・作品は右ページから順に次のとおり。
運命に分かたれるまで触れあっている夏草と車の腹よ
紙魚のように光る姿勢のいい人がいると思ってよく見たら君
あとは寿司みたいな家に帰るだけ
君がやたらと光っておかしい
生命のねらいは何だろう
夜の空気が桜餅の匂いだ
素麺のほどいた帯を指先にゆらして
君を起こしにゆこう
・見開き(1)との類似点として、枠内に書かれた作品に改行が施されること、黒・継ぎ足しカケアミ・白のパターンで構成された虹の帯が挙げられる。しかし、帯の内側に描かれているのは作品のローマ字表記ではなく、「NATSUNO MIRAI HOKKAIDOWO drive SHTEIRU」「TO TOKIDOKI SOUGU SURUNODAKEDONA」「ZEKA OREHA KOREWOMIRUTO BAKUSHOU」(「夏の未来北海道をドライブSH(し?)ていると時々遭遇するのだけどなぜか俺はこれを見ると爆笑」)と、イラストそのもの(おそらく飼い葉)に対する言及と見られる文章がローマ字表記で書かれている。
・イラスト左下に「20160706」の表記。
気になるのは、見開き(2)におけるイラストに書かれたローマ字表記の文章です。表記を戻すと、「夏の未来北海道をドライブしていると時々遭遇するのだけどなぜか俺はこれを見ると爆笑」と書かれているこの文章によって、今回の連作は、「プラトニック・プラネッツ」以降くりかえし作者が書いている、「楯」と「緑」の二人を主人公とした、一連の恋愛小説と地続きになっていることがわかります(小説の舞台は、「未来東京」や「未来京都」など、現実の地名に「未来」の名を冠しています)。ということは、今回の連作も楯と緑の二人の生活を描いたものであることが考えられます。というか、そうであるとしかいえないのですが、というのも、今回の連作と同名の小説が、「小説新潮2016年8月号」に掲載されていて、こちらを読むと、「汽車」「ロケで使われた駅」「牧草ロール」といった対象はもちろん、ちょうど見開き(2)のイラストに書かれているフレーズとまったく同じ文章が書かれている(「小説新潮」p.27)からです。
小説「愛たいとれいん」は、未来札幌で開かれる「月で働きたい法曹のための研修会」に参加する、弁護士になった緑の帰りを待つ楯が、緑の帰りを待ちきれずに列車で会いに行くというストーリーです。楯は緑に会うまでのあいだに、列車をすぎていく景色やそこで出会う人たち、よくわからない食事にいとおしいような、巨大な時間の流れに位置付けられ、それ自体としては儚くもろいものとして感じられつつも、そのつどの出会いが「この宇宙はじまって以来はじめてのできごと」として受け止められるような、かけがえのない魅力を抱きます。短歌「愛たいとれいん」は、小説「愛たいとれいん」で楯が出会う場面や思いを抽出し、短歌として置き換えたものであると考えられます。そうなると、見開き(1)の構成は、小説「愛たいとれいん」の要約として読むことができます(小説「愛たいとれいん」において、「汽車」という語に関して「こっちの人(未来北海道の人)は長距離を走る列車を汽車と呼ぶことがおおい」と、あからさまに補足が入れられています)。小説を意識した読解において、先ほどの三作品はすべて一つの(楯の)視点から詠まれたものであると考えられます。しかし、短歌「愛たいとれいん」の見開き(1)を、作品とイラストの配置において読むと、「君を見たい」と「八月を」のあいだの逆転した構成や、イラストにおける移動の感触をのこしながら「左の男」の上にやや重なる「右の男」と、その場に立ち尽くしてだれかを待つような「左の男」の構成から、二人の視点が交互に読まれ、ついに重なりあう小さな物語を組み立てることができます。つまり、この二つの同名の作品は、かなり明確な相似の感触を読み手に与えつつ、それぞれが互いに上手く一致しないようなひねりが加えられています。イラストに添えられた日付の、実際に目を通す時間の流れとは逆行する配置から、すでにその予感は与えられているのですが、こうした見開き(1)における物語の要約・変奏にとどまらず、次に挙げられる「牧草ロール」や「ロケで使われなかった駅」など、小説・短歌に共通して用いられている要素においても見受けられます。
