『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(4)

2022-02-13 13:06:24 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(4)


◎第14パラグラフ(労働力の価値は生活手段の価値に帰着する)

【14】〈(イ)労働力の価値は、一定の総額の生活手段の価値に帰着する。(ロ)したがってまた、労働力の価値は、この生活手段の価値、すなわちこの生活手段の生産に必要な労働時間の大きさにつれて変動するのである。〉

  (イ)(ロ) よって労働力の価値は、一定の総額の生活手段の価値に帰着します。だからまた、労働力の価値は、この生活手段の価値、すなわちこの生活手段の生産に必要な労働時間の大きさにつれて変動するのです。

  ここではひとまず労働力の価値について、結論めいたことを述べているように思いますが、しかしフランス語版をみると、〈労働力は一定額の生活手段と価値が等しいから、その価値は生活手段の価値につれて、すなわち、生活手段の生産に必要な労働時間に比例して、変動する〉(江夏・上杉訳160頁)となっていて、むしろ労働力の価値は生活手段の価値の変化によって変化するというところに重点があることが分かります。とするとこのパラグラフはその次の第15パラグラフへの橋渡しの役割を持っているのかも知れません。
  しかしとりあえず、『賃金・価格・利潤』と、さらに関連するものとして『61-63草稿』からも紹介しておきましょう。

  〈以上述べたところから明らかなように、労働力の価値は、労働力を生産し、発達させ、維持し、永続させるのに必要な生活必需品の価値によって決定される。〉 (全集第16巻131頁)
 労働能力の価値の規定は、労働能力の販売に基礎をおく資本関係の理解にとって、もちろんきわめて重要なものであった。したがって、とりわけ、この商品の価値はどのように規定されるのかが、確定されなければならなかった。というのは、この関係における本質的なものは、労働能力が商品として売りに出されるということであるが、商品としては、労働能力の交換価値の規定こそ決定的だからである。労働能力の交換価値は、それの維持と再生産とに必要な生活手段である諸使用価値の価値または価格によって規定されるのだから、重農学派は--彼らが価値一般の本性をとらえる点ではどんなに不十分だったにしても--労働能力の価値をだいたいにおいて正しくとらえることができた。それゆえ、資本一般について最初の条理ある諸概念をうちたてた彼らの場合、生活必需品の平均によって規定されるこの労賃が、一つの主要な役割を演じている。〉 (草稿集④71頁)


◎第15パラグラフ(労働力の一日の価値量と価格)

【15】〈(イ)生活手段の一部分、たとえば食料や燃料などは、毎日新たに消費されて毎日新たに補充されなければならない。(ロ)他の生活手段、たとえば衣服や家具などはもっと長い期間に消耗し、したがってもっと長い期間に補充されればよい。(ハ)ある種の商品は毎日、他のものは毎週、毎四半期、等々に買われるか支払われるかしなければならない。(ニ)しかし、これらの支出の総額がたとえば1年間にどのように配分されようとも、それは毎日、平均収入によって償われていなければならない。(ホ)かりに、労働力の生産に毎日必要な商品の量をAとし、毎週必要な商品の量をBとし、毎四半期に必要な商品の量をC、等々とすれば、これらの商品の一日の平均は、(365A+52B+4C+etc.)/365であろう。(ヘ)この1平均日に必要な商品量に6時間の社会的労働が含まれているとすれば、毎日の労働力には半日の社会的平均労働が対象化されていることになる。(ト)すなわち、労働力の毎日の生産のためには半労働日が必要である。(チ)労働力の毎日の生産に必要なこの労働量は、労働力の日価値、すなわち毎日再生産される労働力の価値を形成する。(リ)また、半日の社会的平均労働が3シリングまたは1ターレルという金量で表わされるとすれば、1ターレルは労働力の日価値に相当する価格である。(ヌ)もし労働力の所持者がそれを毎日1ターレルで売りに出すとすれば、労働力の販売価格は労働力の価値に等しい。(ル)そして、われわれの前提によれば、自分のターレルの資本への転化を熱望する貨幣所持者は、この価値を支払うのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) 生活手段の一部分、たとえば食料や燃料などは、毎日新たに消費されて毎日新たに補充されなければなりません。他の生活手段の場合、たとえば衣服や家具などはもっと長い期間に消耗します。だからもっと長い期間に補充されればよいわけです。生活手段のうち、ある種の商品は毎日、他のものは毎週、毎四半期、等々に買われるか支払われるかしなければならないことになります。しかし、これらの支出の総額がたとえば1年間にどのように配分されたとしても、それは毎日の平均収入によって償われなければならないのです。

  ここで書かれていることは何も難しいことはありません。フランス語版では、このパラグラフは二つに分けられていますが、この部分に該当するものをまず紹介しておきましょう。

  〈生活手段の一部、たとえば食糧や暖房などを構成するものは、消費によって毎日失われるものであり、毎日更新されなければならない。それ以外の衣服や家具などのようなものは、これよりも緩慢に消耗するものであって、これよりも長い期間に更新するだけでよい。若干の商品は毎日、他の商品は毎週とか半年ごと等々に、買われあるいは代価を支払われなければならない。しかし、これらの支出が一年の期間内にどのように配分されることがあっても、その総額はいつでも1日の平均収入によって支弁されなければならない。〉 (江夏・上杉訳160頁)

