わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第101回 -加藤治郎-夏嶋真子

2013-06-12 20:47:54 | 詩客

月蝕が始まる時間
犬の眼のつぶれたようなにぶさだが
意識を病んだシステムの
叫び声、いや、ぴいぴいとポケットベルが
きみを呼ぶ〈5C31/QD9〉
登録された青年の脳死を告げて
そう、なにも問題はない(老人は助かるだろう)
 
月蝕は始まっている
オリーブのオイルのようなにぶさだが
愛しているよ
きみらしくやらせてくれよぶちこんでうまくやるから
もしできるならぼくを救けて
 
できるなら月のひかりの囁きのつぶつぶが噛むきみの耳たぶ

引用『昏睡のパラダイス』よりトリッピング Ⅱ 加藤治郎 

 

 見事なまでに自由詩の体をなしているが、実は五七の韻律を繰り返し七で結ばれた長歌とその反歌である。
 第一連では作者の意識は医師の側にある。ポケットベルで記号が飛び交っていた90年代後半、オウム事件を象徴として時代そのものが意識を病んでゆく。
 脳死の青年は重さのない登録された存在として扱われているが、月蝕は犬の眼のつぶれたような暴力的な重苦しさの中で進む。なぜなら生と死の二択の判断を迫らねばならない「医師」というルーチン化されたシステムの外で、生身の体は悲鳴をあげているからだ。暗号のように31が現れるのは詩に重ねたれた歌人自身の叫びであるはずだが、肉をともなった声ではなく、存在の剥離した断片的な記号である。
 弟二連、作者の意識は医師を離れ… いや、離れてはいないのだ。白衣(システム)を脱いだの医師の生身の心を過るように、脳死の青年の生でも死でもない意識と作者自身の意識を夢のように重ねあわせた「ぼく」が現れる。性愛への衝動は病んだシステムに抗う身体の激しい希求だ。けれども、オリーブのオイルのとろみと濁りを持った時間の流れの外にいる人間には、彼らの「できるならぼくを救けて」という切望は、粒子になった月のひかりとしてノイズのように耳たぶに届けられる。
 病んだシステムが肉の重みを持った現実に置き換わりつつある日常、今、ここに生きる私はどうだろう。2013年、月蝕はまだはじまったばかりだ。
 
 ここまで作品を自由に読んできたが、せっかくの三詩型交流サイトである。加藤の第二歌集、マイ・ロマンサーからさらに自由にこんな遊びをしてみよう。
 
 
幻想を切りおとすまで
方形の枯野を駆ける
カーソルの火よ
いま詩語を差し入れようと キイを打つ 
 
永遠(とわ)に入力待ちのカーソル
予定して詩をかくことを
どなたかにただしてみたい 
 
火星に化石
人体のうみだす石を思うころ
蟹座のなかで母船が燃える
 
  四首を引用して、一首ごとに区切るのではなく作為的に行間をあけ自由詩のように並べてみた。私の主観ではあるが、同じ位相で書かれていると感じたもの、「詩を書こうとする詩人の意識」の歌を歌集の中から抜き出した。一首一首の独立した歌が意識の連なりとしてひとつの自由詩のように立ち上がってくるのが面白い。
 
 マイ・ロマンサーの特色の一つに位相がある。通常、歌集を一冊読むと一人の作者の姿が見え隠れする。短歌では作中のわたくし=作者自身であるという前提があるからだ。(もちろん現在この限りではない歌人は多い。)しかし加藤は20年以上前に意識の複層化を試みている。修辞、特に会話体を駆使することで彼の意識はかたちを変えて漂いひとつではないのだ。記号短歌として有名な彼の代表歌を含む連作ハルオからいくつか引用してみる。あとがきによればハルオは20代後半のSEで詩人、加藤自身のインターフェイスであるという。
 
A プログラマーは早起きであるアップルのようにあんたの顔を割りたい
   磁気テープ額にこすりつけられて俺はなにかをしゃべりたくなる
   二万ステップのサブ・システムを消去する煙草をきつく噛みながら消す
 