ロケに使われたことなんか忘れて赤ちゃんのままでいなよ駅は
まず、「ロケに使われた~」は小説「愛たいとれいん」で、楯が未来富良野町に到着した際の場面に関連して詠まれていると考えられます。小説『愛たいとれいん』では、次のような描写で表現されています。
ホームに貼りだされている説明によると、この駅は前世紀後半から今世紀初頭にかけて人気のあった、未来北海道を舞台にしたドラマシリーズの撮影地にもなったらしく、駅舎の中にはドラマ原作者のサインやロケの記念品が展示されている。色あせた写真を眺めながら白湯を飲む。(p.27)
ここには「ロケに使われた駅」に対する短歌作品の表現と対応する視点がなく、淡々と場面の(どちらかというと)写生的な立ち上げが行われていて、「ロケに使われた駅」という語に対する短歌と作品の関連性は、短歌が小説に付随されるようなものではないと感じられます。「ロケに使われたことなんて忘れて」という呼びかけは、小説の本文からはなかなか引き出しにくいのではないかとおもいますし(逆もまた然りです)、それ以前に、絶えず自身の構成要素を増やし、雑多に膨れ上がりながら作品の輪郭を分裂させていく小説特有の性質に対して、器のようなものとしてすでに与えられている形式と共振しつつ、輪郭を閉じるように組み立てていく短歌という、二つの媒体の差異もここにはあるとおもいます。「ロケに使われた駅」は小説「愛たいとれいん」全体を背負わされておらず、せいぜい「未来札幌に向かう道中の場面」、つまりこの小説をデザインする配置の一つとして組み込まれている一方で、短歌「愛たいとれいん」の「ロケに使われた駅」は、「ロケに使われたことなんか忘れて赤ちゃんのままでいなよ駅は」として、作品全体において詠み込まれています。この差異は、やはり両者で読まれる「駅」の一致をむずかしくします。短歌と小説の双方において類似を意識させつつも、一方が他方に組み込まれるような視点によって書かれてはいないという事態は、小説と短歌の両方に共通してあらわれているこの対象を、どちらの媒体をも中心化せずに、媒体間の余白において、確固たる存在感を持って立ち上がるように感じます。「似たような・まったく同じ」対象が互いに区別される複数のあり方で記述され、かつ、この複数のあり方が媒体間の差異といった、異なる視点の統合を妨げるような符丁を挟み込まれた際、そこでは対象の多面的な見方ではなく、それら多面的な見方のどれにも支配されない、対象の異常な存在感が現れる、と言い換えてよいでしょう。小説の言葉を引くと、「だれも通らなければそこは道ではなく、だれにも見られなければその景色は存在しない」と書かれてしまう道や景色が、にも関わらず、自分たちのためにつくられた道のように見えてしまうとき、その道は、ちょうど「ロケに使われた駅」のような道として、私たちの目の前でありつつ、私たちの外に存在するかのように感じられるのかもしれません。
牧草ロールは真面目で可愛い君のよう野にいて星を宿したつもり
「牧草ロール」についても同様のことがいえますが(短歌「愛たいとれいん」に関しては、「真面目で可愛い君」との類似が詠まれていますが、小説「愛たいとれいん」では、緑への類似だけでなく、なにかしらの感情を喚起させるような機能の手前で、見るだけで「笑いの中枢をずくずくに刺激され」てしまうという、反射レベルの反応を楯に取らせるものとして書かれています)、こちらはさらに、もうすこしひねりが加わっていておもしろく読めます。というのも、ここで詠まれる「牧草ロール」は、小説における「牧草ロール」との呼応以前に、この作品が配置されている見開き(2)の左ページにおいて、小説「愛たいとれいん」で使用された文章のローマ字表記を随伴させながら、実際にイラストとして描き込まれているからです。しかも、小説「愛たいとれいん」には、次のような描写が見られます。