  『61-63草稿』からも紹介しておきます。

  〈生活手段の消費の速さはさまざまである。たとえば、日々食料として役立つ使用価値は、また日々消尽されるし、またたとえば、暖房、石けん(清潔)、照明に役立つ使用価値も、同様である。これにたいして、衣服や住居のような、その他の必要生活手段は、たとえ日々使用され使い減らされてはいても、もっとゆっくりと消耗する。若干の生活手段は、日々新たに買われ、日々更新(補塡)されなければならないが、たとえば衣服のようなその他の生活手段は、もっと長い期間にわたって使用価値として役立ち続け、この期間の終りにはじめて消粍しつくされて、使用できなくなるので、それらは日々使用されなければならないものだとしても、もっと長い中間期間に補塡され更新されさえすればよい。〉 (草稿集④73-74頁)
  〈ここで労働能力の価格というのは、貨幣で表現されたそれの価値のことでしかない。したがって、1日あるいは1週間のあいだ労働能力を維持するのに必要な生活手段の価格が支払われるならば、1日あるいは1週間分の労働能力の価値が支払われるのである。しかし、この価格あるいは価値を規定しているものは、労働能力が日々消費しつくす生活手段ばかりではなく、同様に、たとえば衣服のように、労働能力によって日々使用されはするが、しかし日々消尽される結果、日々更新されねばならないというわけではない、したがって、一定の期間内に更新され補充されさえすればよい生活手段もそうである。たとえ衣服に関述するすべての対象が、1年のうちに1度だけしか消耗しつくされない(たとえば飲食のための食器は、衣服ほど早くは消耗しつくされないから、衣服ほど早く補充される必要はなく、家具、ベッド、机、椅子、等々はさらにその必要が少ない)としても、それでもなお、1年間のうちにはこの衣料の価値は労働能力の維持のために消費されるであろうし、また1年が終わったあとで、労働者はこの衣料を補充することができなければならないであろう。したがって彼が日々平均して受け取るものは、日々の消費のための日々の支出を差し引いたのちにも、一年間が経過したあとで消耗しつくされた衣服を新しい衣服で補充するのに十分なものが、つまり、1着の上着のこれこれの部分を日々補充するというのではないけれども、1着の上着の価値の1日あたりの可除部分を補充するのに十分なものが残されるだけの大きさでなければならないであろう。つまり、労働能力の維持は、それが継続的であるべきだ--そしてこれは資本関係では前提されていることであるが--とすれば、日々消費しつくされ、したがってまた翌日には更新される、補充されるべき生活手段の価格によって規定されるばかりでなく、そのうえに、もっと長い期間に補充されねばならないが、日々使用されねばならない生活手段の価格の日々の平均がつけ加わるのである。〉 (草稿集④76-77頁)

  (ホ) だからかりに、労働力の生産に毎日必要な商品の量をAとし、毎週必要な商品の量をBとし、毎四半期に必要な商品の量をC、等々とすると、これらの商品の一日に平均に必要な額は、(365A+52B+4C+etc)/365でしょう。

  この部分もそれほど難しくはなく、フランス語版もほぼ変わらないので、『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

  〈労働者が労働者として生きていくために、日々消費しなければならない生活手段の総額をAとすれば、それは365日では365Aである。これにたいして、彼が必要とするその他すべての生活手段の総額をBとし、しかもこれらの生活手段は年に3回更新され、つまり新たに買われさえすればよいのだとすれば、1年間に彼が必要とするのは3Bだけである。そこでこれらを合計すれば、彼が年間に必要とするのは、365A+3Bであり、1日あたり、(365A+3B)/365である。これが、労働者が日々必要とする生活手段の平均総額であり、この総額の価値が、彼の労働能力の日々の価値、すなわち労働能力の維持のために必要な生活手段を買うために--すべての日について平均して--毎日必要とする価値である。
  (1年を365日と計算すると、日曜日は52日となり、313日の仕事日が残る。だから平均して31O仕事日と計算してよい。)ところで(365A+3B)/365の価値が1ターレルだとすれば、彼の労働能力の日々の価値は1ターレルである。彼は、1年じゅう毎日生きていくことができるように、日々それだけは稼がなければならない。そしてこのことは、若干の商品の使用価値は日々更新されるのではないということによっては、少しも変わらない。そこで、生活必需品の年間の総額は所与のものとする。次にわれわれは、この総額の価値あるいは価格をとる。ここからわれわれは日々の平均をとる、すなわちそれを365で割る。こうしてわれわれは、労働者の平均的生活必需品の価値、あるいは、彼の労働能力の平均的日価値を得るのである。(365A+3Bの価格が365ターレルであれば、日々の生活必需品の価格は(365A+3B)/365=365/365、つまり1ターレルである。)〉 (草稿集④74-75頁)〉

  (ヘ)(ト)(チ) この1日に平均的に必要な生活手段の量に6時間の社会的労働が含まれているとしますと、1労働日を12時間すると、毎日の労働力には半日の社会的平均労働が対象化されていることになります。つまり、労働力の毎日の生産のためには半労働日が必要なのです。労働力の毎日の生産に必要なこの労働量は、労働力の日価値、すなわち毎日再生産される労働力の価値を形成します。

  まずこの部分のフランス語版を紹介しておきましょう。フランス語版ではここから改行されています。

  〈1平均日に必要なこの商品量の価値は、これらの商品の生産に支出された労働総量のみを表わしているが、それを6時間と仮定しよう。そのばあいには、労働力を毎日生産するために、半労働日が必要である。労働力が日々自己を生産するために必要とする労働量が、労働力の日価値を規定する。〉 (江夏・上杉訳161頁)

  ついでに『61-63草稿』からも紹介しておきます。

  〈生活必需品は、日々更新される。そこで、たとえば1年間に、労働者が労働者として生きていき、自分を労働能力として維持することができるために必要とする生活必需品の量と、この総額のもつ交換価値--すなわち、これらの生活手段のなかになし加えられ、対象化され、含まれている労働時間の分量--とを取った場合、全部の日について平均計算するならば、労働者が、一年を通じて生きていくために、平均して1日に必要とする生活手段の総額およびこの総額の価値は、彼の労働能力の1日あたりの価値を、あるいは、労働能力が翌日も生きた労働能力として存続し、再生産されるために、1日に必要とする生活手段の分量を表わすであろう。〉 (草稿集④73頁)

   労働者が1日に平均的に必要とする生活手段の価値が6時間の社会的労働の対象化されたものだとすると、1労働日(1日の労働者の労働時間)を12時間とすると、それは半労働日になります。つまり労働者が日々自分を再生産するために必要とする労働時間は、彼が1日労働する時間の半分だということです。では残りの半分の労働時間はどうなるか、ということはまだここでは問題になっていません。