 
B(a) ひるがおがあくびしそうな縁側でいもうとは足の爪を切り居り
        ふいてるね天使のおしり夏暁の蟯虫検査の青いセロファン
  (b) なにがはいっていたんだろ な ちっぽけなあかあくてまるいおべんと箱
        きりんさんしゃんぷうかして はいはあい電球いろのいもうとの足
      

 Aでは、SEとして厳しい現実に置かれている画面の前のハルオの歌をあげた。

 


 B(a)では幼年時代を回想する現在のハルオの意識で書かれた歌を、(b)では幼年のハルオ自身の発語となっている歌を引いた。会話体、文語などを使い分けることによって過去を眺めている現在のハルオの意識と、現在もハルオの奥に眠っている幼年のままの意識とにBが二層化されている。
 連作ハルオ3では、たくさんのA群を過るように挿入されるB群がハルオの意識の分断化を暗示させる。ひかりが映し出すものが懐かしく儚ければ影はより色濃く不穏を誘うのだ。これらを踏まえて、A(SEのハルオ)の二層化ともとれる記号短歌、ハルオの内在からの発語と思われる歌を抜き出して見てゆこう。
 
A“  1001二人のふ10る0010い恐怖をかた101100り0
          
       言葉ではない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ラン!
 
       言葉ではない言葉ではない言葉ではない言葉ではない言葉ではない
 
       言葉では  ない言葉では ない言葉 ではない言葉   ではない
 
       言葉では 銀いろのすな ない言葉 銀いろのゆき ではない言葉 
 
 一首目、1001の数首前にこんな歌がある。

 

二人のふるい恐怖をかたり症状がやわらぐならば濁った蜜を
 
 これは、Aの現実の歌である。性愛は無機的なシステムから最も遠い、生のシステムであり言葉ではない行為であるが、A“の一首目はこの歌を蝕むようにコンピューターの2進法が挿入され行為までもがデータ化されてゆく。SEハルオの内在からの発語、画面の中のハルオの声はコンピューターシステムの歯車として組み込まれ存在を消されてゆくような狂気に抗う。そして一個人の叫び声が情報化社会全体の危機への比喩として機能する。

 二首目、言葉ではないのあとにつづく!は21個、全体では視覚的に31モーラとなるが、!を声に出すことはできない。視野だけに存在を主張し疾走するプログラムの文字列なのだ。では、「言葉ではない」とは何を意味しているのか?「!」は意味をもった言葉ではなく記号だ、というだけなら一首で十分なはずだ。連作中にはこんな歌がある 

 

ダメージで化ける文字列 囎  廱 樊 燹 竊 銀いろのすな銀いろのゆき 
 
 この歌でも、視覚的な記号として漢字が扱われ発音できず意味も言葉から剥離してしまっている。しかしこれはA(現実)の光景だ。画面の中で文字化けした文字列に並列された銀色のすな銀色のゆきは、ハルオが文字列に、あるいは文字化けによって垣間見た幻視に、詩人として与えた美しい名前であると私は思う。けれどハルオは気づいているのだ。その名前すら、また言葉でしかないことを。言葉とは認識しようとする者の間で交わされる、認識するための記号であって、実体そのものではないのだ。
 五首目の歌でハルオは「銀色のゆき」という名前を(言葉ではない)にはさみこむ。現象に美しい名を与えてみたものの、言葉にした途端ハルオの描いたヴィジョン(銀色のゆき)そのもの (ではない言葉) が生まれたからだ。今、私の目の前にある窓も、それを表す記号として窓という言葉はあるが、窓そのものは「言葉ではない」 加藤の歌にある通り、あらゆるものが「言葉ではない」のだ。
 
  加藤は記号を用いて意味を剥離することで、自分の描く像そのものを視覚的に浮かび上がらせようと試みた。映像ではなく31音の言葉しかない短歌という詩型の中で、である。言外のものを言葉でしか表現できない詩人の執念ともいえよう。
 
 

話し言葉、書き言葉、読み言葉は常に人の存在を感じさせ感触を伴ってきた。しかし感触や実体を感じようのない情報としての言葉が飛びかう中で、記号短歌と呼ばれる意味の取れないようなこの作品こそ、実はリアルなわたくしを取り巻く現状なのである。そう、言葉ではない、実体なのだ。

!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ラン!