今回のロールは、牧草を巻いただけではなくさらに白いビニールでラッピングするバージョンで、俺はとりわけこれに弱くて、腕を口に押しつけて声をころしながら笑った。薄曇りののどかな緑の中にピカピカした白い巨大なラムネ錠。遠近感の狂った感じがおもしろいのだろうか……(p.26-27)
こうした「牧草ロール」の描写は、短歌「愛たいとれいん」のイラストにおける、極端に単純化されたフォルムをもった円柱の白い物体を、どうしても喚起させますし、あたりに生える草のせいで、遠近感もたしかに歪むようです。つまり、このイラストは、小説「愛たいとれいん」における視覚的な比喩を、視覚性においてかなり即物的に引き写したものであるといえます。そして、こうして絵にされた「牧草ロール」は、小説「愛たいとれいん」における「巨大なラムネ錠」の視覚的な表現を引き継ぎつつも、「野にいて星を宿したつもり」と短歌「愛たいとれいん」において書かれた印象を、同時に引き写しているかのようです。「野にいて星を宿したつもり」は、実物の牧草ロールがもつ独特の異質感をどこか想起させるものです。牧場を背景とした空間のなかで、牧草を素材としながら、人工的な規則性をもって組み上げられたフォルムをもちつつ、同時にそれがあたりにいくつも、バラバラに転がっている光景は、どこか牧草地のもつ雰囲気から遊離した、別の世界から降りてきたもののように感じられます。見開き(2)において視覚的な図像として現れ、楯の反射的な爆笑を誘う存在でありながら、同時に小説では書かれなかった「君」との類似性を伴わせる、星を宿したような神秘性をもつ存在でもある牧草ロール。小説・短歌のあいだでイラストによる指示を伴いながら、絶えず異なる印象へと移行するおかしな白い物体は、私たちの目の移り行きに合わせて揺れ動くかのようです。
さて、ある対象を別のバリエーションで詠む流れは、ここで対象が配置される状況そのものへと、注目をシフトさせていきます。
運命に分かたれるまで触れあっている夏草と車の腹よ
こちらは、以下の文章と重なっているようです。
家から車で未来新得駅まで約四十分。そこから、未来帯広から出る特急「エクスカリバーとかち」上り始発に乗って緑は未来札幌へ行く。俺は彼のジープが見えなくなるまで、家の前から見送った。(中略)玄関から麦わら帽子をとってきてかぶり、駐車スペースに敷いている玉砂利のすきまから生える雑草を抜く。ここにはブタナーー緑は「豚のサラダ」なんてしゃれた名前を知っていたけど、タンポポそっくりなそいつが生えて、ジープの腹をくすぐっている。(p.20)
小説では「ブタナ」への注目において組み立てられ、ジープの腹はむしろその周囲に組織化されている文章が、短歌では「夏草と車の腹」という組み合わせのもとで抽出されています。ここでは、「ロケに使われた駅」や「牧草ロール」のような、対象からなにかを読み取る視点を変化させるのではなく、ある対象と対象の配置の力点自体を組み替えたと考えられます。そうなると、小説が短歌に先行して書かれているということを前提にしてしまいそうですが、もちろんそうではなく、短歌において詠まれた組み合わせをばらして、小説に再配置したという方向性もありえます。作者が実際に直面した経験において、その近傍に見られた要素の配置を組み替えて作品に落とし込むという方法は、短歌に限らずあらゆるジャンルの表現に見られますが、そうした操作は、文章を読んでそれを頭のなかで組み替え直し、理解し、あるいは書き換える操作に伴う思考の流れと切れているわけではなく、地続きです。