  (リ)(ヌ)(ル) もしまた、半日の社会的平均労働が3シリングまたは1ターレルという金量で表わされるとしますと、1ターレルは労働力の日価値に相当する価格になります。もし労働力の所持者がそれを毎日1ターレルで売りに出すとしますと、労働力の販売価格は労働力の価値に等しいことになります。そして、私たちの前提では、自分の持っているターレルを資本に転化したいと熱望する貨幣所持者は、この価値を支払うわけです。

  該当するフランス語版をまず紹介しておきましょう。

  〈さらに、6時間という半労働日のあいだに平均して生産される金の総量が、3シリングあるいは1エキュ(10)に等しい、と仮定する。そのばあいには、1エキュの価格が労働力の日価値を表現する。労働力の所有者が毎日労働力を1エキュで売るならば、彼はそれを正当な価値で売るのであり、われわれの仮定にしたがえば、自分のエキュを資本に変態しつつある貨幣所有者は、金銭を払ってこの価値に支払いをするのである。
  (10) ドイツの1エキュ〔1ターレルのこと〕は、イギリスの3シリングの値うちがある。〉 (江夏・上杉訳161頁)

  ここでは労働者が日々販売する労働力の価値の貨幣表現、すなわち労働力の日価格が求められています。そして資本家はその日々の労働力の価格を支払うことによって彼の貨幣を資本に転化することになるわけです。


◎第16パラグラフ(労働力の価値の最低限)

【16】〈(イ)労働力の価値の最後の限界または最低限をなすものは、その毎日の供給なしには労働力の担い手である人間が自分の生活過程を更新することができないような商品量の価値、つまり、肉体的に欠くことのできない生活手段の価値である。(ロ)もし労働力の価格がこの最低限まで下がれば、それは労働力の価値よりも低く下がることになる。(ハ)なぜならば、それでは労働力は萎縮した形でしか維持されることも発揮されることもできないからである。(ニ)しかし、どの商品の価値も、その商品を正常な品質で供給するために必要な労働時間によって規定されているのである。〉

  (イ) 労働力の価値の最後の限界あるいは最低限をなすものは、その毎日の供給なしには労働力の担い手である人間が自分の生活過程を更新することができないような商品量の価値、つまり、肉体的に欠くことのできない生活手段の価値のことです。

  この部分のフランス語版を紹介しておきます。

  〈労働力の価格は、それが、生理的に不可欠な生活手段の価値に、すなわち、これ以下になれば労働者の生命そのものを危険にさらさざるをえないような商品総量の価値に、切り下げられるとき、その最低限に達する。〉 (江夏・上杉訳161頁)

  この労働力の価値の最低限というのは、〈肉体的に欠くことのできない生活手段の価値〉(現行版)とか〈生理的に不可欠な生活手段の価値〉(フランス語版)と書かれており、〈これ以下になれば労働者の生命そのものを危険にさらさざるをえないような商品総量の価値、切り下げられるとき、その最低限に達する〉(同)となっているので、この最低限というのは、労働者個人の生理的に肉体的に欠くことのできない生活手段の価値のことなのかと思えますが、しかし次に紹介する『賃金・価格・利潤』の説明を見るとそうではなく、労働者がその家族を養い子供を養育するに必要な費用もその最低限のなかに入るということが分かります。次のように書いています。

  〈この彼の労働力の価値は、彼の労働力を維持し再生産するのに必要な生活必需品の価値によって決定されるものであり、生活必需品のこの価値は、結局はそれらのものを生産するのに必要な労働量によって規制されるものである、と。
  だが、労働力の価値または労働の価値には、ほかのすべての商品の価値と区別されるいくつかの特徴がある。労働力の価値を形成するのは二つの要素である。一つは主として生理的な要素、もう一つは歴史的ないし社会的な要素である。労働力の価値の最低の限界は、生理的要素によって決定される。すなわち、労働者階級は、自分自身を維持し再生産し、その肉体的存在を代々永続させるためには、生存と繁殖に絶対に欠くことのできない生活必需品を受け取らなければならない。したがって、これらの必要欠くべからざる生活必需品の価値が、労働の価値の最低の限界となっているのである。〉 (全集第16巻148頁)

  (ロ)(ハ) もし労働力の価格がこの最低限まで引き下げられますと、それは労働力の価値よりも低く下がることになります。というのは、それでは労働力は萎縮した形でしか維持されることも発揮されることもできないからです。

  フランス語版では次のようになっています。

  〈労働力の価格がこの最低限に低落すると、その価格は労働力の価値以下に下がったのであって、そのばあいにはもはや糊口をしのぐだけのものでしかない。〉 (江夏・上杉訳161頁)

  つまり労働力の価値というのは、労働者が日々健康でその労働能力を維持し再生産し、家族を養い、一定の能力を獲得するために必要な生活手段の価値のことですから、もし肉体的最低限に引き下げられてしまいますと、労働力そのものが萎縮した形でしか維持できないということです。
  しかし『61-63草稿』ではあの手この手で資本家たちは労働力の価値を引き下げようとするそのさまざまなやり方について紹介しています。例えば次のように……。

