今から6年ほど前、何気なくTVをつけると辺見庸が語っていた。
イタリアの写真家マリオ・ジャッコメリについてである。
彼の写真は我々の心に入れ墨を入れる
記憶の根っこを映像化すると単色になる
白は無限の虚無
黒は無限の傷跡
この語りは詩であると感じてとても強烈な印象を受けた。
それから3年ほどたって彼は『生首』や『眼の海』という詩集を発表して高い評価を受けているが、私は散文や語りの方に彼の詩人としての資質を感じる。
「戸籍抄本をもらった。カウンターごしにそれを手わたしながら、メガネの女の職員がひとつ生あくびをした。半開きの口が、なにか大それたものの「開口部」をおもわせた。彼女の口中をじっとみつめた。舌の上に、濃いモスグリーンの闇がひとかたまり載っていたのだ。これもいまおきつつあること、これからおきることの「微」ではなかろうか。」
『水の透視画法』より
日常に兆すかすかな怪しげな気配と辺見庸独特のずしりと重いことばに惹きこまれる。
いったいどのようにしてどんな場所からこれらの言葉が生まれるのか。
無頼派、左翼と言われながら「百日紅はなぜ怖いのか」と問う彼の孤高の生きざまそのものが詩のような気がする。辺見庸は言う。
「人の旅は、だれかをさがしもとめる外への彷徨のようでいて、ふと気がつけば、おのれの魂の在りかを手さぐりし内へ内へともぐる終わりのない縦の道ゆきなのである。そのことに気づかないかぎり、私はただ思念のトーラス上を過去の忘却とねつ造をくりかえしながらハツカネズミのように死ぬまでめぐりめぐるだけなのだ。」
『水の透視画法』より