それでは、短歌「愛たいとれいん」における「運命に分かたれるまで」は、小説においてどのような対応があるのかのいえば、すこし仰々しく感じられますが、いうまでもなくそれは研修に向かう緑を見送る楯という場面そのものでしょう。つまり、ここでは対象そのものから異なる読みを引き出すのではなく、同じ読みが同じ対象同士の異なる組み合わせから生み出されているわけです。しかし、短歌において「運命」によって分かたれるのは「夏草と車の腹」そのものですので、小説において「ブタナとジープの腹」の外で展開していたはずの事態が、短歌においては「夏草と車の腹」の内側で起きており、小説と短歌で構成が裏返しになっています。
こうした裏返しの構造を取った作品は、次にも続きます。
紙魚のように光る姿勢のいい人がいると思ってよく見たら君
短歌において詠まれているのは、「君」を認識できずに「紙魚のように光る姿勢のいい人」と見なし、「よく見ると」による取り消しをはさんだあとで、その人が「君」であると再認するまでの過程です。「紙魚のように」で立ち現れる知覚対象の小ささは、文字の羅列のような人ごみを背景に「君」を見つけるという細部を意識させますが、小説版でこれに該当するものは、おそらく緑の視点から見られる楯の姿であると考えられます。小説「愛たいとれいん」のクライマックス、未来札幌駅で緑が現れるのを待つ楯が、彼の姿を見つける場面が当たります。
俺はこちら側にとどまったまま、頭のうえにたたんだ干し網をのせてみた。渡ってくる人たちの何人かが俺を見る。そのうちの一人が彼で、俺に目を向けてそらし、すぐまた俺を見た。(p.33-34)
つまり、先ほどの三作品は小説「愛たいとれいん」における、楯が見た景色と呼応関係を結ぶように組み立てられていましたが(ついでにいえば見開き(1)のシーケンスも、楯が経験した時間の総括であるといえます)、ここで楯が見られる対象として、「紙魚」のように景色のなかに位置付けられています。言い換えれば、これまで二つの作品間で(互いに異なるバリエーションとなるように)対象を観測していた視点そのものが、今度は対象として観測されているわけです(その端的な現れとして、「姿勢のよさ」が読まれていると考えられます)。しかし、こうした視点の急激な変更は、これまで小説・短歌の両者において共通する対象を異なる視点において読むというプログラムによって書かれた見開き(2)作品のなかにも、あらかじめ潜在していたものです。なぜなら、小説および短歌間で異なる書かれ方をしていた個々の対象は、根底においてそれを見る視点が(小説および短歌のあいだで)たがいに異なったあり方で存在していたからこそ、異なる強度をもった対象として見られるからです。また、短歌「愛たいとれいん」の個々の作品間における連続性は、連作につけられた題名と同名の小説を参照できるという条件のもとで持つ連続性と、短歌連作それ自体の枠組みのなかでの連続性として、それぞれ異なる由来を持っています。そのなかで、後者の連続性において見られる個々の作品に内在する視点は、ひとまず作品単位で独立したかたちで生み出され、それぞれになんらかの継起性を装填しなければ、共約可能的な視点をなかなか持ちにくいです(だからこそそれらを統合する視点として短歌において私性はかなりの具合でつきまとうのかもしれません)。つまり、作品内で観測される対象を蝶番にした媒体間の視点および個々の短歌作品間の視点は、一見すると題名の同一性や対象の同一性などの安定した基盤を持ちつつも、それらがむしろ絶えず揺らぎを呼び込むために、不安定な性質を帯びたものとして私たちの目の前に浮かんでいます。短歌の独立性を「私の同一性」ではなく小説へと迂回させることによって連続性を出現させ、再び短歌の独立性に返すことで小説の視点を逆転させると同時に、その狭間で世界を多重的にスパークさせつつ、短歌において描かれる「私」をより複雑に組み立てなおすという、見かけの印象からは想像もつかないほどに手の込んだ構成が、この作品をとおして感じられます。