  〈より低級な商品が、労働者の主要生活手段をなしていたより高級かつより高価な商品に、たとえば穀物の小麦が肉に、あるいはじゃがいもが小麦やライ麦に、とって代わるならば、もちろん、労働者の必需品の水準が押し下げられたために、労働能力の価値の水準が下落する。これにたいしてわれわれの研究ではどこでも、生活手段の量と質とは、したがってまた必需品の大きさも、なんらかの所与の文化段階にあって、けっして押し下げられることはないものと前提〔unterstellen〕されているのであって、その理由は、このような、水準の騰落そのもの(とくにそれの人為的な押し下げ)についての研究は、一般的関係の考察にはなんの変更をも加えないからである。たとえばスコットランド人のうちには、小麦やライ麦の代わりに、塩と水とを混ぜただけのひきわり燕麦(オートミール)や大麦の粉で何か月ものあいだ、しかも「非常に安楽に」暮らしている家族がたくさんある、とイーデンは著書『貧民の状態、云々』、ロンドン、1797年、第1巻第2部第2章で言っている。前世紀末に、こっけいな博愛主義者、爵位を授けられたヤンキーのランファド伯は、低い平均を人為的に創造しようとして愚かな頭をふりしぼった。彼の『論集』は、労働者に現在の高価な常食に代えて代用食を与えるための、最も安価な部類に属するありとあらゆる種類の食物(エサ)の調理法を盛り込んだ、美(ウルワ)しい料理全書である。この「哲人」ご推奨による最も安価な料理は、8ガロンの水に大麦、とうもろし、こしよう、塩、酢、甘味用薬草、4尾のにしんをいれた、スープとかいうしろものである。イーデンは右に引用した著書のなかで、この美(ウルワ)しい食物(エサ)を救貧院の管理者に心をこめて推奨している。5重量ポンドの大麦、5重量ポンドのとうもろこし、3ペンス分のにしん、1ペニーの塩、1ペニーの酢、2ペンスのこしようと薬草--合計20[3/4]ペンス--、これが64人分のスープになる。なんと、穀物の平均価格で言えば、1人前あたり1/4ペンスに費用を押し下げることができる、というわけである。〉 (草稿集④67-68頁)
  〈一方では、より安価なかつより悪質な生活手段が、より良質な生活手段にとって代わることによって、あるいはそもそも生活手段の範囲、大きさが縮小されることによって--生活手段の価値、あるいはそれら〔生活手段〕の充足の仕方、を引き下げることになるので--、労働能力の価値の水準を引き下げることが可能である。しかしまた他方では、この水準--平均的な高さ--には子供たちと妻たちの扶養がはいるので、妻たち自身が労働することを強制され、また、発育すべき時期[に]子供たちがすでに労働に向けられることによって、この水準を押し下げることが可能である。このような場合も、労働の価値の水準にかかわる他のすべての場合と同様に、われわれは考慮しないでおく。つまりわれわれは、ほかでもない、資本のこれらの最大の醜悪なことども〔Scheußlichkeiten〕を存在しないものと前提することによって、資本にたいして公正な機会〔fair chance〕を与えるのである。}{同様に、労働の単純化によって、修業の時間または修業の費用が、可能なかぎりゼロに向けて縮小されれば、この水準は引き下げられることができる。}〉 (草稿集④69-70頁)

  (ニ) しかし、いずれにしてもどの商品の価値も、その商品を正常な品質で供給するために必要な労働時間によって規定されているのです。

  だから労働力の価値も他の商品と同じように、その商品が正常な品質を保って供給されるために必要な労働時間によって規定されているのですから、私たちは労働力の価値という場合はその最低限ではなく、そうしたものを想定すべきでしょう。
  
  マルクスは『61-63草稿』では次のように述べています。

  〈労働能力の価値に一致する労賃は、われわれが述べてきたような、労働能力の平均価格であり、平均労賃である。この平均労賃はまた、労賃あるいは賃銀の最低限〔Minimum des Arbeitslohns oder Salairs〕とも呼ばれるのであるが、ここで最低限と言うのは、肉体的必要の極限〔die äußerste Grenze〕のことではなく、たとえば1年についてみた日々の平均労賃であって、労働能力の価格--それはあるときはそれの価値以上にあり、あるときはそれ以下に下がる--はそこに均衡化されるのである。〉 (草稿集④79頁)


◎第17パラグラフ(労働力と労働との違い、労働力が売れなければ労働者にとっては無である)

【17】〈(イ)このような事柄の本質から出てくる労働力の価値規定を粗雑だとして、ロッシなどといっしょになって次のように嘆くことは、非常に安っぽい感傷である。
   (ロ)「生産過程にあるあいだは労働の生活手段を捨象しながら労働能力〔puissance de travail〕を把握することは、一つの妄想〔ëtre de raison〕を把握することである。労働を語る人、労働能力を語る人は、同時に労働者と生活手段を、労働者と労賃を語るのである(47)。」
  (ハ)労働能力のことを言っている人が労働のことを言っているのではないということは、ちょうど、消化能力のことを言っている人が消化のことを言っているのではないのと同じことである。(ニ)消化という過程のためには、だれでも知っているように、じょうぶな胃袋以上のものが必要である。(ホ)労働能力を語る人は、労働能力の維持のため必要な生活手段を捨象するのではない。(ヘ)むしろ、生活手段の価値が労働能力の価値に表わされているのである。(ト)もし労働能力が売れなければ、それは労働者にとってなんの役にもたたないのであり、彼は、むしろ、自分の労働能力がその生産に一定量の生活手段を必要としたということ、また絶えず繰り返しその再生産のためにそれを必要とするということを、残酷な自然必然性として感ずるのである。(チ)そこで、彼は、シスモンディとともに、「労働能力は……もしそれが売れなければ、無である(48)」ということを発見するのである。〉

  (イ)(ロ) このような事柄の本質から出てくる労働力の価値規定を粗雑だとして、ロッシなどといっしょになって次のように嘆くことは、非常に安っぽい感傷です。「生産過程にあるあいだは労働の生活手段を捨象しながら労働能力〔puissance de travail〕を把握することは、一つの妄想〔ëtre de raison〕を把握することである。労働を語る人、労働能力を語る人は、同時に労働者と生活手段を、労働者と労賃を語るのである。」

  まずこの部分をフランス語版で見てみましょう。

  〈労働力のこの価値規定を粗雑であると見なして、たとえばロッシとともに次のように叫ぶのは、理由もなしに、またきわめて安っぽく、感傷にふけることである。「生産行為中の労働者の生活手段を無視しながら労働能力を頭に描くことは、空想の産物を頭に描くことである。労働と言う人、労働能力と言う人は、それと同時に、労働者と生活手段、労働者と賃金、と言っているのである(11)」。これにまさる誤りはない。〉 (江夏・上杉訳161頁)

