「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 感情はときに水場のように――山崎聡子歌集『手のひらの花火』(短歌研究社)を読む 田中庸介

2014-01-08 19:58:41 | 短歌時評
 わたしたちのただよう現実の底には、何かしら、わけのわからないものが沈潜している。その沈潜しているものをあえて見ないように見ないようにと思いながら、わたしたちは日ごろ暮らしているのだと思うけれども、見えない暗い水の底をのぞくようにして、心のどこかにしまってある何かを、どうしても見てみたくなることもある。虚構――は、そんなときの、潜水めがね。なにかが演劇だということにしさえすれば、そこではわたしはわたしでなくなるし、あなたはあなたでなくていい。今は今でなくてもいいんだし、どんな惨劇も、どんな悲劇も、舞台というこの一枚の板の上では、みんないっしょの仲間なんだ。
 熱に浮かされたように、赤い花がひとひら、ひとひらと散ってゆく。あっけなく奪われた命のあまりの軽さ。そしてまた奪われていくだろう命の、白昼夢。一発の銃声。いのちの向こうとこちら側との距離があまりにも近い。生まれ変わり死に変わりしてひとはまた、こどもになる。それがアジアなんだ。それが裸の、アジアなんだ。
 そうつぶやきながらあなたは、山崎聡子さんの歌集『手のひらの花火』をめくってみる。
  
  手のひらに西瓜の種を載せている撃たれたような君のてのひら
  手のひらで冷えた卵をあっためているときふいに土けむり立つ
  セーターを脱げばいっせいに私たちたましいひとつ浮かべたお皿
  一粒のライムの青にみとれたらタコスプレートは熱帯のよう
  「あそこはもう駄目なんでしょう」名も知らぬ島に咲くという赤い浜百合


 かつてこの国が経験した戦争。その「風船爆弾」を題材とした芝居を演じようと、高校生の「私たち」はいっせいに「セーター」を脱ぐ。むきだしになるのは、無防備な、まぶしい私たちの肉体。そして、あまりにもあっけない、私たちの「たましい」。
この「西瓜の種」「冷えた卵」というのはいずれも、消え入りそうないのちの萌芽の謂である。それを「てのひら」でいつくしんでいるうち、不意の銃声がある。敵弾が炸裂して土けむりが立つ。「てのひら」に貫通する銃創。
あるいは「一粒のライムの青」「名も知らぬ島に咲くという赤い浜百合」というのはいずれも、ヴィヴィッドな「熱帯」の表象と読めよう。蜷川実花の写真のような、総天然色の「南洋」の島に降り注ぐ、ぎらぎらした陽の光。しかし、そこもやがては玉砕して、「もう駄目なんでしょう」とひそかにささやきあう「私たち」の姿がある。具体的なビジュアルイメージを強く打ち出し、強い感情を歌う山崎さんの作品は、現代短歌のことばのあしらいを十分にふまえつつ、新鮮な情景を浮かび上がらせる。

 どれほどの渇望かもうわからない君とゆっくりゆくアーケード
 感情はときに水場のようにあり揺れるぬるい水、あたたかい水
 暗転とそして明転 くりかえしくりかえし朝と夜を迎えると
 絵の具くさい友のあたまを抱くときにわたしにもっとも遠い死後は
 私たち知りすぎたねと屋上で舐めた友だちの薄い目蓋よ
 へび花火ひとつを君の手のひらに終わりを知っている顔で置く


戦いの日々にかつえた心を休めてくれる友情はやがて必然的に、愛情へとうつってゆく。同性の「君」へと寄せる禁断の狂おしい感情はしだいに若い魂を燃え立たせ、「死後」の存在をつかの間、遠いものとする。舞台が暗転し、また明転する演劇の一場一場のように、あるいは寄せては返し、返しては寄せる海のように、好きだという感情の水は「君」と「わたし」とをくりかえし洗ってゆく。屋上のラブシーン、決して結ばれることのない秘密の恋……。そして「君」の手のひらに「終わりを知っている顔で置く」という「へび花火」こそが、この本の表題になっている「手のひらの花火」だったのだというところへとたどり着けば、あなたはもう、この一風変わった戦中青春歌のとりこになり、あえて不条理へとつきすすむ暗いアジアの情念の世界へと、目が開かれるだろう。
第四句の八音がその文体の特徴となっているが、演劇出身という山崎さんは、寺山以来のドラマトゥルギーの詩歌への復活をこの内在するリズムによって果たしたとも言える。これはひとつの文学的事件かもしれない。ぼくらはこれまで、ポストモダンが抑圧したのは「物語」であるとばかり思っていたのだが、それが実は「感情」であったのだとこの本によって知るだろう。かつて穂村弘、永井祐は、「感情」が抑圧されたままにしずかに動いている現代文明社会の繊細なあやうさを描き、ぼくらの心を打った。かれらは、日本全体が安心、安全なコンビニの店内のようになっていると感じられてしまうほどの感性の麻痺との戦いの場を、短歌に求めようとしたのだ。そして寺山を継承しようとした藤原龍一郎、福島泰樹の美質も、究極的にはやはりそのルサンチマンの内部にあった。
しかし東日本大震災を経験したばかりのぼくらには、もはやその安心、安全が永遠に存続するものだとは到底信じられない。昨年末の高山明/PortBの演劇『東京へテロトピア』が現実の東京の雑踏の真ん中で、アジアのドラスティックな歴史性を鮮烈に見せてくれたように、コンビニはいつ地震で倒壊するかもしれないし、津波でもっていかれるかもしれない。その気分のなかで、あまりにも軽く、あまりにも力強く、なにかがぼくらの精神の中で急速に進行しはじめている。ここにおいて、ぼくらはあふれだす「感情」をどのように歌おうか。「生の真実とは 何と照臭く 軽々しい言葉だろう」(『異邦人』)とはかつての辻井喬の詩句であるが、そんなドライな戦後詩歌の知性によってさばかれた言葉の審級をもってして、どうやったらぼくらの詩歌は、ふたたび「感情」の表出を取り戻すことができるのか。山崎さんは本作で「感情は時に水場のようにあり」と歌ったが、そのような時代の思想をもっとも担うものとして、歌集『手のひらの花火』の提示した問題はいま、ぼくらの心へと強く問いかけてくる。