あとは寿司みたいな家に帰るだけ
君がやたらと光っておかしい
「紙魚のように」において書かれた場面が、「君がやたらと光って」によって引き継がれつつ、「紙魚」においては「君」の発見に伴う知覚の誤差動として回収できた「光る」が、知覚と独立して(知覚に関係なく)存在しているかのような変奏が印象的です。と同時に、「紙魚」において開かれた、小説「愛たいとれいん」の緑の視点が引き伸ばされ、楯と会えた緑の喜びとたしかな呼応を結びつつも、独立した回路を維持しています。
生命のねらいは何だろう
夜の空気が桜餅の匂いだ
「あとは寿司」の次に配置されるこの作品は、「光る」によって繋ぎ止められた継起性とは異なり、食物のモチーフを介して「寿司」と繋がります。モチーフによる媒介をとおした継起性は時空間操作に由来する継起性とは異なり(同一の配置や語をとおした不一致の計測という仕組みにおいては同じですが)、どちらかというと詩や短歌における連続性の保存に採用されやすいものですが、それと同時に、小説「愛たいとれいん」におけるテーマである「時間の無限性と空間の有限性」を裏打ちするような感慨として、「生命のねらい」が引き出されているといえましょう。
素麺のほどいた帯を指先にゆらして
君を起こしにゆこう
そして、食物による連鎖的な展開はこの作品をとおして終わり、短歌「愛たいとれいん」は幕を閉じるのですが、ここで描かれている場面は、小説「愛たいとれいん」の冒頭部を、ほとんどそのまま引き写しています。短歌連作の末尾と小説の冒頭を一致させる試みは、小説「愛たいとれいん」と短歌「愛たいとれいん」の呼応関係を形式的に引き締めつつ、知らず知らずのうちに、「君」と名指される対象が再び楯から緑へと反転されています。この連作における「君」は不在者や超越的な他者を現すものではなく、語の配置関係において対象を示す、可換的かつ関数的なものとしてデザインされた語なのでしょう。また、ここでこの作品が位置する見開き(2)のイラストに付された「20160706」と、見開き(1)に付された「20160707」のあいだの、進行と逆行する日付が意味深に立ち上がってくることも指摘しておく必要があります。とはいえ、見開き(1)と(2)の作品に書かれた作品群は、見開き(2)の最後の作品に描かれる場面が小説の作品における最初の場面に対応することを除けば、その他の作品は時系列的にバラバラな場面と対応しているうえに、見開き(1)において、すでに物語的な過程は丸ごと要約されているという感触があります。つまり、時間はここでさらに小説の単線的な時系列と短歌の不確定な時系列、イラストの逆転した時系列の三つに、互いに呼応関係をもった時間は分裂しているわけです。こうして組まれた紙面の上で、私たちはそれぞれ別の時間に位置する文章・イラストを参照しながら、そのつどの共鳴および異種の視点を見つけていくことになります。
さて、ここまで見てきた「愛たいとれいん」の構成は、単なる「小説から引き出された短歌」および「短歌から引き出された小説」としてはとうてい位置付けられない、複雑な企みに満ちています。その複雑さは語句や構文の難解さ、詩的な言語の介入によるものというよりも、異なる回路をもった複数の文章による、互いに異なったかたちでの変奏・展開において、プリズムのように世界認識や時間、人称を乱反射させることで成立しているものです。そしてなにより、複雑さは見かけの文章の内部というよりも、複数の回路をもった文章をまたがるように読み、そのつどの記憶によって各々の細部を共鳴させる、読み手としての私たちの認識の側で立ち上がるものです。つまり、今回の連作が目指す新しさは、短歌に書かれた私ではなく、短歌を読む私(を巻き込む、作品の配置)に対して向けられているといえるでしょう。