  このようにフランス語版をみるとロッシが引用文で述べていることをマルクスは〈これにまさる誤りはない〉と批判して否定していることが分かります。では何が誤りなのでしょうか。それはそれに続くマルクスの一文のなかで明らかにされています。

   (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) 労働能力のことを言っている人が労働のことを言っているのではないということは、ちょうど、消化能力のことを言っている人が消化のことを言っているのではないのと同じことです。消化のためには、だれでも知っているように、じょうぶな胃袋以上のもの、つまり消化する材料である食料、あるいそれを買う金、が必要です。労働能力を語る人は、労働能力の維持のため必要な生活手段を捨象するのではありません。むしろ、生活手段の価値が労働能力の価値に表わされているのです。

  これもフランス語版をまず紹介しておきます。

  〈労働能力と言う人は、まだ労働とは言っていないのであって、それは、消化能力が消化を意味しないのと同じである。そうなるためには、誰もが知っているように、健康な胃の腑以上のあるものが必要である。労働能力と言う人は、労働能力の維持に必要な生活手段を少しも無視していない。むしろ、生活手段の価値は、労働能力の価値によって表現されているのだ。〉 (江夏・上杉訳161-162頁)

  つまりロッシが〈労働を語る人、労働能力を語る人は、同時に労働者と生活手段を、労働者と労賃を語るのである〉と述べているのに対して、マルクスは労働能力を語っているときは、まだ労働について語っているのではない、両者は明確に区別するべきだと述べているわけです。それは消化能力と消化とは違うように違うのだということです。消化能力があっても、その人が実際に消化するためには、健康な胃があるだけでは十分ではなく、消化する食物を買う金が必要です。だから労働能力という人は、労働能力の維持に必要な生活手段を無視しているのではなく、むしろ生活手段の価値が労働能力の価値として表現されているのだということです。

  (ト)(チ) もし労働能力が売れなければ、それは労働者にとってなんの役にもたちません。彼は、その場合は、自分の労働能力を生産し維持するためには一定量の生活手段を必要としたということ、また絶えず繰り返しその再生産のためにそれを必要とするということを、残酷な自然必然性として感じざるをえないでしょう。そこで、彼は、シスモンディとともに、「労働能力は……もしそれが売れなければ、無である」ということを発見するのです。

  この部分もフランス語版をまず見ておきましょう。

  〈だが、労働者は、労働能力が売れなければそれを光栄とは感じないのであって、むしろ、自分の労働能力がその生産のためにすでに若干量の生活手段を必要としたということ、その再生産のためにまたも絶えず若干量の生活手段を必要とするということを、残酷な自然的必然性として感じるであろう。彼はこのばあい、シスモンディとともに、労働能力は売られなければなにものでもない、ということを発見するであろう(12)。〉 (江夏・上杉訳162頁)

  上着の価値を実現する人は、それを売って得た貨幣で小麦を購入するように、労働力の価値を実現して、すなわちそれを資本家に売って、得た貨幣で彼は彼の労働力を維持し再生産するための生活手段を買って彼の生命を維持しうるのです。だから労働力が販売できなければ、彼自身の生命を維持できないという残酷な現実に突き当たります。だからシスモンディがいうように労働能力は売れなければ無であることを思い知らさせられるわけです。

  このパラグラフとよく似た一文が『61-63草稿』のなかに出てきます。紹介しておきましょう。

   〈「生産の作業についているあいだの労働者の生活資料を捨象しながら労働の能力〔la。 puissance du travail〕を考えるのは、頭のなかにしかないもの〔un être de raison〕を考えることである。労働というのは、労働の能力というのは、つまるところ同時に、働き手〔travailleurs〕と生活資料のことであり、労働者〔ouverier〕と賃銀のことであって、……同じ要素が資本の名のもとにふたたび姿を現わすのである。まるで、同じものが同時に二つの異なった生産用具の一部をなすかのように」(同前、37O、371ページ)。単なる労働能力は、いかにも「頭のなかにしかないもの」である。だが、この「頭のなかにしかないもの」は実在している。だからこそ、労働者は、自分の労働能力を売ることができなければ、飢え死にするのである。しかも資本主義的生産は、労働の能力がそのような「頭のなかにしかないもの」に還元されている、ということにもとづいているのである。
  だから、シスモンディが次のように言うのは正しい、--「労働能力は、……それが売れなければ、無である」(シスモンディ『新経済学原理』、第2版、第1巻、パリ、1827年、114ページ〔日本評論社『世界古典文庫』版、菅間正朔訳『新経済学原理』、上巻、121ページ〕)。
  ロッシにおいてばかげている点は、彼が「賃労働」を資本主義的生産にとって「本質的でない」ものとして描こうと努めていることである。〉 (草稿集④234-235頁)

  ところで、全体として、このパラグラフはどういう意義を持っているのかが、なかなか分かりにくい気がします。これまで論じてきた労働力の価値規定が粗雑だとして、ロッシなどと一緒に嘆いても、安っぽい感傷に過ぎなというのですが、一体、マルクスは何を言いたいのでしょうか?
 ロッシの主張の〈誤り〉は、第一に、彼は生産過程にある間の労働者の生活手段がまさに労働力の価値のなかに含まれている(それによって表現されている)ことが分かっていないことです。第二に、労働能力と労働とは同じではないこと、両者の区別が分かっていないということです。さらに第三に、賃労働が資本主義的生産にとって本質的であることも分かっていないことです。
  マルクスがこのパラグラフ全体で言いたいことは労働力と労働とは異なること、労働能力はただの可能性にすぎず、それが売られなければ労働者にとっては何の意味もないこと、労働者の労働力はその使用価値を発現するための諸条件を欠いた単なる主体的な能力としてしか存在していないこと、しかしそれこそ資本主義的生産を規定する本質的なものであるということを述べているように思えます。
  そして次の第18パラグラフでは労働力を販売してその使用価値(労働)を譲渡するときの独特の特性について語り、そこから労働者が自分の労働力を資本家に前貸しするという特有な両者の関係が生じてくることが述べられていますが、このパラグラフはそれを論じる一つの前提として労働力と労働との区別と関連を前もって論じておくという意義もあるのかもしれません。
  マルクスは『61-63草稿』では次のように論じています。