 
声になるまえのかすかな音韻を閉じ込めて吸うインドの煙草
綿ブレザーのボタンをいじる指さきは言葉を声にするもどかしさ
 
  同じく連作ハルオからである。まだ言葉が言外のものであり無数の言葉から選ばれる瞬間、その瞬間をわたしはかけがえのないものとして愛する。加藤にとっては形象を最も的確に表すために、複層化した意識の中で言葉は選択されるのだ。二面性、裏表がある、多重人格、こういった表現で人をさすときそれはネガティブな意味である。しかしそれは、私には一つの人格、一つの意識しかないことを前提に、誰に対しても裏表のないことを美徳として教育されてきた一つの価値観だ。
 しかし本当にわたしはひとりなのだろうか?職業人として、家族として、友人として、後輩として、あらゆる場面で私達は自分を使い分けることを求められている。自分に向き合ってみれば、自分自身の中でさえも、何人もの自分が複雑に存在する。一人の個人の中にも複数の意識があって場面ごとにそれを取り出しているのではないだろうか? 加藤の提示しているのは、短歌の世界の私性の問題よりもさらに深いところを意図しているように思える。つまり、多面性のある意識の統合がひとりのわたしなのではないだろうか。私性の破壊ではなく、むしろ現代を生きる「わたくし」の意識の流れのリアルなのだ。私が加藤を好きな理由は一個の個人の持つ多面性と抽象化された変幻自在なリアリティなのだ。
 
 現在、加藤の活躍の舞台は自身の歌集に留まらない。ごく最近では、新人が第一歌集を出すための新しい道筋を作り出した。書肆侃侃房よりこの五月に刊行された新鋭短歌シリーズでは東直子とともに監修を務める。都心に集中しがちな出版の世界で福岡という地方都市発信なのも興味深く、今後の展開に多くの注目が集まる。
 歌集を場として創作の実験を試みるだけでなく、人と歌、人と人を結びつける新しい「場」の創出を彼は常に模索しているのだ。
 
 最後に最新の加藤の歌集『しんきろう』から短歌を紹介してこの文を結ぶびたい。『しんきろう』では、『マイ・ロマンサー』や『昏睡のパラダイス』に比べると抽象から具体への変化が見てとれる。しかし彼を貫く精神はもともとリアルなのだ。蜃気楼には幻とは違い実体がある。実体が人の意識というひかりによって、抽象化されたり、現実よりも現実らしく置かれたりしながら心象で像を結び、その反射を言葉として私たちは眺めている。それが加藤の言わんとする、しんきろうではなかろうか。
 

あなたってぬいだばかりのブラウスを胸にあてあなた文語のようだ
 
やわらかな椅子を重ねているばかり海の見えないゆうぐれの部屋
 
消しゴムの角が尖っていることの気持ちがよくてきさまから死ね
 
ありのまま歪むからだを許しあういつのまにか呼び捨てにされて
 
98765(どのように)GFEDCBA(ソートされても)12345(選ばれている) 

細胞(セル)に光を埋められたなら
 
ほぼ完璧にきみを愛したまっしろなタオルの上の安全剃刀 
 
ぴりんぱらん、ぴりんぱらんと雨が降る あなたにほしいものを言わせた
 
ゆめのようにからっぽだけど遊園のティーカップにふる春のあわゆき
 
古本の積まれて居たるあたりより黒みを帯びる街路なりけり
 
ぼくが今ここにいないということのクローバーの野のしずかな眠り
 
翌日のバナナはひどく黒ずんだバナナ 世界は検索し得る
 
国が国がとあなたは言うがつづまりは職員Aなり蒼ざめた鳥
 
うががあと火の残像の緑色の俺のリアルにイズムはいらぬ
 
伊東屋のいろとりどりの紙を見るしばらく紙は香水である
 
本から帯がとれてしまったさっきからとってもそれが気になっていて
 
みずをくださいなんとなくだるいですペットボトルの水をください
 
わたくしは言葉ではないあかひらく朝のひかりはきらりさりけり

 

(現在 昏睡のパラダイス マイ・ロマンサーは入手困難となっているが、現代歌人文庫 加藤治郎で昏睡のパラダイス全文を、イージー・パイで連作ハルオを読むことができる。)