  〈まず第一に、労働者は自分の労働能力を、すなわちこの能力の時間ぎめでの処分権を売る。このことのうちには、彼が自分をそもそも労働者として維持するのに必要な生活手段を交換を通じて入手するということ、さらに詳しく言えば、労働者は「生産行為にたずさわっているあいだの」[ロッシ『経済学講義』370ページ]生活資料をもっているということが含まれている。彼が労働者として生産過程にはいり、この過程にあるあいだじゅう自分の労働能力を働かせ実現するためには、このことが前提されているのである。すでに見たように、ロッシは資本を、新たな生産物を生産するのに必要な生産手段(原料、用具)としか理解していない。問題となるのは、労働者の生活手段は、たとえば機械によって消資される石炭、油、等々がそうであるように、あるいは家畜によって食われる飼料がそうであるように、そうした生産手段に属するのかどうかということである。要するに補助材料〔と同様であるのかどうかということである〕。労働者の生活手段も補助材料に属するのであろうか? 奴隷の場合には、彼の生活手段を補助材料のうちに入れるべきことにはなんの問題もない。なぜなら、奴隷は単なる生産用具であり、したがってそれが消尽するものは単なる補助材料だからである。〉 (草稿集④223頁)

  ここでは労働力の価値には、〈「生産行為にたずさわっているあいだの」[ロッシ『経済学講義』370ページ]生活資料〉の価値も含まれることが指摘されています。しかしこのあたりの一連のマルクスの考察は、ロッシが生産過程一般(あるいは労働過程)とその資本主義的形態におけるものとを明確に区別せずに論じていることを批判するために展開されているようにも思います。
  なおロッシの主張とそれに対するマルクスの批判については付属資料も参照してください。


◎原注47

【原注47】〈47 ロッシ『経済学講義』、ブリュッセル、1843年、370、371ページ。〉

  これは本文のロッシからの引用文の典拠を示す原注です。ロッシの主張とそのマルクスによる批判については本文の付属資料を参照してください。ここては『資本論辞典』の説明を見ておくことにします。

  〈ロッシ Pellegrino Luigi Edoardo Rossi(1787-1848) イタリア人の経済学者・法律家・政治家・外交官.革命思想に刺激されて,19世紀中国際的に活躍した人物の典型的な一例.……マルクスは,彼について‘とんでもない知ったかぶりと,偉そうな出まかせの極致',‘ 大衆文芸的論議‘ 教義ある饒舌にすぎない'と酷評した.『資本論』第1巻第4章では,ロッシが,労働力の維持に必要な生活手段を度外視して労働と労働能力を云々することは幻想だとのベた文章を引用して.これは労働力の価値規定を理解しない‘非常に安価な感傷'だとしている(KI-181;青木2-323-324 ;岩波2-56-57).同じく第21章では.労働者の個人的消費過程が生産過程のたんなる附随的なものとされるにいたったばあい,彼の個人的消費は,一生産手段たる労働力を維持するために行なわれる直接の生産的消費となるが,このことが資本主義的生産過程にとっては本質的でない濫用としてあらわれることから,ロッシはこの点を強く非難している.しかしそれは彼が実際に‘生産的消費'の秘密を見抜いていないからだと評している(K1-600;青木4-893;岩波4-19-20).なお『剰余価値学説史』第1部では.生産的・不生産的労働の区別についてロッシは簡単に検討すべきことを注意し(MWⅠ-139,193;青木2-245,327),彼の経済的緒現象の理解における社会的形態の無視,不生産的労働者による‘労働節約'にかんする俗流的概念を批判している(MWⅠ-255-262;青木2-419-428),〉(586頁)


◎原注48

【原注48】〈48 シスモンディ『新経済学原理』、第1巻、113ページ。〔日本評論社『世界古典文庫」版、菅問訳『経済学新原理』、(上)121ぺージ。〕〉

  この原注は本文で引用されたものの典拠をしめだけのものです。シスモンディについては原注13の解説のなかで『資本論辞典』『経済学批判』の一文を紹介しながら詳しく解説しましたので、それを参照してください。


◎第18パラグラフ(労働力商品の特有な性質から、労働力の販売と現実の発現とが時間的に分離するので、その価格の支払いもあとから行われる)

【18】〈(イ)この独自な商品、労働力の特有な性質は、買い手と売り手とが契約を結んでもこの商品の使用価値はまだ現実に買い手の手に移ってはいないということをともなう。(ロ)労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、労働力が流通にはいる前から決定されていた、というのは、労働力の生産のためには一定量の社会的労働が支出されたからであるが、しかし、その使用価値はあとで行なわれる力の発揮においてはじめて成り立つのである。(ハ)だから、力の譲渡と、その現実の発揮すなわちその使用価値としての定在とが、時間的に離れているのである。(ニ)しかし、このような商品、すなわち売りによる使用価値の形式的譲渡と買い手へのその現実の引き渡しとが時間的に離れている商品の場合には(49)、買い手の貨幣はたいていは支払手段として機能する。(ホ)資本主義的生産様式の行なわれる国ではどの国でも、労働力は、売買契約で確定された期間だけ機能してしまったあとで、たとえば各週末に、はじめて支払を受ける。(ヘ)だから、労働者はどこでも労働力の使用価値を資本家に前貸しするわけである。(ト)労働者は、労働力の価格の支払を受ける前に、労働力を買い手に消費させるのであり、したがって、どこでも労働者が資本家に信用を与えるのである。(チ)この信用貸しがけっして空虚な妄想ではないということは、資本家が破産すると信用貸しされていた賃金の損失が時おり生ずるということによってだけではなく(50)、多くのもっと持続的な結果によっても示されている(51)。(リ)とはいえ、貨幣が購買手段として機能するか支払手段として機能するかは、商品交換そのものの性質を少しも変えるものではない。(ヌ)労働力の価格は、家賃と同じように、あとからはじめて実現されるとはいえ、契約で確定されている。(ル)労働力は、あとからはじめて代価を支払われるとはいえ、すでに売られているのである。(ヲ)だが、関係を純粋に理解するためには、しばらくは、労働力の所持者はそれを売ればそのつどすぐに約束の価格を受け取るものと前提するのが、有用である。〉

  (イ)(ロ)(ハ) 労働力という独自な商品の特有な性質は、買い手と売り手とが契約を結んでもこの商品の使用価値はまだ現実に買い手の手に移ってはいないということです。もちろん労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じように、労働力が流通にはいる前から決定されています。なぜなら、労働力の価値を規定する労働力の生産に必要な社会的労働はすでに支出されているからです。だから労働力が販売された時点(売買契約を結んだ時点)で、その価値は実現されたのですが、しかし、その使用価値はあとで行なわれる力の発揮においてはじめて成り立つのです。だから、力の譲渡と、その現実の発揮すなわちその使用価値としての定在の実証とは、時間的に離れているのです。

  フランス語版ではかなり書き換えられており、まずそれを紹介しておきましょう。

  〈契約がいったん買い手と売り手とのあいだで結ばれても、譲渡される物品の特殊な性質からして、その使用価値はまだ現実に買い手の手に移行していない、という結果が生ずる。その物品の価値は他のすべての物品の価値と同じように、それが流通の中に入る以前に、すでに規定されていた。その物品の生産が若干量の社会的労働の支出を必要としたからである。ところが、労働力の使用価値は、当然その後になってはじめて行なわれる労働力の発揮のうちに成立する。労働力の譲渡と、労働力の現実の発現すなわち使用価値としての使用とは、換言すれば、労働力の阪売とその使用とは、同時に行なわれるものではない。〉 (江夏・上杉訳162頁)

  労働力という商品は、他の商品とくらべて独特の性質を持っています。その価値に精神的・文化的要素が入るというのもそうですが、それ以外に、それが販売されるのは、一定期間に限って、労働力を使用する権限を購買者に譲渡するということであって、実際に労働力の使用価値(労働)が譲渡される(実証される)のは、現実に労働が行われることによってであり、そこには不可避に時間的な間隔が生じてくるということです。こうした特性は労働力商品に限ったものではなく、例えは家屋を一定期間使う契約を結ぶ場合も、その価値は契約時点で確定しますが、実際に使用価値はその期間を通じて譲渡され実現されるという特性を持っています。

  (ニ) このような商品、すなわち販売においてはただ形式的に使用価値を譲渡するだけで、その現実の購買者への引き渡しとが時間的に離れている商品の場合には(49)、買い手の貨幣はたいていは支払手段として機能します。

  これも該当する部分のフランス語版をまず紹介しておきます。

  〈ところで、使用価値が販売によって形態的に譲渡されても現実にはそれと同時に買い手に譲られないようなこの種の商品が問題であるばあいには、ほとんどいつでも、買い手の貨幣は支払手段として機能する。すなわち、売り手の商品はすでに使用価値として役立ったのに、売り手は長短の差はあれ期間を隔てて、やっと貨幣を受け取るのである。〉 (江夏・上杉訳162頁)

  また第3章の「b 支払手段」のなかでは次のように述べられていました。

  〈ある種の商品の利用、たとえば家屋の利用は、一定の期間を定めて売られる。その期限が過ぎてからはじめて買い手はその商品の使用価値を現実に受け取ったことになる。それゆえ、買い手は、その代価を支払う前に、それを買うわけである。一方の商品所持者は、現に在る商品を売り、他方は、貨幣の単なる代表者として、または将来の貨幣の代表者として、買うわけである。売り手は債権者となり、買い手は債務者となる。ここでは、商品の変態または商品の価値形態の展開が変わるのだから、貨幣もまた一機能を受け取るのである。貨幣は支払手段になる。〉 (全集第23a巻176-177頁)
  
  労働力も家屋の利用と同じ特性を持っているいえます。

  (ホ)(ヘ)(ト)(チ) 資本主義的生産様式の行なわれる国ではどの国でも、労働力は、売買契約で確定された期間だけ機能してしまったあとで、たとえば各週末に、はじめて支払を受けます。だから、労働者はどこでも労働力の使用価値を資本家に前貸しするわけです。労働者は、労働力の価格の支払を受ける前に、労働力を買い手に消費させるのであり、したがって、どこでも労働者が資本家に信用を与えるのです。この信用貸しがけっして空虚な妄想ではないということは、資本家が破産すると信用貸しされていた賃金の損失が時おり生ずるということによってだけではなく、多くのもっと持続的な結果によっても示されています。

  この部分もまずフランス語版を紹介しておきます。

  〈資本主義的生産様式が支配している国ではどこでも、労働力は、それが契約できめられた若干時間すでに機能したときに、たとえば各週の終りに、はじめて支払いを受ける(13)。したがって、労働者はどこでも、自分の労働力の使用価値を資本家に前貸しして、この価格を手に入れる以前にこれを買い手に消費させる。一言にして言えば、労働者はいたるところで資本に掛売りする(14)。そして、この信用が空虚な妄想でないことは、資本家が破産したばあいに賃金の損失によって証明されるばかりでなく、これほど偶然ではない他の多数の結果によっても証明されるのである(15)。〉 (江夏・上杉訳162-163頁)

  確かに私たちは、働いた結果、その成果として月末などに給与を受けていますが、しかしそれは私たちが資本家たちに自分の労働力の使用価値を前貸して、信用を与えているのです。つまり私たちは債権者であり、資本家はこの限りでは債務者なのです。だから資本家が破産したとき、労働債権の取り立てが問題になるわけです。
  ここで〈多くのもっと持続的な結果によっても示されている〉というのが何を指しているのかは、原注51に詳しく説明されていますので、その時に検討しましょう。

  (リ)(ヌ)(ル) もっとも、貨幣が購買手段として機能するか支払手段として機能するかによっては、商品交換そのものの性質を少しも変えるものではありません。労働力の価格は、家賃と同じように、あとからはじめて実現されるとはいえ、契約で確定されていますし、労働力は、あとからはじめて代価を支払われるとはいえ、すでに売られているのですから。

  フランス語版です。

  〈貨幣が購買手段として機能しても、または支払手段として機能しても、商品交換の性質は全然変わらない。労働力の価格は、家屋の家賃と同じように、後日になってはじめて実現されるとはいえ、契約によって確定されている。労働力は、後になってはじめて支払われるとはいえ、すでに売られているわけだ。〉 (江夏・上杉訳163頁)

  労賃が週の終わりか(週給)、月の終わりか(月給)はともかく、それによって労働者が彼の労働力を販売するという商品の交換の性質は何一つ変わりません。確かに労働力の価格は、使用価値が実証されてから実現される(支払われる)とはいえ、すでに労働力を販売する契約を交わした時点で、その価格は確定しており、すでに販売されているという事実は変わらないからです。

  『経済学批判・原初稿』から紹介しておきます。

 〈貨幣がここで単純な流通手段とみなされようと、支払手段とみなされようと、どちらでもよい。ある人が私にたとえば彼の労働能力のうちの12時間分の使用価値を売る、つまり彼の労働能力を12時間のあいだ売るとすると、私に対する労働能力の販売は実際には、私が彼に12時間の労働を要求し、彼が12時間の労働をなしおえた時にはじめて完了するのである、つまり彼は12時間が終わったときにはじめて12時間分の彼の労働能力の私への引きわたしが完了するのである。このかぎりでは、貨幣がここで支払手段として現われ、売りと買いとが両方の側で直接に同時に実現されることにならないことは、この関係〔労働能力と貨幣との売買〕の本性に根ざしている。ここで重要なことは、支払手段、一般的支払手段とは貨幣のことであり、したがってまた労働者は、自然生的な支払いの仕方が特殊なものであることによって買い手に対して流通諸関係とは別の諸関係のなかに入り込むわけではないということ、ただこれだけである。労働者は彼の労働能力を直接に一般的等価物に転化するが、この一般的等価物の占有者として彼は、一般的流通のなかで、他のだれとも同一の関係--その価値の大きさの範囲〔において〕--を、他のだれとも等しい関係を保持している。同様に彼の販売の目的もまた、一般的富、つまり一般的社会的形態をとっていてあらゆる享受の可能性としてある富なのである。〉 (草稿集③196頁)

  (ヲ) しかし諸関係を純粋に把握するためには、しばらくは、労働力の所持者はそれを売ればそのつどすぐに約束の価格を受け取るものと前提するのが、有用でしょう。

  フランス語版です。

  〈無用な複雑さを避けるために、われわれは仮に、労働力の所有者が労働力を売るやいなや契約で定められた価格を受け取るもの、と想定することにしよう。〉 (江夏・上杉訳162-163頁)

  当面の考察では、いちいち支払手段としての機能を問題にせず、それを無視して、労働力商品もこれまでの商品交換で想定したように、便宜的に、労働力を販売した時点で、その使用価値を譲渡し、その価格も実現されるものと想定して考えることにするということです。

  最後に関連する『61-63草稿』の一文を紹介しておきましょう。

 〈労働能力というこの特殊的な商品の本性からして、この商品の現実の使用価値はその消費のあとではじめて現実に一方の手から他方の手に、売り手の手から買い手の手に移される、ということにならざるをえない。労働能力の現実の使用は労働である。しかしそれは、労働が行なわれるまえに、能力〔Vermögen〕、単なる可能性として、単なる力〔Kraft〕として売られるのであり、この力の現実の発現〔Äußerung〕は、買い手へのこの力の譲渡〔Entäußerung〕のあとではじめて生じる。したがってここでは、使用価値の形式的な譲渡とそれの現実的な引渡しとが時間的に分裂するので、買い手の貨幣は、この交換ではたいてい支払手段として機能する。労働能力は毎日、毎週、等々に支払われるが、しかしこの支払いは、それが買われた時点でではなく、それが毎日、毎週、等々に現実に消費されてしまったあとで行なわれる。資本関係がすでに発展しているすべての国では、労働能力は、それが労働能力として機能したあとに、はじめて労働者に支払われる。この点で、どこでも労働者は毎日あるいは毎週--しかしこれは彼が売る商品の特殊な本性と結びついている--資本家に信用を与える〔kreditieren〕、すなわち彼が売った商品の使用を引き渡し、そしてこの商品の消費のあとではじめてそれの交換価値あるいは価格を受け取る、と言いうるのである。{恐慌の時期には、また個々の破産の場合でさえ、労働者たちが支払われないことによって、彼らのこの信用供与〔Kreditieren〕はけっして単なる言い回しではない、ということがはっきりする。} しかしながら、このことはさしあたり、交換過程をいささかでも変えるものではない。その価格は契約で確定される--つまり、労働能力の価値が貨幣で評価される--それはのちにやっと実現され、支払われるのではあるが。したがって、価格規定もまた、労働能力の価値に関連しているのであって、それの消費の結果、それの現実の消耗の結果、それの買い手にもたらされる、生産物の価値に関連するのではなく、また、労働--これ自身は商品ではない--の価値にも関連しないのである。〉 (草稿集④80-81頁)


  (続く)

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『資本論』学習資料No.28(通... | トップ | 『資本論』学習資料No.28(通... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

『資本論』」カテゴリの最新記事